ひみつは雪解け
 雪の降る日だ。
 夜半過ぎ、ふっと意識が浮上するのを感じた。やけに寒い。冷えた爪先を布団にひっこめて背を屈めてみても、部屋に充満する冷気に変わりはない。目がすっかり冴え渡ってしまっていたものだから、仕方なく身体を起こす。押入れから毛布を引っ張り出そうか、ついでに厨房でホットミルクでも淹れようかと考えをまとめて引き戸に手をかけると、より一層強い冷気が肌を刺した。そこで初めて気が付く。視界に広がる一面の銀世界。しんしんと降りしきる細やかな銀花。──初雪だった。どうりで寒いはずである。中庭はすっかり白銀色に染まり、木張りの縁側には痛いほどの冷たさが浸透していた。初冬というにはいささか早すぎる季節。珍しいこともあるものだ、と感嘆交じりに息を吐いた。
 厨房で温めたホットミルクをちびちびと飲みながら部屋に戻ろうとしたところ、ふと妙案が浮かんで引き返した。浴室の桶にめいっぱいの熱いお湯を入れて縁側の下に下ろす。冷え切った足を桶に入れて、ちょっとした足湯の完成だ。雪景色を眺めて情緒に浸るなんてそうそう滅多にできそうにない。日々蓄積される疲労の息抜き程度に嗜むくらいなら悪くないだろう。適温になったホットミルクを口にし、一つの異空間と化した中庭をじっと眺め入った。
 どれ程の時間が経ったのか。一瞬のようにも永遠のようにも感じられる。時の流れさえ忘失させるちからがその景色には満ちていた。心ここにあらずだった私の意識を戻したのは、古びた廊下の軋む音だった。同時に私の身体に薄暗い影が覆う。見上げれば、目と鼻の先に知っている顔があった。彼のさらりとした前髪が鼻に触れる。驚いて少しばかり仰け反ると、眼前の彼は変に身構えた私を小馬鹿にするような薄笑いを浮かべた。息を呑むほどに精巧な、まるで人形のような綺麗な顔立ち。
「何してんですかィ」
「沖田、くん」
「こんな寒い日に足湯たぁ、さんの考えることは分かんねェや」
 そう言ってちゃっかり隣に腰を下ろした沖田くんは、まじまじと私を凝視した。寝起きでぴょんと飛び出た髪やいつになく肌蹴た着流しが、いつもの彼とは違う様相を呈している。残忍さを内に秘めた真選組随一の剣客とは到底思えない、あどけなさの残るおとこのこ。私から送る視線とかち合った沖田くんの視線は、雪降る闇夜に移ろった後再度私へと舞い戻った。
「寒くないんですかィ」
「うん、あったかいよ」
「……そっちの話じゃないんですけどねェ」
 そっちの話? どういうことか尋ねようとしたところ、それより先に背中に温もりが降ってくる。見れば沖田くんの羽織っていた淡藤色の羽織が私にかけられていた。「あんまりに寒そうなもんで」と目を逸らしながら沖田くんは独り言のように呟く。言われてみれば私の格好は寝床から抜け出した時そのまま、薄い木綿の浴衣姿だった。足元から伝わる熱気のおかげで見た目ほどの寒さを感じていなかったのだけれど、沖田くんには酷寒のなか薄着でいる珍妙な女に見えたのかもしれない。彼の厚意に甘えてありがたく身体を覆うように羽織を纏った。
「ありがとう、沖田くん」
「風邪でも引かれて明日の仕事に支障でも出されちゃァ面倒なんでね」
「うん。……あ、沖田くんも足湯浸かる?」
「狭そうなんで遠慮しときまさァ」
 断られてしまったからには仕方がない、と渋々引き下がる。お手製の足湯は簡単に作れるが、手狭で沖田くんを許すほどの広さを持ち合わせていないのもまた事実だった。
 胡坐をかいて頬杖をつく沖田くんは、中庭を見つめて微動だにしない。色素の薄い髪に一つまみの雪が舞い降りた。羽毛のように軽やかに落ちて、やがて水滴となったそれは毛先から滴り落ちた。解けて水に還った一滴は、彼の頬を伝い落ちる。空知らぬ雨がごとし。その雨の正体を知っているのに、涙に思えてならなくて、そっと手を伸ばした。滴を拭うより先に、伸ばした手は別の誰かの手によって遮られる。私の指先を覆うようにして捕まえたのは大きな掌。古傷の目立つ逞しい腕は紛れもなく沖田くんのものだ。
「つめてー」
「びっ! ……っくりしたあ」
「人の顔あれだけまじまじ見といて。気づかれないとでも思ったんですかィ」
 そこでようやく沖田くんは感情の読めない無表情を崩した。何も素知らぬふりをして腰を据えていた彼は、私の行動を読んだ上で微動だにしなかったのだ。動作だけでなく表情さえも押し殺して、私の行動をせせら笑うために。彼が浮かべる憫笑は、沖田総悟を形容するにふさわしい表情だ。まんまと欺かれてしまった。
 沖田くんは、私の隙をついて握った掌を離そうとしなかった。冷えていた指先を温めるように、念入りに、壊れ物を大事に大事に扱うように。私よりうんと熱の篭もる掌に、思わず子ども体温だなぁなんて呟めいてしまいそうになるが、慌てて飲み込んだ。彼の体温はほっとする心地よさが含まれている。はらはら舞い散る雪を視界に捉えながら、この温もりが続けばいいと希って、少しの間沈黙を守った。
 いつの間にか、彼の頬に引かれていた一筋の線は跡形もなく消えていた。沖田くんは、泣いているのだろうか。泣けているだろうか。自分のしていること、してきたこと、――お姉さんのこと。全てを受け入れ全てを昇華してしまっているのだとしたら、それはとても悲しいことだと思った。正義という名分を背負わされて剣を握ること。それが彼自身が選んだ道だとしても、泣くも笑うも自由にできないなんて、そんなのはあんまりだ。きっと沖田くんは憐れまれることを望まない。私にはただ真選組で己が意志を貫くために戦う彼を、待つことしか許されない。
さん」
「……う、ん?」
「アンタ寝てたでしょう。もう遅いんだから、さっさと戻って横になりなせェ」
「ね、寝てません! 沖田くん私のことなんだと思ってるの」
「さァ、何だろうなあ」
 腰を上げる沖田くんにつられて私も足湯から引き上げ、立ち上がる。離れる掌。彼に与えられた温もりが後を引く。
 すっかりぬるまっていたお湯を片すために桶を持ち上げると、沖田くんがそれをひょいと奪い取った。これは片しておくからアンタは早く寝ろ、という有無を言わさぬ強い眼差しであったため、仕方なしに引き下がる。
「沖田くん、ありがとう。おやすみなさい」
「おやすみなせェ」
「明日も元気に起きてきてね。寝坊して近藤さん達を困らせちゃだめだよ」
「……アンタこそ、俺を何だと思ってんだか」
「だって沖田くんが寝坊したら間接的に私のせいになっちゃうでしょう」
 訝しげな表情を浮かべながら、沖田くんは了承の意として「はいはい」と投げやりに返事をした。
「沖田くん」
「何でィ、まだ何か」
「今度はね、桶二つ用意しておくから。ホットミルクも二つ。雪は、……降ってるか分からないけど。でも、沖田くんの好きなおかずも用意するから。だから、元気に帰ってきてね」
 血まみれでも傷だらけでも、真選組のみんなが帰ってきてくれるなら。帰ろうと思える場所でありたいと思うから。そんな願いを込めて、沖田くんの肩に圧し掛かる錘を軽くしたくて、つい口走ってしまった。沖田くんは相変わらず無表情だ。驚いているのか、余計なお世話だと腸が煮えくり返っているのか。うんともすんとも言わない彼は、指先をぴんと立て此方に向けた。
「……それ」
「それ? ……あ、羽織!」
「それ。さんが持っててくだせェ」
「な、なんで?」
 肩にかかる淡藤色の羽織をぎゅっと握りしめる。沖田くんの朱色の瞳に私を映して、おもむろに口を動かした。空気が震える。白い吐息に、彼の言の葉を乗せて。
さんが、俺の帰ってくる場所っていう証として」
 沖田くんの呟いた言葉は宙に混じり混じりて消えていった。廊下が一定のリズムで軋んでいく。気付けば彼は踵を返して浴室へと向かっていた。
 背を向ける前に見せた、沖田くんの微細な表情の変化を私は見逃さなかった。齢十八の、青年と少年の間を彷徨うような、曖昧な笑み。まるで雪解けを待つ子どものように、やわく清らかに笑うのだ。

2019/01/17