love worship
 無骨で傷だらけの手が肌をを這いずり回るとき、一瞬だけぴんと緊張の糸が張り詰める。衣服の裾から侵入した彼の掌は、確かな目的を有して、自分本位な蹂躙を目論んでいる。触れられた箇所から熱が灯り、瞬く間に全身が熱で浮かされた。私の身体は湧き上がる欲望に忠実で、時に心とは裏腹な反応を示す。既にとろけきった身体の細部を、目の前の彼は無表情を貫いたまま甚振り尽くす。そういう同情とか憐れみとかの一切を挟まない、傲慢で冒涜的な彼からの愛撫が、堪らなく好きだ。脳内を陣取る唯一の存在を、その行為の間だけは忘我の彼方に追い遣ることができるから。
 一度だけ彼にその話をしてみたことがある。表情に微塵も変化は見られなかったが、とても、つまらなさそうな声で「くだらない人生だな」と言い切った。その通りだ。私も、ただひとりの背中を見つめ続ける人生を、そこに生まれ落ちる孤独を他人で埋めようと足掻く人生を、実にくだらないと思う。
 分かっていても抜け出せないのは、冷酷で残忍で頭の蝶番が何処かに吹っ飛んでしまったような行動や言動が目立つ彼が、思いの外人間らしいあたたかな体温を保有していたからだ。私の心を占有する唯一のひとの指先は、氷水に浸したような冷たさをしていた。
 私は、そんな人間の姿かたちを成していながらも、決して人間と相容れないであろうそのひとに、恋をしている。
 喉から手が出るほど恋しいひとが擁していない人間らしさを、彼は擁している。


「デンジくんとパワーちゃん、どうですか?」
 けだものじみた行為の後、汗と体液で塗れたシーツに寝そべりながら、藪から棒にそう尋ねてみる。質問の矛先である先生は、既にベッドの縁に腰を下ろして衣服の乱れを整えていた。対して私は何も身に着ける気力が湧いてこず、みっともない裸を照明の下で晒している。彼は虚ろで黒真珠のように光のない瞳を此方に向けた。今更、全裸を凝視されたところで何の恥じらいも生まれない。
「筋は良い。頭脳はてんで駄目。可もなく不可もない」
「辛口ですね。でも先生がそう言うってことは、見込みはありそうなんでしょう?」
「どうだかな。日に日に上達してるのは分かる。最強の俺には未だ手も足も出ないが」
 思わず笑いを吹き溢してしまった。素面の筈なのに、先生の発想は普通の域を遥かに越えている。先生に敵うひとなんて、それこそ、あのひとぐらいじゃなかろうか。ひっきりなしに与え続けられてきた快楽の渦が落ち着き始めると、途端に私の脳内はあのひとのことで埋め尽くされていく。てんで可笑しい。
「先生に手も足も出せるひとなんていないでしょう」
「その腐れきった根性、イチから叩き直してやろうか」
「先生とのマンツーマンはベッドの上だけで充分です」
 皮肉めいた冗談で嘲てみると、先生はふんと鼻を鳴らして私に背を向けた。衣服を整える作業に戻ったらしい。構って欲しがりな猫よろしく、私はシーツを身体に巻き付けて彼の背中に寄り掛かった。広くて、真ん中の背骨が浮きん出た逞しい背中だ。彼と抱き合うさなか、行為に夢中になるあまり勢いよく爪を立ててしまったのは今日だっただろうか? 最中はずっと夢心地で、薄い霧がかかった思考が辛うじて働いているから、私はその日その時々の愚行を覚えていられない。爪痕を付けたであろう辺りに頬を擦り寄せた。ワイシャツ一枚を隔てて伝う仄かな温もりは、身を離してしまえばすぐに途絶えてしまうのに、私はこの温もりなくして生きていけない程に彼を拠り所としてしまっている。滑稽そのものだ。
「デンジくん達には死んで欲しくないなぁ……」
 唇から勝手に零れ出たその呟きは、空中に入り混じって霧散した。先生はその言葉にまるで無頓着で、私だけが彼等に愛着があるかのような空気になってしまった。
 彼等はあのひとのお気に入りだから、彼等が死ねばあのひとは悲しむだろう。デンジくんは私の憎き恋敵でもあるのだが──それを抜きにしなくとも、私は彼等には生きていて欲しいと思う。数いる宿敵の内のひとりがのうのうと生きて意中の人から贔屓を受けることより、あのひとの美しい横顔が寂寥で歪んでしまうことの方がよっぽど堪える。
 私は頼りにしていた体温の源から身体を離して、先生の隣へと移動した。彼は既にネクタイを締め終えて、いつでも仕事に向かえる格好をしている。私のだらしない格好が、際立って見苦しく醜悪なものであるように思えた。
「先生は、私が死んだら泣いてくれますか?」
 肩から流れ落ちた自分の髪の毛に枝毛を見つけて、それを指先で裂きながら、私は些末な仮定の質問を投げ掛けてみた。ただの気まぐれで、もっと言ってしまえばそこに何の意味も付随しない。在るのは、死することで私の存在価値が証明できるのか否かという、何とも薄っぺらい定義だけだ。
 先生は押し黙って、私の顔をまじろぐことなく見下ろした。彼の唇の左端から伸びる痛々しい傷跡が、無機物であるにも関わらず、不気味に蠢いているように感じる。固唾を飲んで、彼からの返答を心待ちにする。
「訊く相手を間違えてるんじゃないか」
「……どういうことです?」
「お前が泣いて欲しいのは俺じゃないだろ」
 遠慮も気遣いも無用とばかりに、先生は私の核心を突く言葉を吐いた。喜怒哀楽の欠片も窺い知れない、虚無が滲み出る無表情で。
 ぎくりとして、私の身体は硬直した。先生に指摘された通りだと、指摘を受けて気付いたからだ。
 私はあのひとの泣き顔が見たくないんじゃない。あのひとが他人を偲んで涙を流すことが我慢ならないのだ。そのひとの内部に存在しているであろう他人の序列が揺るがされることが、辛抱ならないのだ。
 もしあのひとの内奥に、私のために涙を流す情緒が微量でも存在しているのなら、外界に姿を現して流れ落ちる涙は、とても儚く美しいものであるだろうと予感した。


「最近、岸辺隊長を懇意にしているみたいだね」
 マキマさんはアンティーク調の社長机で書類を整理しながら、他愛もない世間話のような口振りで私にその話題を振ってきた。豪胆だの骨太だの散々な評価をされている私もさすがに、身体が大袈裟なほど跳ね上がった。私の反応を気に掛ける素振りも見せず、彼女の視線はずっと書類の上に落とされている。窓から差し込む日光がマキマさんの髪を照らして色彩を増すのと同時に、彼女の顔には薄暗い影がかかって表情をしっかり識別できない。それも相まって、私の心は落ち着きなくざわついた。
「まさか。滅層もないです」
「ふうん? 本当かな?」
 私の返答が意向に沿わなかったのか、マキマさんは書類を捲っていた手の動きを止めて、頬杖をついた。全く肉付きがないすらりとした輪郭が、僅かに歪みをみせる。それでも真ん丸の眼球は下を向き続けていた。
 彼女からの心証が悪くなるのは私とて本意でない。噛み締めていた下唇から上唇を離して、恐る恐る口を割った。
「本当です。……それにマキマさんが、私と先生を引き合わせたんですよ」
「そうだっけ?」
「そうですよ」
 本当に覚えがないのか、それとも私の失言を引き出そうと企みわざと知らないふりをしているのか。どちらとも取れるマキマさんの素朴な純情を秘めた言葉に、背筋がぴんと伸びた。片時も崩れることのない彼女の微笑みは、美しく、時に凍て付くような冷酷さを孕んでいる。
 デビルハンターに成り立ての頃の私に、体術の師範として先生を紹介してくれたのは他でもないマキマさんだ。数多に聳え立つ十字架の墓石を漫然と眺め、立ち尽くす先生を、当初は奇妙なひとだと気味悪がったものだ。あの頃はまだ、私にもまともな感性というものが備わっていた。デビルハンターとしてこの世界に身を置く内に、いつの間にかそんな尊い精神は捨て置いてしまっていたけれど。
「どうして飼い犬がいなくなったら飼い主は血相を変えて心配するんだと思う?」
 それは、まともな感性を持つひとならば、決して擁することのない疑問だった。答えが分かりきっている、当然の疑問だからだ。突拍子もなく舞い降りてきたその疑問と、解を求めるマキマさんからの視線に、皮膚の裏側を電流が走ったみたいに甘い痺れが迸った。
「それは……戻って来ないかもしれないからでは?」
「そうだろうね。でも、それって飼い主の躾がなってないからだと思わない?」
 マキマさんの言わんとすることを、徐々に理解し始めると同時に、頭の片隅でそれを理解することを拒む自分がいる。矛盾を抱えた私の身体は、引き裂かれるような痛みに悶絶していた。脳内に鳴り響く叩きつけるような耳鳴りが、忌々しく愚かしい。
「だから私は心配してないよ。私の飼い犬なら遅くなっても遠回りしようとも、きっと戻って来てくれると思うんだ」
 ぞわりと、背骨を突き抜けていく悪寒がした。
 まるで仮面を被ったみたいに、顔の筋肉がそこに留まることを宿命づけられているみたいに、マキマさんはいつになっても変化の兆しを見せない微笑を湛え続けた。吸い込まれていきそうな双眸から目が離せない。全身を流れ打つ脈動が速度を増していく。
「マキマさんは……私が死んだら泣いてくれますか?」
 先生に呈した疑問を、そっくりそのまま彼女に明け渡した。出し抜けな言動としては、私もマキマさんもどっこいどっこいだ。比較しようがない程に、どちらもまともな感性など持ち合わせていない。
 けれど、このひとが紡ぐ言葉は、すべてに意味が伴っている。ただの雑談では済まされない。彼女の深層心理を象るような、その上で自分の支配下にない飼い犬を誘き出すような、そんな危うい意味が含まれている。
「勿論だよ。キミは利口で優秀で物分りがいい……自慢の部下だからね」
 マキマさんは何食わぬ顔でそう答えた。不自然でないようで、自然でもないその答えの意味するところは、きっと誰にも理解が及ばないだろう。私以外には。
 彼女の美しい頬に、一筋の涙が伝うその様相を思い描いて、私の心は呆気なく満足していた。
 私の理想とする涙の形でなくとも、マキマさんが泣いてくれるという事実は、どこまでも私の存在価値を支持してくれるだろう。だから、それだけで充分だった。彼女の従順な下僕となることは、私に十全の価値を齎してくれるのだから。

2020/03/16