よもすがら愛しき落涙
 夜半の高速道路は、繁華街顔負けの光が行列を作っている。仄かな橙色を灯す外灯が、車を走らせた分だけ後方に消え去ってゆく。しかし、光の線は途絶えることなく、闇夜の彼方まで続いている。終点は未だ見えない。私が求める終着点は、私ですら未だ見つからない。
 思い立ったが吉日。表立って宣言したことはないけれど、胸に密かに刻み付けられた座右の銘である。私が向こう見ずに物事を発進させる性格をしていたとは誰も知らなかっただろう。両親も、親友も。もう十年近くになる人生を共に歩んで来た恋人でさえも知らない。私だけが知り得る事実だ。
 今日、何もかもを置いて部屋を飛び出してきた。
 ルーズリーフに思いをしたためて、部屋の鍵と一緒に置き去りにして、飛び出した。すべてを捨て置きたくなったのだ。私の気持ちと、私の愛するひとを、かなぐり捨てたくなったのだ。
 行く宛のない放浪の旅とは言っても、私には恋人以外にも生活の基盤があって、仕事までを放り捨てる度量は持ち合わせていなかった。だから一種の家出のようなものだ。私の感傷が癒やされ落ち着くまでの、たった半日にも及ばない逃避行。それを可能にしたのは、煮え滾って歯止めの効かなくなった愚かしい私の恋心だった。
 暫くは無心で高速を走っていたが、暗夜に滲むオレンジ色を眺めていると、無性に夜明けが見たくなった。私の無鉄砲な計画を支持してくれたのか、視界に葛西インターチェンジの標識が入り込む。そのまま流れに沿って、高速を抜け出た。東京の夜明けと言えば相場は決まっているのだ。私はハンドルを握り締めるちからを強めた。
 目的地に辿り着く頃には、既に午前四時を回っていた。あと一時間もしない内に日の出が見られるだろう。専用の駐車場に車を停めて、歩いて公園に向かう。大通りを闊歩し、展望公園の向こう側に広がる海岸に出た。周囲は真っ暗に包まれて、人っ子ひとりいない深閑が満ち満ちている。洩れ出た吐息は薄っすら白い。この世界にひとりだけのような、私以外の人類が突如水の泡と化してし消えてしまったような、そんな錯覚に陥る。ひとりきりの孤独の成れの果てだ。
 ボアコートのポケットから、この逃避行を開始してからついぞ使うことのなかった携帯を取り出した。電源を付けると、暗闇を切り開くような光が溢れ出る。目を眇めながら画面を確認すると、そこには何件にも及ぶ着信履歴が表示されていた。すべて同一人物からだ。夜更けの仕事帰りに、あの置き手紙と呼ぶのも差し出がましいような乱雑な書き置きを見つけた恋人の様子を想像してみる。とても滑稽だった。小気味よい。いつだって、私はその人に振り回される側の人間だったから。今日くらいは甘んじて翻弄される側に回ってほしいものだ。
 そうして、興が乗ったからという愚直な理由で電話をかけることにした。少しでも焦りの滲む声が電話越しに聞こえたなら、この渇望は満杯まで満たされるのかもしれない。恋人を振り回すことができたという何の得にもならない実感によって、胸中の渇きは潤されるのかもしれない。そんな安直で浅ましい理由に突き動かされた。
 ワンコールで、彼は電話に出た。
『どこいるの?』
 いつだって彼は予想を裏切ってくる奔放な人間だけど、今回ばかりは裏切られたくなかった。
 その声は怒気を孕むでも、悲哀で途方に暮れるでもなく、限りなく無関心を地で行くような音色をしていた。私が求めていた声とは乖離している。それを裏切られたと称すのは些か都合が良すぎるけれど、私にとっては一縷の希望でもあったのだ。彼が、私を心配して切羽詰まった声量で電話に出てくれること。それが唯一の、私が望んでいたただひとつの逃避行の意義だった。
「……当ててみてよ」
 思っていたより素気なく、無愛想な声で応対してしまった。突き放すような言葉尻は今の私にできる唯一の抵抗で、気付いてほしいという秘めたるサインでもあった。自分から放り投げておいて何様だと思うけれど。私はこういう当てつけがましいやり方でしか、彼の意思を確認することができない。
 滑稽なのは、一体どちらだろうか。
『どういうつもり?』
「……別に、何でもない。明日には……今日の夜には戻る」
『そんな説明で納得できると思ってる?』
 私の投げやりな言い方を諌めるように、彼は凄みの効いた声で臨戦した。いつになく荒々しい物言いに、気を呑まれそうになる。あの青白く果てのない瞳が、鋭利にぎらつく様相がありありと思い描けてしまって、わずかに尻込みした。何を言われても関係ないと、自由で強情な意思を掲げて勝手を貫いてやると決め込んでいたのに。こうも簡単に揺らいでしまう。かぶりを振って、煩悩を振り払うのと同じ要領で、私は脆弱な思考を遠退かせた。今、ここで引き下がるわけにはいかない。私には私の矜持があって、多くを考え抜いて、この行動に出たのだ。今更、断腸の思いでこうべを垂らして出戻るなど、あって堪るものか。
 あれこれ思考を巡らせて押し黙ったのを、彼は仄かに悟ったようだった。重苦しい沈黙を打ち払うように何の躊躇いもなく、いとも容易く私の想定外へと駒を進めてしまう。
『当ててあげるよ、オマエがいる場所』
「……え?」
「葛西臨海公園」
 携帯越しに聞こえた声よりも、現実世界の空気を震わせる背後からの声の方が、遥かに大きく鮮明に、鼓膜に届いた。
 その一瞬ですべてを察してしまう。全身が強張り、背中には異常なほどの冷や汗が流れ打つ。ただでさえ寒気がこの世を支配している酷寒であるのに、また別種の冷気で心が凍てつきそうだ。突き刺すような後方からの視線に纏わりつく、故意的で人工的な冷気。視線ひとつで人を殺めてしまいそうなほど、物々しい殺気が空中にまで氾濫している。それが漂流して、私にまで流れ着いた。
 恐る恐る、耳から携帯を離して背後を振り返った。
「…………なんで」
「逃げ果せられたと思った? 僕も随分甘く見られたもんだね」
 私の恋人が、悟が、何食わぬ顔でそこに立ち及んでいる。
 通話を切ったのか、耳元の端末からはツーツーと回線が途切れたことを示唆する無機質な音が流れている。悟は、日頃と変わりない漆黒に染まる出で立ちをしていた。任務先から直帰して、相見えるときの格好だ。境目なく暗闇に溶け込んで、しろがね色の髪と薄青の双眼だけがくっきり浮かび上がる。
 脳内で想像していた通りの光景だった。包帯もサングラスも取っ払った、威圧感の漏れ出る鋭い眼差しが私を一直線に射抜いてくる。機械を通した声だけでは把握しきれなかった彼の憤懣が、ひしひしと骨身に沁みた。
 悟が一歩を踏み出したから、私は一歩後退った。本能的な、逃げ出したいという私の願望が身体をそうさせた。操り人形みたいに辿々しい動きで後退していく。
「やだ、来ないで」
「人のこと、そんな強姦魔みたいに言う?」
「……もう嫌なの、悟に振り回されるのは。悟は、私なんかいなくたって生きていける」
 海沿いの湾岸で一進一退を繰り返しながら、さながら命乞いのように私の哀願を伝えた。
 海面をざわつかせる寒風が肌を突き刺す。轟々と唸りを上げる海風が耳に痛く、皮膚の痛覚をも刺激する。目の前で強風に煽られている悟の、前髪の影に隠れた瞳は、少しだけ悲哀を訴える色をしていた。まるで親に突き放され、見放された迷子のようだ。忽ち胸の底から罪悪感という名の萌芽が芽吹いてしまうものだから、もう手に負えない。やりきれない寂寥と虚無があっという間に蓄積されてしまう。どうして私は、悟を前にすればこんなにも自分を保てなくなってしまうのか。
 五条悟という存在の価値も意義も、呪術の世界に少しでも携われば、自ずと理解してしまう。あまりに膨大なちからとこころを有している、遠く離れた存在。その正体は蜃気楼のように、覚束なく揺らめいている。摩天楼のように、手の届かない境地にある。恋人として隣にいることを認められた私でさえ、悟の心を開くことも、彼の心を振り回すこともできない。それがどんなに惨めで、切なくて、虚しいことか。悟には分かる筈がない。そんな身勝手で、気の迷いで、軽はずみな理由で家を飛び出た。一瞬でもいいから振り回されてほしいという、くだらない欲望を胸に掲げて愚行に走った。でも、家出って本来そういうものだ。自分の存在価値を認めてほしくて、どんなに馬鹿馬鹿しくて迷惑甚だしい行為かも理解した上で、それでも尚飛び出してしまう。許容範囲から溢れ出た負の感情達が、認めて欲しいという傍迷惑の背中を押してしまうのだ。
「泣くなよ」
 ぴくりと聴覚が反応する。悟の、切望するような掠れた声。その言葉の意味を反芻して、初めて自分の身に巻き起こっていた現象に気が付いた。
 私の頬には一筋の涙の線が通っていた。震える指先で、肌の濡れた感触を確かめる。溢れた滴は輪郭を辿って落下するが、それを追い掛けるように次々と涙が溢れ出てくる。一向に止む気配はない。無限に湧き出てくる泉のようだ。
 ひっきりなしの落涙を隠すようにして顔を傾ける。静止せざるを得なくなった私に、悟が少しずつ忍び寄るのを気配で感じ取った。そうして、彼の指先が私の顎をすくいあげ、上を向くよう促す。従順になった先の、滲む世界に佇む悟があまりにもずるい表情だったから、心臓が痛くなった。お調子者の唇の端は著しく下がり、悩ましげに眉を寄せている。どうしてそんな顔をするんだろう。どうして、今になって。私が異議を唱えるより先に、悟の指先が仕掛けてきた。長い指が瞳の縁をなぞって、目頭に溜まっていた滴を拭い去る。優しくて、どこかぎこちない。震えているような気もした。
「……憐れみならよして」
「嘘でしょ? これを憐れんでると思うオマエの神経が信じられないよ」
「じゃあ何なの」
「好きだからこうしてる。それ以外に理由なんてあるわけないだろ」
 慈善事業じゃあるまいし、と悟は冗談めいた言葉を付け加えた。そして自然な所作で私の腕を取り、引き寄せる。
 悟の身体にすっぽり収まってしまうと、あんなにも皮膚を引っ掻いていた潮風が吹き止んだ。勿論、理論上そんなことはなくて、悟の全身によって遮られただけのこと。でも、衣服越しであっても身体のあちこちが触れ合って浸透していく温度は、紛れもなく悟のものだ。不安に苛まれている私が途端に安心してしまう、仄かで儚げで、けれど確かな温もりがそこに在る。今にも飲み込まれてしまいそうな彼の体温だ。
が思ってる以上に僕はのこと考えてるし、好きだし、愛してるよ」
 呼吸が止まりそうになる。
 そういう言葉を欲していたのに、いざ愛の言葉を囁かれると戸惑ってしまう。苦しくなってしまう。悟が織り成す感情が、私に照準を合わせた感情が、こんなにも愛情で満ち溢れていたという事実を受け入れきれなくて。
「まだ足りない?」
「……足りなく、ない。けど……」
「けど?」
「もっと、ずっと、こうしていたい」
 頭上でふはっ、と悟が吹き出したのが分かった。抱き締められたままだから彼の表情は分からない。推測でしかないけれど、きっと私には見せたことのない顔だ。今まで一度たりとも及んだことのない、全てを背負ってばかりの悟が初めて曝け出してくれる表情だ。柔らかくて少し赤味を帯びる、はにかんだ表情。見たくて見たくて堪らないけれど、折角だから後に取っておくのもまた一興だとも思う。
「仰せのままに。僕のかわいいさん?」
 幼少期のごっこ遊びのように私に傅く発言に、今度は私が笑う番だった。際限なく飛び出す笑い声に共鳴して、悟が抱き寄せるちからを強める。密着すればするだけ、悟に必要とされている実感が押し寄せてきて胸が熱くなった。
 夜が明けていく。悟の腕越しに見える海面が、薄明かりの橙に滲んでいく。混じり合った色彩が、水面に反射して煌めき立つ。無限に続くかと思われた永い夜も、朝日の顔出しと共に、まぼろしのように彼方に消えていく。美しい薄明が、私と悟を照らし出した。
 私が求める終着点は、ここにあった。
 ここにしかない。私が求め続けていた安寧の居場所は、悟の腕の中にだけ存在している。

2020/04/19「Simple And Clean」初出
2021/04/30 加筆修正・再録