花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが
 どこからともなく流れてくる懐かしい民謡が、一方的に黄昏時を報せてくる。単調なメロディに乗じる歌詞を思い起こして、一匙のさみしさを飲み干した。胸がどよめく。日没の手前に差し掛かると、何にも例えられない空虚な寂寞が広がっていく。きっとこの歌のせいだろう。帰宅を促されて渋々友人に別れを告げていた、ランドセルを背負う頃の自分が蘇ってしまう。夕焼けは別離の色だ。肌寒くなる気温は皮膚に優しくなくて、熾烈な赤に染まる情景は目に痛くて、そして感傷的な気分を増幅させる。だから、日暮れの時間帯が私は苦手だった。
 目蓋を開けてすぐに夢だと理解した。視界の端から端まで、現実にはあるまじき光景が広がっていたからだ。地平線の果てまで伸びる線路と錆びれた踏み切り、それだけがこの世界の全てだった。地上には他に何も見当たらない。天上では、墜落寸前の太陽がしぶとく己の存在を顕示している。夕暮れ時の毒々しい鮮紅色は、辺り一帯の平地を隅々まで燃やし尽くしているように思わせた。
 そして、残照の中心で人影が揺らめいた。激しい逆光が視認を阻む。けれど、私は直感した。五感による認識の速さすら、その第六感には及ばない。幾度となく彼を感じてきた全身が、あらゆる器官が、声高らかに私の恋人だと主張してわななく。夢だと理解している筈なのに、衝動に身を任せて勢いよく爪先で地面を蹴った。
「傑くん」
 駆け寄る。名前を呼んで、近寄って、無防備に垂れ下がっていた手を取る。白線の前で立ち尽くしていた人影は、やはり傑くんだった。大きくて頼もしい指と厚い皮膚にできた胼胝がそう確信させる。違和感を覚えたのはそのすぐ後だった。手の腹から浸透する、滑りを帯びた生温かい液体。その肌触りを未知だと惚けられるほど、私は無邪気でもなければ清純でもない。とうに知った感触だった。夕陽に紛れて傑くんの皮膚と付着していたのは、つい先程まで誰かの生命を突き動かしていたであろう瑞々しい血液だった。
「汚れるよ」
 思わず硬直した私を突き放すような声だった。振り返った傑くんは、夏の終わりを彷彿とさせる涼やかな目付きで私を見下ろした。背骨がおののく。乱れた黒髪、返り血塗れのワイシャツ、諦念に取り憑かれたかのような虚ろな表情。それらの要素は総じて、運命の岐路に立たされ、そして選択したあの日の彼に酷似していたから。
 傑くんは惑乱している私を見透かしているようだった。口唇はいびつな曲線を描き、雰囲気で肩を落としたと分かる。翳りの中で私を見つめていた彼は、やがてそっぽを向いて歩き出そうとした。それを打ち止めたのは私の心許ない握力だ。ほとんど無意識の内だった。血潮が纏わりつく不快な感覚さえ構わず、力強く傑くんの手を握り締める。失望されたくないという情動より、そうしなければならないという一種の強迫観念のような何かに駆られていた。
「傑くん、私、汚れても平気だよ」
 その辿々しい表明にどうにか信憑性を持たせたくて、右手にぐっと力を込める。傑くんは踵に重心を戻して立ち止まった。冷たい一瞥が刺さる。恐らく、ただの虚勢に過ぎないと見破られていたのだろう。こんがらがりそうな舌先も、動揺している指先も、震える声色も、発言とは真逆を指すものだ。彼の胡乱な表情こそが、私の本物の心象を物語っていた。
 斜陽がかたちを喪っていくにつれて、傑くんを覆う翳りが色濃くなる。闇に飲まれていく彼は、感情を映さない静かな瞳で私を眼差した。
「平気って顔さえ作れないなら、今すぐにでも離してくれ」
「……どうして、そんなひどいこと言うの」
 あんまりにも普段の温厚な傑くんにそぐわない、冷酷な物言いだ。排他的な思想を掲げる彼だけど、いつだって自分は懐の内側で護られている立場だったから、明確な拒絶を向けられるのは初めてだった。反射的に盾突いてしまったけれど、徐々に後悔が立ち昇ってくる。ひどくなんてない。本当にひどいのは、傑くんに猜疑的な感情を抱かせてこんなことまで言わせてしまう、私の振る舞いだ。
 意地を張って繋ぎ留めている手は、互いの温もりが混じり合うことなく、外気の猛襲によって冷え切っていく。ただ虚しいだけの結び付きなのに、私はどうしても手を離せなかった。離したくなかった。
「……どうしてかな」
 空気の淀みが薄れる。それは思い悩んだ末に絞り出したような、掠れた声だった。傑くんは、先程とは纏う雰囲気の気色をわずかに変えていた。暗闇に溶け込んで輪郭がぼやけていく彼は、唇にどこかさみしそうな微笑を滲ませた。
「こんなにも手を離すのが惜しくて、今すぐにでも抱き締めたくて堪らないのに」
「……傑くん、」
を困らせたいわけでも傷付けたいわけでもないんだ。……勝手だな」
 自嘲めいた呟きがぽつりぽつりと落ちては宙に消えていく。優しげで仄かに悩ましげな目付きで笑う傑くんは、やがて強引に私の手を振り解いた。空虚なあわいが広がる。すぐにでも駆け出して、彼の背中に縋り付きたい思いが溢れて止まらないのに、できない。増幅していく激情に反して、両下肢は鉄釘でも打ち付けられたかのようにびくともしなかった。
 遠来から微かに哀愁の歌が流れてくる。それに便乗した踏み切りが、けたたましい警鐘を鳴らした。陰影に対抗せんとばかりに、ちかちかと警報灯が瞬く。遮断棒が降りて、気付けばふたりの隙間は断絶されていた。彼は歩みを止めようとしない。いつだって大きくて頼り甲斐のあった背中が、確実に小さくなっていく。私は抵抗の声を張り上げていた。
「待って、傑くん」
「……
 突風に煽られるさなか、今にも途切れてしまいそうな声が鼓膜に辿り着く。傑くんはわずかにこちらを振り向いて、そして和やかに目を細めた。大人びた顔貌の彼には珍しい、無垢な少年のような笑み。
「ありがとう。あの日、あのとき、私の手を取ってくれて」
 あの日が指す晩夏の日のこと、あのときが指す瞬間のこと、分からないわけがない。返り血を浴びた傑くんの脱力した手を取って覚悟を決めた日のこと、彼の見開かれたまなこに淡い光が差した日のこと、忘れるわけがない。
 どうして今、そんなことを言うの。それじゃあまるで、まるで――永遠のお別れみたいだ。
 視界が白む。情景が霞む。夢が明けていく。傑くんをどんなに呼び止めようとしても、声帯は引き攣るだけで、その一縷の望みは声にすらならない。たったひとつ、彼の傍にいたいという願いさえ叶えられない。現実と乖離した夢の中でさえも。
 私の意識は浮上して、そこで途絶えた。ただ傑くんの儚い声も、夕闇に染まる優しい表情も、途絶えることなく記憶の縁に刻み込まれたまま。


 月が満ちていて、星は瞬いている。際限なく広がり
尽くす美しい夜空は、大の字になって仰向けになっている私を嘲笑っているように思えた。そうして、虚空を遮って覗き込んできたひとりの男は、事実嫌みたらしい含み笑いを浮かべていた。
「おっ、生きてる生きてる」
「…………悟くん」
「こんな西の果てまで探しに来た甲斐があったよ。野垂れ死にでもされてちゃ骨折り損だ」
 晦冥を弾き飛ばすほどの鮮烈なしろがね色が揺れている。銀髪に目隠しを施すという異端な出で立ちの男――悟くんは、十数年の年月を経て軽薄になった減らず口を携えて笑っていた。
 夢が覚めて現実に漂着したと理解すると、途端に身体が重たくなった。全身のあちこちで激痛が駆け巡る。悟くんが差し出した手に引き上げられて何とか上体を起こした。彼の手は血が通って温もりを帯びた、紛れもない生者のものだった。まるきり夢とは違う。
 百鬼夜行の決起とそれを隠れ蓑にした呪術高専東京校への襲撃、それらに際した私の役割は京都における呪術師達の撹乱だった。役目は十分に果たせた筈だけど、東京で陽動していた仲間達の連絡を待てないまま、私は力尽きてしまった。呪術師の追撃を逃れて脇道に倒れ込んだ矢先にはそう思っていたけれど、どうやらくたばり損ねたらしい。五体満足、その上意識も鮮明だった。生命力だけは逞しいなんて、つくづくこの業界に向いている。嬉しくも何ともないけれど。
 そして、ふと思い当たった。肩を貸して私の身体を支えてくれている、かつての同窓生。敵対勢力である筈の悟くんが京都まで足を伸ばしていることの意味は、そう深く思案せずとも結論づけられる。
「アイツ、最期まで君のこと話さなかったよ」
 しんみりと湿っぽい、けれどどこか溌溂とした羨望混じりの声だった。悟くんが持て余している感情がほんのり見え隠れする。
 最期、とわざわざ主張したからには、そういうことなのだろう。謀略は破綻して改革は成し得なかった。きっともう、傑くんはこの世のどこにもいない。
 隣を盗み見ると、前を見据える悟くんは呆気らかんとしていた。感情的になりやすかった学生時代の彼を思うと、表情も態度も幾分落ち着いている。大人になった証とでも言うのだろうか。悟くんは隠れ慣れていない丸裸の視線を見透かしていたようで、わざとらしく口角を吊り上げた。
「昔はそんなでもなかったのに、随分とまあ大事にされちゃって」
「……どこをどうしたらそう解釈できるの」
「そりゃそうでしょ。傑は本当に大事なものほど隠し立てるし抱え込む」
 最初は首を捻っていたけれど、段々とその実感が湧いてくる。たった数年、されど数年。それだけの月日を共に過ごした親友からの見解がそうだと言うなら、そうなのだろうか。悟くんに存在を仄めかしたり後を任せたりもせず、自分だけのものとして後生大事に抱え込む。確かに傑くんらしいやり方だ。彼らしい、優しさの裏に潜む捻くれた愛情表現。
「……人たらしだなあ」
 思いの外、感傷に浸った声が宙をたゆたった。潤んで震える声は性に合わないし、何より情けない。悟くんは珍しく大きな口を噤んでいる。惚けたふりを装いながら、真摯に耳を傾けてくれているのだと分かった。
「私のこと連れて行ったくせに、今度は置いていっちゃうんだよ」
 夕闇に埋もれる傑くんの笑顔が蘇る。勝手なひとだ。淡い夢の中に引き込んでおいて、未練を凝縮したような言葉を残しておいて、自分は先々進んでしまうんだから。そんなに大事に想ってくれていたなら、一緒に連れて行ってくれたら良かったのに。地獄の果てでも宇宙の片隅でも夢の縁でも、どこだって構わない。どこであろうと彼の傍にいられることこそが、私にとって唯一の望みですらあったのに。生粋のかっこつけで、どこまでも見栄っ張りで、私達はすれ違ってばかりだ。
 悲壮に満ちた空気を一蹴するように、悟くんは可笑しそうに喉を鳴らした。こういう場面では相変わらず空気が読めなくて意地が悪い。けれど、彼の屈託ない態度にどこか心が軽くなっている。悟くんは緩やかに口唇を開いた。
「生きていてほしかったんでしょ、それでも」
「……」
「君に地獄は似合わないってさ」
 憶測だけどね、と悟くんは付け足すと、それきり唇を開かなかった。それが発露する情報の最末端だとでも言うみたいに、ただ笑うのみだった。
 あのとき、私の手を振り解いた傑くんを思い起こす。切なげでさみしそうで、だけど一匙の幸せを湛えたようなあの笑顔。確かに彼は私を道連れにしたりはしないだろう。好きな女は自分の傍じゃなくとも、別の場所で幸せになっていればそれでいい人間だ。どこまでも相手を尊重してしまう優しいひと。それが私が好きになった夏油傑というひとの生き様だった。
 目蓋を閉じれば、苦手だったあの日没前の朱色が広がっていく。夕焼けが別離の色だとしても、あの民謡がさみしさの象徴だとしても、私はずっと、黄昏時の情景に染まる傑くんのことを胸に焼き付けている。

2021/12/24