ぬばたまの夜、渡る月を留めむに
00
 呪力の一切を持たない人間に、呪いを掛けられた。あの頃の記憶は風化することなく、今でも痛いくらい胸に刻み込まれている。忘却なんて許されない。それは時を移ろうごとに濃縮して、効力を増して、の心身を蝕み続ける。身勝手で厄介で、けれども途方もなく美しい、愛の呪いだ。


01
 ましろ色に染まる冬景色に、混じり気のない黒髪が無言で楯突いている。白妙の雪は純朴そうに見えて、この世の醜い穢れを覆い隠すことができる劣悪な色だ。反して、黒は何と混じり合っても自己を見失わない、孤高でいて真に純然な性質を兼ね備えている。そんな捻くれた思考を持つは、やはり白より黒が好きだった。邪気を孕んだ烏合から頭ひとつ分飛び抜けている、真夜中を溶かし込んだような漆黒の髪を見留める瞬間は、何にも勝る高揚感を生み出した。
 新雪に埋め尽くされた真冬の裏庭には、氷の張った蓮池辺りまで大きな足跡が残されている。透明人間だと自称する男であっても、その轍まで透明にすることはできない。男が人間である揺るぎない証明に心を踊らせて、は縁側の下に並んでいた足駄に爪先を潜らせた。はだかの足趾で積雪に挑み、その過酷な冷感に動じることなく足跡を辿る。向こう見ずな彼女の関心は、狙いを定めてしまえばひたすら一途だった。恋い焦がれる背中との距離をあっという間に縮めて、は大きく口を開いた。
「甚爾くん!」
 積日の親しみを込めたその呼び名に、男――禪院甚爾は懈いまなこを隠そうともせず振り返る。本当は最初から、背後から詰め寄ってくる能天気な気配を感じ取っていた。敢えてその存在を無視して素知らぬ顔を貫いたのは、年の離れた無垢な少女を忌避しているというより、寧ろ気を許している内情の表れだ。外面だけのささくれ立った視線をすり抜けて、は甚爾の目下に立ち及んだ。鼻先以上に頬辺が真っ赤に染まっている。の慕情が透けて見える立ち振る舞いに、いつも甚爾は虫の居所が悪くなった。彼女を疎んでいるのではない。その未熟な表情を前にして門前払いにできない、それどころか心の片隅で期待している己が心底厭わしいという、手前への失望が膨れ上がっているのだ。甚爾は目を逸らして舌打ちを落とし、手指で追い払うような動作を見せた。
「あっち行け。また稽古増やされるぞ」
「もう増やされる空き時間ないもん。何してるの?」
 は、ある理由から禪院の宗家に引き取られて以来、日常的に座学と習事に勤しんでいる。その時間が日に日に増幅しているのは、彼女が禪院家から爪弾きにされている甚爾に懐いているからであった。相伝の術式に重きを置いて完璧こそを美学とする禪院家では、術式は疎か呪力すら持たない天与呪縛は間引くべき存在だ。幼心付いたときから、はその排他的な教育を施されていたが、大人達の思惑に反して彼女の五感は甚爾にばかり吸い寄せられている。目も鼻も耳も、もちろん、心の方も。その事態を悟り憂いた一族は、が費やす稽古の時間を増やして問答無用でふたりの関わりを断とうとしたが、それも最早焼け石に水だった。研ぎ澄まされた彼女の執念は、屋敷のどこであっても鋭敏に甚爾の存在を嗅ぎ付ける。微々たる隙間を縫って彼の元に駆け寄っては、有意性の欠片もない会話にのめり込んだ。年頃の少女をそうまで突き動かす情念の正体は、誰の目から見ても明らかだった。
 ひとつの悪気もないの純粋な問い掛けに、珍しく甚爾の眼光はたじろいだ。微かな狼狽を引きずるように、尖った視線はゆらりと真下に向かう。もその見えない軌跡を追って地面を見下ろした。行き着いた先には雪溜まりに花開く血痕と、それから。
「……すずめ?」
 そう、羽翼の千切れかかった雀だった。甚爾の足元に埋もれる小さな生命体は、頻りに嘴を開閉して全身を痙攣させている。死期を間近に控えた動物の、最後の足掻きだ。飛ぶ術を失った雪上の鳥、そのあえかなる命を落とす瀬戸際に立ち会っているのだと、は一目見て理解した。しかし、納得はしない。その認識を覆す手段を彼女は知っているし、持ち合わせている。躊躇も逡巡もなく、膝を折ってその雀に手を伸ばした。
 は、その感覚をどのように表現すべきか分からない。脳内の辞書では該当する語彙を探し当てられない。ただ、その直感的な操作が身体に染み付いていた。体内を流れ打つ負の呪力を掛け合わせ、生まれ出づる新たな呪力を指先に乗せて、肉体に干渉する。の擁する能力――反転術式を形式的に説明するならば、こうなるだろう。概念としてはそうであっても、力を発揮する本人にさえ称しがたい、呪力そのものを感知していない凡俗には到底理解できない領域だ。そして、それは生まれながら生得術式は疎か呪力一粒として持ち得なかった、常人からかけ離れた異端な肉体を有する甚爾にも同じことだった。
 が流し込んだ反転術式によって、死に体だった雀は息を吹き返した。もげかけた翼が胴体と繫がり、目には光が宿り、瞬く間に回復の一途を辿っていく。英気までも養われた雀は、柔らかい雪を蹴りつけて空高く舞い上がった。謝意でも示しているのか、ふたりの頭上を円を描くように一周する。そして、吹き募った北風に乗じて、その躍動のままに冬日の方角へと旅立ってしまった。せっかちな羽音は鼓膜に届かなくなり、やがて余韻すらも鳴りを潜めた。
 が重くなった腰を引き上げようとすると、その前に甚爾が彼女の腕をかっ攫った。強引に、けれども相応の配慮を払った腕力が、四肢に纏わる重力を跳ね除ける。淡く痺れた下肢を奮い立たせたは、首を持ち上げて甚爾に向き直った。前髪の翳りから覗くふたつの瞳は、先程に比べてわずかに凪いでいるように感じる。
「長生きできるといいね、あの子」
 半ば独り言のような感覚で、は呑気な呟きを落とした。共に吐き出した白く染まる呼気が、外気に馴染んで溶けていく。雀が飛び去っていった方向を見据えていた甚爾は、どうにも釈然としないような息吹であしらった。
「冬に群れからはぐれた鈍臭い雀なんて、生き返ったところで凍死するのがオチだろ」
「……でも、甚爾くんは助けてあげたかったんでしょう」
 だから、寒空の下、普段なら踏み入ったりしない庭園の片隅に突っ立っていた。言外にそう断定しているの問い掛けが、妙に甚爾の心をさざめかせた。顕示したわけでもない他人の内側を知った気になっている、年端のいかない少女を不快に思う感情とは、また一味違う。揺さぶられたのは、彼女に齎された己の印象、その現物との乖離だ。の清純な瞳には、この屋敷ではただの野犬と相違ない自分が慈悲深い世話好きに映っている。そんな滑稽な気付きを得て、甚爾は思わず鼻で笑っていた。
「冗談。苦しむくらいなら一思いに殺してやろうかと思っただけだ」
 それは虚偽を内包しない、確かな本心だった。もしもが甚爾を見留めて駆け寄っていなければ、重体の雀を救う手段を持つ人間が現れていなければ、彼は辛苦を長引かせまいと始末をつける心積もりだった。けれども、その裏側で別の思惑が犇めいていたのも確かな事実だ。仰向けになってはためく瀕死の雀を見澄まして、甚爾は群集から外れた逸れ者の末路を悟っていた。集団から疎外された弱者は、いずれ行き倒れる運命にあるのだと。力のない者にこの世界は非情だ。離脱しても我関せずの仲間、憐みしか寄越さない人間、猛威を振るうばかりの極寒。そのどれもが、地上に墜ちたはみ出し者に優しくなかった筈だ。そしてそれは、こと人間においても同じであろうと甚爾は思った。雀と己を重ね合わせるなどという陳腐な感傷こそなかったが、いずれ遠くない未来、真の意味ではみ出し者となる。禪院家を捨て去って、呪術界に背を向けて、そういう不軌の人生を歩む覚悟を決めている。野垂れ死ぬつもりは毛頭ないが、あの雀の死に際を刮目して、甚爾は自分が辿る余生の終幕はまっとうなものにはならないだろうと予感を植え付けられていた。それでも、出奔する意志は揺るぎなく不変を貫いている。――ただ、ひとつ。
「……甚爾くん?」
 もし、もしも、その意志にしがみつく未練があるとするなら、飽くことなく熱烈なまなこで見上げてくるこの少女だろう。後ろ髪を引かれるたったひとつの要因が、万が一にでも存在するならば。己とは真逆の境遇を進んでいるが、突出した稀有な才能が絶対的な加護に繋がるとは限らない。老害に取り囲まれている劣悪な環境は、手放しに喜んで良いものではないのだから。稚いの行く末が、甚爾にはほんの少しだけ気掛かりではあった。
 物憂いに耽った甚爾の閉口が落ち着かなかったのか、はお伺いでも立てるように彼の真下から覗き込んだ。くりっとした大きな瞳は切なさを湛えて、歪んだ口唇は侘しさを含んでいる。不意を突かれて、甚爾は目を瞠った。いつの間にそんな繊細さを帯びた表情を手懐けたのかと感心して、そして同時に身震いする。あどけない少女が美しい蝶へと羽化する決定的な瞬間が、もうすぐそこまで忍び寄っている実感を、思い掛けず甚爾は手にしていた。
 その認識から目を背けるように、甚爾は着込んでいた烏羽色の羽織を脱いでの頭上に覆い被せた。突如として視界を遮られた彼女は、もたつきながらも顔から障害物を取り除けて、懸命に事態を把握する。その羽織が寒気を凌ぐために渡された、甚爾からのぶっきらぼうな慈悲だと汲み取った途端、は頬を緩ませて後生大事そうにそれを抱き留めた。嬉しそうに、見てる側が羞恥を覚えてしまうくらい愛おしそうに。本来の用途を思い出せ、という意を込めて甚爾は拳で軽くの頭を小突いた。
「さっさと戻るぞ。風邪引く」
「えっ、もう? 戻ったら茶道の先生に怒られちゃう」
「抜け出してきたのかよ。説教だけで済んだらまだ良い方だな」
 若人特有の野太い精神に呆れ果てながら、甚爾は身を翻して屋敷の方へと足を踏み出した。渋々といった空気を纏いつつも、素直にも後に続く。
 ふたりの狭間をたゆたう木洩れ日にも似た空気が、今日も真冬の寒冷を和らげていた。


02
 この屋敷で花を生けるとき、お茶を点てるとき、無心の境地こそが最適解だという結論に辿り着いたのは、つい最近のことだった。
 しめやかな沈黙に寄り添うように、は静かに鋏を入れた。萎れた小枝が畳の上に落ちる。粛々と不要な部分を取り除いていけば、段々と見定めた生花の造形が近付いてきた。仕上がった枝を花器に差し込み、繕えた完成形をじっと見据える。そこでようやく、は安堵の吐息をひとつ洩らした。早春の趣きを感じさせる梅の淡い色彩は、殺風景な和室との調和を拒み、その美貌を密やかに主張している。展覧会で主役を張れるほどの派手さはないが、この慎ましやかな気品からでしか得られない感興もある。は凝り固まった肩を解し、満足そうに背筋を伸ばした。
 華道も茶道も、が禪院の宗家に引き取られてから着手し始めた芸道だった。当初こそ御三家の名に恥じない技芸を披露しなければと、ひた向きに稽古を重ねていた。けれど、後になってそれは間違いだったと気付く。彼女が何よりも期待されていた真価は、言わずもがな反転術式だ。希少であるが故に重宝されるその能力は、後方支援といった役割以上に、重大な責務を背負っていた。反転術式の相承――すなわち優れた才を宿す子孫の繁栄だ。生来から刻まれている生得術式とは異なり、反転術式は繊細な呪力操作を確立させることが基盤にある。遺伝による継承が機能するのかは未知数だが、それでも優秀で純潔の血脈を欲する老耄には又とない人材だったのだ。いずれ遠縁の術師に嫁ぎ、子を孕む。が精力を注いでいた芸道は、そうなったときの謂わば箔付けのようなものだった。仕立てた生花は彼女を輝かせるためのものではないし、煎じたお茶も彼女の人生を豊かにするためのものではない。端から嫁ぎ先の権威を損なわない程度の腕前しか求められていなかったのだ。
 その真理の扉を開いて以来、は禪院家の望む振る舞いを会得した。手応えのない虚しいだけの労力を差し止めて、雑念の一切を払い除けて。そうして出来上がる作品に、賞賛も批難も飛んでくることはなかった。甚爾の背中を付いて回る所業だけは、いつもこっぴどく叱られていたのだが。
 波風の立たない穏やかな空間に、瑞々しい疾風が舞い込んでくるのは、決まって夕暮れ時に差し掛かる頃合いだ。茜色に染まる障子に小柄な人影が映り込む。小気味よく駆ける足音がぴたりと止み、一呼吸置いて襖が開かれた。その豪快な所作は、彼のいじけた性格の反動のような微笑ましさがあった。
「ふうん、ちゃんが生けたにしては悪うないやん」
「直哉くん」
 細くしなやかな黒髪が目映い逆光すらも掌握する。色彩も気温も、その何もかもが彼の前ではひれ伏してしまう。引き戸の隙間から転がり込んできた少年――禪院直哉は、膝を付いての隣に腰を下ろした。貶めるような物言いに反して、彼の眼差しは無邪気さを纏っている。
 直哉はのみっつ年下の遠い縁戚にあたる。年の近いが禪院家の邸宅で暮らすようになってからというもの、直哉は彼女に関心を寄せて、暇を探しては稽古中に茶々を入れるようになった。冒涜に近い揶揄を浴びせられることも度々あったが、の心に致命傷を負わせるほどの威力はない。所詮はまだ十代の、義務教育の域を出ない少年の悪態だ。歪な教育を施され、惜しげない寵愛を受けて育った結晶としては、まともな成長だとさえ思えてくる。そんな次期当主と名高い直哉を、肩書きに囚われることなく、は普段から可愛がっていた。捻くれ者の弟を相手にしている気分だった。
「お帰りなさい。学校はどうだった?」
「はあ、いつもと変わらんよ。呪術も使えへん雑魚が群がってピーチクうるさいだけや」
 大仰に顔を顰めて、直哉は目頭を鋭く尖らせた。その剣幕ひとつで、いかに彼が学び舎を共にする同級生に舐め腐った態度を取っているか、容易に想像できてしまう。露骨な憎まれ口を叩いて顰蹙を買っているか、或いは憮然とした表情を前面に出して遠巻きにされているか。どちらにせよ、協調性が求められる学童期に順応しているとは言い難い。今後呪術師としての人生を余儀なくされている少年に互譲の精神が必要なのかは甚だ疑問だが――少なからずは、そのことを目下の悩みとしていた。こんな退廃的な沼地に浸からせてしまって良いものなのか、と。
 思い煩うの気持ちなど露知らず、手持ち無沙汰を紛らわせるように、直哉は可憐な梅の花を力尽くで引き千切った。小さな指先から、無情にも数枚の花弁が零れ落ちていく。生気をもがれた薄桜色は、人目を忍ぶように畳との同化を図る。みじめで安らかな墜死体を、だけがじっと直視していた。
「知っとる? こないだ甚爾くん、女中とまぐわってたで」
 その発言が齎した衝撃を、きっとこの先は何に代えることもできないだろう。聴神経は言葉の表面をなぞっただけで、その事実を拒絶するみたいに鼓膜が痺れた。血液が正しい循環経路から逸れていくような、気道を塞がれて呼吸が許されないような、そんなまともでない感覚がを襲う。目を閉じて、眩む視界から世界を切り離した。その程度の養生が、いまのにできる精一杯だった。
 したり顔で切り出した直哉は、彼女の憔悴しきった反応がよほど心地良かったのか、滔々とその先を連ねた。蟻の巣穴に水を流し込むときのような、未知への探究心に突き動かされる子どもの純粋な狂気が垣間見える。
「美人やし巨乳やし……甚爾くんもああいう分かりやすいのが好きなんやろね」
「……」
ちゃんが勝っとるとこなんて愛嬌くらいや。それだけじゃ男は満足させられへんもんなあ」
 それらの付言は余談にもならない。もうほとんど、の聴覚は機能していなかった。魂の抜け落ちた虚ろな瞳は、散らばった花片の亡骸だけを映している。
「誰にも見向きされへん、ほんまかわいそうな女やね」
 ただ、しみじみと呟かれたその言葉だけは、耳聡く拾い上げてしまった。かわいそうという慰めに似た侮辱の得物は、思いの外の胸の内側をごっそり抉り取る。最早挨拶代わりと称しても差し支えないほど受け取ってきた嘲弄なのに、普段のように笑って受け流すことができない。ただでさえ深い傷口が、もう取り返しが付かないくらいに広がっていく。こればかりは反転術式でも塞がりようがない。
 の人権を踏み付けにする大人がいくらいても構わなかった。興味を注がれなくとも、手を焼く腫れ物扱いされても、心は平穏を保っていられた。それは彼女の精神が逞しかったからではない。禪院甚爾という人智を超越して世界に反逆する存在に、自分だけは特等席に座る権利を与えられていると、心の片隅で思い込んでいたからだ。今更になって、その浅ましい自惚れを痛感する。そんな筈がなかった。あの気高い黒色が、誰とも何とも混じり合わない孤立した色であると謳ったのは、他でもない自身だ。
「しゃあないから俺が娶ったるよ。そしたら皆、態度ころっと変えよるわ」
 廃人のように腑抜けたの横顔を堪能しながら、直哉は唇を愉悦そうに歪ませた。さらりと雪崩れ落ちた横髪を掬い上げ、耳に掛けてやる。その指先に含まれているのは、優しい慈愛とは程遠い、烈々たる加虐心だった。
 の視界の端で、直哉の髪が揺れている。烏羽のようにしっとりした純黒は、不吉さと邪悪さを一緒くたに纏めて溶かし込んでいるように思わせた。息が詰まる。
 同じ血脈なのに、同じ黒色なのに、どうしてこんなにも違う。


03
 甚爾の夜伽が発覚して以来、は意図的に彼との対面を避けていた。そうしたいっときの逃避に走ったところで、悶々とした心境が晴れ渡ることもなければ、幾年もの年月を積み重ねて根差した恋心が成仏することもない。錯綜する愛憎が日に日に増幅しては、彼女の精神を痛めつけた。
 そんな沈鬱たるを更に奈落の底に突き落としたのは、襖を隔てた向こう側からすり抜けてきた、女中同士の噂話だった。慌ただしい声量は耳をそばだてる必要すらない。水流のように滑らかに送り込まれてくる情報は、未だ瘡蓋にすらなれない傷痕に猛毒を塗り込んだ。
 ――甚爾様、遂にお屋敷を出られるんですって。
 いつか来たるその日が永遠に来ないことを、は心の底から望んでいた。自らの幸福と引き換えに、恋した男の冷遇が続くことを希い、一方でそんな己の醜悪さを呪っていた。因果応報だ。手前勝手な片恋に溺れて驕っていた自分が報いを受けるべき日が訪れたのだと、本気でそう思った。
 その日、が狼狽に支配された指先で煎れたお茶は、茶道の宗匠に酷評される始末だった。
 なだらかに時間は移ろい、そうして下人の間でまことしやかに囁かれた決起日に至った。酷寒が統べる季節の中に迷い込んだ、仄かな春の気配を感じさせる、柔らかく暖かな日だった。
 早朝の京都駅は閑散としていた。疎らな人通りのプラットホームは、晩冬の透徹とした空気がよく馴染む。甚爾は上着のポケットに両手を突っ込みながら、開放感の吐息をひとつ洩らした。まだ、呪われた血統とのしがらみを完全に断ち切ったわけではない。どこに雲隠れしようとも、強靭な肉体を対価にして飯を食っていくなら、禪院の血縁者や呪術に携わる輩に行き当たる可能性は大いにある。そのことは甚爾も嫌になるほど骨心に沁みていた。それでも、ようやく訪れた転機に、心は清々しい境地に浸らざるを得ない。
「……甚爾くん!」
 ただ、懸念すべき受難はまだ残っていた。控えめな喧騒を蹴散らして、泣き縋るような小さな声を鼓膜が掴み取る。甚爾は首を捻って、緩やかにその気配の源流を辿った。確認せずとも、自分を呼び止める心当たりなんて、それこそたったひとりしか思い浮かばない。
 乗り場に続く階段を駆け下りてきたのは、見違うことなくだった。私立の名門女子中学の、膝丈まで伸びた奥ゆかしいプリーツスカートがふわりとはためく。忙しない足取りで甚爾の元まで駆け寄った彼女は、華奢な肩で呼吸を整えた。頬は赤く紅潮し、額や首筋には大粒の汗が滲んでいる。取り分け、学校に向かう前の習い事を放り出して、勘だけを頼りに己の気配を手繰り寄せてやって来たのだろう。理屈を凌駕するの探知力を身を以て経験してきた甚爾は、漠然とそう推察した。呆れ果てたように肩を竦める。この粘り強く諦めの悪い雑草根性は、はたして誰に似たのか。
「また抜け出したのか。見送りなんて殊勝なこと……」
「私も連れて行って」
 虚を突かれた甚爾が目を見開くより先に、の指先が強情を張った。逃げさせまいという屈託のない意思が彼の上着の裾を捉える。大した力も込められていなければ呪術さえ施されていない純粋な指は、何もかもを屈服させる力を持つ甚爾に、初めて判断を鈍らせた。ひた向きな懇願をきっぱりと突き放す選択に、一匙の躊躇いが生じたのだ。
「甚爾くんに私の身体、全部あげる。傷だって治せるし、……えっちなことだって。役に立ってみせる。だから、だから……」
 辿々しく震える声が、の決意とそこに至るまでの葛藤を浮かび上がらせる。どんなに投げやりな態度を取られても関心を寄せられなくとも、想い人を諦めきれない。彼女の健気な純情が年不相応な望みを生み出したのだと、甚爾はまざまざと突き付けられた。元を辿れば、その発端は自分の言行にあるということも、ありありと。
 の指先を振り払うことを一瞬でも惑った愚かな体たらくを噛み砕くように、甚爾は強く歯軋りした。唇の端に刻まれた古傷が歪む。
「……ガキ相手に興奮して堪るかよ」
 それは哀願するを跳ね除けているようで、自分に言い聞かせているような呟きでもあった。何も期待していたのは彼女だけではない。甚爾本人も、孤独な少女から拠り所にされること――蔑ろにされ続けていた己の存在価値がわずかでも認められることに、心の片隅で安んじていた。からの恋情に応える心積もりもなければ、彼女を連れ去って生涯を請け負う心意気もないというのに。己のためにの純潔な心を懐柔して煽動していた身勝手な振る舞いを、甚爾は今日初めて顧みて、そして後悔した。溢れ落ちた呟きは、そんな男の呵責であり、ひとつのけじめでもあったのだ。
 どこにも縋り寄る隙の窺わせない自嘲めいた微笑みが、甚爾の唇にくっきりと刻まれる。その些細な変化をの明敏な瞳は見逃さなかった。もうその時点で、決死の覚悟で臨んだ申し出は却下されるのだと、自ずと察しが付いてしまう。
「さっさと戻れ。遅刻するだろ」
 残酷なまでに声を絞って、甚爾はに明確な拒絶を吐き捨てた。絶望を突き付けられた目頭はかっと熱くなる。取り合う気すらない酷薄な物言いに、のつむじ曲がりな気骨は鎮静するどころか寧ろ猛り立つばかりだ。小鹿のように震える足で、それでも屹然と甚爾の元に詰め寄った。もう後には引けない、ある種の執念のようなものだった。
「……いや。絶対に嫌!」
「なら、ここで頷かれて手を引かれて、それで満足か? オマエの好きになった男が、見返りを求めて女を引き連れるクソヤローになっちまうぞ」
「それはっ、……それでも、私は……」

 今度は同じ声帯から出たとは思えない、春眠を尊ぶような暖かな声色だった。柔らかな甚爾の声に包まれた自身の名ははっと息を呑むほどに美しく、聡慧なもののように感じられる。意表を突かれたは、思わず指先に注いでいた力を弛ませてしまった。ただひとつ、彼女にとってかけがえのない憧憬が離れていく。
 陰鬱な雰囲気を遮るように、空々しいポップなメロディが響き渡る。ホームに舞い込んでくる電車の接近を報せる合図だ。間接的に別離を告げてくる陽気な音楽が、の激情を強制的に窘めようとけしかける。そして、甚爾はそれに便乗するように口を開いた。
「俺はオマエの望む未来を何一つ与えられないし、作れるとも思えない」
「……甚爾くん、」
「だから、記憶の中でくらい俺をまともな男でいさせてくれよ」
 最後の最後まで甚爾が手前勝手な言い分を繰り出したのは、そんな自分に幻滅して目を覚ませば良いと思っていたからだ。地獄の底から救い上げるわけでもなければ別の道標を用意してやるわけでもない、無責任に捨て置いていく男から。
 ただ、とて伊達に長年甚爾を見つめていたわけではない。彼らしくもない発言の真意を聡く汲み取り、もう引き留めることすらできないと薄ら察すると、別途の強硬手段を閃いた。この放埒な暴君を食い止める手立てが残されていないのならば、その身に刻み付けるしかない。電車と共に雪崩れ込む春先の突風が、の短絡的な策略に力を添える。甚爾が風に煽られて瞬いたその刹那、彼女は目一杯の爪先立ちで距離を縮め、胸倉を掴み、無防備な唇を奪い去ったのだ。
 その気になれば――甚爾の鋭い洞察力と反射神経を以てすれば、彼女の見え透いた猛追を往なすなんて造作もなかった筈だ。事実、彼はその急拵えの魂胆を逸早く見抜いていた。それでも、の奇襲に引っ掛かった芝居を打ったのは、甚爾の中に棲み付く一縷の期待がそれを望んでしまったからだ。唇に触れた淡く儚い温もりに、反射的に肩が跳ねる。まだ背伸びを覚えたばかりの少女だと軽んじていた甚爾を嘲弄するほどの、女性として成熟した艶めかしい口唇だった。
「忘れないで。明日も明後日もその先も、私は甚爾くんが好きだよ」
 涙を多分に含んで潤む声が、甚爾の鼓膜にこびり付く。去り際、突貫的に拵えた間に合わせの口説き文句としては見事すぎるくらいだ。感心している場合ではないのに、甚爾の背骨に柔い恍惚が駆け抜けていく。もし後一分でも思考を巡らせる猶予が残っていたなら、何かの間違いでの細い腕をかっ攫いそうになるくらいには、甚爾の本能は陥落しかけていた。
 そうなる事態を忌避した理性が、電車に転がり込むよう手綱を捌く。惚けた一瞬を置き去りにして、甚爾は車両内に足を伸ばした。発車の定刻通りに汽笛の電子音が鳴り響く。ホーム上に取り残されたは、白線の内側に踏み留まって、不得手であろう睥睨を渾身の力で差し向けた。忌々しげに、寂しげに、けれどどこか誇らしげに。その瞳は、いつかの日に治癒した雀を見送った彼女のそれと酷似していると、甚爾はふと思い至った。
 ふたりの離れた距離に更なる追い打ちを掛けるように、電車の自動扉が閉まりゆく。慈悲なく途絶された先で、光を溜め込んだの澄んだまなこが揺れていた。理性をぐらつかせる魔性の目に蠱惑される一歩手前で、ようやく電車は目的地に向かって走り出した。
「…………忘れられるか、マセガキが」
 ぽつりと落ちた呟きを律するように、甚爾は口元を片手で覆った。彼以外乗車していない無人の車両では、その控えめな独り言は走行音に掻き消されて何の意味も成さない。ただし、甚爾本人にとっては特別意味のある虚栄心の反映だった。きっと何かひとつでも要因が違えていれば、わずかでも発車時刻を引き延ばされていたら、本音が溢れ出て虚勢を見破られていただろう。少なからず、に愛着が湧いて未練を抱えていた己の真髄を、暴かれていただろう。そうなる手前で良かったと、甚爾は胸を撫で下ろした。
 冬を追い込み春を待ち詫びる日差しが、ぬばたまの髪に跳ね返る。街から白色が消えていく。いずれは桜色に埋め尽くされるであろう景観を、窓際に凭れながら漫然と眺める。もはや故郷とは称したくない呪わしの土地が過ぎ去っていく感慨より、己の口唇に居座る微かな余熱の方に、甚爾の魂はひどく揺さぶられていた。
 ――これは、きっと愛憎を編み込まれた一種の呪いだ。そんな錯覚を催すほどの熱烈な口付けに、最後に仕掛けられた無垢な罠に、心底酔わされている。


04
 あの永訣の日から指を折れば、膨大な時間が流れ去ってしまったと実感させられるから、いつの日からかは日付と睨み合う習慣を打ち止めにした。気付いたときには、彼女は婚姻を結ぶことさえ差し障りない年齢にまで到達していた。を取り巻く環境も、がらりとその風貌を変えた。女中達が遠巻きに噂することも、禪院の血族から薄遇されることもなくなった。そうなるに至った原因ははっきりしている。つい先日、次期当主候補との正式な婚約が成立したからだ。向こうの強い希望で、彼の高校卒業を待った後にを妻として迎え入れる意向を示した。成約に際して禪院の屋敷に招かれた彼女の両親は大層喜んで「娘をお願いします」と深々と頭を下げた。その情景を覚悟して会合に身を投じたは、纏まりかけた縁談に亀裂を生むような愚かな真似はしなかった。
 直哉を嫌っているわけではない。不躾な言動ばかりが悪目立ちしているが、源泉を辿ればそこにあるのは純粋な好意だ。特異な能力を扱う珍獣に向けるような好奇や悪意ではなく、という個体そのものに惹かれて生まれた恋慕が根差した裏返しの自己表現なのだと、それを受け止める彼女はよく理解していた。それに、いつかの日に直哉が豪語した「次期当主候補の妻になれば禪院での待遇は見違える」という見解も、脚色なく事実その通りになっている。それが例え立場を利用して得た虚飾の安寧だとしても、ずっと身構えながら屋敷に住み込んでいたにしてみれば、ささやかな解放感へと繋がっていた。感謝しているし、その好意に報いなければとも思う。三歩退いて、直哉の背中を見つめるだけの慎ましい妻として振る舞う決意も用意できている。ただ、の思考を錆びつかせる往生際の悪い未練が心底で眠っているのも、これまた確かな事実なのだった。
 少しずつ移ろいゆく日常のさなか、夕刻時を前にするとの手元は疎かになる。心が忙しく慌ただしくなる。夫となる男の帰りを待ち侘びているのだと周囲の人間は解釈したが、本質は違った。のそぞろな心模様は、不穏な予感を嗅ぎ付けていたに他ならない。
 落ち着いた足取りで障子の向こう側に立った人影が、夕闇の中で克明に浮かび上がる。はっと息を呑んでは首を擡げた。勢いよく襖が開け放たれた先には、彼女の伴侶となる馴染みの青年がいる――筈だった。
「……直哉くん、その髪」
「ええやろ。きれいに染まったわ」
 夕焼けの茜色が恐れを成して縮み上がるほどの鮮烈なこがね色が、の視界を翻弄した。目が眩む。言葉を失う。別人と称すほど見違えた変化ではないのに、色彩を伴った髪色を瞳に映しただけで彼女の胸は張り裂けそうになった。純正の奥ゆかしい濡羽色からかけ離れた派手な金髪に染色した直哉は、浮き足立った面持ちでの傍に歩み寄った。
「何か感想ないん?」
「……似合ってるよ。お日様みたいにきらきらだね」
「幼稚園児の日記かいな」
 幼子が絵本を朗読しているような素朴な微笑ましさを思い描いたのか、直哉は悪くなさそうに口角を上げた。金色に溶け込んでいる黒色の毛先が、彼の笑みにつられて微かに揺れる。
 の喉元をすり抜けて出た言葉は、その場凌ぎではなくまことの本心だ。地上のあらゆる生命体に干渉する日輪の痛烈な輝きが、今の直哉の髪色に――ひいては彼の苛烈な性質に似通っていると、そう思った。外見のみに着目するとしても、華々しい色に見劣りしない直哉の整った面貌も相まって、違和感なく調和している。野次のひとつも許さない完璧な見目だ。そこまで理解しているのに、の目蓋は懸念が募って重くなり、直視を拒んでいた。理由ははっきりしている。彼女の心底に引っ掛かっている錨の正体など、明言せずとも。
ちゃん、ほんまは黒髪の方が好きやろ」
 素気ない冷感を帯びたその指摘に、は心臓諸共貫かれたような心地になった。いっとき呼吸が虚ける。直哉の発言は正鵠を射ていた。いくら体裁だけを取り繕っても、の本心までは覆しようがない。孤高の色、真夜中の色、深淵の色。それら全てを掻き集めて束ねて統べるひとりの存在が、彼女の胸中で未だ生き長らえていた。
 慄く肉体に抗いながら、どうにか頭を持ち上げる。ほとんど目と鼻の先に佇む直哉は、嫉妬を湛えるでも皮肉を差し向けるでもなく、純然たる片笑みを乗せていた。思わず瞠目する。そして、その微笑の奥に潜む胸臆を紐解いていく。目から鱗が落ちる、とはこういう状況を指すのだと思った。何も甚爾を慕って彼の背中を追い続けていたのはだけではない。眼前で彼女を見据える直哉もまた、甚爾に格別の感情を抱いてきた男だ。己から黒色を剥ぎ取ったのは憧憬がゆえの決別であり、無類の強者に到達せんとする決意の顕れなのだと、はそう解釈した。それが正解か不正解かを突き詰めるのは、無粋だとも思った。
「……直哉くんって、とっても天邪鬼だよね」
 感傷に耽るように呟いて、は直哉の髪に指先を通した。子猫と戯れ合うみたいに髪を梳かす。夕陽の粒子をまぶされた髪は、一本一本が繊細な煌めきを放った。この熾烈な光にもう恐怖は芽生えない。自分と同じ、ひとりの存在に狂わされて破滅的な運命を辿っている男を少しだけ身近に、そして仄かに愛おしく感じていた。
 目早い直哉はすぐにの心の機微を感じ取り、ばつが悪そうに唇を尖らせた。艶やかな容貌にそぐわない、年相応に子どもじみた部分が垣間見える、のよく知る直哉だった。
「はよ、俺のこと見てや」
「……うん」
「気ぃ長い方やないねん。知っとるやろ」
「知ってるよ。気難しくて気が短いのが直哉くんだもの」
 おどけた調子でそう返すと、直哉は乾いた舌打ちをひとつ落として、強引にの腕を引いた。息つく暇もなく唇が塞がれる。不機嫌を滲ませる所作に似合わない、直哉らしくもない彼女を慈しむような優しい口付けだった。貪り尽くすような激しいキスだったら良かったのに、とは思わずにいられなかった。思考に余裕を持たせるその時間は、同様の行為に及んだ過去を彼方から呼び覚ましてしまう。不意打ちに目をたじろがせた甚爾の表情が、春を迎える手前の穏やかな温もりが、の脳裏を掠めていく。
 やっぱり、どうしたってこれは呪いだ。身勝手で厄介で、けれども途方もなく美しい。身を焼き焦がすほどに残酷な、心を引き裂くほどに無慈悲な、愛の呪いに違いない。


2022/04/25