緑雨の狭間に赴けば
 極寒で震える冬の日に、急傾斜の遠路を歩いて目的地に向かうと意気盛んに宣言した少女の姿を、吉田は忘れることができないだろう。良くも悪くも。
 予てより危惧していた降水が具現化してしまい、吉田とが最寄り駅に降り立つ頃にはすっかり生憎の空模様となっていた。立ち込める暗雲からは小雨が降り出し、舗装された地面に色濃い斑点が目立ち始める。真冬と称すべき季節はとっくに過ぎ去ったと言うのに、首元を掠める突風は寒気を纏っているし、悴んだ手をポケットから出すのも些か億劫になる程だ。普段は顔色を変える事態に遭遇する機会こそ少ないものの、吉田とて一端の人間なので、今回ばかりは気が滅入った。しかも、この時点では今日という日の序章に過ぎない。初っ端から出鼻を挫かれた点も、吉田の憂鬱を更に助長させた。
「キミ、傘持ってない?」
 吉田は半歩後ろに下がって周囲を見渡していたに声を掛けた。空中を彷徨っていた視線が、投げ掛けられた声の出処を求めて吉田へと向かう。彼女の瞳には、心身に拒絶反応が巻き起こる陰鬱な気象にそぐわない、溢れんばかりの爛々とした輝きが詰め込まれていた。己とは対極の感情を滲ませるには疑問を抱かざるを得ないが、今焦点を当てるべきはそこではない。温もりを捨て置いた無機的な視線だけでに催促して、吉田は返答を待った。貴重品しか入らないようなポシェットバッグを肩から下げた身軽な軽装からして、彼女の解答をある程度は予測できていたのだが。
「持ってません」
「そりゃそうか」
 一匙の期待も抱いてなかった吉田は、その心情を隠し立てすることもせず肩を竦めた。天気予報を自ら進んで見ることもないであろう箱入り娘に、みみっちく小言を垂れ流すのは烏滸の沙汰だ。世慣れしていない温室育ちのご令嬢。彼女をそう仕立て上げたのは、本人ではなく環境や周囲の人間の影響に依るところが大きい。吉田はそう思索したから、いちいち目角を立てる言及は控えることにした。
 ふっと片手に収まるビニール傘に視線を泳がせた。幸い直径を長めに取った設計のため、小柄なひとり入れたところで支障はない。しかし、雨で泥濘んだ山道という悪条件の中、長距離間の移動を徒歩で実行したことのなさそうな少女が果たして無事に辿り着けるのか。軽侮ではない、純然たる疑問が吉田の頭を擡げる。念押しとして、に遠回しに再考を求めるよう問い掛けた。
「傘一本ならあるけど、この雨で本当に歩くつもりか?」
「はい」
「バスも出てるけど」
「歩きたいです」
「距離も結構あるけど」
「足には自信があります」
 徒歩という交通手段を頑なに譲らないに、風変わりでいて厄介な感性を持ち合わせているものだと心中で息衝いた。だからと言って彼女に口酸っぱく諫言することも、己の内情を露呈させることもしない。吉田はにとやかく物申す権限を擁していないし、仮に擁していたところで行使はしなかっただろう。出逢ったばかりで、互いの人生における交点が今日限りであるような他人に等しい少女のために、わざわざ自分が口を割る義理も筋合いもないからだ。
 吉田は傘を開くと、に中に入るよう促した。余所余所しく隣に立ち並んだ彼女は「お願いします」と控えめに会釈する。歩を進めていくと、どうやら吉田のペースではがかなりの大股になるようだと気が付いた。悟られぬ程度に速度を緩める。時折ぶつかる肩の位置は思いの外低くて、吉田は彼女があどけない雰囲気相応の齢であると思い知った。
 半透明のビニールにぽつぽつと細雨が弾けて滴り落ちる音だけが、静寂が溶けるふたりのあわいに、鮮明に鳴り響いている。
 吉田ヒロフミがと初めて顔を合わせたのは、つい先日のことである。
 広くて狭い東京でも、家は界隈に名の通ったそれなりの名家であった。そこに生まれ落ちた娘──蝶よ花よと育てられた上流階級のお嬢様であるこそが、今回の護衛対象である。
 吉田は本来、悪魔殺しを請け負う民間のデビルハンター稼業と、各所のお偉方から依頼が舞い込む対人特化の護衛任務の半々で生計を立てている。今回請け負ったのは後者だ。家のお嬢様が何やら旅行の計画を企てていたらしく、それが家人に漏洩して揉めに揉めた結果、外部の人間を護衛に付けての旅路を許されたらしい。悪魔と契約を結んだ殺し屋に狙われているだとか、懸賞金を掛けられて目が眩んだ金の亡者に追われているだとか、そういう切羽詰まった依頼では一切ない。一人娘の一人旅に気が気でない両親が、金を積み相応に信頼できる護衛を付けて安心を買っただけのこと。依頼主本人の利己的な安堵のために、それなりの場数を踏み、凄惨な現場を潜り抜けてきた自分を駆り出すとは。不満と言うよりは、子煩悩も度が過ぎると愚の骨頂だなという率直な感想が湧き上がった。依頼を承諾したものの、依頼主との顔合わせ時には、吉田は愚者を見下すように視線を寄越した。しかしながら、隣で固唾を呑んでじっと事の成り行きを見守っていた娘の方は、芯なる部分で燃え立つような真剣さが垣間見えた。だから、吉田は彼女を気に入った。勿論、ただ少女のひた向きな姿勢に絆されたわけではない。任務を受けたのには、この前一任されていた護衛任務にも関係していた。悪魔とも魔人ともつかない稀少な青年を各国の刺客から守り通すという、何とも骨の折れる護衛任務。その直後であったため、今回はいっときの休暇として誂え向きの任務だと吉田は思い及んだのだった。
 が選んだ旅先は、数ある国内旅行の中でも鉄板中の鉄板──京都であった。
 学生は春休みらしく、英才教育が予想されるですら、平日には暇を持て余して自堕落的な生活を送っていたようだ。その暇こそが、一人旅という無謀でいて実現不可能かと思われた計画をじっくり練る、余計な時間を彼女に齎したのだろう。長期休暇を学生身分らしく健やかに満喫したいが、家柄ゆえに並の娯楽を楽しめないし許されない。だから、秘密裏に、隠密に事を進めたかった。そういう表情だった。吉田という外部の人間に付き添われる事態は彼女にも予測不可能だったが、それでも自分を縛り付ける親族や直属の部下達にあれやこれやと口出しされるよりはよほどマシ。そういう表情をしていた。吉田は初めて対面したの表情から滲む心情を全て見透かして、そういう心理的過程を読み取っていた。
 依頼を受けた翌日、ふたりは新幹線に乗り込んだ。平日の早朝故に車内はがらんどうを極めていて、隣り合う自由席ふたつ分を容易に確保できた。ここまで勤めを果たしたならば、後は就眠するのみであった。吉田が請け負ったのは護衛のみであって、対象のお守りも話し相手も仕事の範疇ではないからだ。もその辺りは察しがよく、席に着いた後はひたすら観光用の小冊子を捲って暇を潰していた。仕事とは到底思えない程、快適な旅路であった。
 慣れない土地に降り立つときの、土地や人柄に馴染みのない空気が徐々に肌に馴染んでいく感覚が、吉田は割と悪くないと思っている。
 東京から京都まで大凡二時間。無言を貫き通したふたりは、喧騒で溢れ返る京都駅の改札を出てようやくまともに会話を交わした。
「行き先決めてんの」
「はい!」
「どこ?」
「ここです」
 意気揚々と返事を寄越したは、ずっと眺め耽っていた冊子を差し出した。示された誌面には京都旅行のお勧めスポットと題して寺院や神社が紹介されている。数多の観光地の中でも、彼女の細こい指先が指し示したのは貴船神社の項目であった。吉田は持ち得る知識でその神社を思い浮かべる。決してマイナーではないが、京都の随所に散在している有名所とは離れた場所に位置しているため、観光ルートに組み入れにくい。そもそも京都に足を運んだことがない者ならば、先ずはメジャーな金閣寺や清水寺辺りを真っ先に挙げそうなものだが。吉田は怪訝そうな瞳でを見下ろし、その真意を問うた。
「何でここ? キミくらいの年の子が行く場所ならいくらでもあると思うぜ」
「いいです。騒がしい所は苦手なので」
 ならば京都を行き先に指定したこと自体、間違いなのでは。吉田はそう思ったが、依頼主の希望に揚げ足を取るのも後々面倒が祟りそうだと解釈し、文句のひとつも寄越さずに了承した。それに、騒々しい雑踏から抜け出たいという気持ちは吉田とて同じである。折角、賑やかしくも慣れ親しんだ都会の街を飛び出て古風で情緒のある土地に降り立ったのだから、その恩恵を受けたとて何の差支えもないだろう。
 思い立ったら即実行。これぞ若さの為せる技だ。
 無論吉田のことではなく、のことである。彼女は吉田からの承諾を受けて、颯爽と目的地へと続く電車の乗り場へと向かった。人混みの隙間を縫ってすいすいと移動するは、さながら水槽から大海へと生き場を移した魚のようだ。生き生きと踊るように、底の薄い平べったい靴で地面を踏み鳴らしていく。実際、が見ている景色はそんなものだろう。彼女が生きていくことを余儀なくされた世界は、あまりに世間とかけ離れている。食事や寝床といった生活の不自由は存在していないが、外界で普遍的な人生を歩む人々に比べれば、将来や未来において自分の意思を介在できる自由は圧倒的に乏しい。水槽で縛られた幸福を享受し続けるか、大海で自由に生きて不幸の荒波に苛まれるか。吉田はどちらも御免被りたい人生だと思ったが、からすれば、後者の方がよほど価値のある生き方なのだろうとも思った。
 電車を乗り継ぐこと一時間強。山奥の、言ってしまえば辺境地に位置しているため、目的地に辿り着くにはそれなりの時間を要した。只でさえ京都の路線は種類も多く複雑で入り組んでいるのに、その上辺鄙な場所に建っているものだから、乗り換えや移動にはかなりの労力を割いた。仕事柄歩き慣れている吉田はともかく、の方は疲労が蓄積されていく様子が目に見えて伝わった。座る機会に巡り合う度、腰を下ろして一時的な休息を取っていた。
 神社の最寄り駅に着くまでの間、規則的な車体の揺れを身を任せながら、やはりふたりは無駄な会話を削ぎ落とし、不自然なほどの沈黙を落としていた。密集した住宅地から森林の生い茂る僻地へと、車窓の向こう側は移ろっていく。は何か確固たる目当てがあるわけでもなさそうに、手持ち無沙汰な視線の矛先をその景色に向けていた。彼女の隣に腰を下ろした吉田は、情景そのものではなく鉛色の雨雲が湿り気を帯び、犇めき合っている様相を目で追っていた。小さな胸騒ぎを知覚する。そして、その悪い予感は的中することになった。
 と、ここまでが吉田との日帰り旅行に至った大まかな経緯である。
 下界の人間の都合など一切お構いなしに荒ぶる気象は、理由なくふたりを嬲り続けた。その手を打ち止める気配は一向に見えない。しかしながら、観光に不向きな悪天候のお陰か、参拝を目的とする同じ穴の貉は比較的少ないように思われる。清らかな静謐を求めてこの土地を訪れたふたりにとっては、或る意味で恵みの雨でもあった。
 貴船神社までの道程は、貴船川沿いの急勾配な坂道をひたすら上り詰めるだけの単調な作業であった。背丈を優に追い越して日向を覆い隠す程の森林が、寒風に煽られて木々の葉を揺らしている。清流のせせらぎは、雨音に遮られながらも澄んだ川瀬の音として響き渡る。四方八方どこを見渡しても自然豊かな景観で埋め尽くされている状況は、東京では中々お目にかかれない。吉田は、が徒歩で神社まで出向こうとした理由に大凡察しがついた。確かに歩く労力に伴う疲弊や時間の経過を差し引いても、この情景には相応の価値がある。滅法こんな機会に恵まれない都会の民なら尚のこと。感動や高揚といった感情とは無縁の道を縷縷として歩いてきた吉田でさえこう思うのだから、感受性豊かなの目には殊更輝いて見えるのだろう。吉田の予想通り、はあらゆる事象に遭遇しては一度足を止めて歩み寄り、あらゆる情景を眺めては瞳を煌めかせていた。
 曲がりくねった川沿いの上り坂を進んで、ようやく目当ての貴船神社に到着した。吉田の体感にしてみれば三十分程度だったが、の歩幅や進行速度に合わせていたため、実際はもう少し経過していたようだ。雑木林に囲まれた山道から、料亭やカフェが散在し始めた道に成り変わりつつあったところで、巨大な神社の鳥居がふたりの視界に入った。深緑の背景によく映える真っ赤なコントラスト。口をあんぐり開けて感嘆の一声を上げたは、鳥居を下から上へとじっくり舐め回すように眺め入った。
「写真とか撮るなら撮れば?」
「目に焼き付けるので大丈夫です」
「ふーん、そう」
 今時珍しいタイプの女子高生である。吉田が仕事を遂行するさなか、彼の外形に狙いを定めて近寄ってくる女子高生達は星の数ほど存在する。あわよくばお近づきに、という魂胆が見え透いている彼女達は、こぞってくっついて写真を撮りたがる。吉田自身であったり、吉田が気まぐれに奢ってやった飯であったり。だから新鮮だった。どれだけ思いが強かろうとも、記憶や思い出はいつかは朧気にくすんでしまうものだ。忘れがたいと願うほど心に響いた情景を、色褪せないよう写真に収めることは普遍的な心理だと思っていたが、どうやら彼女にとっては違うらしい。物珍しい珍獣を見るように、吉田はの呆けた横顔をじっと凝視していた。そこには相容れないだろうという相互不理解の壁が知らずの内に聳え立っている。
 鳥居を潜り抜けた後、両端に春日灯籠が並び立つ石段が視界に広がった。等間隔で並立している灯籠も朱色の精彩を放ち、くっきりと明瞭に浮かび上がって見える。他の参拝客もその自然と人為の織り成す幻想的な景観に心を奪われているようだった。何人かが石段で立ち往生しており、ふたり並んで石段を上るには幅が狭い。吉田という男は無遠慮でバイオレンスな言行が目につきがちではあるが、これでも一般的な常識は兼ね備えているのだ。この状況下では迷惑を被りかねないと判断して、に自分の傘を手渡した。受け手のはきょとんと幼気な表情で目を瞬かせたが、身を翻して石段を上りゆく吉田の後ろ姿を見て、その意図を直ぐさま察した。
「濡れますよ!」
 傘を明け渡した時点でもう濡れていた。支障はないという意味合いを込めて吉田は手をひらひら振ったが、は血相を変えて走り寄る。傘の柄を両手で握り締め、両腕を前方に突き出した。先導を買って出た吉田に、広げた傘の敷地内から抜け出てその面積分をに譲り渡した吉田に、何としてでも雨に振らせたくないという強情な意思がその行動を導いたようだった。中々どうして珍妙な光景にはなったが、吉田の後方から傘を差し向ける彼女の地味な甲斐あって、ふたりは前後に並んで傘に入ることに成功した。上り終えた頃には、が持ち上げ続けた前腕は普段なら酷使されないであろう筋肉を使用したためか、若干の引き攣りを生んでいた。それを吉田は察したから、ひょいと傘の権限を取り戻しての身体を自由にさせた。
 本宮の古びているが趣のある外観を堪能した後に、賽銭箱に小銭を投げ入れ、ふたり同時に祈願成就の儀礼を執り行った。吉田は形だけの祈願だった。悪魔を駆り、悪魔と契を交わす自分が、幸福や健康を神に頼むというのもお門違いな話だと思ったからだ。隣で目を瞑り顔を伏せていたは、作法に沿って滞りなく祈願を終えた。別段その願い事に興味も沸かなかったため、何を願ったのか吉田は聞かなかった。
 参詣の楽しみというものをイマイチ理解できないでいた吉田だが、に「おみくじが引きたいです」と服の裾を引っ張られて、そういう楽しみもあるかと思い至った。本宮の前に位置している授与所に、並んで足を運ぶ。目当てのおみくじを発見したは、そわそわと落ち着きのない様相を呈しながら小銭を落とし入れ、箱の中に手を突っ込んだ。数多の群衆から運命的に導かれ、ひとつの紙切れを選び抜く。頬骨を上げて喜々とした雰囲気を漲らせたは、おみくじを後生大事そうに握り締めた。
「ここ、水占みくじなんですよ」
 手に取ったおみくじを、は石垣から湧き出る御神水に浸した。白紙だったその紙に、徐々に文字が浮かび上がる。不可思議で神秘的な現象に、説明した本人が目を丸くさせた。吉田は背後から傘を傾けて、退屈凌ぎとばかりにその様相をまんじりと眺める。心は上の空で、が引いたおみくじの結果にすら我関せずの境地にあった。
「水占か」
 吉田が興味なさげに反芻すると、その態度を改めんとばかりには勢いよく後方を振り向いた。
「貴船神社は水の神様が祀られているから。縁結びも有名みたいです」
「そういう教養はあるんだな」
「……今までどういう目で見られていたのか察しました」
「悪いように捉えるなよ。褒めたんだ」
「残念ながら情報誌様々です。新幹線の中で調べました」
 あれだけ鼻高々に説明しておきながら何とも味気なく、落差の激しい言い分である。崇め奉られている水神の興も削げ落ちそうだと吉田は笑いを堪えるのに必死だった。ひくつく唇に、の訝しむ両の瞳が集中する。吉田はさり気なく、しかして堂々と話題を逸らした。水面に浮かぶおみくじを指差して、彼女の意識が向こうにいくようその場の支配権を握った。
 は水分を含んだ紙切れを掬い上げると、あからさまに肩を落とした。輝きばかりが顕著だった瞳は、遣る瀬無い落胆で曇り始める。もう訊かずとも結果は分かっていたが、吉田は寧ろ訊きたくて堪らないとばかりに口を開いた。
「どうだったんだ、それ」
「……凶でした」
 溌溂としていた覇気は何処へやら、この世の終わりのような声をしては呟いた。水神を信仰しているようでミーハーな心意気が見え隠れしていた報いか、或いは吉田が知りようのない彼女の日頃の行いか。どちらにせよ同情は一切沸かず、寧ろ笑いが禁じ得なかったが、あくまで表面上は慰みの言葉を送った。「そりゃ可哀相に」と思ってもない言葉が唇を跨いで闊歩する。は表面を擬えただけの吉田の内面をしっかり汲み取り、むっと唇を尖らせたが、反抗声明を示すことはなかった。この短時間で、彼女は掴みどころのない吉田の性格を随分掌握していた。平面上は依頼した側と雇われた側の上下関係に従属しているが、その実、を心の底から敬ってなどいないということ。厄介事になりかねない事態を想起して、それらを回避するためにに従事する姿勢を見せているだけで、本当は得体の知れない牙を隠し持っているということ。察していたから、は吉田に無理を通さず押し黙った。そういう聡明な勘の鋭さは悪くないと、吉田は少しだけ感心した。
 本宮を後にして結社と奥宮を巡るさなか、はふとした疑問が浮かび上がった。その他愛もない会話が吉田の気を立たせるか否かを逡巡して、後者だと判断したから深く考えずに話し始めた。
「悪魔って色んな種類がいるんですよね」
「あぁ」
「水神様もいるんですか?」
 しとしと降り注ぐ細やかな雨音と、地の底から唸るような貴船川の濁流が、対比的にふたりの間に響き渡る。水という共通の概念でありながら、全く異なる音を生み出す違和感は、どこか心地良く馴染んでいった。
 悪魔とは、人々の恐怖を具現化した魔物であり、その恐怖の度合いによって強さが変動する。貴船神社に由来する水神がどのような見目でどのような力を有するのか。全くもって想像が及ばない。そもそも神様として崇められる以上、恐怖の対象として位置づけられること自体少ないような気もする。吉田は理屈の通った解答を捻出してやろうと暫くはまともに取り合ったが、そこに正答もなければ利益もないと直ぐに思い及んだので、思念は放棄した。
「さぁ、どうだか。信じていればいるんじゃないか」
「興味なさそう」
「悪魔に興味津々な奴なんて気持ち悪いだろ。自分の契約してる悪魔でもないのに」
「何の悪魔と契約してるんですか?」
 不誠実に投げ返した返答を物ともせず食い下がってきたに、少なからず吉田は驚いた。それが彼女にとって生産性の欠片もない与太話であったから余計にだ。というひとりの人間が、吉田の内側を暴きたいという純粋な邪念がそこにある証拠だった。
「オレ?」
「おれ」
「蛸」
「たこ」
 馬鹿の一つ覚えのように吉田の返答を模すに無性に笑いが込み上げた。くっくっと喉を鳴らす。彼女はそんな吉田の反応にも、吉田の返答自体にも、瞠目しているようだった。首を傾いでいただが、その内合点がいったとばかりにぱっと表情を明るくさせ、相好を崩した。納得するも何も吉田が寄越した返答こそが正解で、そこに他の意図など介在する余地もないのだが、明らかに彼女が辿り着いた解釈は道を違えて脇道に逸れているような気がしてならない。吉田は豪速直球の勢いそのままに予想される誤謬を指摘した。
「言っとくけど、キミが想像してるタコさんウィンナーみたいな真っ赤な蛸じゃないぜ」
 その指摘は強ち的を外れていなかったようで、は眼球をひん剥いて吉田を見上げた。いちいち卓越した勢いで反応が返ってくるものだから、面白いとは思う。
「違うんですか⁉」
「全然違う。実物見たことないのか? 結構グロテスクな造形してる」
 頭の片隅で、その鮮明なイメージを思い描く。吉田は何分デビルハンターなものだから、今回のように呑気な護衛任務でもなければ、使役する悪魔の姿を視認することは珍しくもない。何度もそのちからを使い倒し、生命を断ったり助けたりを繰り返してきた。滑りを帯びて、吸盤を備えた八本の禍々しい触手をうねらせる軟体動物。契約を結んだ以上、有効にそのちからを利用しているが、それはそれとして吉田は割りかし蛸の悪魔を気に入っている節があった。利害の一致。代償の引き換えによる契。そういう思い入れのひとつもない関係で相棒などとはこれっぽっちも思っちゃいないが、あの生理的に悍ましく感じるフォルムも、意外と高い知能を有している点も、攻めと守りのどちらも熟す万能型な性能をしている点も、どことなく愛着が沸くのだ。一般的な視点からすれば、全く理解できないのだろうが。
 吉田の想像に違わず、その一般人寄りの思考を持ち合わせているは露骨に気を落とした。
「そうなんだ……。蛸って可愛いと美味しいってイメージだったから、何だかガッカリ」
「欧米でデビルフィッシュなんて名付けられた生命体が可愛いわけないよなぁ」
「魚じゃないのにデビルフィッシュ?」
「魚じゃないのにデビルフィッシュ」
 正しく悪魔と呼ぶに相応しい語源を披露すると、は可笑しそうに吹き出した。けらけらと毒気の抜かれた晴れ晴れしい笑いが響き渡る。情緒が健やかと言えば聞こえは良いが、単に感情の振れ幅が大きいだけのような気もした。
「なら、吉田さん。今度私を大阪に連れて行って下さいね」
 懇願された内容云々よりも、耳に届いた瞬間の違和感の方が勝り、鼓膜にこびり付いていた。その違和感の正体が、初めて彼女に自分の名前を呼ばれた衝撃だと吉田は思い当たった。名残惜しげに鼓膜を揺さぶるその語感は、奇妙で気味の悪い感慨を吉田に齎した。
「そのぶっ飛んだ思考、ついていけないんだけど」
 しかしながら特に言及することもせず、の突拍子もない発言だけを取り上げた。彼女は、懐疑的な吉田の反応こそが信じられないと言わんばかりに瞳を瞬く。
「蛸は可愛くないかもしれないけど、美味しいって言うのは事実じゃないですか」
「それはそうだな」
「だから、食べに行きたいです」
「……たこ焼きを?」
「たこ焼きを!」
 蛸と言えばたこ焼き。たこ焼きと言えば大阪。そんな安直で捻りのない連想ゲームをさも当然のようにお披露目したは、かつての英気を取り戻していた。失われた活力を自分で立て直すのは勝手だが、それに他者を巻き込んで、挙げ句の果てに訪れる筈がない未来の約束を取り付けようとする浅ましい魂胆には、さすがの吉田も嘆息を洩らした。どんな育て方をしたら、こうも立派に人並外れた娘に成長するのだろう。皮肉を混じえた疑問は、胸の底にだけ留めておくことにした。
 貴船神社を余すことなく満喫したは、最寄り駅に戻る道すがらで空腹を訴え始めた。時刻は既に正午を回り、おやつを貪るのに適した時間が迫っている。不規則な食生活が根付いている吉田と異なり、きっかり決まった食生活を余儀なくされているであろうには、些か酷な状況かもしれない。吉田はそう思い及んで、どこか近場の店にでも入ろうかと提案した。
「何か食べたいものないのか」
「俗っぽいものが食べたいです」
 予想を覆し何倍にも上乗せして返してくるの発言に、もう吉田は驚かなくなっていた。慣れとは怖いものである。
 俗っぽい食事という曖昧ゆえに多様に思い浮かぶ食事を思案した吉田は、真っ先に思い付いたジャンクフードを選択肢として挙げてみた。
「じゃあマックだな」
「……マックに罪はないですが、女性を連れて行く食事としては最悪です」
「口が達者になってきたな」
「吉田さんと打ち解けてきた証拠です」
「オレは打ち解けたつもりは微塵もないぜ」
 の本音かどうか判断しかねる発言に、判断する必要もないとばかりに辛辣に断ち切った吉田を、彼女は不服そうに見つめた。見つめられた側の吉田は、今にも恨み節を炸裂させそうななど気に掛ける素振りも見せない。辺りを見回しながら、付近の食事処を探し始める。しかし、京都らしさが醸し出る料亭は貴船神社の付近にばかり密集しており、最寄り駅近くには駅以外の目ぼしい建物すら見当たらない。好みの俗っぽい食事処など以ての外だ。これはどうしたものかと頭を捻っていると、この路線上に位置している、ある気取らないが美味であることに間違いはない店に思い当たった。
「もうちょっと我慢できるよな?」
 吉田が妙案を思い付いたのだと、はその発言から優に察した。語尾に疑問符が付いていながら、イエス以外の返答を許さない威圧感を放つそれに、は素直に頷いた。彼女の胃袋の飢えは臨界点を突破しそうではあったけれど、それを表出するのは得策でないと判断したのだ。
 再び電車に乗り込み、元来た道を緩徐に辿っていたふたりだが、吉田に促されて途中の駅にて降車した。辺りは緑が生い茂る林間から、わいのわいのと賑わいを見せる住宅街へと変貌を遂げている。日が傾くにつれて漂う寒気は一層存在感を増し、皮膚に痛々しく突き刺さる。上空から注がれる霧雨は篠突く気配こそないが、一向に降り止む気配もない。の胃袋よりよっぽど我慢強く打たれ強い性分をしていた。
 ひとつの傘をふたりで分け合うことにもう抵抗感はなく、吉田が広げた傘に遠慮なくは入り込んだ。歩を進める速度も、服越しに触れ合う感覚も、この半日の間に当たり前のものとして双方が受け入れていた。住宅街を突き進むこと早数分で目的地に到達する。その建物は綺麗目な外装をしていたが、入り口に掛けられた暖簾には古風な書き文字で「らーめん」と表記があった。
「ラーメン……!」
 どうやらが欲していた俗っぽい食事に合致したらしい。胸の前に掲げた両手がぐっと握り拳になった。零れ落ちた呟きからも、溢れんばかりの喜びが滲み出ている。吉田は傘を畳むと、傘立てのスペースに立て掛けて、引き戸を開いた。室内からむわりと蒸せ上がる空気と、そこから漂う芳醇な独特の香りが鼻腔に入り込む。店員一同の盛大な出迎えを受けて、ふたりは隣り合うカウンター席に腰を下ろした。
「ラーメン食べたことないのか?」
「外食はないです」
「マジか。とことん人生損してんな」
「でも、今日その人生が輝き出すと思うとワクワクしませんか?」
 物は言いようだな、と吉田はぼんやり思った。半分程聞き流しながら、立て掛けていたメニュー表をに手渡す。これならマックに連れ込んだところでぶうたれこそすれど、最終的には美味しいと顔を綻ばせていたに違いない。吉田もジャンクフードやチェーン店で事足りるのであればそうすることが日常茶飯事な男ではあるが、折角遠出をしたのだから、俗っぽくも京都らしい店に足を運ぶのも悪くないとも思っていた。貴船口駅の路線上に位置する京都の一乗寺と言えば、ラーメン街道として知られるラーメン激戦区だ。この情報を頭の片隅で思い描いた吉田は、自然とラーメンしか寄せ付けない舌へと変化してしまった。が提示した条件にも大凡適していたため、この辺りで良さげな店を探そうという方針を立てたのだった。
 店は繁盛しているらしく、店内には客や店員の会話が飛び交い、ざわめきで溢れ返っていた。ふたりは別段気にも留めず、メニュー表にイチオシと書かれた牛すじラーメンを注文した。間を置かずに運ばれてきたラーメンの、脂の乗った濃厚なスープと食欲を掻き立てる風味に圧倒される。抑えきれない食欲が先行し、ふたりで手を合わせて早速口に運び始めた。
「こってりですね!」
「こってりだ」
「美味しい……!」
「ウマい」
「……」
 ラーメンを啜る度に自然と口から零れ落ちてしまう感想を、馬鹿にしたように吉田が復唱するものだから、は鋭い視線で応対した。吉田は自分の否を認めようとせず、ひたすら弾力のある麺を咀嚼している。
「そっちの語彙力に問題があると思うぜ」
「なら、吉田さんがお手本見せて下さいよ」
「わざわざ変な感想言わなくてもウマいもんはウマいだろ。それで良い」
 それは確かにその通りだ。奇をてらった嘘臭い感想を口にせずとも、このラーメンを食べた者ならば、湧き上がる思いは万人に共通することだろう。取り立てて形容する必要もない。口から出任せを体現したような吉田の言い分が、実は核心を突く貴重な意見だと思い及んで、は密かに感心した。尤も吉田本人にそんな気は更々なかったのだが。
 こってり煮込まれて出汁の効いたスープと歯応えのある麺、そして具沢山に詰め込まれた牛すじやチャーシュー。すべてこよなく堪能し終え、一息つく。周囲の客は食事と会話を両立させながら楽しんでいる様子だが、吉田とは花を咲かせる会話の話題も浮かばなかったので、食べ終えると颯爽と店を出た。雨は降り止んではいなかった。
 帰路につくと、旅の終わりがそこまで迫っているという実感に包まれて、虚しくなる。はそう思っている。
 電車に乗り込み、新幹線に乗り込み、発車した高速に身を揺らしながら、漠然とした寂しさだけがに募っていった。新幹線を利用すればものの数時間で到着する京都が、今となってはこんなにも名残惜しい。にとって、距離や時間だけでない、不自由に苛まれた大きな壁があるからだ。彼女が育った家柄も環境も、そのすべてが遠方の地に降り立つ自由を奪っているからだ。来た道を戻れば、自分は再び缶詰にされて、外界から遮断される毎日が繰り返される。そう予感がしても、それをどうにかできる裁量も技量もには備わっていない。歯痒さで目頭がじんわり熱くなった。徐々に夜に飲み込まれていく景色を車窓から眺めていたが、その内は少しずつ微睡みに落ちていった。とうの昔に隣の吉田は寝入っていた。
 東京に降り立った頃には、睡魔に脅かされていたの意識もすっかり鮮明になる。東京駅にの家から迎えを出すと予め打ち合わせていたため、吉田はを早々に明け渡そうと改札へと向かった。筈だったのだが。
「何してるんだ?」
 羽織っていたブルゾンの裾を思い切り引っ張られ、吉田の歩は故意的に止められた。勿論、吉田の後方で立ち止まったによって。上腕はぴんと伸び、手指は力強さが籠もっている。
「もう少し……何かあっても良くないですか?」
「何かって?」
「例えば寂しいとか、別れ惜しいとか」
「面倒くさい彼女みたいな性格してるな」
 縋り寄ってくる無数の女達を想像して、それらと似たりよったりな性格だなと思った吉田は、若干だがげんなりした。まさか、半日前までは無垢で頑固でそういう感情と無縁だった少女に言い寄られるとは思いも寄らなかったからだ。しかし、の未練がましい態度は、吉田に気があるないの境地とは似て非なる位置にあるような気もした。吉田への執着ではない。どちらかと言えば、再び箱庭へと鞍替えしてしまうことへの恐怖や悲哀。そういった感情の方が先行しているようにも思えた。
「吉田さん、楽しくなかったんですか? 私は楽しくて仕方なかったのに」
「オレは仕事なもんで」
「……」
「そう睨むなよ。また企てりゃ良い。次はもっと巧くやって、気楽な一人旅でもやっちまえよ」
 恨めしげに睨め付けられて、正直なところ吉田は辟易とした。長い溜息と共に尤もらしい助言を付け加えて、これで終わりにしてくれと念じる。しかし、その思惑には乗ってやらないとばかりに、は瞳を大きく吊り上げた。薄く張られた水の膜が、ゆらゆら揺れている。
「……大阪行くって言いました」
「キミだけな。オレは言ってない」
「なら約束しましょうよ。私が大人になってからでも、もっと魅力的になってからでも良いから。一緒にたこ焼き食べて下さい」
 何が何でも大阪に赴きたいのではない。は、この少女は、何かの約束に託けて明るい未来を想像しなければ生きていくことさえままならない。そういう人種なのだと吉田は気が付いた。厄介な船に身を投じてしまったものだ。少なからず、吉田の気は滅入っていた。
 だが、しかし。乗りかかった船とは、元来降りることを許されないものである。そこに己の意思が介在する余地はない。仕方なく、この場限りの口約束になることを祈りながら、吉田は承諾の意を伝えた。
「いいぜ。そっちがオレとの約束覚えてたらな」
「……それはこっちのセリフです!」
 吉田の内情を知ってか知らずか、先程までと変わりない減らず口を叩いたは、唇をにんまり緩ませた。そういう表情に絆されているつもりは全くもって吉田には無かった。しかし、胸中で蟠る思いでは、次回が到来したところでさして支障はないという、吉田の一縷の情の脆さがくっきりと輪郭を成していた。
 駅前で仰々しく迎え入れられたは、何度も後ろ髪を引かれるように吉田の方を振り向きながら、車に乗り込んだ。使用人と思しき運転手と業務的なやり取りを数回交わした後に、車が発車するのを見送ることなく、吉田は東京駅へと踵を返した。
 次会うときは折り畳み傘を常備しろと勧告し忘れていたことに気が付いたのは、帰路に着く道中であった。降りしきる雨は今日この日に降り止むことはなかった。ビニールが雨音を弾いて、数多の滴を垂れ流していく。
 もし次があるならば、再びこの一人用の傘の中に招き入れなければならない。その未来が吉田の脳裏を駆け巡ったが、そこまで嫌悪は湧き上がらなかった。
 あの距離で、あの目線で見下ろすの表情がそれなりに悪くないと、どうしてだか吉田は思い至っていたからだ。

2020/03/23