深淵の名残
 夥しい量の赤黒い液体が、肉塊と化した形骸から泉のように湧き出ている。この世の終わりを彷彿とさせる悲惨な現場で静謐に佇むひとりの男を見つけたとき、恐怖でも憤怒でもなく安堵の感情が先行してしまった自分は、我ながら人として如何な感性が染み付いてしまっている。血飛沫を浴びても尚のこと不敵な微笑を崩さない男は、全身に伸し掛かっていた重圧から解放されて呆ける私に気が付くと、更に唇の端をにんまり上げた。この男のこういうところが、忌々しく憎らしい。嫌悪感を露骨に態度で示しても、眼前の男には何の効力も齎されなかった。
 確固たる証拠や推論に基づいたわけではなく、日常の境目に潜む非日常に誘われるように、私は路地裏に続く細長い道なき道にふらりと入り込んだ。換気扇の上から威嚇の声を張り上げる猫や、不快な羽音を響かせる虫の大群といった不吉を兆す妨害に行く手を阻まれながらも突き進み、やがて最奥の突き当たりに到達した。結果として、私は見事目当ての人物を探り当てること成功した。但し、視界に広がる惨状は決して楽観視して良いものではない。悪魔に襲われたであろう人々は目も当てられないほど肉が引き千切られ、青白い骨が垣間見えている。生を断ったばかりの死体は目眩を催す生々しさが滲んでいて、今にも咽頭へと酸味づいた胃液が込み上げてきそうになる。この地獄絵図の元凶である悪魔も既に瀕死の状態なのか、男の足元で真義を図り知れない単語を羅列し、全身を痙攣させていた。しかしその内身体の震えは収まり、動作を完全に停止する。男は役目を遂行したと言わんばかりにわざとらしく目を細め、私にその処理を担えと言わんばかりに悪魔の死骸を指差した。まるで玩具を使った後の後片付けを渋る子どものようだ。
「勝手に単独行動を取らないで」
 一先ず、私は後輩の粗相を説諭する先輩身分として正しく有るべき諫言を述べた。不穏な空気が押し込められた閉塞的な区画で、一段と重苦しく皮膚に纏わりつくような空気が増長される。目の前の後輩こと吉田ヒロフミは、並大抵の人間ならば萎縮するであろう雰囲気にもどこ吹く風で血の海に立ち及んでいる。
「なんで?」
 挙げ句の果てに、発言の理由を本当に疑問視しているかのように僅かに頭を傾けるものだから、これまで散々な身勝手を黙認してきた私でもさすがにかっと激情した。
「何でって……何のためのバディ制だと思ってるの? リスクを分散させるため。勝手に一人で突っ込んで勝手に死なれたら困るのよ」
「掲げる大義名分はご立派だけど、センパイの判断が遅かったのを良いように言われてもね」
「……!」
 無遠慮に、寧ろその言葉が私の内側で蟠る憤懣を刺激してしまうのを分かっていて恣意的にやったみたいに、吉田は呆気らかんとそう言い放った。あくまで自分に非はなく、単独行動を許した私の愚鈍な判断力と行動力に問題があるとの言い分らしい。素気なく責任の矛先を私に塗り変えようとする盗人猛々しい魂胆には、怒りを通り越して感嘆すら覚える。私は見せつけるように深い溜め息を吐いた。
 この明敏でいて機転の利いた脳みそが、デビルハンターの職務に合致していて相応の戦果を上げているという事実が、腹の底でとぐろを巻く怒気を発散させるのに躊躇いを生み、やり場を失くさせていた。確かにこの男は大衆の程度に応じた制度に則らずとも、ひとりで悪魔殺しを完遂できてしまう技量を備えている。平凡の枠にはまって既定路線に甘んじている私とは大きく異なって。そんな互いの凹凸を巧く埋め合わせる名目で私と吉田はバディを組んでいるが、放埒で何をし出かすか分からない危うさを孕んだ彼を前にすれば、私は案山子も同然だった。予想の遥か上空を飛び越える突飛な行動に、私の気苦労はずたずたに踏み抜かれ、無残な姿となって息を引き取る。吉田とバディを組んでからというもの、そんな精神をすり減らす日々を繰り返してばかりだ。何処にも安息の地は見当たらない。
 吉田は地面を覆い尽くす血溜まりに波紋を残しながら、一歩ずつ此方に近付いてきた。接近してくる彼に言い知れない底気味悪さを感じて胸を反らすが、ぬっと伸びてきた右腕が腰に回され、身体が密着しそうでしない絶妙な距離感まで引き戻された。反射的に胸板を押し返そうと両手を伸ばすが、それより先に彼の左手が私の頬を掠めた。吉田の親指が私の唇の右端にくっつき、生ぬるい温度とねっとりした一定の粘度を齎す。指を肌に合わせたまま頬へと擦りつけられ、丁度中央部の窪みで離される。生理的な不快を引きずり出すそれらの感覚は、悪魔とも人間とも分からない肉塊から吹き出る血液だと気付いた。吉田の元へと帰っていく指先は、墨汁に指を突っ込んだみたいに黒く染まって、赤黒い滴が垂れ落ちては地面に斑模様を作っていたから。
「これでお仲間な」
 私の耳元に、吐息をまぶすような近さにまで唇を寄せられる。うっそりと囁かれた低音に、膝が愕然と震え出した。
「オレだけの手柄じゃなくて、オレとアンタの協力によって処分できたってことにしていいよ。それでチャラね」
 詰めていた距離は吉田が後退ることで引き離された。繊細な黒髪の間から覗く光なきまなこが怪し気に蠢く。したり顔を貼り付けたまま、吉田は私の隣を通り越して陽光が照りつける大通りへと向かって歩いて行った。後を追おうにも、私の全身を包む気怠げで邪悪な重圧が待ったを掛ける。吉田の後ろ姿が光に溶け込んで掛け消されたのを横目に見届けると、ようやく私は息を吸い込んだ。鉄錆の匂いで汚染しきった、清涼とは程遠い空気だった。


 半年前、私のバディは死んだ。民間でお気楽に悪魔を倒すことで矜持を保っていたのに、その死に様は排水溝の片隅で野垂れ死ぬドブネズミよりも呆気なく、見るに堪えないものだった。薄汚く埃をかぶった廃墟の奥深く、血走った瞳を真ん丸に開けて、四肢が非ぬ方向にねじ曲がった状態で発見された。相方であり彼の抑止力でもあった私は、その日は偶々公安側の事件に駆り出されていた。即席のバディでは歯止めが効かなかったようで、彼の独断専行は拍車がかかり、敢えなくその末路を迎えた。
 その前も、前々も、私のバディとなった者達は滞りなく、死に直行するレールにお行儀よく座って流されてゆく。悲しんでいたのも最初だけだ。いつしか私の涙腺は干からびて、どんなに相性が良くても親密な間柄になろうとも、棺の中で横たわる相方の姿を見て感傷に浸ることはなくなった。ただ漫然とその死体を眺める。次はどんな相方だろう。そして、私がレールの上に乗せられる順番はいつ回ってくるのだろう。悪夢みたいな現実に侵されて正常に機能しなくなった脳内を、そんな不謹慎な考えだけが占有した。
 吉田ヒロフミは私の恩師から紹介を受けた。私の鞭撻が必要であるとは建前で、彼の底知れない危殆に恐れを成して厄介事を押し付けた、と言い直した方が正しいだろう。教育も指導も必要としない、内側から滲み出る狂気を抑え込む適任として、私が選ばれただけのこと。上層部の、使いどころはあれどもどう扱えば良いのか分からないという焦慮が見え隠れしていたため、私はやむを得ずその意を汲むことにした。
「オレ、吉田な。よろしく」
 一目見て、一声を聞き届けて、この男は普通でないと本能が警告した。嘲笑うように唇は半弧を描いているのに、目は笑っていない。人形のように生気を微塵も感じさせない、暗黒を模した瞳だった。
 デビルハンターという特殊な生業において、常識的な感覚を持ち合わせる必要性は皆無だ。寧ろまともな感性を擁して生を謳歌する人間ほど、この泥沼に足元を掬われ、永久的な暗闇へと誘われていく。そういった観点から鑑みれば、確かに吉田はデビルハンターに適役だった。初見の第一印象や周囲の評価を裏付けるように、バディを組み共に仕事を熟すようになってからも悪魔殺しの成果を淡々と上げていく。当時の見解が的をついていたと、吉田の血に塗れた後ろ姿を眺めながら徐々に理解していた。きっと吉田という個のちからは、数多の普遍的な正義感や倫理観を兼ね備えた群衆が束になって戦うよりもよっぽど価値があり、悪魔にとって脅威となるだろう。だから、私という個が例え吉田に嫌悪を示そうとも、彼が死に一直線に駆け出す愚行を冒さないよう、手綱を握る役目を放棄してはならない。思慮分別のつく大人だから、それくらいの責任はひとりで取れるし、損なった機嫌を自分で直すことくらいはできる。
 先日の一件の報告書に、私は虚偽を書き連ねることはできなかった。手綱を放してしまったことを上層部からねちねちと責め苛まれるのを覚悟の上で、吉田の独断による悪魔殺しと被害の最小化を書き記した。案の定、いつまで経っても腑抜けた頭の堅い連中が蔓延る上層部に呼び出され説教を食らったが、吉田の思惑通りに事が運ぶ最低の未来を回避できただけでも良しとした。共犯に仕立て上げられ、一生弱みに付け込まれる未来。そんなものは御免被りたい。
 上層部から解放されたところで、バディである以上私は吉田から解放されることはない。今日も今日とて、公安とのしょうもない戦績の取り合い合戦のためにパトロールに精を出す。恐怖の具現化である悪魔をパトロール中に見つける可能性なんて極小で一握りだ。吉田の「腹減ったな」という独り言を聞き流すことは容易だったが、一瞥を寄越す彼から透ける邪心が煩わしかったので、仕方なく付近のジャンクフード店に入った。
 しかし、吉田は注文した熱々のハンバーガーや油塗れのフライドポテトには目もくれず、私を一心に凝視してくる。空腹を訴えたのは紛れもなくこの男だ。さっさと飢えを満たせば良いものを、何が面白くて私に視線を集中させているのだろうか。暫くはその物言いたげな視線を無視して、肉汁が滴るハンバーガーを口に運んでいたが、相応の時間が過ぎたところで堪忍袋の緒が切れた。咎める類の鋭い目線で応戦する。
「……私の顔に何かついてる?」
「いや? なんも。いいツラしてるなと思って」
「……君に言われても皮肉にしか聞こえない」
「はは、何で。本心だぜ?」
 吉田は椅子に凭れていた上半身を起こし、テーブルに肘をついて半身を乗り出した。右手で頬づえをつき、私の顔をまじろぎもせず見つめる。そうする心理が私にはてんで理解できないし、想像できるほど彼を掌握しているわけでもない。纏わりつく視線を振り払うように、私は空になりかけのシェイクを啜った。ズココ、と聞き苦しい音が響く。
「センパイのバディになると、皆死んでいくんだろ?」
 ぴたりと、シェイクを啜る音が鳴り止んだ。騒ぎ立てる若者達の喧騒も、店員の定形的な接客の声も、店内を彩る多種多様なBGMも、何もかもが遠方の彼方に追い遣られる。真正面から堂々と私を射抜く吉田の姿が、背後の情景を無に帰すほど、鮮明に浮かび上がった。
「……戦い方を知り尽くした者ほど生き残るし、新人や能力がない者の面倒を押し付けられる。そういう風に生き残っている人は私以外にも山ほどいるけど」
 軽食やそれに伴う会話を楽しむ人で賑わう店内に、不似合いの鋭利な言葉がその場を劈く。出鼻を挫かれたにも関わらず、吉田は意気揚々と唇を緩ませていた。理性的に振る舞いつつも激情した炎が燃え盛る私の心中を見透かしているかのようだ。居心地の悪さに顔を顰める。
「でも否定はしないんだ? アンタのバディが全員死んでるのは事実なんだろ」
「……そうだよ。そうだとして、君はそれを知ってどうするの?」
「別段何にも。噂の真偽を確かめたかっただけ」
 真意を掴みかねる吉田の返答に気もそぞろになりながら、油ぎったポテトを摘んだ。
 ほっと全身のちからを抜いてしまった自分に、無性に嫌気が差す。公安ほど規模の大きくない民間において、死を司る悪魔のようにバディを地獄に葬り続けているという音も葉もない噂が轟いていたことを、陰湿な空気から薄々感じていた。こうして真っ向から言及されたのは初めてだ。皆が皆というわけではなくとも、大抵の人間は私に後ろ指を差したがるし、複数人が集う任務においては煙たがられる。だから新鮮だった。吉田は頭のネジが吹っ飛んでいるから、こういった誰も近寄りたがらない噂に正面から切り込みを入れられるのだろう。私が評した彼の人格やちからがいよいよ信憑性を増してきたことに、緊張とは異なる震えが背骨を迫り上がった。
「怖くなったのなら、いつでも逃げ出していいのよ」
 これ見よがしに、散々吉田から受けた無鉄砲な言行を纏めて投げ返すみたいに、積もりに積もった鬱憤を発散させた。しかし、挑発的な私の発言も何のその。吉田は気味が悪いくらい整った微笑の形を維持し続けている。何だか自分だけが感情を上下に揺さぶられているようで、癪だ。
「まさか。オレから言わせれば、そいつらが甘ちゃんなだけだ」
「随分自信があるんだね」
「期待していいよ。オレなら、アンタともっと巧くやれると思うね」
 何を思ってそう豪語するのか、私にはちんぷんかんぷんだ。吉田に対する唾棄的な感情は未だ拭えない。けれど、このタカが外れた男がどこまで私の隣に居続けられるのか、見物であるとは思う。これは決して期待じゃない。彼に期待してやる義理なんてこれっぽっちも持ち合わせていない。
「期待はしないけど……君は先ず敬語を覚えるべきだよ」
「そんなつまんない後輩面したヤツがバディで良いんだ?」
「私を敬う気配がない君よりはよっぽど良いよ」
 吐き捨てるように呟いた私の言葉に、即座に「センパイ呼び以上に敬意のある接し方なんてないと思うけど?」と吉田は臨戦した。悔しいが、彼は素早い判断力や観察眼も然ることながら、口も随分達者である。
 冷めきっているであろうハンバーガーを口につけ始めた吉田に、僅かながら興味の火種が燻って、食事の風景を見つめた。普遍的な人間らしい食べ方だった。齧り付いたときの「冷めてて不味い」といったあまりに人間味のある感想には目をひん剥いたが、その反応こそ可笑しいとばかりに吉田は視線を寄越してきた。この男は人間らしからぬ感性を有しているが、同時に人間らしい感性も微量ながら備えていたらしい。
 ぴり、と右頬の辺りに不可思議な感覚が迸った気がして、私の右手を添えた。そこはあの日、吉田が血を撫で付けた辺りだった。得も言われぬ悍ましい風景と、その名残を微かに刻みつけられた自分の身体。頬を擦る私に唇の端で笑った吉田を見て、ちっぽけでいて鮮烈な熱が右頬に走った。
 この奇妙な名残は、吉田の指先から伝った凄惨な日常の残滓であると、頭の片隅で感じていた。こめかみに刺さる、愛憎入り混じる混沌を極めた視線を無視して、再び私はポテトを摘んで口に放り込んだ。
 深淵から呼び掛けられるような、危うい雰囲気に酔い痴れて、もう既に抜け出せない泥沼に落っこちていることは、きっと私しか知らない。

2020/03/16