凋落
※未成年×成人女性の要素あり


 いつもバックミラー越しに揺らめいていた理知的な瞳に、気付いたときには領土を侵されて、牙城を崩されていた。今日も湿っぽい黒目に詰め寄られて、激しく唇がぶつかり合う。雨粒が絶え間なく地上を濡らす中、わざわざ後部席から隣の助手席へと乗り移った彼は、なかなかに貪欲な策士だ。一瞬雨に打たれた分厚い両肩が、私から拒否という選択を遠退かせていく。こんな豪雨の下に追い出して風邪を引かれては困る、だなんて甘ったれた思考に染まってしまう。そうやって何度、己のさもしい愚行に尤もらしい理由を縫い付けては繰り返してきたのだろうか。両手を彼の肩口に添える形だけの抵抗に、悪戯そうな微笑が宙を舞った。見透かされている。浅はかでふしだらな女の真髄を、それこそ骨の髄まで。
 寝惚けた私の理性を叩き起こしたのは、腰から胸元のラインに沿わせた彼の逞しい手指だった。卑しさは欠片もないのにどこか情念の灯った指先が、緩やかに這い上がってくる。本能的な警鐘が鳴った。まずい。これ以上流されたら二度と戻れない境界線を越えてしまう。急速に冴えていく脳内に、ようやく応戦する決意が生まれた。これ以上ろくでもない大罪に溺れないためにも覚悟を決めなければ。伸びた舌が歯列をなぞって隙間に割り込む寸前、思いきって手のひらに力を込めた。覆い被さっていた屈強な上体を押し戻して――実際は押し戻した気になって、ほとんどびくともしなかった――唇のあわいに指を滑り込ませる。先走る熱い情動に歯止めをかけると、夏油くんは意外なほど従順に身体を退かせた。
「……今日はここまで」
 不意に訪れた沈黙に、車窓を止め処なく洗い流す雨音が迷い込んだ。一定の速度で響く音色は、場違いな空気に惑って泣く泣く車内を彷徨っている、
 煮え切らない反応を見越していたのか、眼前の夏油くんは数秒と経たずに笑みを吹き零した。表情も声色も優しく気取っているけれど、内から滲み出る雰囲気はどこか淀んで刺々しい。笑わせるな、と不服そうな本音が透けて見えるのは、果たして気のせいだろうか。思わず生唾を飲み込んで、反射的に身構えていた。
「今日は、って。ここから先に進ませてくれたこと、ありましたっけ」
 冷静で俯瞰的な声がたゆたって、皮膚がひりつく。何だか心臓に遅効性の毒でも仕込まれているみたいだ。何も起きていないのに、何も言及されていないのに、胸の奥がざわついて仕方ない。嫌な予感が血流に乗って、全身を駆け巡る。
「ないけど……しょうがないでしょう。だって、」
「だって?」
「……夏油くん、未成年だもの。これ以上は私が捕まっちゃう」
 当たり障りのない理由を取り繕ったけれど、表面上はそれなりに正当性のある理由に思えた筈だ。筋肉質な体格も、鼓膜に絡み付く低い声も、未成年にしては些か発達しすぎている要因も含めた全てが夏油くんなのだ。改めて思い知る。彼はまだ二十歳にも到達していない、紛れもなく子どもに分類される側の青年だと。そんな繊細な時期の子の達者な口車に乗せられて、逢瀬とも称しがたい幼気な触れ合いを許してしまったのは、紛れもなく私ではあるのだけど。
 年齢差を盾にした返事が気に食わなかったのか、はたまた虚偽の香りを嗅ぎ付けているのか、夏油くんはあからさまに眉を顰めた。諦念のような失望のような、そんな負の感情が瞳に鬱積している。
「……未成年だから、か。大人のさんには実に手頃な理由ですね」
 たっぷりの皮肉を投入した呟きが、容赦なく私の良心を貫いてくる。未成年に手を出しているくらいの、元から米粒程度の善心とはいえ、粉々に砕かれてしまえば傷付いたりもする。本当に傷付いているのは、きっと私の拒絶を正面から突き付けられている夏油くんに違いないのに。
 全くもって彼の発言通りだったから、反論する気概も湧かなかった。乾燥した下唇をぎゅっと噛み締める。気まずい空気を憂うように、窓を叩く雨が勢いを増した。フロントガラスからは一向に星も月も見えない。蛇のように無数に這う水滴の行路だけが怪しく光っている。
「もうすぐ入籍するんですよね」
 直後に走ったのは雷鳴だった。闇夜を劈く稲光が、夏油くんの顔を不気味に照らし出す。感情を失った無味の双眸が、私を鋭く見据えていた。
「補助監を辞めて家庭に入る。私に黙って消えて、今日までの全部をなかったことにしようとしている」
 違いますか? 淡々と続く問いに、私は絶句する他なかった。血の気が引いていく。世界が一転する。まるで重力が謀反を起こしたみたいな感覚だった。想定外の事態に、ありとあらゆる器官が錯乱している。どうにか声帯から絞り出せたのは、夏油くんの発言を肯定するだけの無意味な問い掛けだった。
「どう、して……」
「教訓になりましたね。狭い業界では、親しい友人にだけ打ち明けたつもりでも筒抜けになるってこと」
 そう、私は恋人がいることも彼と近々婚姻することも、同期の数人にしか話していない。夏油くんに入れ込んで爛れた関係にまで発展していることは、誰にも。それが仇となったのだろうか。彼の任務に同席した誰かしらが世間話として持ち出す可能性を、微塵も考慮していなかった。なんて迂闊な手抜かりだ。その愚直さが招いた現状を顧みて、自分を呪い殺したくなる。
 夏油くんは音もなく私に躙り寄った。大きな身体で助手席から乗り出して、私のブラウスに手を伸ばす。ふたつの指先だけで器用にボタンが外されていき、忽ち胸元が露わになった。抵抗の余地はない。逆らう概念さえも生まれない。寧ろこの仕打ちを受け入れている。彼に抱かせた期待を搾取して、自分だけが甘い蜜を啜って逃げ果せようとしていたのだから、当然の報いだとさえ思えた。
さんもとんだ災難ですね。誑かされた男が、まさかこんな人間だったなんて」
 こんな状況下で自嘲的な軽口を叩きながら、夏油くんは厚くて硬い手のひらを忍ばせた。この先を切望していた筈なのに、彼はちっとも興奮していないし嬉しそうでもない。冷酷な眼差しだけが夜の水面に浮かび上がっている。
「私も悪いしアナタも悪い。だから、これで痛み分けだと思いませんか」
「夏油、くん……」
「そんな顔しないでください。もっと酷くしたくなる」
 緩やかに唇が落ちてきて、もう私は何も言えなかった。その甘くてほろ苦い口付けを黙って享受する。目蓋を下ろして視覚を遮断すれば、夏油くんの気配だけが私を包み込む全てになった。浅はかでふしだらな真髄が高揚して、倒錯的な状況に酔い痴れている。
 本当は、ずっとこうされたかったのかもしれない。他でもない夏油くんに。漠然とそんなことを考えた。
 年齢も恋人も、何もしがらみのない状態で出逢えたなら、彼と幸せになる未来もあったのだろうか。願望混じりの夢想が脳裏を掠めて、そして霧散する。あり得ない。荒唐無稽だ。
 人徳に背を向けて貪り合う私達を待ち構えているのは、破滅的な末路だけなのだから。


 あの日の亡霊が、仮初の幸福に身を委ねる私を迎えに来た。その事実を認識して、私は呼吸が疎かになるほど喫驚した。息を呑む。いつかの昔日に仕込まれた毒が、じわりじわりとその役目を思い出していく。
 純潔のプラチナが転がり落ちて、血溜まりの海に沈む。平和な日常を象徴するマリッジリングは、その意味を灰燼に帰すくらい、地獄の色を帯びて光った。
 恋慕も愛情も抱きはしなかったけれど、私に恋して愛してくれていた優しいひとが、魂の抜け落ちた亡骸となって横たわっている。五体満足そうに見える死体だけど、左手の薬指だけが綺麗さっぱり失われていた。愛の誓いを込めた指輪は、彼の指先から随分離れた場所にまで転がり、その行方を晦ませている。
「指輪の意味、なくなってしまいましたね」
 私に見せ付けるように夫の左手を持ち上げていた男――夏油くんは、乱雑にその腕を捨て置いた。血飛沫が跳ねて、彼が着ている袈裟に飛び散る。そんなことは露ほども意に介さず、夏油くんは軽い足取りでへたり込む私の元に詰め寄った。
 左手の薬指、その付け根に身を置く指輪を忌々しげに、かつ慈しむようになぞられる。跳ね上がる心臓が痛い。きっと毒が回って全身を犯している。
 動転する意識のなか、ひとつだけ確かなことがあった。夏油くんの言い分は正しい。結婚指輪というものは番でこそ意義があるのに、片方がもう指先に収まることがないのだとしたら、もう片方は全くの無意味だ。ただの装飾にしかなり得ない。
「もう私は未成年じゃないし、さんには恋人も伴侶もいない」
「……っ」
「私達を縛るものは何もありませんね」
 薬指の指輪を攫われて、ゴミみたいに打ち捨てられる。放り投げられた先でふたつの指輪が音を立てて惹かれ合い、身を寄せ合っていた。血の海に沈められても、その鈍い光は輝きを損なわない。私とあの人の、もう辿り着けない未来を見せつけられているようだ。
 あの激情的な一夜の再演みたいに、夏油くんに唇を塞がれて、敢えなく押し倒された。悲鳴さえ出てこない。まぶされる熱い吐息が、囁かれる甘い誘惑が、なけなしの理性を奪っていく。
 もう何の逡巡もなく、確信的な閃きだけが落ちてきた。
 きっと、ずっと、夏油くんの腕の中で朽ちていく結末を、心のどこかで望んでいた。

22/02/06