panorama
 背中をさする指先は、仄かな安堵を募らせる。鼻孔を擽る甘い香りは、理性を攫っていく。覚醒していたい本望に対して、降り立つ睡魔は実に反抗的だった。転げ落ちるように、意識は傾斜の一途を辿っている。僕の右脇に感じる温もりを抱き寄せながら、うっとりと重たい目蓋の幕を閉じた。
 もう朧気に霞んでいる過去の記憶が、その日は鮮明に蘇った。既視感があったからかもしれない。いつかの日、僕達は血も心も身体も酩酊していた。寮の一角で、まだ法律で許されていなかったアルコールを初めて口にして、ひたすら乱痴気騒ぎに明け暮れていた。その惨状は今の自分からすれば目を覆いたくなる有り様だった。酒気に耐性がないと知ってしまったからこそ、余計に。
 酒に溺れた過去の僕がようやく平常心を取り戻しかけたとき、その隣には彼女がいた。背中を撫ぜる指先の優しさも、首筋から漂う香りの甘さも、今と何ら遜色ない。純真なふたつの瞳が僕を覗き込み、そしてたおやかに緩んだ。
「あ、目開いた」
「……
「良かった。もう気持ち悪くない?」
 不安そうに垂れ下がっていた眉が開かれる。は密着していた身体をわずかに離して、代わりに汗で濡れた額をハンカチで拭ってくれた。その動作を経て、ようやく僕は現状を理解し始めていた。
 ここは傑の部屋のトイレだ。本来ひとりで用を足すべき場所にとふたり、便器の前で蹲るようにしてすし詰めになっている。理由は明白だった。アルコールをうまく分解できない肉体が、過剰な飲酒によって不調を来してしまったのだ。そんな体質だと露ほども知らない僕は浴びるように缶ビールを呷り、気付いたときには同期であるに支えられながらトイレに引き篭もっていた。嘔吐きながら吐き出した胃液が虚しく便器の水と混ざり合っている。この情けない醜態を否が応でも突き付けられて、更なる頭痛を引き起こしそうだった。
 背部に居残っている微かな温もりが、ずっとが僕に付き添ってくれていた実感を連れてくる。自分のキャパシティを弁えずに悪酔いした男を介抱するなんていう、楽しくも面白くもない時間だった筈なのに、彼女は何の混じり気もない心配を湛えている。好きな女の甲斐甲斐しい献身を受けて、胸が熱くならない男がいるんだろうか。いないだろうな。未だ酔いの抜けきらない頭で、愚かしい自問自答を繰り広げていた。

「うん。水持ってくる?」
「好きだ」
 その挙げ句にこれだから、もう手に負えない。の気遣いを鼓膜から鼓膜に直通させて、手前勝手な告白を押し付けていた。
 膨張した思いの丈を一気に放出した反動なのか、僕の全身には桁違いの眠気が蔓延していた。の反応を窺うことも捨て置いて、彼女の肩を寝床にしてちゃっかり額を寄せてしまう。心地良い。でも、頭は重い。ついでに、廊下で聞き耳を立てていたであろう傑と硝子の野次馬めいた笑い声が煩わしい。そんなことに神経を割く余裕すらなく、僕は間もなくして微睡みの中に落ちていった。
 再生されていた記憶はそこで閉幕した。人間は大抵ネガティブな生き物だ。どれだけ極上の幸せな記憶であっても、痛ましく惨たらしい記憶に上書きされていく運命にある。当然の摂理と言えども、やるせない。これじゃ宝ならぬ記憶の持ち腐れだ。
 視界が開かれる。過去の情景と違って、僕の目下にはくすんだ色のコンクリートが広がっていた。白く光る粉雪が、音も立てずに地面に吸い込まれていく。僕は戸惑った。未だ過去と現在が混在している脳内では情報が処理しきれない。
「悟。歩けそう?」
 ただ、その一声だけで、僕の意識はいとも容易く覚醒へと導かれていく。
 脳内の靄が晴れ渡って鮮明になった。酒気と眠気が一辺に吹き飛んで、自然と今日ここに至るまでの過程を辿り始める。あれは内輪で開催された飲み会でのことだ。普段ならばソフトドリンクで喉を潤すところだったのに、つい弾みでアルコールに口を付けてしまった。それが運の尽きだ。皆まで言う必要もないだろうが、結論から言えば僕は思考も呂律も回らないほどべろんべろんに酔っ払ってしまっていた。酒で失敗するなんていつぶりだろうか。最悪な気分だ。でも、この後先考えない体たらくを憎みきれない要因が、ひとつだけ存在する。自分の身長を優に超える大男を必死に支えている、右脇のこの愛くるしい小動物のような存在だ。
 視界の裾に現れたの小さなこうべは闇夜の雪原を彷彿とさせた。わずかに降り積もった雪が暗色の髪とぼんやりした明暗をつくり出している。寒空の下、店を出てこんなになるまで彼女は僕を介抱して、帰路に就く手伝いをしてくれていたのか。あの日の幸せな既視感を噛み締めながら、ぐっとに寄り掛かった。
「歩けない」
「えぇ……。マンションもうすぐそこだよ」
「むり。がチューしてくれないと何にもできない」
 つくづく僕も性格が悪い。の意表を付くことで、彼女のいじらしい反応を引き出そうと目論んでしまう。どんなに彼女の優しさを摂取しても、こればかりは別腹なのだ。
「好きだよ、
 コートの上からでも細い腰を極限まで抱き寄せて、淡い温もりを感受しながらそう囁いた。ぴくりと跳ねる肩を見逃さない。は、朝日を映し出す水面のように、見開いたまなこを静かに揺らした。耳から頬にかけて朱色に染まっていく様相は、正しく僕が期待していた反応だった。ついつい口元が弛んでしまう。やがて、のかんばせは驚愕を経て膨れっ面に行き着いた。
「……ばかじゃないの」
「そうかも」
「酔ってるし」
「気持ちは素面だから」
「やっぱりばかだ」
 のむず痒そうな表情が、弱々しく覇気のない声が、どんな悪態をついていても決して本気で怒ってはないと示唆している。かわいくて愛しくて、そしてかわいそうだ。僕みたいな不真面目なくせに嫉妬だけは人一倍の男と同期になってしまったばかりに、こうしてまんまと付け込まれている。素行はともかくとして、心は誠実なつもりだけど、それでも面倒な恋人には違いないだろう。それを承知の上で、もうとても彼女を手放す気になんてなれないのが少しだけ心苦しくもある。本当に、十数年を共にしてきたのだから、今更な話だ。
 都内の高層ビル群の中でも一際高く聳え立つマンションに辿り着き、僕達はエレベーターの中へと滑り込んだ。骨まで凍てつきそうな寒気にようやく別れを告げられて、ほっと息を吐いた。
「さっきさ、昔の夢見てた」
「昔?」
「そ。僕が酔ってに告白して、暫く目ぇ合わせてくれなかったときのこと」
 見上げてくるの黒目が点になる。ぱちぱちとまじろぐと、ばつが悪そうに彼女は唇を尖らせた。
「……あれは悟が悪い」
「自覚してるよ。もう酒飲むのはやめようって学んだ」
「学んでないじゃん……」
 十中八九、今日の失態を指しているのだろう。呆れたような溜め息が空中に霧散する。の目蓋は眩い光を直視しているときのように、微かに震えていた。彼女もあの日に思いを馳せて、過去を見つめているのだろうか。そんな気がした。
「でも、良かったよ。あの日のこと思い出せて」
 零れ落ちた呟きは本心だった。今日ばかりは、酒に溺れるのも悪くなかったと、素直にそう思えた。との微笑ましい触れ合いを思い出せたのもそうだけど、累積して掘り起こすことさえ困難を極めていた、幸せな記憶を手繰り寄せることができたのだから。未だあの頃は世界を何も知らない若造だったけど、だからこそ心から楽しかった。目の前には同期の背中があって、後方からは後輩が駆け寄ってきて、それに隣には――親友がいた。あいつも笑っていた。僕にとって都合の良い虚像かもしれないけど、それでも、そういう過去があったと信じていたい。
 僕が纏う神妙な雰囲気を悟ったのだろうか。はそわそわと落ち着きがなくなって、気遣わしげな視線を送り始める。そして、突然背伸びをしたかと思えば、僕の頬に柔く唇を押し当てていた。
 不意打ちのキスは感慨に耽らせてくれる余裕も与えてくれず、その感触さえも足早に去ってしまった。ぽかんと唇を広げてを凝視する。彼女は面映ゆそうに両手で顔を覆っていた。
「……ってば大胆。そんなにやらしいことしたかった?」
「ちっ違…! 悟が言ったんでしょ、その、キ、キス……」
 つまり、をからかうためだけに捻出した願望を叶えようとしてくれたらしい。僕には勿体ないくらい、健気な恋人だ。そのありがたみを享受して、目一杯愛しのを抱き締めた。
「ありがと。元気有り余ってきた」
「……ん」
 冗談みたいな話だけど、が傍にいてくれるなら何だってできる気がしてくる。惚気にしたってもっと現実味を帯びた内容にすべきだろうが、本当にそうなのだから仕方ない。
 エレベーターの扉が開かれて、僕の部屋まで後数歩で辿り着く。足が急く。心が勇む。をとことん堪能したくて、僕は悴んだ手で勢いよくドアノブを捻った。


2021/12/07 誕生日おめでとう!