プロミス・ドルチェ
 心地良い微睡みに沈んでいるときほど至福の一時もないけれど、それ以上に失うには惜しいものがある。
 澄明な朝日の気配がして、次に馴染んでいた温もりが逃げていく感覚があった。そして徐々に睡魔が引いていく。未だ気怠い身体を捩って、懸命に腕をばたつかせた。しかし、指先に引っ掛かるものは何もなく、虚しい空白だけが横たわっている。私の全身を包み込んでいた筈の肉体は疎か、その片鱗にさえ辿り着かない。この動作ひとつで、怠惰を貪って視覚を遮断していては埒が明かないと判断した私は、やむなく目蓋を抉じ開けて夢の世界を放棄した。
 霞む視界で、キングサイズのベッドから遠退いてドレッサーの前に腰を下ろす彼を捉えた。惜しみなく曝されていた素肌はワイシャツですっかり覆い隠されている。汗が滴って無造作に貼り付いていた前髪も、今はもう普段の比率に整っていた。仄かな明るさが侵食し始める一室でも、手首に巻き付けたシルバーの腕時計は殊更輝いている。後はもう、背広に袖を通してサングラスを掛けてしまえばいつもの七海建人のでき上がりだった。
 現実が輪郭を帯びていけばいくだけ、私の心は毛羽立っていく。不服だった。だって、私は依然として丸裸の状態でだらしなくシーツに寝そべっている。七海に求めて求められた激情の一夜を思い返しては身体の奥底がじんわり熱くなっている。けれど、彼は日常に戻りたくて堪らないとでも言うように、さっさと身支度を済ませてしまった。ホテルを手配したのも腕を引いて導いたのも七海の方なのに、そんなの身勝手であんまりだ。
 溢れんばかりの不満を視線に乗せても七海は気付かない。それか、気付いてないふり。正攻法を諦めた私は宙に視線を彷徨わせた。徘徊を経て目に留まったのは、サイドテーブルに置かれたサングラスだ。珍妙なフォルムなのに不思議と愛着がある。妙案が浮かんだ私は、手を伸ばしてフレームの縁に指先を引っ掛けた。こっそり奪い去って七海の出方を窺ってやろうと、あわよくば困って部屋に留まってくれたらと、そんな微かな期待を指先に託す。功を奏して強奪には成功したが、私の奇怪な動きを彼が見過ごす筈がなく、すぐに追っ手が立ちはだかった。照明の光源を遮って、巨大な影に覆われる。ふたつの筋骨隆々たる腕がベッドに沈んで、私を取り囲んでいた。
さん」
 ベッドに組み敷かれたような体勢は昨晩を彷彿とさせるのに、七海の声色と表情は似ても似つかぬものだった。悪戯っ子を諭す大人のような冷静な目付きが肌を刺す。見つめられただけで脳内が沸騰しそうだった、あの激情に駆られた双眸はどこにもない。それが今の私には悔しくて堪らない。サングラスを胸元に抱え込み、手足を丸めて絶対に譲らないという意思を固めた。
「やだ、返さない」
「子どもですか」
「七海の方こそ、大人ぶっちゃって」
 稚拙な憎まれ口を叩いて、反抗がてら七海の太腿を柔く蹴り上げる。足裏に鍛え抜かれた筋肉が伝わるだけでびくともしなかった。巨大な岩石を相手に相撲を挑んでいるような徒労感が押し寄せる。一体どんな鍛え方をすれば肉体がこんな進化を遂げるのたろう。純粋に疑問が募りさえした。
 その不用意な抵抗と一瞬の思考の隙が仇となってしまったのだろう。気を緩めた私にお灸を据えるように魔の手が忍び寄る。ひと回りもふた回りもサイズの異なる大きな手のひらが私の足首を易々と掴み上げ、そのままシーツに縫い付けてしまった。逃亡の余地はない。覆い被さる影が濃く大きくなる。
「や、あっ」
 咄嗟に、七海の思惑に気付きはした。しかし首を捻って顔を背けようとしても既に手遅れだ。噛み付くうな食むような、七海らしくてらしくない獰猛なキスが襲い掛かった。湿った異物の感触が侵襲する。唇の隙間から割り込んでくる舌が粘膜を擽って歯列をなぞって、その度に息が乱れて声が上擦った。充満していく熱に比例して、苛烈な口付けも勢いを増していく。解放される頃には、唇はふたりの唾液で濡れて体内の酸素を貪り尽くされた後だった。
 卑怯な手口を糾弾すべく、潤む視界で七海をきつく睨み上げる。するとどうだろう。サングラスで目元を覆い隠した、正真正銘、呪術師たる七海建人が完成していた。はっとして手元に視線を落とす。両手の内側はもぬけの殻だった。どうやらキスの本命はそこにあったらしい。唖然として、再び七海に抗議の視線を送った。
「……ズルだ」
「先に反則技を出したのはそちらでしょう」
 正攻法で挑むことを諦めた私には突き刺さる駁論だった。涼しい顔で呆気なく論破されてしまうと、もう押し黙る他ない。とは言え、ここで引き下がれるわけがなかった。一夜を明かした後の平然とした七海の態度こそが引き金になったのだから、どちらが悪いかは一概に決められない。と、駄々を捏ねるしか私にはできない。
 楽観的な思想の赴くままに、私は手を伸ばした。七海が起き上がろうとする直前、ネクタイの結び目に指先を差し込む。綻びは一瞬だ。結ぶ動作は不得手でも、解く動作なら幾度も経験を重ねている。完成された七海からネクタイを剥奪するだけで、こんなにもくだけた格好になる。やっぱり、こっちの彼の方が親しみがあって愛おしい。
 心が朗らかになる私に反して、七海は額に幾つもの皺を寄せた。そろそろ本気で面倒な女だと疎まれているに違いない。でも、こうでもしないと彼は部屋を出て行ってしまうから。最後の希望をシーツと背の隙間に隠し込み、七海を見上げる。負け戦と分かっていても、手を抜く気はないという臨戦態勢だけは崩さなかった。
「今日は随分往生際が悪いですね……」
「だって、七海が何ともないって顔で出て行く用意してるから」
 覇気のない小声が静まり返った部屋に反響する。いざ理由を言葉に直してみると、我ながら何とも陳腐で子どもじみた理由だった。いい歳した恋人の癇癪に付き合わされている七海も堪ったものじゃないだろう。自己嫌悪の芽が萌え立って、申し訳なさに萎れかける。けれど、目を伏せる直前、その芽を摘んだのは目の前の彼だった。七海の口から深くて柔らかい溜め息が零れ落ちる。
「何ともないわけないでしょう」
「……寂しい?」
「寂しいですよ。さんが思っている以上には」
 胸の奥が熱くなって、直に充足感で満たされていく。単純な女だな、私って。でも、いざ言葉にされると絶大な破壊力だった。脳髄がとろけて血液が逆流しそう。そして何より安心した。硬派な気質の七海でも、私と同じように肌を重ねた夜を惜しんで温もりを手放し難いと思っている。その事実が、七海の切実な声色からありありと伝わってきて、息が詰まりそうな程嬉しくなる。
 私の上体を起こした七海は、自分の手で剥ぎ取ったブラジャーからストッキングまで、今度は一枚一枚丁寧に着付けていった。呪霊を祓って風化した傷だらけの指先が、今は私を奉仕するために動いている。されるがままの状況に、自然と頬が熱を持った。
「……次はもっとゆっくりしたい」
「そうしましょう」
「ホテルの後は銀座でモーニング食べる」
「ご所望なら、どこにでも」
 七海の手によって着替え終えた私は、最後の希望を彼の胸元に返した。やっぱり結うのは下手くそだ。幾ら試行を重ねても均衡な長さになってくれない。けれど、七海はこれで十分だと言いたげに口元に微笑を乗せた。
 朝日に急かされて、優雅とは程遠い一日が始まる。日常に戻る前のおまじないのように、また七海は優しく唇を重ねた。

2021/07/03 誕生日おめでとうございます!