星屑よ、あまねいて
 あちらこちらで名を轟かせる彼の有名な五条さんと私が初めて面と向かって対話を試みたのは、満天の星空が印象深い夜だった。墨汁を垂らし込んだような宵闇に散らばる無数の星屑。人工的な明度を保つ電飾よりも、絶対的な存在感を誇示する満月よりも、いっとう美しく在ろうと煌めきを放っている。とこしえの天空に遍く銀河を背景に、現実離れしたしろがね色の髪を揺らして佇む彼もまた、脳裏に鮮明に焼き付いていた。
 数少ない特級術師の中でも最強の一画を占める五条さんが、東京のしがない呪霊祓除任務に当たったのは本当に単なる偶然らしい。私と彼が追っていた呪いはそれぞれ別件だったのだが、辿り着いた元凶が同一の呪霊による仕業で、必然的に協力体制を整えて呪霊がのさばる本拠地に乗り込むことになったのだ。初めて目にした五条さんは規格外の高身長に、闇夜に溶け込む暗色を纏っていた。顔の大半を覆う目隠しも相まって、異色な人材が集う界隈でも群を抜いて奇抜さが際立っていたけれど、人となりは噂に聞くよりよっぽど普通の感性で保たれているのだと話してみて感じた。ブリーフィングも早々に切り上げてとんとん拍子で事が進み、気付けば大元の呪霊を討伐し終えて補助監督の送迎車を待つさなかであった。指定された待機場所のガードレールに寄りかかり、肩を並べて虚空を見上げていたときだ。
「何で術師になろうと思ったの?」
 五条さんの方から、徐に話題を提示してきた。それまで当たり障りのない、同僚の域を出ない日常的な会話に留まっていたことを顧みると随分と踏み込んだ話題だった。けれど特筆して複雑な事情を抱え込まない私からすれば、他愛もない世間話の延長線のようなものだ。素直にその問いに対する私なりの解答を紡ぎ出す。
「ありきたりですけど、小さい頃から呪いが視えて自分の中の呪力も術式もそれとなく分かったので」
「確かにありきたりだねえ」
「でも術師ってそういうひとがなるべくしてなるものじゃないですか? ちからを使えるからこそ使えないひとのために戦う」
 我ながら言葉にして輪郭を成すと陳腐に聞こえる了見だと思った。でも術師の本質は正しくその通りだと思う。呪いに太刀打ちしようのないひとを救うのは、対抗し得るちからを持ってして生まれ落ちた術師にしかできない役割であり、責務だ。例えそれが微々たるちからであっても、何もせず持て余すよりかは何かしら行動を起こした方が良いに決まっている。
 内に秘めていた持論を公に示したのはこれが初めてだった。しかも相手はあの五条さんだ。御三家の出自ゆえにこの世界に身を置くさだめを強いられ、誰にも代役をなし得ない卓越した能力と権力を擁するひと。そういうひとを相手に術師が何たるかを語ったところでお笑い草の語り草だろうか。今更ながら軽率に口を割ってしまったことを後悔する。しかし、もし仮に笑い飛ばされても明日にはなかったことにしてくれるだろう、と淡い願望を抱きつつ五条さんを一瞥すると、彼はそんな期待を瞬時に打ち砕く様相を呈していた。薄い唇を不機嫌そうに弓形に尖らせて、目隠しを取らずとも容易に思い描ける険しい顔付きを織り成している。五条さんのような上も下も顧みず我が道を行くひとが、私のような一介の下っ端の発言に対してこうも過敏に反応を示すことに驚きを隠せなかった。寧ろ、下っ端だからだろうか。何か彼の地雷原を踏み抜く一打があったかと、先の発言に思いを巡らせる。正答を導き出すより先に、声を発したのは五条さんの方だった。彼の声は存外、重厚で他を寄せ付けない声色を成していた。
「僕、性格悪いから。正論言われると反抗したくなっちゃうんだよね」
「……私、変なこと言いました、よね?」
「若いのに心意気は大したものだと思うよ。でも、そういうのって後々自分が苦しいだけだから」
「……?」
「呪力があるから術式があるから、誰かを助けないといけないなんて責任を自ら背負う必要はないってこと」
 五条さんは言葉の矛先を確かに私に向けていたけれど、視線は前方を見据えていた。隣にいる私なんて蚊帳の外、思考の外に追い遣るように、遥か彼方にぼんやり思いを馳せている。
 どうしてかは分からないけれど、私はそれが無性に腹立たしかった。まるで私でない誰かに、私を介して語りかけているようだったから。
 彼の唇を淡々と跨ぐ言葉も、私に見向きもしない飄々とした態度も、何もかも気に食わなかったのだ。
「五条さんは違うんですか? だって貴方は御三家のひとりで、最強のちからがあって、……だから術師になったんですよね?」
 だからつい、聞き分けの悪い子どものように反抗的な態度を示してしまった。
 五条さんくらい他の追随を許さないちからを擁したひとが、外野が何万と束になっても敵わない圧倒的なちからを持って生まれたひとが、どうして術師の生業を否定しようとするのか。どうして術師の責務から逃れようとするのか。彼と出逢ったばかりの私にはてんで分からない。理解できる筈がないし、理解しようと努力する必要性も感じなかった。
「君もいずれ分かるよ。僕がそう言った意味がね」
 五条さんはそこを話の落としどころとしたのか、私に対する物腰の柔らかな提言を曖昧に濁して終わらせた。
 決して納得できたわけではないが、これ以上五条さんから慰みや補足が紡がれたところで、強情な私の耳はそれらを享受しようとしないだろう。きっと綻びを探し出そうと躍起になる。それを自分でも分かっていたから、私は無反応を貫いて、この話に区切りをつける意志を呈した。五条さんも私が言わんとすることを察したのか、補助監督の車が来るまでの間、彼から言葉を発することはなかった。勿論、私の方からも。
 こうして、私と五条さんの出逢いは最悪な形で幕を下ろした。けれど、幸か不幸か、私と彼の不可思議な繋がりはここで途切れることはなく、再び幕が開かれることになる。
 当時の私は疎かきっと五条さんでさえ予測できなかった方向に、ふたりの間を彷徨い難航する船は舵を切っていた。


 油断とか、驕りとか、そういう自分に酔い痴れた感情とは随分前に決別した。術師として生きていく上で最も不必要で、死の淵へと一直線にのめり込みかねない感情だから。
 けれど、私が今この境地に追い詰められた原因は、紛れもなくそれらが齎した不注意から成るものだった。
 眼前で、人間とは一線を画した外形と生理的に不快な呻き声を上げるそれは、私が祓除任務にて請け負った呪霊だった。生々しい色で成る肉塊に埋め込まれたいくつもの巨大な眼球が、ぎょろりと私に視線を向ける。夥しい量の呪力が皮膚を伝って、全身の産毛が逆立った。
 これは警告だ。早く逃げなければ殺される。動物としての生存本能がそう告げている。それなのに、私の意志に反して身体は鉛が埋没しているかのようにびくともしない。それどころか、頼みの綱の意識さえ不鮮明に靄がかかりつつある。呪霊によって引き裂かれた傷の数々から溢れ出る出血量は、私の術師人生において過去最高を記録していた。瀕死の崖っぷちに立たされて、人は初めて自分の愚考を顧みることになる。
 私の愚かしい最大の不注意は、普段なら敗北しようがない階級の呪霊相手に、一般人を守りながらでも対応できると甘く見積もってしまった点だ。呪霊に襲われていた一般人を保護することに成功はしたが、迫り来る攻撃を無闇やたらに躱すことは断念せざるを得なかった。私が攻撃を躱せば、背中にひしと縋り寄る一般人がその一打を被ることになるから。術師として、ちからを持たない者を助ける生業として、一般人を見捨てたり見殺しにしたりするわけにはいかなかった。それは私の術師としての信念や人生を否定することに他ならない。
 そう、だから。ひとり分の生命を背負って戦うことも、邪念が過ぎって判断力を鈍らせてしまうことも、何もかもが作用した。悪い方向に。
 帳の中央部から外側に移動しつつ呪霊を迎撃していたため、保護した一般人を帳の外側に先に逃がすことはできた。しかし、私自身は深手を負って、後一歩のところで地面にへたり込んでしまったのだ。朦朧とする意識も相乗して、迎え撃つ余力は欠片も残っていなかった。ただ漠然と、死への恐怖が全身を包み込んでゆく。死ぬのだな、と諦めがつくとそれまで死に物狂いで抗ってきたのが嘘のように、簡単に虚脱してしまった。今までの記憶が走馬灯のように駆け巡り、目頭が熱くなる。呪霊から放たれた呪力による攻撃に、反射的にぎゅっと目を瞑ったときだ。
 暗闇が占有する視界の中、一筋の光が過ぎった気がした。同時に、肉塊がひしゃげたような歪な音が鼓膜に届く。
「大丈夫?」
 聞き覚えのある声だった。
 目蓋を持ち上げると、まず私の視界に入ったのは二本の長い脚だった。末梢から中枢へと視線を移ろわせれば、見覚えのある色素の薄い髪が風に靡いている。すべての闇を無に帰すほどの、鮮烈でいて繊細なしろがね色が、視界の中央で揺らめいていた。
 五条さんだ。
 馴染みのない後ろ姿と声だけで、私はそのひとを容易く認識した。
 私の目の前にいた筈の呪霊は跡形もなく捻り潰されていた。その上、呪霊から放たれた筈の呪力は私に届くことなく霧散してしまっている。考えられる事象はただひとつ。そんな有り得ない現象を可能にしてしまう、絶対的なちからを擁するひとは、この人しかいない。
 五条さんは指で結んでいた掌印を解くと、振り向いて私の目線の高さにまで屈み込んだ。目隠しに覆われているため、彼の内部を渦巻く感情を汲み取ることは難しい。だから内面的な部分より外面的な部分に目がいって、どこもかしこも細長い体躯は屈曲させても長いんだなぁと、当たり前でこの場にそぐわない考えが脳内を巡っていた。五条さんはそんな私の呆けた様子など気にする素振りもなく、間髪入れずに私の身体を引き寄せて、膝裏に骨太の手を回し込んだ。瞬間、重力に逆らう浮遊力を感じる。気付いたときにはもう私の身体は宙に浮いていて、自分の意思を介すことなく、五条さんに身体の自由と権限を明け渡していた。詰まるところ、抱きかかえられてしまっていた。密着した部分から伝わる五条さんの男性らしい肉感が、これは現実だと如実に語りかけてくる。両頬にかっと熱が集って、恥ずかしさの余り手足をばたつかせた。
「なっ、あの、五条さん」
「動かないで。落ちたくないでしょ」
 有無を言わさない物言いで、五条さんは私の狼狽をぴしゃりと跳ね除けた。強制力が伴うその発言に私は打つ手がなくなり、唇を引き結ぶしかない。五条さんは軽々持ち上げた私の身体をそのままに、帳の外側に向かって歩き始めた。
「たまたまこの近くで任務があってさ。そしたら伊地知から連絡があって、一般人から君が怪我して動けないって言われたって。まぁ焦ったね。間に合って良かったよ」
 常日頃の業務報告みたいに淡々と、五条さんは此処に至るまでの経緯を話してくれた。意識が散漫としている私の思考では、矢継ぎ早に紡がれる情報の数々を処理するのに手一杯で、感謝の一言さえ発することができない。それを挟む隙すら与えない速度で、五条さんは雄弁に語り続ける。
「とりあえず止血して硝子のとこ行こう。僕自分以外には反転術式使えないし。アイツ腕は確かだから、すぐよくなるよ」
 私の意識を失わせないためか、それとも心に巣食う不安を和らげようとしてくれているのか、以前会話を交わしたときよりも早急でひっきりなしに言葉を掛けてくれる。五条さんの意図は掴めずとも、この言葉の裏には初めて出逢ったときとは段違いの優しさが潜在していると理解できた。彼にとっては数多の内のひとりにしか過ぎない、ただの同僚のために現場に駆け付けてくれる。このひとが今擁しているのはそういう選別意識のない優しさだ。
 だからこそ、どうしてと思う。あの日に言い放たれた提言とはまるで乖離したこの状況と彼の心境に、疑問を抱かざるを得なかった。その理由が知りたくて、私の口は自然と開いていた。
「どうしてですか……」
「何が?」
「弱いひとは助けないって、前に……」
 私の掠れて聞くに耐えない声を、五条さんは造作もないとばかりに聞き届けて「ふむ?」と首を傾いだ。最強の名を馳せ参じる彼でも、こんな人間味のある仕草をすることに、少なからず驚いた。
 五条さんは一拍間を置いてから、突然けらけらと笑い出した。どうやら私が示唆した事象に思い至ったようだ。大口を開けて天を仰ぐ彼に、私が奇怪なことを口走ったみたいで何だか腑に落ちない。
「曲解しすぎじゃない? 責任を負う必要はないって言ったけど、責任なんて背負わなくても僕は自由に誰かを助けるってだけさ」
 暫しの間、笑い続けていた五条さんは今も吹き溢れそうになる笑みを必死に堪えるように口角をひくつかせながら、そう答えた。はっとしてあの日の会話を思い浮かべる。回顧するまでもない。何ヶ月も前の会話なのに、五条さんが言い放った言葉は私の骨身に沁み入って、ずっと脳内を掻き回していた。間接的に私の人生を否定する、強烈な一打だったから。そう思っていた。でも、今の五条さんからの返答を鑑みるに、それはどうやら思い違いの見当違いであったらしい。
 ――呪力があるから術式があるから、誰かを助けないといけないなんて責任を自ら背負う必要はないってこと。
 そのときの発言を反芻すればするほど、私の理解力ではなく五条さんの言い方に問題があったと思えてならなくなる。だってそうだろう。あんな回りくどい言い分で、初対面の彼の人となりを見抜くなんて到底できる筈がない。本来術師が持ち得るべき責務を放棄して、のらりくらりとやり過ごしていると捉えられて当然の言い分ではないか。人伝に聞く五条さんの印象は、それを裏付ける軽薄だとか剽軽だとか、そんな辛口な評価ばかりが漂っていたから余計に信憑性を増していた。
「あれだけの会話で分かるわけない……」
 自分の浅慮を棚に上げてささやかな抗議を示すと、彼は穏やかな表情で私を制した。
「だから言ったでしょ。いずれ分かるってね」
 五条さんは自分の思惑通りに事が運んだからか、自慢げに唇をきれいな半月状に形作る。完全に敗北だった。五条さんは私が彼の内面を誤認していて、早かれ遅かれその誤謬を察する日が訪れると予想していたのだろう。だから私の勘違いを正すことなく放置していた。実際、私は今日という日に痛いほど実感していた。五条さんが決して生命を軽々しく扱う性分でないこと、誰彼構わず救いを求める人に手を差し伸べる性分をしていること。自分がいかに穿った見方で彼を理解した気になっていたのかを突き付けられ、胸がじくじくと痛んだ。
「ごめんなさい……」
 正直に、罪悪感に齎された謝罪を吐露する。鼻にかかったような弱々しい声音は外界の音に掻き消されてしまったが、どうやら見上げた先の五条さんの耳には到達してしまったらしい。捉えどころのない、屈託ない笑顔が浮かんでいる。
「ごめんなさい、よりありがとう、の方が僕としては嬉しいんだけどな」
 しかし、彼は私の真剣な謝罪を軽く往なして、けろりと呟いた。その瞬間に張り詰めていた緊張はいとも簡単に解きほぐされていた。胸の痛みは跡形もなく消え去って、入れ替わるように心臓の鼓動が躍起になって鳴り響く。首の裏側がじわりと汗に濡れるのが分かった。
「ありがとう、ございます」
 素直に、五条さんが催促した言葉をそのまま吐露する。けれど、これは彼に促されたからというだけでなく、紛うことなき私の本心でもあった。定型的な礼の裏側にうんと込めた謝意が、五条さんに伝わったのかどうかは定かでない。けれど、彼は充足感で満たされたように顔を綻ばせたので私もそれで納得した。心なしか、歩幅が大きくなり足取りも弾んでいるような気がする。それに伴い微々たる振動が全身に伝ってきて、五条さんと別個体でありながら彼と同じ感覚を共有している不思議な状況に、身体の芯が痺れるような心地になった。
 五条さんは、責任や理由といった堅苦しいものに囚われることなく、自分の意思が赴くままに目の前のひとを分け隔てなく救おうとする。そんな不可能に近い空想を可能にするのは突出した才能のおかげだろうが、きっと彼はそんなものがなくとも誰かを助けようと努めるに違いない。五条さんは最強のちからを手にしているから最強なんじゃない。彼の最強たる由縁は、善良で自由な本質が根っこの部分に備わっているからなのだ。そう気付いた。
 五条悟という、莫大な光で溢れ返るその本質に一度触れてしまえば、もう私は降伏せざるを得なかった。自分の浅はかだった価値観を今更変えることは難しいが、五条さんの価値観が正しいと認めることは、そう難しいことではない。
 程なくして、生ぬるい温水のような膜が肌を滑っていく感覚と共に、帳を抜けた。徐に視線を上げると、五条さんの薄白い顔がくっきりと輪郭を成している。彼の向こう側にはあの日と同じ、数多の星屑が光り輝いていた。絵になるとは正しくこのことだろう。理想を凝固したような美しい情景に目が釘付けになり、見入ってしまう。五条さんの清らかで正しさを希求する煌めきは、暗夜に覆われた帳の中よりも、光を味方につける星空の方がよほど似合っていた。


 伊地知さんが脇目も振らず一心に車を走らせてくれたおかげで、私は時刻が回りきらない内に高専に到着し、家入さんの治療によって一命を取り留めたらしい。憶測のような物言いになってしまったのは実のところその通りで、私は車中に運び込まれた直後にぷつんと糸が途切れたみたいに意識を失ってしまったからだ。
 再び目蓋を開いて最初に見えた光景は、馴染みのない石膏ボードの天井と切れかけで点滅している照明灯という何とも味気ないものだった。薄靄が晴れない思考で逡巡するより先に、視界にぬっと現れ出た家入さんの姿によって私は現状を大凡把握した。白衣姿で髪をひとつ纏めに結った彼女は、私の容態が安定していることを確認すると、今に至るまでの経緯をざっくばらんに説明してくれた。高専の医務室に運び込まれてから十時間が優に経過し、その間私は中途覚醒することもなく死んだように眠っていたのだと言う。体内時計では目を閉じてから開けるまで刹那の一瞬のように感じていたため、時間の経過が俄には信じがたかった。しかし、自分のものでないと錯覚するほどに自由が効かず使い物にならなかった身体は、しれっと活気を取り戻している。家入さんによる反転術式の効能は勿論のこと、深い熟眠によって活力も英気も漲っていた。
 そんな私とは対照的に、家入さんは青白い肌に不似合いな隈がくっきりと刻まれており消耗している様子だ。反転術式の反動だけでなく、夜半も私に付きっきりだったが故の寝不足も原因のひとつだろう。申し訳なさで胃が絞られるように痛んだ。
「すみません……お手を煩わせてしまって」
「こんなの日常茶飯事だ。それより死体になって帰ってこられる方が堪えるよ」
 項垂れた私を気遣ってか、家入さんは平坦で単調な声でそう話してくれた。その返答は暗に「無茶な真似はするな」と釘を刺されているような気もした。実際私は自分のみならず数多の人に迷惑をかけてしまったのだから、自分の信念にだけ縛られた向こう見ずな悪癖はこれっきりにしようと肝に銘じた。
 本日私が受け持つ筈だった任務は五条さんが代わりに赴いた、と家入さんは診察しながら教えてくれた。つまり私は今日一日が実質の休日になって、五条さんは二倍の仕事量を請け負ったことになる。迷惑の上に迷惑を積み重ねていく雁字搦めの状況に頭を抱えたくなった。一先ず、五条さんには何かしらの手段で連絡を取り、御礼と謝罪をしなければならない。俯けていた視線を上げて目に入った家入さんに、ふと適策を思い付いた。
「家入さんって五条さんと同期生なんですよね?」
「そうだけど。アイツが何? まさか孕まされでもした? 私そっちは専門外だよ」
「ち、違います……!」
 家入さんなりに重苦しく沈鬱とした空気を晴らそうとした冗談だったのだろう。余裕を欠いた私が仰々しく両手を振って否定する様を見て、彼女は目尻を下げてからかうように喉を鳴らした。
 目配せで続きを促されたので、私はしどろもどろになりながら五条さんの連絡先を教えて欲しいという旨を伝えた。家入さんは瞬時に意図を察したのか、白衣のポケットから携帯を取り出して数字が羅列した画面を見せてくれた。五条と明示されたその電話番号を携帯に打ち込み、電話帳に保存する。深く頭を下げると「あんなヤツに礼なんかしてやらなくともいいよ」と柔らかい提言を添えられた。私の脳内を余すことなく見透かされているようで少しばかり面映い。
「でも、これ以上ないくらいご迷惑をおかけしてしまったので……」
「律儀だな。その上真面目で根は神経質。どっかの誰かさんソックリ」
「誰かさん……?」
 突然家入さんが示唆した人物に全く見当がつかず、首を傾げる。彼女は虚を衝かれたように目を瞠った。直後にばつが悪そうに首の後ろを擦って、視線を泳がせる。普段の家入さんならば、ここで冷静な態度を崩したりしないだろう。彼女にしては珍しく狼狽を露出させていた。私が食い入るように見つめ続けると、観念したと言いたげに短く嘆息を洩らす。
「五条と私の同期。そいつもと同じで、何でも抱え込みたがるしその上でパンクするタイプだったなと思い出しただけ」
「……」
「ま、も程々に息抜きした方がいいってこと」
 家入さんの返答は表面を擬えただけで、外野からは理解しようがない深淵の奥深くに眠る過去が見え隠れしていた。彼女の瞳はどこか遠方の彼方を見据えたようにぼんやりとしている。既視感を感じた。その既視感の正体は、過去に意識を巡らせるまでもなく、くっきりと輪郭を成して降り注がれた。家入さんが、あの日の五条さんと同じ雰囲気を纏っていること。それは即ち、あの日の五条さんは家入さんが思いを馳せた人物と同一の存在を回顧していたということだ。そこに思い至って、私の身体は重心が下がったみたいにずしんと重みを増した。
 知りたかった、知りたくなかった。そんな矛盾したふたつの感情が混在して全身を駆け巡った。家入さんが私に似ていると言った、顔も名前も知らないひとを想像する。
五条さんは私の後ろ側にそのひとを見て、重ねて、私と接していたのだろうか。私の未来を、そのひとを通じて思い描いていたのだろうか。
 胸の端にちくりと針を刺したみたいに、微々たる痛みが襲う。
 ――だとすれば、それはとても悲しいことだと思った。


 その日の昼頃に電話を掛けると、すっかり耳に馴染んだ気取らない声で五条さんは電話に出た。どうやら移動中らしく、彼の声だけでなく車の走行音も受話器越しに鳴り響いている。五条さんに昨晩の謝罪と感謝を伝えた後に「もし宜しければ御礼させて下さい」と申し出ると、私の振り絞った気概なんてお構いなしにさらりと了承の意が返ってきた。断られた方が精神的に堪えたため、第一関門の突破にまずは胸を撫で下ろす。誘ったのは私の方だが、早急に事を進めたのは五条さんの方で「じゃあ明日の七時に新宿駅で」とだけ一方的に伝えると、あっという間に電話を切ってしまった。昨晩の御礼と託けて五条さんを誘い出す、謂わば彼に気があって行動に出た女だと勘違いされたのではと気付いたのは電話を切られてからだった。
 夕刻時に人でごった返す新宿駅であっても、現実離れした長身と髪色を併せ持った五条さんはすぐに見つかった。記憶に残る五条さんは黒の帯布によって目元を覆っていたが、今回姿を現した彼は楕円形のサングラスをかけていた。芸能人のお忍びのような出で立ちが群衆に紛れて見えたとき、自然と背筋を伸ばして姿勢を正した。道行く女性の視線が彼に吸い寄せられていたから、待ち人である私にもその視線が漂うことになると直感したのだ。
「お待たせ〜」
「お疲れ様です。五条さん、あのこれ……」
 五条さんが到着して早々に、此処に来るまでに用意していたケーキが詰まった紙袋を差し出した。甘味が好物だという情報は家入さんから既に仕入れている。駅近のケーキ屋で購入したものだが、私も度々通うお気に入りの店なので味は折り紙付きだ。五条さんは「気にしなくて良かったのに」と遠慮の定型文を口にしながら、それを受け取った。
 そこから、五条さんが予約したという居酒屋に場所を移した。新宿駅から少し離れた場所にある隠れ家のような居酒屋だ。昔ながらの味がある暖簾がかかった外装で、中は昭和チックなメニューやチラシが貼り巡らされている。五条さんは常連のようで、入店した一瞬の隙に店主と目線を交じり合わせると、そのまま奥まった個室へと突き進んで行った。座敷席に腰を下ろし、いくつかのつまみと、五条さんがソフトドリンクを頼んだので私も同調して麦茶を注文した。
「身体に傷残ったんだって?」
 一息ついたのも束の間で、五条さんは逸早く私の容態について言及した。強い語調ではなく、私の心身を案ずる優しい声色だった。
 彼の人伝に聞いたような発言から推測するに、情報の発信源は家入さんだろう。身体を診察されたときの彼女の分析を思い返し、それを包み隠さず開示した。
「傷っていうか……痣が何週間かは残ってしまうみたいです」
「そうなんだ。ごめんね、僕がもう少し早く駆け付けられれば良かったんだけど」
「あっ謝らないでください! ……五条さんがいなかったら私きっと死んでいました。本当に感謝してるんです」
 深々とお辞儀すると、五条さんがふっと笑みを零したのを空気伝いに察した。それしきのことで、全身を流れ打つ血脈がここぞとばかりに収縮する。
「責任取るよ」
 そんな私の不整な身体反応など知る由もない五条さんは突拍子もなくそう提案した。端的ではあるが、その発言の定義は多岐に渡る。誤解されかねない発言に、私は頭を上げて首を捻った。
「……責任?」
「そ。責任」
「五条さん、そういうのお嫌いなんじゃありませんでしたっけ……」
「呪術における責任と女の人に傷を負わせた責任は別物でしょ」
 納得できるような、できないような。屁理屈とも取れる彼の発言は留まるところを知らず続いた。
「例えば……僕のとこに嫁入りするとかね」
 更なる突拍子のなさを見事に披露した五条さんは、驚きの余り言葉を発することができない私を満更でもなさそうに眺めた。
 一体どういう了見なのだろう。決して悪いひとでないと知ってしまった今だからこそ、彼の思惑を掴み取れずに悶々と考え込んでしまう。意味など欠片もない、ただの面白半分なのかもしれない。このひとの深層にまで未だ達していない自分を苦々しく思いつつ、心の片隅で当然とも思った。だって、相手はあの五条さんだ。
「……冗談ですよね?」
「うん、冗談」
 端的に五条さんはそう答えた。本来ならば怒るところなのだろうが、私は寧ろ安堵によって脱力してしまった。身体に伸し掛かっていた重力がふっと消えてゆく。
「……そんな大事になりかねない冗談口にするひと初めて見ました」
「だろうね。僕も初めて言ったよ。うちの家に嫁ぐなんて考えただけで反吐が出そうだ」
 ならばどうしてそんな損にも得にもならないことを。吹き溢れる疑問を呈するより先に、気前の良い店員が注文した品々を運び込んできたため、その話題は強制的に打ち切りとなった。
 それからは毒にも薬にもならない会話が続いた。五条さんの、一切の飲酒を挟まずとも異様に高いテンションには圧倒されっ放しだったが、先のような型破りな発言に悩まされることはなかった。本当に普遍的な、呪術の世界とも無関係を極めたような無難な話題で盛り上がった。途中で「僕に構わずお酒頼みなよ」と促されたが、交流もろくになかった男性の前で苦手なアルコールを摂取する危機感の欠如した女になりたくはなかったので、丁重に断りを入れた。お酒のちからを借りずとも、口に放り込む手が止まらないくらいに料理の数々は美味しくて、舌鼓を打つ度に私は声にならない喜びに打ち震えていた。
 お開きとなった時間も時間だったため、五条さんはタクシーを手配してくれた。後五分程で到着するとの連絡があったようで、私と彼は歩道の防護柵に寄り掛かってタクシーの到着を待った。あの日と酷似した、今にも深淵に落っこちてしまいそうな深い闇が覆い尽くす夜だ。
「美味しかった?」
「はい、とても! 特にしめじの水餃子と美味しくて……。また行ってみようと思います」
「そうして。あそこの店、外観はあんなだけど料理の腕はピカイチだから」
 得意気に語らう五条さんの横顔は、美しさの権化みたいに整った形を成していた。サングラスの隙間から覗くまん丸の瞳は、瑠璃色の光彩がきらきらと輝きを放っている。鼻梁は鋭く伸びて、耳朶は大きく厚みがある。これだけ端正に整っているにも関わらず、このひとは外形のみならず中身まで美しく澄み渡っているのだから、本当に卑怯だ。こんな風に世間話に花を咲かせていると忘れそうになるけれど、このひとは決して私なんかでは手の届かない、雲の上に浮かぶ存在なのだ。
 そんなひとに、私という個体はまんまと虜になっていた。ここ最近の出来事を通じてありありと、私の心も身体もそれを実感していた。
「君は察しがいいから先に言っておこうと思うんだけど」
 恍惚と見つめていた私を知ってか知らずか、五条さんは神妙な面持ちでこれから切り出そうとする話題の前置きを呟いた。ぎくりと身体が強張る。こういう前提を挟んで始まる話が良い話だった試しがない。薄氷を踏む思いで五条さんの次の言葉を待った。しかし、彼が持ち出した話題は私の予想を軽々と覆してしまった。
「確かに君は僕の同期に……親友に似てるけど、そう思ったのは最初だけだよ。今は重ねて見たりしてないし面影を感じたりとかもないから」
「……!」
 ぴくりと聴覚が過敏に反応する。同時に、私の皮膚の裏側をひりひりと火傷のような刺激が隈なく走った。
 恐らくこちらの情報の発信源も家入さんだろう。私が彼女達の同期に似ている、という情報を齎したのは彼女であるから。彼女以外にはあり得ないから、そう断言できる。
 私の心臓は馬鹿みたいに際限なく高鳴った。私が否定して欲しかった部分を、私が寂寥を感じた部分を、お見通しとでも言いたげに否認してくれたから。他の誰でもない、五条さん自身が。人間というのは単純なもので、たったそれだけの言葉で天に昇るほど舞い上がってしまうのだ。
 暫くして、五条さんが配車したタクシーが到着した。彼は私の手に交通費と称して千円札を何枚か握り締めさせる。受け取れない、と首を降るも彼も返品は受け付けないの一点張りだった。何から何まで至れり尽くせりな今までを思い返して、私はこれから先も彼に頭が上がらないだろうなと予感がした。
「嫁入りは冗談だったけど」
 私が乗り込むのを背後から見守っていた五条さんが、私にそう呼び掛けたから、後部席に腰を据えてから彼の方を見上げた。
 まただ。無数の座標に位置する星々が目に焼き付けられる。どうしてだか五条さんの傍にいると、いつもなら何の情緒も感傷も浮かばない星空に視線が移ろい、胸が締め付けられる。何度目かの情景をぼんやりと眺めて、彼の言葉を待った。
「僕が責任を取りたいって思ったのは君だけだよ」
 五条さんらしい、明け透けでありながらも遠回しなその発言に、私はぎょっとした。豆鉄砲を食った鳩のように目を見開いて、彼に視線でその真意を問う。五条さんは私の懐疑的な目線に気付いていた筈なのに、私ではなく運転手に向かって言葉を投げ掛けた。「よろしくお願いします」と発車のゴーサインを出すと共に、彼は八つ手のような大きな掌を見せてひらひらと振った。程なくして車が発車して、あの並を超えた長身は徐々に豆粒大の大きさになり、あっという間に見えなくなってしまった。
 次から次へと、あのひとは性懲りもなく私を揺さぶってしまう。良くも悪くも。
 車内で彼の紡いだ言葉の意味を考えるも、それは深みに嵌っていくのと同義で、すなわち彼の掌中にいるも同然なのだった。だって、五条さんは私がこうやって思い悩むのを見越した上であの発言をしたに違いないのだから。
 でも、それが心地良いとも思う。不思議なことに。私は、五条さんのことを考える時間が嫌いではない。
 次に会えるのはいつだろうか。会って目を見て話さなければいけないことがたくさんある。
 まずは、そう。
 責任を取りたい、その言葉が意味するところを彼に問い質さねばならない。

2020/04/19 「infinite2」寄稿
2021/05/16 再録