Nocturne Op.9-2
 折り目正しい彼女の人生を模したような、整然とした旋律だった。一糸も乱れることなく、正確な音階を辿って楽音が紡がれていく。その優美な音色は、秋の夜長を彩るには最適だった。――ピアノの音が響き渡るこの場所が、禪院家でなければの話だが。
 一枚の壁を隔てた先、書斎にまで洩れてくるその音が直哉には堪らなく煩わしかった。本棚から抜き出そうとしていた書物を押し戻し、きつく目を瞑る。視覚を遮ったとて、寧ろ聴覚は活性化するばかりだ。旋律に乗じて、眼裏には満月を背にして演奏に耽る女の情景が広がっていく。目を伏せた彼女の睫毛がなよやかに震え、グランドピアノ越しに両肩が柔く、時に激しく上下する。その見目形が脳髄に焼き付いてしまう前に、直哉は目蓋を持ち上げて強引にその光景を追い払った。不満で滾る血潮に駆られるようにして、埃立つ書斎から早々に立ち去る。行き先は目と鼻の先だった。
 仄暗い隣室では案の定、ピアノの前にが腰掛けていた。月明かりに染まる横顔は、脇目も振らずに精魂を傾けている。彼女の指先によって本来の魅力を引き出されていく巨体は、歓喜に満ちる音を奏でた。味気なかった無音の空間がぱっと華やぎ、色付き、温度を持つ。終盤に向けて加速する主役の見せ場のようだった。目映いスポットライトがに集中する。そういう錯覚を抱く。直哉は舞台袖で指を咥えて眺めるだけの端役のような、強烈な疎外感を覚えた。口唇の端が歪む。美しく仕上がった作品を提示されて称賛するではなく、粗探しをして揚げ足を取るのが禪院直哉という男だ。嘴を容れようがない完璧な演奏であっても、内なる破壊衝動に突き動かされる。かき乱して、引っ掻き回して、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。直哉は憚ることなく足を踏み出した。我が物顔で突き進み、の後方で立ち止まる。その背後から勢いよく拳を鍵盤に叩き付けた。個の生命体のように駆け回っていた十本の指はたじろぎ、ぴたりとその躍動を止める。洗練されていた音調に余分な音がいくつも上乗せされ、そこで初めて室内に不和が生じた。
「下手くそが」
 唾棄的な直哉の呟きが、不調和の余韻と重なり合う。は緩やかにまじろぎながら首を擡げた。互いの視線が意図せず結ばれる。一方は純粋に疑問を抱き、一方は目に見えて嫌忌の念を宿していた。両極端なまなこがぶつかり、双方の意思を押し付け合う。水面下で勃発した勝負を制したのはだった。
「ごめんなさい。響いてましたか?」
 ピアノに傾いていた身体を立て直し、は真正面から直哉と向き合った。切れ長の鋭い眼光に射抜かれても尚、穏やかに澄んだ面持ちをしている。直哉の喉元がかっと熱くなった。の華奢な肉体に見合わない強靭な精神を見せつけられる度に虫唾が走る。沸き立つ嫌悪感を隠そうともせず、直哉はわざとらしい悪態を続けた。
「あんな不協和音、よう人に聞かせられるなあ。随分と偉いご身分になったやん」
「少しだけ調律してたんです。まさか直哉さんがいたなんて」
 は眉尻を落として薄く笑った。人を欺くなんて到底できそうにない純朴な顔をしながら、平然と嘘を連ねている。直哉にはお見通しだった。あの完成された極上の旋律が、ただの調律で済ませられる筈がない。当たり障りのない適当な言葉を並べて、言及を遠ざけようとお茶を濁しているのだ。ピアノには精通していなくとも、うんざりするほど隅々までに精通している直哉なら勘付いて然るべきだった。
 は、禪院家と古くからのよしみである家の実娘だ。初代当主の代に築き上げられた縁が、細く長く現代まで保たれている。当時ほどの懇ろの付き合いはなくとも、互いに宗家の屋敷を行き来して会食や団欒に興じる機会は少なくなかった。直哉がの存在を認識したのは丁度十二歳になったばかりの頃だ。そのときの直哉は、家で開かれた恐ろしく退屈な会合からこっそり抜け出し、宛のない漂流に繰り出していた。人目を忍んで未踏の地を彷徨い歩くのは、幼心をくすぐる冒険譚のようでもあった。漲る好奇心のまにまに歩を進める。そうして、直哉は屋敷の一角でひとりの少女を目撃した。彼女の指が織り成す繊細でいて大胆な旋律とその弾き手に、巡り会ってしまったのだ。
 率直に言ってしまえば、直哉にとってその演奏はただのきっかけに過ぎなかった。無邪気に関心を寄せて、清澄な音色に引き寄せられたのもその日が最初で最後だ。何より直哉を惹き付けたのは、高雅な美を滲ませるの容姿だった。扉の隙間から彼女を盗み見たときの、稲妻が走ったような衝撃に酩酊した瞬間を覚えている。牡丹柄の鮮やかな着物に見劣りしないのしっとりとした横顔が、目に焼き付いて離れなかった。
 その日のふたりはひとつの言葉も交わさなかった。片方が一方的に姿を見留めただけだ。けれど、思いがけずの存在は直哉の心の縁に引っ掛かった。それは直感のような、興味のような、本能のような。言語化できない感情に心臓を穿たれ、突き動かされた。そうして数年後、直哉はを禪院家へと引き入れた。正妻すら迎えていない少年が権威に物を言わせ、強欲な我儘を押し通し、妾のような立場として彼女を囲い入れた。あまりに封建的で非近代的なやり方がまかり通ってしまうのが、この禪院の、ひいては両家を結ぶ歪な繋がりの恐ろしいところだ。は顔も知らない男に生涯尽くす義務を背負わされ、悲嘆に暮れる暇さえ与えられずに禪院家の門戸を叩くことになった。
 女という性別に属して生まれたからには、男を立てて三歩退くべきだと直哉は常々思っている。時代錯誤も甚だしい男尊女卑の姿勢は、禪院家に根付く風習に鑑みれば妥当であった。術師ならば才能を、女人ならば慎みを重んじる。物心が付くより前から口を揃えた大人達にそう叩き込まれてきた。会話を交えてすらいないを見初めたのは、理想的な淑やかさと扱いやすそうな素朴さを纏っていたからという何とも浅薄な理由だ。ピアノなんて音が鳴るだけの無機物は至極どうでもよかった。人生を彩るでも豊かにするでもなく、術師としての地位と名誉のためだけに、懐柔しやすそうな女の腕を引いた。それだけだった。
 けれど、たったひとつ、直哉には決定的な誤謬があった。が恭しく清純な淑女を象っていたとしても、内面までもが従順に寄り添う女ではなかったということだ。
 常春のような微笑みが虚偽で飾られている事実を理解するのに、そう時間は掛からなかった。は直哉に歯向かうような真似はしなかったし、機嫌を損ねるような失敗も犯さなかった。しかし反面、心は堅く閉ざされていた。もう片手では数え足りないほどの年月を直哉の傍らで過ごしても、は籠絡される様子は疎か気を許す気配も一向に見せない。虚飾ばかりの笑顔だけが巧みになっていく。そうして、増幅していく直哉の苛立ちにとどめの一打を与えたのは、物置部屋で埃をかぶっていたグランドピアノだった。ある日からは密やかに物置部屋に忍び込み、鍵盤の上で指を踊らせるようになった。例えるなら孤独の夜を紛らわせるように。例えるなら家での在りし日を追想するように。素気ない沈黙が横たわる禪院家に、微かな音色が溶け込んでいく。その音が直哉の鼓膜を揺らした瞬間、自尊心は砕け散り、かつてない憤りを感じた。本心を秘め続ける彼女が拠り所として選んだのが、自分ではなく声も意思も持たない無生物だった。覆しようのないその事実が不満で、もっと言えば許せなかった。荒れ狂う憤懣の暴風雨に飲み込まれた直哉は、癇癪の赴くままに部屋の扉を開いての首根を掴み上げた。
 絶望するだろうか。軽蔑するだろうか。の反応を直哉は多岐に渡って予想した。その全てに胸が膨らんだ。中でも、南極の星空のように淀みない瞳が曇って雨を降らす光景は、ここ最近で一番に高揚した。に蔑まれようが愛想を尽かされようが、彼女の隠された本心を暴き出せるのなら願ったり叶ったりだとさえ思っていた。けれど、際限なく高まり続けた期待はそこで打ち止めになった。は涙の一粒も落とさず、それどころか眉を顰めることも唇を歪めることもなかった。完璧に設えた不壊の笑顔を、余すことなく直哉に差し向けたのだ。どうかしましたか、なんて白々しい疑問を宙に漂わせながら。
 あの瞬間を経て直哉は半ばやけくそに匙を投げた。諦めが付いたのだ。胸襟を開く心積もりもなければ、直哉の意のままに動くつもりも毛頭ない。そういうの強かな人間性を垣間見て、正直萎縮してしまっていた。当時は厄介な女を招き入れてしまったものだと心底後悔したものだ。けれど不思議なことに、手放す気は微塵も起きなかった。次期当主候補でありながら女一人に難儀している体たらくを晒すわけにいかなかったと言えばそうだし、己の一存で家と確執を生むわけにいかなかったと言えばそうだ。を傍に置いておく理由なんて探せば幾らでも見つかった。
 しかし、事情や経緯がどうであれ、直哉は自分の意思でと共生する方向に舵を切ったのだ。
 今日も今日とて、つぶらな瞳は穢れを知らない無垢な体裁を整えている。齢を重ねるごとに色香を得ていく直哉好みの造形。しかし、この表情の裏側を覗いてからというもの、純粋に好いとは思えなくなった。陶酔を遮るように、いつもどこからか理性が警鐘を鳴らしている。
「ホンマ、いけ好かん女」
 感情を溝に吐き捨てたような冷酷な声だった。けれど、捨て切れない情念のような執念のような何かが滲む声でもあった。直哉もまた本心を秘めて飄々と世を渡る男であり、そんな彼が人間臭く泥臭い一面を仄めかすのも、の前だけだった。
 直哉は鋭い眼光で目下を見据えた。鍵盤の上で待ちぼうけているの手のひらを易々と掴み上げる。乱暴を働くことに慣れた直哉の手では、彼女の薄べったい皮膚を骨肉ごと丸め込んでしまえそうだった。内側で疼いている憎悪に身を任せたなら、それ以上に惨い仕打ちができただろう。だから、直哉を焚き付けたのは憎悪や嫌悪ではなく、言うなれば所有欲だった。叶わないと再三突き付けられているのに、毅然とした音色と柔らかい笑顔に翻弄されて、沈めた筈の願望が浮かび上がってくる。立場を利用して縛り付けるのではなく、を心も身体もその全てを従属させてやりたいと。
 持ち上げたの左手、その細長い薬指に照準を定める。直哉は長い舌を巻き付け、唾液を滴らせ、その獲物を口内へと招き入れた。想像を凌駕したのだろう、さすがのも目を瞠ってたじろいだ。生々しい粘膜が密着する。分泌された体液が裸の指を隈なく汚していく。思わず指を引っ込めそうになるだったが、俄然直哉も譲らなかった。有無を言わさない力で脆弱な抵抗を往なし、奥まで引き入れる。そして、勢いよくその付け根に歯を付き立てたのだ。
 一瞬の激痛と尾を引く鈍痛が、否が応でもに現状を運んでくる。噛まれた。それも甘噛みなんて生易しいものではなく、肉を引きちぎり骨に突き刺さりかねない勢いで。ようやく解放された薬指には、きれいに並んだ歯列の痕が刻まれていた。くっきり窪んだ咬傷は目を背けたくなるほどに痛々しい。痛覚は悲鳴を上げることすらできずに悶絶している始末だった。

 彼女の肉体を痛め付けた張本人が声を潜めて囁く。木綿に包まれたような優しい声色が、却って今は底知れない。習性とでも言うべきか、果てしない痛みに支配されていてもの鼓膜は簡単に直哉の声を拾い上げた。
「もう二度と弾けへん身体にしたってもええんやで」
 朦朧とする脳内でも、その言葉の意味は反芻するまでもなく理解できた。今のは手加減だと。ピアノを弾くのに必要な手指を根こそぎ噛みちぎるなんて造作もないと、そう暗喩しているのだ。
 狼狽して光を揺らすの瞳に、直哉は確かな充足感を得ていた。湿りを帯びていく表情に背骨が震える。その様相を引きずり出したのが他でもない自分だという事実に、口角がつり上がる。堪らなかった。例えいっときでも、肝の据わった難攻不落の女をかき乱すことに成功した。舌なめずりをして、直哉はその極上の愉悦をたんまり味わった。
 名残惜しそうに直哉はの指を舐め回し、噛み跡に口付けを落とした。カーテンの隙間から差し込む月光が、艶やかに指を照らし出す。唇が糸を引いて離れても尚、根本の痕跡も侵襲する痛みも、まるで呪詛のように延々と絡み付いたままだ。忘却を許さないとばかりに、指先の神経を刺激してくる。
 くっきりと残る噛み跡は、陳腐な愛を落とし込む誓いの指輪に擬態していた。いつか薬指からこの指輪が抜け落ちてしまっても、は今日この日を忘れられないだろう。そうであれば良い。直哉の期待に似た想像が膨れ上がり、一段と鼓動を速くさせた。
 満月のみぞ知るふたりの邂逅は、そこで静かに幕を下ろした。


 行き場を失くした枯れ葉が宙を舞っていた。地面には同じようにして路頭に迷った数多の成れの果てが横たわっている。しかし、その輩だけは必死に抵抗して生き延びているようだった。藻掻いたところで結果は変わらないのに。季節が秋から冬に移り変わる手前、落葉の無情な結末なんて誰もが分かりきっているし、それに反抗しようと奮い立つ者は一人としていないだろう。
 縁側に腰掛けていた直哉は手を伸ばした。ひらめく葉を手のひらにおびき寄せる。そして、瞬きも許さぬ速度であっという間に握り潰してしまった。ぐしゃり。粉々になった無惨な残渣が、指間から溢れ落ちていく。
「見てくれのええ内に死んだ方が幸せやろなあ」
 晩秋の象徴を捉えて不意に出た言葉が、皮肉の形を縁取っていると気付いたのはすぐだった。直哉が息を呑むより先に、後方から鈴の転がるような微笑が漂ってくる。幾度も耳にして鼓膜が覚えている筈の声。それなのに、記憶の中のものよりも弱々しく、生気が削ぎ落ちたような印象を与えた。
 ちろりと、直哉が背中越しにばつの悪そうな視線を送る。布団に身体を横たえたが、珍しくいじらしい気配を悟って目を細めた。
「我ながらしぶといなって思います」
「……誰ものことや言うとらんやろ」
「本当に? それは失礼しました」
 ちっとも悪いと思っていないのに、表面上は悪びれている様子を醸している。変わらないの小賢しさと巧みな演技が、いやに懐かしく、直哉の胸を掻き立てた。
 あれは今から数ヶ月前、直哉が京都を離れて遠方の任務に赴いた直後のことだ。突然が倒れ、病が発覚してから直ちに家に送り返されたのは。直哉が帰路に就く頃には、彼女に与えていた私室はもぬけの殻になっていた。の淡い残り香が染み付いた一室で、唖然としたことを覚えている。
 禪院家当主の直毘人や家人達の性格に鑑みれば、呪術に秀でた才能もなければ側室としての価値もなくなった女を、のうのうと屋敷に住まわせる筈がない。これ幸いとばかりに相応の理由に託けて部外者を追い出した。結局のところ、を次期当主候補の我儘に付随していた小娘程度にしか認識していなかったのだ。驚愕するまでもなく分かりきっていたことだ。そんなくだらない他人の下馬評は至極どうでも良かった。何より直哉の心を落ち着かなくさせたのは、問い詰めた誰もが口を割らなかった、の病態についてだ。わざわざ術式を駆使してまで性急に家に向かい、汗だくの形相を隠す間もなくの元に通された。襖の向こう側、床に臥して目蓋を下ろすに直哉は言葉を失った。あの日から、青白い皮膚に包まれてぴくりともしない彼女の姿が、どう足掻いても脳内から立ち消えてくれない。
「どうして来て下さるんですか?」
 過去が遮られる。の悠然とした問い掛けが、直哉の感傷をわずかに和らげる。細切れになって見る影もなくなった枯れ葉を払い落として、溜め息を溢した。
 肝の冷える局面を迎えたが、あれから奇跡的には存命している。それでも、彼女の浅い呼吸も窶れた頬も、もう長くはない余命を確かに示唆していた。いつかに怯えて、は実家の一室で療養の日々を送っている。そして、直哉は禪院の意思に背くように度々彼女の元に訪れていた。
 あんなにも面倒な女だと疎んでいた。ピアノの音を不愉快に感じていた。屋敷からの存在が消え失せることで得る利益は大層大きかった。それなのに、こうも甲斐甲斐しく足を運んでまでの気配を背に受ける理由は何だろうか。思案するより先に、直哉は自然と鼻先で笑っていた。
「考えてもみいや。そっちの家と仲悪うなって睨まれるんは俺やねん」
「そんな機嫌取りみたいなことしなくても。両親は直哉さんに非があるとは思ってないです」
「……実の娘連れ去られて、かと思えば放り出されて。何も思わんことないやろ」
 思いの外温情をかけられた返事に、は目を丸くした。やがて瞳が緩やかな弓形を描き、あどけない笑い声が響き渡る。遠慮の欠片もない図太さには寧ろ安堵が募りさえした。けれど、己の容態とまるで見合わない明るさが、秋とは正反対の春を彷彿とさせる陽気さが、ひとたび強風に煽られたなら儚く吹き飛んでしまいそうで恐ろしくもなった。
 雑談に花を咲かせるような親睦も深めていないふたりは、会話が途切れた先の沈黙にも慣れたものだ。秋風に揺られる葉擦れの音があわいに浸透していく。懸念があるとするなら、それは時間の猶予だった。予定の合間を縫って家にやって来た直哉は、じきに宗家の会合に顔を出さねばならない。悠長に時間を潰していられるほど、直哉は暇を持て余していないし、の体調も芳しくはない。引き際がすぐそこまで迫っていることを、互いに自覚していた。
 先に行動に移したのはだった。神妙な面持ちに切り替わる寸前の、甘く切ない情熱を噛みしめるような表情に、目が釘付けになる。知らずの内に直哉は喉を引き締めていた。
「ひとつ、直哉さんに隠していたことがあって」
 控えめに切り出したに、ひとつどころではないと苦言を呈したくもなった。この軟弱な身体に、一体いくつの本音を隠し続けてきたのか。この際洗いざらい吐露させてやりたくなる気持ちもあったが、直哉は唇に鞭を打って大人しく耳を傾けた。
 透き通る秋麗を刺すような強風に、大量の枯れ葉が散ってゆく。反射的に目を瞑った直哉の耳介には、信じられない話が雪崩れ込んできた。
「私、ピアノ弾くのあまり好きじゃなかったんです」
「……はあ?」
「お稽古も発表会も何もかも……そういうのに縛られて弾くピアノって全然楽しくなくて。大事な発表会の前日なんて、夜通し練習させられて……」
 今度は直哉が目を丸くする番だった。信じられない。信じられる筈がない。何せその暴露は直哉が目にしてきた情景も、耳にしてきた旋律も、その全てを根底から覆すものだったから。けれど、従順な装いに長けるの本質を見極めていれば、目から鱗が落ちたような心地にはなる。気に掛かる事象はひとつ。直哉の世界にという存在が介入してきた、あの日のことだ。会合にも出席せず好んで鍵盤を叩いていたのではなく、両親の手前いい子を演じて昼夜問わず練習に励んでいたのだろう。あの旋律に引き寄せられたもののすぐに興味を失った直哉にとって、純然たる音色がどんな矛盾や葛藤を孕んでいたのかなんて、知ったことではなかった。あくまできっかけだったのだ。例え渋々音を奏でていたとしても、気高く見据える横顔は紛れもなくのもので、本物だった。
 思い返してみて腑に落ちた部分もあるが、どうしても納得できない箇所も残る。ピアノから開放された筈の禪院家で、何故再び鍵盤蓋を持ち上げようという心理に至ったのか。その一点に関して、直哉には全く見当が付かなかった。訝る彼のまなこを絆すように、は微笑を洩らした。
「ピアノは嫌いだったけど、好きな人を運んできてくれるんです」
 柔らかい声が空気を震わせる。重苦しかった無音の空間がぱっと華やぎ、色付き、温度を持つ。
 やっと分かった。目の当たりにした事実に、直哉は呼吸を堰き止めた。聞き分けの良い女を演じて壁を隔てていたの、分かりにくいサイン。夜を編むような美しい旋律は、直哉をおびき寄せようと練られた緻密な作戦だったのだ。血相を変えて詰められてでも、胸倉を掴まれてでも、こちらを振り向いてほしいという願望。あの演奏に乗せられた意図を噛み砕いた途端、直哉は思わず項垂れていた。
「……素直さと謙虚さが足らんねん」
 どうして、今になって。内側を埋め尽くす疑問の解など、誰に問わずとも何に頼らずとも導き出せる。後がないからだ。の人生の道筋を辿っていけば、今が終盤に差し掛かった頃合いだということは第三者からみても明白だ。秘め続けていた思いの丈を最後に白状しようとする、彼女の計算高い小賢しさは離れていても健在だった。
 その強靭な精神だけではなく、肉体も健在でいてほしかったと、そこで直哉は初めて気付いた。自覚した。ぶち撒けた所有欲の正体。膨れ上がった憎悪の正体。いずれの根底にも、少なからず恋慕が眠っていたこと。育ちきらずに朽ち果てるだけが末路の、愛情が芽吹いていたこと。気付いてしまった。
「直哉さん」
 微かな呼び声が直哉の胸を穿つ。重たい首を擡げて虚ろな目を向けると、仰向けのは天井に向かって手を掲げていた。左手、その薬指。視線の照準となっている指にはもう何の痕跡もなく、きれいな皮膚へと生まれ変わっている。もちろん、あの日の誓いの指輪も跡形もなく。
 きれいな流線を描くの唇が、その薬指を引き寄せてキスをした。名残惜しそうに、噛み締めるように、そして愛おしそうに。ただでさえ血液の循環が激しさを増していた直哉の肉体が、一層熱くなった。
「本当はピアノを弾けなくなってでも、貴方の傍にいたかった」
 流れ打つ血液が加速して心臓を轟かせる。夥しい数の細胞がわななく。歓びに似た苦しみに打ちひしがれる精神に共鳴して、肉体までもが藻掻き苦しんでいる。直哉の険しい相形に、は満足そうな吐息を洩らした。
 最初に幼稚な呪いをかけたのは直哉だった。ピアノを弾けない身体になって、傾倒する対象を自分にすげ替えれば良いという浅はかな所有欲。まるでその意趣返しのように、に呪いをかけられた。彼女は最期に愛を吹き込むことで、直哉に逃れられない呪縛を植え付けたのだ。
 冬だった。桜色の息吹を感じることなく、透明な銀世界に囲まれて、弱冠二十の若さではこの世を去った。


 真夜中になると途端に目が冴えて覚醒する。各地を飛び回って術師稼業を努める合間に実家に帰ると、そういう事象が決まって起こる。今日も直哉は布団を抜け出し、密やかに私室を後にした。
 居間に飾られるようになったピアノは、が使っていたものではない。旧来のピアノは彼女の死去後に具合が悪くなり、遂には音が出なくなった。今は物置部屋の隅に追いやられ、埃を被っている。直哉が向かったのは当然ながら物置部屋だった。扉を開いた矢先、肌に張り付く汚れた空気を着物の裾で追い払う。目視で探すまでもなく、ピアノの在り処を直哉はしっかり把握していた。
 鍵盤蓋を開き、中を覗く。外壁に守られていたその白色だけは、見事な光沢を放っている。ひとつ、直哉は試しに指先で鍵盤を叩いた。広がったのは夜更けの無音と、彼の内側を巣食う虚無だけだ。
「下手くそやなあ」
 今も直哉の鼓膜の奥ではが奏でる旋律が流れている。優美で、端正で、折り目正しい音色。幻聴に過ぎない。そう頭では理解していても、心身に染み付いた性なのか、夜な夜な足を運んでその存在を探してしまう。直哉はつい失笑していた。自分に不似合いな健気さが愚かでならなくて、けれど一周回って可愛らしくすらある。幾度も自嘲的な微笑を吹き溢した。
「ピアノなんか弾いとらんと、姿見せてや」
 天邪鬼、と呟いた言葉が巡り巡って直哉自身に追い打ちをかける。滑稽だった。その情けない姿こそが、きっとが望んでいた姿なのだろうとも考えて、更に笑えてくる始末だ。
 愛しい男のために弾いたピアノが、真夜中の底に溶け込んでいく。あの頃とは違って明るい色の髪を掻きながら、男は愛しい女の儚い気配を辿って目蓋を閉じた。

2021/06/08