スーサイド・エラー
 美しい夜景を見た。夜の帳が下りた深い常闇。そこに撒き散らされた無数の光の礫。所狭しと人間が詰め込まれた東京で、懸命に息をする住人達の息吹がかたちを成して煌めいている。蝋燭に灯る火のようにひと吹きで消えてしまいそうなほど儚く危ういのに、その光に根差した意思は逞しい。誰も彼もが苦悩を抱えて、足掻いて、藻掻いて、地べたを這いつくばって生きている。
 遥か彼方に焦点を合わせていた瞳を傾ける。直下には真白のひび割れたコンクリートがあった。床から少し飛び出した爪先は、対極的な暗闇に包まれて同化している。数歩先を行けば落下は必至で、底で待ち構えているのは地獄の門番でもなければ魔窟に棲みつく悪魔でもない。生が無惨な有様となって幕を閉じる、その終焉だけだ。そこから先に何が広がっているのだろう。三途の川か、漠々たる花畑か、それとも何もない虚無か。誰も知らない。誰も見たことがない。未知に富んだ深淵に、今から私は飛び込もうとしている。
 後ろ手に掴んでいた手摺りが軋んだ音を立てる。音に共鳴して、胸の内側から叩き付ける鼓動も一際大きくなった。瓦解しかけの廃ビルはひとの気配がまるでない。夜半の湖のほとりのように静まり返っているから、余計に心臓を身近に感じてしまう。尋常でない量の手汗が祟って、心の準備すらままならずに落ちてしまいそうだ。死んでから後悔しかねない、間抜けな死に様だけは絶対に避けたい。震える指先にちからを込めて、一呼吸置いた。
 そうして目を瞑って、両手を離して、上体を前に傾けた。ただそれだけで重力は無制限にちからを発揮し、身体を下へ下へと押しやってゆく。後は真っ逆さまになって、勢いよく地面に拉げるだけだ。なんて簡単、なんてお手軽。命なんて蛇口から零れ落ちる流水よりも儚くて呆気ない。そんな惚けた考えより、もっと愚かで馬鹿馬鹿しい考えが脳裏を掠めた。――あ、走馬灯っていつ見るんだっけ?
「君も大概、度胸があるんだかないんだか分かんないなぁ」
 だから、その慣れ親しんだ声が耳朶に触れたとき、走馬灯なのだと思った。少なからず遠からず、彼を愛していた過去への未練と執着。歪んだ感情がはち切れんばかりに膨らんで、最期の一瞬、私だけが聞き及べるまぼろしの声へと化したのだと。
 けれど、それは違った。私だけが静聴を許されたまやかしではない。この世界に産み落とされた唯一無二の実体が、沈みゆく私の身体を確かに引き留めたのだ。腹部を支えるように回された片腕と、耳元でささやかれた柔らかな低音が、表面からじわりじわりと実感を染み込ませてゆく。皮膚の裏側に甘い痺れが走って、ぞわりと肌が粟立った。恐る恐る、その実感がただの勘違いであることを願いながら後方を振り向く。勿論、案の定、願いは聞き届けられなかった。
「三階建ての屋上じゃあ即死か瀕死か微妙なラインだよ。本気ならもっと高い所を選びな」
 五条だ。幻影でもなければ幽霊でもない。ましてや偽物でもない。正真正銘、本物の五条悟。唇にわざとらしい笑みを乗せた私の恋人が、重力に逆らって宙に浮いている。触れた私ごと無重力の巻き添えにして。
 状況を理解しても尚、頭の中はさながらパニック映画で逃げ惑う人々のような混乱状態にあった。だってそうだろう。あんなに用意周到に、念には念を入れて今夜の企図を秘匿し続けたのに。何の痕跡も残さず、平素と変わらぬ振る舞いで五条と最後の夜を明かしたというのに。私以外が知る由もない秘密をいつの間にか掌握されていたなんて、一体どこのホラー映画だ。迫り上がる恐怖と逃れたい本能から身を捩って抵抗するも、五条はがっしり腰を掴んで離す気配はない。結局のところ、最強と称される男に物理的な手段で敵う余地などないのだから、言論による打破しか道は残されていないのだ。腰を捻って五条を睨め付けながら、弱々しく反撃の狼煙を上げた。
「……何でここが分かったの」
「君のことで僕に分からないことがあると思う?」
 答えになっていない解を得たところで何の足しにも肥やしにもならない。寧ろ鼻を高くして堂々と宣言してしまう五条に、呆れて物も言えない始末だ。どんな詰問を差し向けても彼はのらりくらりと躱してしまう。これ以上反論するのは無駄骨だ。情けなく閉口して敗北を認めた私に、五条は大層ご満悦そうに口角を上げた。
 相も変わらず不審者極まりない目隠しの帯布と、黒に染まった出で立ちのせいで、血の通った肌色以外は闇夜と境目なく溶け合っている。清らかなしろがね色の髪も、月をも覆い隠す暗雲のせいで普段より翳りを帯びていた。その相貌は、まるで地獄の底から私の命を刈り取りにきた悪魔のようだ。その実、彼は至極まっとうな倫理と理由を引っ提げて遠路遥々ここまでやって来たのだろうけれど。
 五条はいつも、何に際しても曰くありげな態度を崩さない。先程だって自殺が失敗に終わったことを嘲るような、教師らしく正しい未来に導くような、どちらとも取れる言い方をした。でも、きっとあの発言さえも見せ掛けの紛い物だ。五条は私の死を希うでも促すでもなく、食い止めるためにこの場に足を運んだのだろうから。思惑通りに事が進んで、私の企図を阻むことができたから、故意的に癪に障るような言葉選びをしているに違いなかった。
「そんなに死にたいなら、もっと高い所に連れて行ってあげる」
 ほら、今だってそう。死なせる気なんて更々ない。私の身体を引き寄せて、磔にして両腕で抱き潰しているくせに、そういう口の利き方をする。本心を奥底に忍ばせて、まるで正反対の虚偽を連ねる。五条の立ち振る舞いは好ましくないし、本心を見抜けた試しは一度たりともない。けれど、その根幹にあるのがよこしまな悪意ではないと知っているから、私はまた何も言えずに口を噤んでしまった。
 夜空に敷かれた見えない絨毯を闊歩するような足取りで、五条はなだらかに歩を進めた。明確に目的地を定めているようだ。とめどなく舌が回る普段の彼はどこへやら、厚い唇はきっちり引き結ばれている。漂う沈黙が気まずいというより無性に気恥ずかしくて、見上げていた視線を五条の懐へと追いやった。その折に耳を澄ませば、無言で吹き抜けていく夜風と同じくらい、微かで和やかな五条の心音が流れてくる。その規則正しい健やかさが心地良くもあり、喧しく打ち鳴らす私の鼓動と真逆な辺りが憎たらしくもあり、矛盾した心はかき乱されるばかりだった。
 時たま全身を煽る上昇気流に飲み込まれたり、遠方でたゆたう飛行機の光を目で追い掛けたりしながら、徐々に大空を昇ってゆく。このまま大気圏を抜け出てしまえば落下を待たずして死ねるだろうか、なんて万が一にもあり得ない愚考が脳裏を過った。ただのたらればだ。腰に絡んだ筋骨逞しい腕と、後頭部を優しく包み込む大きな手のひらが、絶対に死なせはしないという強固な意思を湛えている。この拘束は私を上にも下にも行かせないし、私が帰るべきただひとつの居場所を直に教え込んでいるようにも感じた。悔しいけれど安心している。服越しに伝播する仄かな温もりと、危うげもなく単調に続く振動が、この状況下でもふてぶてしく眠気を降り注いできた。
「はい、到着」
 目蓋がくっつきそうになっていた私を差し止めたのは、朗らかに終点を報せる声だった。声音につられて、当たりの強い強風に阻まれながらどうにか目を開ける。視界が開けた瞬間、そこには先程の比ではない、煌びやかな色彩が埋め尽くす絶景が広がっていた。三階建ての廃墟よりもずっと高く、ずっと広く見渡すことができる。煤色に染まる東京を背景に、そこかしこに散らばる光明がまるで天の川のような光の帯をつくり出していた。ひととき本来の目的を忘れて見惚れていると、五条が鉄骨のわずかな面積を足場にして舞い降りた。道連れにされた私も、彼に引っ付いているとはいえ降りるしかない。震える足で着地し、辺りを見回す。周囲は一寸先も窺い知れない闇が広がって何も視認できなかった。足元の情報から推測するにどうやら電波塔、それも一般人の力量ではまず到達できない最頂部のようだ。穏やかな微風に吹かれただけでも心臓がわななき、膝が笑ってしまう。仮にここから落下すれば、間違いなく、一筋の可能性すら残さず無惨な肉片と化してしまうだろう。張り詰めた緊張感とは裏腹に、私はその未来をすんなり受け入れていた。元よりその覚悟を携えてやって来たのだから。ただ誤算があるとすれば、予想を遥かに上回る大都会の高所に連れて来られたことだけ。真下に視線を傾ければ体験したことのない高さが迫ってきて、目眩を催しそうだった。
「た、かい……」
「あっちとは比べものにならないでしょ。何たって今の僕達、日本で一番高いからね」
 五条は得意気に鼻を鳴らした。それは日本一の高さを有する電波塔を建設したひとが偉いのであって、甘い汁だけ吸っている私達は別段何にも偉くはない。そりゃあ勿論、五条だけが持ち得る術式の恩恵に一番与っているのは私で、今だってその真っ最中の自覚はあるけれど。
 ――そうだ。私は、いつだって五条に頼ってばかりで、守られてばかりで、縋ってばかりだ。
「離して欲しい?」
 五条は私の腰に両手を回したまま少しだけ距離を取った。向かい合った彼と視線が交じり合うことはない。ふたつの眼球はしっかり覆い隠されているから、対面してもそれは仮初に見つめ合う行為だ。私だけが心の全容を見透かされているようで胸の内側がさざめく。いやな鼓動だ。どんより黒い波が寄せては返して、先程あんなに蓄積された筈の安堵をさらってゆく。
 答えなんて端から分かっているだろうに。今日の五条は私がしでかした突飛な行動を咎めるように、いつにも増して意地悪だ。
「頼んだら聞いてくれるの?」
「どうだろう。君の真摯な思いが伝われば、かな」
 含みを持たせた言い方も、にんまり口元に浮かぶあくどい笑みも、普段とそう変わりない。でも、五条が底に押し留めている心情くらいは察することができる。――怒っているのだ。何も告げずに自分の傍を離れたこと、軽々しく命を投げ打とうとしたこと。私からしてみれば最適解に値する行動だったけれど、五条の目には信じがたい愚行として映ったのだろう。深い憤りを溜め込んでいる五条は、それでも私に面と向かって叱咤するようなことはしなかった。
「教えてよ。君がそうまでして死にたい理由ってヤツをさ」
 詰問するのではなく、あくまで優しく誘導しようとする声色が、悍しいほどに鼓膜に馴染んで沁み渡る。体躯を支える五条の両腕をぎゅっと握り締めた。
 ふたりの隙間を嵐のような疾風が通り抜けてゆくのに、私も五条もびくともしない。彼が生み出したありとあらゆる万物を収束する無限が、世界の干渉を跳ね除けてくれているからだ。
 今はここにふたりだけ。夜の喧騒がひしめき合う大都会から抜け出して、外界からの介入さえも押し退けて、たったふたりだけだ。普段なら気にも留めない状況に、どうして涙が滲んでしまうのだろう。
「……私、どうしてそんなに五条が私のこと気に掛けるのか分かんない」
「えぇ、今更?」
「だって……だって、私あそこにいるひと達と変わらないよ。弱いし五条のちからになれないし、何もしてあげられない」
 訥々と吐き出していく苦悩のひとつひとつを、最初こそ茶化していた五条も次第に真面目な顔付きになって耳を傾けていた。徐々にとんでもないことまで口走っている気分になって、やおら視線を引き下げる。今更この発散を堰き止める術を擁していないけれど、五条がどう捉えるか――呆れ果てるか失望するか、その点に関しては直視したくなかった。
「五条。私怖いよ。死ぬのすごく怖い」
「……」
「でも、そんなことより五条の足手纏いになることが怖い。五条の重荷になることの方がよっぽど怖いよ」
 震える声でぽつりぽつりと落としていく吐露が、雨降る湖の水面のように幾多の波紋を広げてゆく。ふたりの間を漂う空気にも、私の心の内側にも。
 五条悟という存在が自分の人生に入り込めば入り込むだけ、彼がいかに大きな存在か、いかに世界に必要とされている人間なのか思い知る。そして私がいかにちっぽけで、脆弱で、五条の隣に立てるほどの器量も才能も持ち合わせていない生粋の凡人であるかも思い知らされるのだ。
 日本の均衡を揺るがすほどの才知があって、世界に平和を齎そうとする夢があって、自分が戦の渦中に赴くことをさも当然のように受け入れている。軽薄が塗りたくられた振る舞いの裏側では、そういった真の性質が骨の髄まで浸透している。それは高専時代から変わらない。不躾な言動と横暴な態度を携えていながらも、誰かを救うこと、誰かの意思を慮ること、そのすべてが深く根差している。それが私が好きになったひと、五条悟だ。親密な関係になる前から分かっていた事実だけど、いざ恋人として肩を並べてみると、その現実を否応なく突き付けられる。浅はかだった。五条は傍目から見るよりずっと莫大で、どうにもならない荷物ばかりを背負って生きていた。その素振りを少しも見せることなく、粛々と淡々と。
 そしてふと気付けば、いつの間にか漠然とした不安が心に巣食っていた。五条に手を引かれるようになった私は、彼が背負うものの一部になっているのではないか? 答えが喉まで迫り上がっている問いを必死に押し込めていたけれど、仄暗い靄は晴れ渡ることなく、見る見る内に全身を隈なく侵食していく。五条の傍にいることで得る安寧と引き換えに、彼に負担を押し付けて足枷になっている。輪郭が露わになり始めたその答えに素知らぬ顔を貫けるほど、私は図太い根性をしていない。根っからの根性なしだ。その手を振り解くのが手っ取り早い別離の手段だったけど、五条からの言及に耐えられる気がしなくて、私から振り払える自信も余裕もなくて。結局、臆病な私が手に取ることができる選択肢はただひとつだった。
 後悔すると思った。五条に甘えること、拠り所とすること、そうして受け取る無条件の幸福がいつか反転して天罰となって下ることが、途方もなく恐ろしかった。そのいつかが到来して後悔する前に、取り憑かれた不安を根こそぎ取り除いてしまいたかった。
「だから死ぬの? 自分の人生なのに」
「私は……私の人生を無駄にするより五条の人生を無駄にすることの方がやだ」
「はは、僕のこと大好きじゃん」
 乾いた笑い声が宙をたゆたう。五条からしてみれば肌に粘り付く淀んだ空気を中和させる冗談のつもりだったのだろう。でも、私には息苦しさが襲い来るほどに心臓に突き刺さる。日頃は天邪鬼な精神から誹るばかりで、一度も本心を伝えた試しがなかった。そんな一匙の後悔が紛れ込んだ過去が、脳裏に去来してしまった。
「……うん、好き。五条のこと好きよ」
 こんな瀬戸際ばかり、氷に覆われていた外壁はあっという間に解かされて、内なる本心を露呈してしまう。紛うことなき真実から成る告白は、変に取り繕わずとも自然に零れ落ちていた。決して清廉で潔白なものではない。来る日に呪いの言葉となりかねない危うき文言だと、潤んだ声を落としてから気付いた。五条のために命を捨てるつもりだったのに、引き留められて未練がましく彼への愛を呪いに変えてしまっている。なんて滑稽で、無様で、愚かしいんだろう。傾けていたこうべを更に垂らした。熱い目頭と、歪にぼやけていく視界が煩わしくて堪らない。
「馬鹿だね。稀に見る大馬鹿者だよ」
「……こっちは真剣に」
「黙って。こっち見ろ」
 空気を劈いて喉を切り裂かれたと錯覚する声だった。反論を遮る暴力性を孕んでいるのに、片隅には愛しさが棲み着いているような、そんな相容れない不調和な声色。聞いた試しのない五条の声に身体が強張って、全身を巡る血液が異様な速さで流れ打つ。すぐ傍らまで桁違いの威圧感が迫っているのに、往生際が悪く、私は唇を結んで目を伏せていた。無駄な足掻きだとは分かっていても、この反抗心と折り合いを付けて五条と向き直ることができるほど肝は据わっていない。沈黙が長引けば長引くだけ、体内に響き渡る鼓動も大きく速くなる。そして五条は痺れを切らしたように肩を揺すって、それでも動じない私の顎を指先ですくい上げた。
 目と目が合った。比喩でも何でもない。目隠しの奥深くに眠っていた筈の秘宝が――煌めく蒼の色彩がふんだんに詰め込まれた宝石箱のような瞳が、包み隠さず露わになっていたのだ。いつの間にアイマスクを外したのだろう。取るに足りない些末な疑問が解を得るより先に、五条が仕掛けてくる。妖艶な魔眼のようでその実、確かに人間が擁する不可思議なまなこが距離を詰めてきたのだ。睫毛の先がぶつかる寸前、全く別途の箇所からの感触が先行する。唇だった。柔らかくて少し生ぬるい。今日までに何度も触れ合って、その度にとてつもない安堵を引き連れてくれた五条の唇が、今日も私を安心させてくれる。顎先に添えていた冷たい指が離れて、私の身体を勢いよく引き寄せた。爪先が鉄骨を蹴って、五条に抱き上げられた身体は文字通り宙に浮く。わずかに離れた唇が引力で引き合うように、繋がれた運命の糸を手繰り寄せるように、またくっつく。そんな子どもの戯れじみた甘い口付けをずっと、それこそこの瞬間が永遠に続くのではないかと幻想を抱いてしまう程度には続けていた。
 どちらともなく唇を離すと、見つめ合ったまま五条は腕のちからを緩めて私を下ろした。いつもの不敵な笑みをどこに置き去りにしてきたのか、眉間に小皺を寄せて寂しげに笑っている。愁いの感情を湛えた五条の顔を、私は初めて目の当たりにした。
「君が本気で死にたいなら止めないけど、僕のためだの僕の負担になるだの屁理屈捏ねるなら、そんなのはお断りだ」
「……っ」
「傍にいて。何もしてくれなくていい。傍にいてくれるだけでいいんだ」
 甘えも弱さも柔らかく包み込んでしまう許しの言葉が、されども切実な祈りのようで胸がひどく痛い。こうまで懇願されて、愛されている実感を降り注がれても尚、私はまだ五条にすべてを委ねられないでいる。一縷の不安が暗闇の底から手招いて、深淵へと落とし込もうとするのだ。五条と未来を歩む選択肢を取って、後悔する未来が訪れる可能性を拭いきれない。そのいつかに怯えて生きるのは、果てのない袋小路の迷路に閉じ込められるも同然だった。
 頼りなげに彷徨う視線と、解像度の下がった朧気な視界を察したのか、五条は仕方ないと言いたげに薄笑いを浮かべて、私を強く抱き寄せた。丁度胸板辺りが額にくっつく。涙を押し留めるためか、はたまた落涙を促そうとしているのか、背中をさする彼の手のひらが大きくて温かくて、嘘みたいに優しい。
「……迷惑かけるよ」
「寧ろ迷惑かけられたいけど?」
「後悔する」
「するわけない。見くびってんの?」
 思い付く限りの言い訳に対しても、五条は売り言葉に買い言葉で抜け抜けと応戦する。口喧嘩で一度たりとも勝てた試しのない私が、ここから反撃を繰り出せるとは到底思えない。明敏な頭脳を有して口まで達者な自他共に認める最強となれば、口論で敵うわけがないのだ。
 でも、これは諦念から取る選択肢じゃない。
 はっきりと分かっていることがある。私が五条を好きだということ、五条も私を好きだということ。そして、触れ合った先から伝いゆく体温を手放したくはないし、失いたくもないということ。
 分かりきった答えを導き出すのは簡単でも、実際その答えを選び取るには勇気が必要だった。出口が行方知らずの迷路に自ら飛び込むのと同義だったから。でも、ひとりじゃない。温もりを分け与えてくれる手が、繋いだ五条の手のひらが、私に希望を齎してくれる。
「……傍にいていいの?」
「いいよ。いてよ。いてくれないと僕が困る」
 ささやくような五条の返答によって、とびきり切なくてとびきり甘い感情が湧き出てくる。夜明けを控えた湖に広がっていた薄靄が一斉に打ち払われた。眠れる静淵に小鳥が囀り、草葉の生きる音が鳴り、そうして朝がやってくる。
 最後の答えを示そうと、五条の背中に手を回して抱き締めた。広くて背骨の出っ張った背中。今はもう可視化されない、見えない傷痕で埋め尽くされた背中。たくさんのものを背負ってきた五条が私も引っくるめて必要としてくれるなら、恐れるいつかは来ないかもしれないし、訪れてもどうとでもなるのかもしれない。そう信じさせてくれるちからがある。だって五条は最強で、その意思を誰にも曲げられない不可侵の領域を擁するひとだから。
 ぽつぽつと街を彩る灯火が姿を消してゆく。夜の街が眠るとき、そう遠からず朝がやってくる。すべての邪悪を断ち切る朝日が差し込んだとき、きっと五条の相貌は殊更輝きを浴びて、いつもと変わりない笑顔を私に向けてくれる筈だ。


2020/11/15 「Joyous!」寄稿
2022/01/09 再掲