ルチアの墓標
「……無事で本当に良かった」
 降り注がれたささやかな独り言によって、微睡んでいた意識は覚醒へと導かれた。寝静まろうとしていた五感のうち、真っ先に飛び起きたのは嗅覚だ。暗闇が蔓延る視界の中で、刺激的な薬品臭を鎮静する穏やか香りだけが、彼の存在を近くに感じられる唯一の要因だった。次第に聴覚も目を覚まして、思考回路も覚束ない足取りでまわり始める。確信したのはすぐだった。間違いない。憂太くんがすぐそこにいる。安堵に浸る呟きの意図に思いを巡らせると、途端に胸がこそばゆくなった。
 呪霊の祓除任務に際して、負傷した私の救援に駆け付けてくれたのは、あろうことか最近特級術師に返り咲いたばかりの憂太くんだった。私が五体満足の状態で高専に戻って来れたのも、偏に彼の規格外の実力と稀有な治癒能力のおかげだ。恐らく手隙の時間だったと推測はできるけれど、まだ学生身分なのに各地を奔走する多忙な憂太くんに手を煩わせてしまった罪は重い。迂闊な判断と敗北を許した体たらくに心底嫌気が差す。心中ではそう猛省していたものの、疲労を蓄えた身体は直に重くなり、反転術式を施してくれた憂太くんの腕の中で呆気なく意識を手放してしまった。
 医務室のベッドに横たえられた身体はすっかり本調子に戻っていたのに、彼の秘密を盗み聞きしているような背徳感に抗えなくて、つい狸寝入りに徹してしまう。閉ざしている目蓋が頻りに疼いた。それでも、薄暗い室内では私の空寝を証明しようがない。そもそも、憂太くんは純真な心の持ち主故に私が就寝していると信じて疑っていないようだった。その証拠に、無警戒な私の手のひらがそっと柔和な温もりに包み込まれる。心臓が一際大きくどよめいた。触覚が敏感に反応して、身震いを抑え込むのに躍起になる。唐突な接触に混迷しているうちに、肉感の薄くて皮膚の分厚い指先はいじらしい侵略を続けた。隙だらけの手のひらは、憂太くんの強い握力を前にして、受け止める以外の選択肢を持ち得ない。ううん、寧ろ端から拒絶も抵抗も頭にある筈がないのだけど。
 こんな恋人のように戯れ合う異性との接触を、生まれてこの方一度も経験してこなかった。もちろん、憂太くんとも。彼とは同業者という括りしか特筆して語るところのない、本当に些細でありきたりな関係だ。差し向けられる眼差しは年上への尊敬が根差したものだと思い込んでいた。その認識を改める必要があるのかもしれない。もしかしたら、憂太くんも私と同じように、溢れる慕情に蓋をして閉じ込めていたのかもしれない。貝殻のように緻密に重なり合った手指が、混じり合う体温が、そんな図々しい自惚れを連れてくる。
 視覚以外の感覚が憂太くんでいっぱいになる多幸感に浸りながら、虚構の寝姿で塗り固める。我ながら小賢しい。彼の純朴さに付け込んでいる心苦しさすらある。でも、浮ついた身体は欲望に正直だ。少しでもこの時間を長引かせたいという邪な願望に支配されて、脳は冷静な判断を導けなくなっている。
 だから、ほら。卑怯な嘘つきを見兼ねた神様は、例外なく天誅を下すのだ。
「また、失うところだった」
 その甘えた愚考に冷水をぶちまけられたような衝撃だった。四肢が強張る。高揚していた心が急速に干乾びていく。
 今更、落胆なんて感情を抱える方がどうかしている。元より分かりきっていた筈だ。憂太くんの深淵に探りを入れたところで、奥深くに眠っているのは私への好意ではない。ただひとり、彼の人生における揺るぎない存在だけが、その真髄を司っている。特別にはなれても唯一には、二番目にはなれても一番目にはなれない。とうに分かっていた、筈なのに。
 離れない温もりの中で、一際冷たい何かが手の甲を掠めた。その正体は、視界に映さなくとも肌身に沁みて感じる。憂太くんが片時も手放すことなく携帯している、左手の薬指でその煌めきを主張する指輪だ。金属の無機質な冷たさが皮膚から血肉まで浸透して、ようやく現実に引き戻される。身の丈に合わない夢を見て、高望みしていた。存分に思い知らされる。
 いつだってあなたの底なしの優しさが、いっとう私を喜ばせて、いっとう私を苦しめる。


さん!」
 古びた木張りの校舎に、どこか焦慮を滲ませる声が響き渡る。呼び声につられて振り向くと、案の定血相を変えて駆け寄ってくる憂太くんの姿があった。呪術師らしからぬ真っ白の制服が、窓から洩れる日差しを吸い込んで殊更輝いている。彼は私の前に立ち及ぶと、眉を寄せて口唇を噛み締めた。雨に濡れて主人を待ち詫びるポメラニアンのような表情だ。図体は子犬からは程遠く、見下ろされる側でなく見下ろす側に立っているのだけど。
「今日から復帰ですか? まだ休んでた方が良いです」
「もう平気だよ。ていうか、治してくれたの憂太くんなのに」
 私が失態を晒して、憂太くんが後始末を引き受けてくれて、その上勝手にはしゃいで勝手に傷付いた日から中一日が経過していた。彼の迅速な治癒のおかげで――精神はともかくとして――肉体はもう万全の状態にまで回復している。それに、暇を持て余して塞ぎ込むくらいなら、落ち込む余裕がないくらい身体を動かして仕事に打ち込む方がよほど健全だ。そう思い立ったから、早い段階で任務を引き受ける旨の連絡を高専に寄越していた。私の個人的な事情など露ほども知らない憂太くんの目には、瞠目すべき愚挙に映ったのかもしれないと、彼の神妙な面持ちを見て思い至る。好きな子に心配されて嬉しくない筈がない。また、単純な心臓が許可もなしに期待で膨れ上がっていく。悲しきかな、いずれは萎む運命にあるのに。
 情けない自虐を打ち払うように小さくかぶりを振って、眼前の憂太くんに向き直る。彼を安心させる材料として、膝丈のタイトスカートの裾をほんの少しだけ持ち上げた。
「そんな顔しないで。ほら、ここだって……」
「え、……う、わあ!」
 その素っ頓狂な叫び声に影響されて、こっちまで飛び上がりそうになった。何事かと首を擡げると、耳まで真っ赤に染めた憂太くんが、両手で顔を覆い隠している。その挙動不審な仕草で、ようやく理解が追い付いた。彼の初々しさを目の当たりにした、が実際のところ正しいかもしれない。誘惑するだとか色目を使うだとかの意図は誓ってなくて、任務の際に深く刻まれた膝上辺りの傷口の完治をお披露目したかっただけなのだ。ただ、公共の場で、しかも恋人でもない年頃の男の子にする振る舞いとしては、確かに相応しくなかった。浅はかだった行動を省みて、すぐさま頭を下げる。
「ご、ごめん。ここの傷もしっかり塞がったよって報告のつもりで……」
「それは良かったですけど! そうじゃなくて!」
 目を逸らして必死に抗議していた憂太くんは、私がスカートを下ろしたのを気配で察したのか、恐る恐る両手を剥がしてほっと胸を撫で下ろした。それでも紅潮した頬は未だ健在だ。無自覚とはいえ男子高校生の純情を弄んでしまったようで、何だか申し訳なくなった。
 憂太くんは慌ただしかった呼吸を整えて、真剣な瞳で私を眼差した。
「……あんまり無防備なとこ、見せないでください」
「……えっ、と」
「勘違い、しそうになります」
 振り絞った切実な声に、垂れ下がった目尻に、どうしたって胸が軋む。その言葉ひとつ、表情ひとつで勘違いしそうになるのは、こっちの方だというのに。自分が発端だとはいえ、さすがに文句のひとつも零したくなった。ずるいなあ。強いのに優しくて、繊細そうなのに気骨があって、天然なのに変なところで察しが良い。ちぐはぐな印象が表裏一体となって顕在しているひと。きっと私が知らない憂太くんの一面はたくさん存在するのだろう。――左手の薬指で艶めく銀色を贈った彼女は、それこそたくさん知っているのだろう。
 湧き上がる浅ましい嫉みを無視できるほど、私は人間ができていない。寧ろ恋い焦がれた相手の気を引いて、距離を縮めたくなる。身勝手な願望ばかりが増幅する、醜悪な人間なのだ。望みを叶えたところで、その先に待ち構えているのは不毛で空虚な末路だとしても、それでも。
「……憂太くんも、夜の医務室で女の人に触れるなんて警戒心なさすぎるよ」
「え……、あ、えっ!?」
「気を付けてね。勘違いされかねないんだから」
 遠回しな提言の真意に辿り着いたのか、憂太くんの顔色は一目散に青褪めていく。してやったり、だ。一矢報いた達成感に笑みを零して、私は「任務があるから、またね」と彼に背を向ける。去り際に一瞥した憂太くんは、柔らかな陽光の下でばつが悪そうに、けれども少し恥ずかしそうに立ち竦んでいた。
 送迎車に向かう途中、あの夜に手の甲を掠めた冷感が過ぎった。牽制のつもりだろうか。そんなことしなくたって、あなたは憂太くんの中で永遠の存在として根差しているのに。私が入り込む余地があるとは到底思えないのに。強欲だ。でも、それは私も同じだ。彼の特別以上に、二番目以上になりたくて堪らないんだから。
 これから先、不毛な恋でも、報われない恋だと分かっていても、私が私の恋心にとどめを刺すことはできないだろう。憂太くんという、余光のように目映くて直視を躊躇う存在に、この恋を生かされ続けてしまう。そんな何の足しにもならない覚悟を用意して、一歩また一歩と足を踏み出した。遠くなる彼の気配に反して、あの夜重ね合わせた余熱がずっと尾を引いている。

22/03/11 おめでとうございました!