Abyssus abyssum invocat.
※若干の暴力描写あり


 死体のなり損ないが呼吸をしている。五条の足元で倒れ臥す男を言い表すなら、そんな感じだった。
 故意的に両足を折られた激痛から身を捩り、もう悲鳴を上げる活力すら果てたのか、地面に這いつくばって必死に喘いでいる。異性を惑わせる端正な顔貌も、涙や唾液といった汚らわしい体液にまみれて、今や見る影もない。正に死に体だった。冷え切った眼差しを向けながら、五条は暇を持て余した足で男の背中を踏みにじった。蛙が潰れたような世にも醜い声が路地裏に反響する。ひどく耳障りだ。幾度に渡る蹂躙は、もはや退屈凌ぎにすらならない。男の精神を摩耗させるだけの作業は、悦楽に浸ることすら許さず、寧ろ苛立ちを増幅させるばかりだった。何かの拍子に爆発しかねない地雷原のような、目には映らない危うさを今の五条は内包している。
 無心の暇潰しもそろそろ限界を迎えそうだった頃、ようやく待ち詫びていた人影が到来する。携帯を片手に、光の滲む街路から暗黒の淵に舞い戻ってきた夏油だ。五条と共に男を拘束した夏油は、上に最終的な処罰を確認するため連絡を取りに向かっていた。予想を遥かに上回る長丁場だったことから、自分の意見と食い違った老耄達とさぞ揉めたのだろう。優等生の皮を被った夏油が、減らず口を叩いて執拗に異論を呈する情景が、五条には容易く思い描けた。
 両膝を曲げて屈み込み、五条は見せ付けるように男の前に手指を翳した。中指だけを折り畳み、いつでも無限を弾き飛ばせる体勢に整える。ひっと息を呑んで取り乱す男を尻目に、五条は夏油を見据えて問い掛けた。
「どうする、コレ」
 許可さえ下りればすぐにでも肉体もろとも吹き飛ばせると、その動作ひとつで示唆する。五条の内側ではただならぬ怒気が煮え滾っていたが、夏油を見上げる双眸も投げ掛ける声音も純粋そのものだった。自我を抑え込んでいる。そして、何よりも誰よりも信頼を寄せる夏油に選択を委ねている。これが長くも短くもない年月を過ごしたふたりの、染み付いた習性のようなものだった。夏油の下した判断が五条にとって気に食わないものでも都合の悪いものでも受け入れて、それを絶対的な指針とする。端から見れば歪に思える関係も、他人を頼ることのない人生を余儀なくされてきた五条からしてみれば、最大級の賛辞とも言えた。
 煽るように五条が指をちらつかせても、夏油は顔色ひとつ変えない。代わりに、まことに鬱陶しい直下の男が蒼白になるだけだ。ただ、男を見下ろす夏油の瞳は、淀んだ水のように冷たくて重たい印象を与えた。
「私情を混じえるなら、生きている価値はない」
 ひゅっと、鋭い刃物で首根を引き裂かれたような心地がした。ありったけの軽蔑に隠し味の殺意を混ぜ込んだような、そんな声。五条ですら、思わず喉に手を宛てがいそうになる。侮蔑を振り注いだ本人は、不気味なほど冷静に言葉を続けた。
「でも、無理だな。売り払われた呪物の行き先、販売ルート、協力者……問い詰めることが山積みだ。用済みならともかく、今の彼を私達の独断では殺せない」
「……だってさ」
 夏油の出した結論は、明らかに本意とは乖離していた。先の上層部との議論において、私情を押し通すことは不可能だったのだろう。そこで不機嫌を湛えるではなく、平常よりも冷淡な態度を取って心の安寧を保とうとする辺りが彼らしかった。
 思うところはある。本能に従うなら、男の生命を塵ひとつ残さず葬り去っていただろう。それくらい、五条にとって男は無価値で、もっと言うなら憎悪の対象だった。けれど、それは夏油にとっても同じことだ。生きている価値はないと言い放った姿を思い起こせば、彼が従順なだけの上層部の犬に成り下がったわけではなく、断腸の思いでその選択をしたのだと察しがつく。夏油が殺意を押し殺して存命の道を選んだのなら、上からの指示がどうであれ、相応に生かしておく価値があるのだろう。五条はそう判断して、邪念に疼く指を引っ込めた。
 命拾いというよりはその場限りの延命ではあったが、男が大層安堵していると吐息の深さで分かる。五条は辟易した。男が為した悪事を考えれば、処罰は良くて禁錮刑だ。死刑が妥当ですらある。もう日の目を見ることはないだろうに、その気楽で愚鈍な脳みそが可愛らしく、羨ましくさえあった。
 時間を潰す間もなく、すぐに表の通りからスーツ姿の男達が駆け込んできた。見たことのない顔触れだが補助監督なのは間違いなさそうだ。率先して粗方の状況を説明し始める夏油を、宛てもなく五条はぼうっと眺め続けた。それも数分程度の出来事だ。役目を終えたのか、夏油からのそれらしい目配せを受け取って立ち上がる。ついでの置き土産とばかりに、傍らで息を潜めていた男の手の甲を踏み付けて、聞くに耐えない悲鳴をバックグラウンドにふたりは路地裏から立ち去った。
「早く用済みになんねえかな」
「この件に関して上は腰が重そうだ。かなり先の話になるだろうね」
「はあ、アホくさ」
 物騒な会話を交わしながら、狭路を抜けて陽光の兆す通りに出た。目を眇めながら歩を進めれば、そのうち日差しがじんわり眼球に馴染んでゆく。自ら狭めていた視界が広がってゆく。くっきり輪郭を成した世界は、明るくて暖かい真昼の光に溢れていた。まるで二律背反だ。立ち込める暗闇の中で秘密裏に執り行われた所業をかき消してしまうような、なかったことにしてしまうような。そんな光の束を連ねた表の世界に飲み込まれる。一切の光を通さない帳の中で、毒々しい異形と対峙し続ける呪術師稼業の男達からすれば、身に余るほどの歓待だとさえ思えた。
 それでも、陽気に包まれたふたりの足取りは徐々に軽くなり、颯爽と高専への帰路を駆け出してゆく。横目で視線を交わし合った五条も夏油も、抱く思いは同じだった。褒められたものではない自分達の悪行も、男の見苦しい惨状も、今となってはどうだって良い。過程にすぎなかった。
 彼女が――が何者にも縛られず心の底から笑ってくれる日が来たるなら、何だって構わない。そんな微笑ましくすらある健気な願望を、五条と夏油は口にせずとも共有していた。
 事の発端も事の終局も、ただ、その願いのためだけの筈だった。


 五条がに降りかかる異変に気が付いたのは昨日のことだ。頂点から太陽が退いた午後、空腹を我慢して辿り着いた医務室で「それ」を知覚した。
 怪我を負ったわけでは勿論なく、休み時間に医務室を根城にして過ごしている家入に用があったから、甲斐甲斐しくそこまで足を運んだ。しかし、扉を開けた先に彼女の姿はなかった。もぬけの殻、というわけでもない。窓際の日溜まりに腰を下ろしている人物には見覚えがあったし、彼女の存在を見覚えがあるで済ませるにはかなり心の距離を縮めすぎていた。垂らしていた頭を緩やかに元の位置に戻して視線を重ねてきたのは、紛れもなく同期のだった。
 ノックを怠る無粋な来訪者が五条であることを視認すると、は柔らかく相好を崩した。外界からの陽光に埋もれても尚、その笑顔は負けじと輝きを放つ。この表情に、五条は肺の底をくすぐられたような心地になる。つまり滅法弱かった。大抵の場合、思春期らしい反骨心を折られて敗北を喫していた。今回もだ。五条は照れ隠しに頭をかきながら、ひととき本来の目的を忘れての傍に歩み寄った。
「……それ、何やってんの」
 口を衝いて出た低音に責める意図はなかったけれど、結果的にそうなってしまったと、狼狽えて身を竦ませるの姿が物語っていた。後悔先に立たずだ。の瞳は次第に焦点が合わなくなり、きれいに弓形を描いていた眉はそっと斜めに傾いてゆく。暗雲ひしめく表情に、五条は肋骨が軋むような鈍い痛みを覚えた。
 五条が指摘したのは、行為そのものというより行為の対象についてだった。ワイシャツを捲り上げて露わになった前腕と、包帯を巻き付ける寸前の細い手首に、自然と目が吸い寄せられる。滅多に視界に入れることのない素肌に、ふしだらな好奇心が漲っただけならまだ良かった。残念ながら、そうではない。五条のお節介な意識が向いたのは、その皮膚に点在する凄惨な痣の数々だった。手首に纏わり付く大きなものを始めとして、紫色に変色した大小様々な痣が各所に貼り付いている。無関係の第三者でもその痛ましさに思わず顔を顰めてしまうのに、痣が残るほどの打撲を受けた本人は、一体どんな苦痛を味わったのだろう。絶句する他ない。想像するだけで気分が重くなった。
 ばつが悪そうに俯くに、五条は得意の無神経を装ってしゃがみ込んだ。膝を付き、有無を言わさず彼女と目線を合わせる。女性の手首なんて簡単に捻り潰せる大きな手のひらで、の手首を優しくさすった。
「こんな痣、いつ何やったらできるんだよ」
「えっと……昨日の、任務のときかな。呪霊にやられたのが今になって堪えたみたい」
「……」
 辿々しく紡がれる返答を最後まで聞き終えても、まるで五条は納得しなかった。即座に嘘であると見抜いたからだ。第一に残穢。呪霊から受けた傷で一日も経過していないとなれば、反転術式のような完全な治癒を施されてない限り必ず呪力の残滓がこびり付いている筈である。だが、どこを見渡してもその痕跡は見当たらない。また、変色の進み具合からしても昨日今日に受けた打撲ではないだろう。極めつけは、手首に色濃く残る痕だ。形状から見るに、手首を強く掴まれた際にできたものだと断定できる。呪霊のような異形というよりは、もっと身近な個体による乱暴の痕と考えた方が自然だった。ここまで証拠を揃えてしまえば、結論を導き出すのはそう難しいことではない。けれどもその確信的な推測は、虫唾が走るほど不愉快な絵面を五条の脳内に運んでくる。取り纏めた証拠を一掃して確信を覆したくなるくらいには、その光景は吐き気を催す邪悪だった。
 刺々しさを増す沈黙に、は落ち着かないようだった。頻りに睫毛が震え、真ん丸の黒目も忙しなく四方を行き来している。居心地の悪そうな彼女に、五条まで浮かない顔付きになる始末だった。やがての方が耐え切れなくなり、包帯をきつく握り締めながら唇を開いた。
「大丈夫だよ。見た目ほど痛くないの、ほんとに」
「……硝子には診てもらえ。アイツなら痕も消せるだろうし」
「それは……うん、そうだね」
 逡巡したような無言の間と、繰り出された歯切れの悪い返事に、益々疑心は深まるばかりだ。痣を隠す心理ならまだしも、その治癒を躊躇する理由には到底思い及ばなかったから。五条が口を尖らせてを射竦めれば、そのぶん彼女は萎縮するのみだったから、それ以上の詮索は諦めた。デリケートな問題であることも、自分の感情に任せた言及では彼女を追い詰めるだけだということも、分かりきっている。それならば、家入のような打ち明けやすい同性の友人に託した方が得策だと五条は判断したのだ。
「本当に大丈夫なんだな」
 おもむろに腰を上げて、五条はをじっと凝視する。念を押した無意識下での眼圧に、彼女は不安をちらつかせながらも確かに頷いた。手放しに喜べる現状ではなかったが、が浮かべる淡い微笑に抗える筈がなく、五条は足早に医務室から退散した。
 当初の目的は疎か飢餓感さえ見失った五条の身体は、不甲斐ない無気力で満ちていた。教室の扉をくぐった先で顔を合わせた夏油には、用件を済ますことなく手ぶらで帰還した体たらくを茶化されたが、やがてその揶揄も打ち止めになる。魂が干からびたような五条の神妙な表情に、夏油も只事ではない何かを感じ取っていた。勘の冴える敏い同期とは、こういう事態に厄介なのだと五条は思い知る。そのまま昼休みは机に突っ伏して余りの時間を過ごした。座学の授業が始まる数分前、和気藹々とした空気を纏ってふたりの女生徒が教室に駆け込んでくる。そして、その内のひとりの袖口から覗く真っ白の包帯を、五条は見逃さなかった。反射的に舌打ちしそうになる。恐らく、ほぼ間違いなく、は家入にも痣の存在を明かさず隠し通す選択を取ったのだ。五条の声なき悪態が鼓膜に届いたのか、彼女は一瞥してから申し訳なさそうに唇を歪めた。
 当然ながら、このときの五条は事の全容を知らない。不穏の一端を垣間見ただけで、ほとんど無知と同義だった。だから、痣を隠すくらいなら綺麗さっぱり消してしまえば良いという発想は至極真っ当ではある。しかし、の皮膚に浮かび上がる内出血の痕は、ただ暴力の遺産として残っているわけではない。暴虐を尽くす側にとってはこの形跡にこそ最も価値が宿る、なくてはならないものだった。消えたところで意味はない。寧ろ消えれば消えるだけ痣は増える一方であり、そこには苦痛を伴う暴行の影が付き纏う。その日の五条は、想像の遥か先を行く事実にもの心境にも辿り着けなかった。
 転機は思いの外すぐに訪れた。その翌日──つまり今日、都内での祓除任務を終えた足で向かったジャンクフード店でのことだ。とっくに正午を過ぎていたが、店内は昼飯時を外した家族連れや営業職のサラリーマンなどで賑わっている。運良く空いた窓際のテーブル席を確保し、胃に負荷をかけそうな商品ばかりを頼んで席に着いた。
「付き合ってるんだってさ」
 五条と向かい合うようにして座った本日の同行者――実際は本日も、という方が正しい――である夏油は、大口を開けてハンバーガーを食らいながら、片手間の雑談のようにその話題を切り出した。無秩序な雑音が蝟集する空間でも、その端的な言葉は埋もれることなく鮮明に響き渡る。耳鳴りがした。もう既に、五条の内側では嫌な予感が渦を巻いていた。
「……誰の話?」
の話。相手は東京高専の卒業生らしいよ。休日とか平日の夜中に車で迎えに来てもらってるのを先輩達が見たって」
 元より世間話で留めるつもりはなかったのだろう。五条が食い付いたのを皮切りに、夏油は堰を切ったように淀みなく情報を並べた。彼は他人に関する信憑性のない憶測を垂れ流すほど卑しい性格の持ち主ではない。舌に乗せて表出したからには、噂は事実に近いという確証があるのだろう。夏油の口振りには、伝聞の割には断定的な力強さが伴っていた。
 あまりに突然で衝撃的な内容に五条は愕然としたが、どこか冷静でもあった。腑に落ちたのだ。家元を離れた年頃の女性に暴力を振るう存在となれば、恋人は筆頭候補として挙がる。の肌に散らばる痛々しい痕跡が誰の手によるものか、もう想像するのは容易かった。眼裏の光景が見る見るうちに輪郭を帯びて、現実味のある仮想に仕立て上げられてゆく。
 知らずの内に奥歯を食いしばり、手元のポテトを押し潰していた五条を、夏油は不変的な双眸で見つめ続けた。
「でも相手方には悪い噂もあるらしくてね」
「……噂って」
「呪詛師と繋がってるらしい。高専の忌庫から呪物をくすねて売り捌いてるんじゃないかって疑惑が持ち上がってる」
 見知らぬ他人の悪行を、夏油は淡々と暴露した。一体どこからそんな大層な噂を拾い上げてきたのか、なんて悠長な思考をしている余裕はない。五条の推測が裏打ちされていくにつれ、じりじりと焦燥が身を襲う。凶暴な性質の男が悪事を為すのは、等号では結ばれずとも、相関性としては決して薄くない。いよいよ以て、真実と向き合う覚悟をせねばならない気がしていた。
 段々と傾いていた頭を持ち直すと、夏油と目が合う。――そっちも何かあるんだろう? 視線の先で、鋭い眼差しがそう問い詰めてくる。どうやら勘付いていたらしい。その瞬間、胸に支えていた蟠りがぱちんと弾ける。もう後は居残った事実を吐き出すだけだった。昨日見たの惨状を、五条は嘘偽りなく夏油に伝えた。夏油は達観して話を受け止める装いの合間に、確かな憎悪を滲ませた。
 ふたりの無言は、この場においては沈黙を生まない。群衆が織り成す思い思いの発話が、騒然とした空間をつくり上げている。けれど、狭間をたゆたう空気は冷え切っていた。殺伐とした空気が、五条と夏油のふたりにとって、同期の枠組みを超えたという存在の重要性を浮き彫りにしていた。
 先陣を切り、最初に声を上げたのは夏油だった。窓ガラスを透いて降り注ぐ日差しが似合わないほど、彼の声色は感情を欠いている。骨太な手が容赦なく残った包み紙を握り潰した。
「もう猶予はないな」
「……」
「暴力行為で潰されるのが先か、悪事の片棒を担がされるのが先か。少なくとも、このまま放置すればの未来はない」
 ぴしゃりと言い放たれた最悪な末路が、五条の脳内で長々と残響している。その可能性を考慮に入れなかったわけではないが、いざ夏油に突き付けられて現実を直視すると反吐が出そうだった。小さな蕾が花開くような、ささやかで朗らかなの笑顔が蘇る。誰にも真似できないのに誰の心でも解きほぐしてしまう唯一無二の微笑みが、低俗で野蛮なだけの男の手によって脅かされていいわけがない。項垂れかけた五条だが、思案の時間はそう長くなかった。覚悟さえ決めてしまえば後は行動に移すのみだ。わざわざ不快極まりない噂を持ち出した夏油も、元より腹を括っていたのだろう。五条にはその見当が付いていた。
 手遅れになる前に、性根の腐った男から何が何でもを引き離す。ふたりが掲げた決意は表明せずとも一致していた。その鍵となり得る題材が都合良く目の前に転がっていることも、お互い理解していた。男が呪物を売り捌いているとなれば、それは内に宿る呪いを各地にばら撒いているのと変わらない。呪術師に擬態した、人々に害をなす立派な呪詛師だ。男に纏わる噂が本物ならば、五条と夏油は呪術師として、規定に則り正式に処分を下すことができる。私怨ではひとを殺せずとも、真っ当な理由さえあれば。
「直接会って真偽を確かめよう。話はそれからだ」
 どうやら本日帯同していた補助監督に予め男の予定と滞在先を聞き出していたようだ。流水のように滑らかに事を運んでいく夏油に、本当の予定調和とはこういうものなのだと五条は感心する。実際に男と対峙すれば、真偽を確かめるだけの穏便な会話に留まることはないだろうと、予感もした。抵抗は感じないし、同情もしない。そんなものは生まれようがない。を傷付けた時点で、男に対して湧き上がる感情は殺意以外にあり得なかった。
 五条は残りのポテトを容器ごとかきこみ、炭酸の抜けたぬるいコーラを啜った。入店時よりもだいぶ人が捌けて閑散としたからか、客や店員の――特に女性の視線がよく通る。普段の任務帰りになら、その中から適当に引っ掛けていっとき限りの遊びに興じていたが、今日はそういうわけにもいかない。既に脳内は煮詰まった悪意に占拠され、ひとつまみの煩悩さえも入り込む余白はなかった。ふたりは空になったトレイを持って席を立つと、面倒そうな熱意の籠もる視線を往なして店を出た。
 そこから先は息つく間のない展開を見せた。用意周到なことに夏油は男の顔写真まで入手していたので、都内の豪勢なビルから出てくる男を見つけるのは造作もなかった。張り込みを開始してものの数十分程度だ。男を尾行し、人通りが疎らになった辺りで事に及んだ。路地裏に引きずり込み、物理的に逃げる手段を奪い、あくまで確認としての聴取を行う。平伏す男は我が身可愛さからか即座に事実であると認めた。実に滑稽だ。けれど、心の底から不愉快だ。
 噎び泣きながら命を乞う男に、ふたりは冷酷な眼差しを落とし続けた。謝罪を欲しているわけではない。ふたりが一番に欲したのは男を断罪する権利だ。けれど、敢えなくその権利は剥奪され、呑気に構える上層部へと委ねられた。尋問の末に必要な情報が揃って男が用済みになったとて、ふたりに死刑の執行役が回ってくるとも限らない。中途半端な結末には不満が残るし、湧き上がる激情が昇華されるわけでもない。けれど、が健やかな未来に進むための最善は尽くせた筈だ。そういう思いがあったから、五条も夏油もそれ以上口を挟むことなく引き下がった。
 結局のところ、五条と夏油が行動に出た真の動機は、相手方の暴力沙汰でも不当行為でもない。憤怒の源になりはしたが、最たる原動力は純粋な独占欲だった。自分達の預かり知らぬところでが別の誰かのものになっていた事実が一番、ふたりにとって辛抱ならないものだった。恋仲と称される関係を正論を翳して引き裂くことを、無意識の内に望んでいた。そして、その禍々しい劣情の塊は奥深くに身を潜め、本人達さえも存在を知り得なかったのだ。
 が五条の部屋を訪ねたのは、それから三日後のことだ。ベッドに寝転がって週刊誌を読み漁っていた五条より先に、縁に腰掛けて携帯を弄っていた夏油がノックの音に気付いた。迎え入れられたは薄手のTシャツにショートパンツという格好で、地味な制服に比べて遥かに素肌の面積が多い。異性の部屋に上がり込むには些か心許ない服装だ。けれど、すらっと伸びる腕にはもう何の痕跡も見当たらなかった。家入に事情を明かしたかはさておき、反転術式による治癒を受けたのは明白だ。内心ふたりはほっと胸を撫で下ろした。はジュースやスナック菓子を目一杯詰め込んだビニール袋を夏油に授けると、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。私のせいで、巻き込んじゃって」
 既には事のあらましを関係者から聞き齧っていた。一連の騒動を収束させたのが同期であるという断片的な情報を受けて、こうして詫びの品を片手に謝罪しに来たのだった。彼女の震える声が、西日の差し込む赤黒い部屋に沈んでゆく。何でも良いから声を絞り出せば良かったのに、そのときの五条は喉奥が引き締まって瞳を瞬くばかりだった。
「寧ろ私はもっと早い段階から巻き込んでほしかったな」
 そうして、夏油はの肩を抱いてベッドの縁に座らせた。五条は飛び起きて、その華奢な生き物から逃げるように壁側へと後退る。弱々しく萎れる背中から淡く浮き出る肩甲骨と、髪の隙間から覗くうなじが余りにも目に毒だ。持ち合わせていたなけなしの良心から視線を逸らせば、見計らったように夏油の手のひらが背中を這っていた。優しく象られた横顔が、配慮を乗せた励ますような手付きが、そのときの五条には妙に気に掛かっていた。を柔く苛めるような、先程の軽口に対しても。
「……私、少しだけ安心してた。弱くて何もできないけど、あの人だけは必要としてくれてる気がしてた。彼はきっと、弱かったら誰でも良かったのにね」
 ぽつりぽつりと落ちる呟きに乗じて、の声は潤みを増してゆく。初めて目の当たりにした彼女の本音に、五条は驚愕していた。同じ学舎に身を預ける仲でありながら、そんな深刻な苦悩を抱いている気配など微塵も感じ取れなかったのだ。居た堪れない気持ちになって俯く五条と対照的に、夏油はずっとの頬に視線を縫い付けていた。その装いが親身な同期生の枠を超えたのは、五条が顔を上げてすぐの出来事だった。
「それであの男に頼り続けたのか。正直、分からないな」
「……夏油くん?」
「私達がいたのにな。本当に、自分に価値がないと思っていた?」
 夏油から放たれる抑圧的な眼力が、抵抗の余地すら与えることなくを黙らせる。ここでの沈黙は彼にとって肯定と変わりない。他人の意見に耳を貸さない威圧的な夏油は、温厚でを慮る普段の彼と打って変わって別人のようだ。発言以上にその態度が衝撃的で、は思わず息を呑んだ。眉尻は自然と下がり、唇は歪に引き結ばれてゆく。の感情の機微に気付かない筈がないのに、今の夏油は全く動じなかった。
 やがて、停滞していた時間を取り戻すように、夏油はゆっくりとを押し倒した。仰向けにされた彼女は状況を理解していないのか、はたまた本能的な部分で理解を拒んでいるのか、放心して唇を半開きにしている。黒曜石のような瞳はゆらゆらと不安と恐怖で波打ち、輝きを失ってゆく。
 いくら夏油に全幅の信頼を置いているとは言え、この異様な光景を見過ごせる筈がない。静観していた五条はすぐさま腰を上げ、を抑え付けている夏油の手を掴み取った。
「傑、お前自分で何してるか分かってんのか?」
「ああ、もちろんだよ」
「なら今すぐ退けって。これじゃあ、あの野郎と変わんないだろ」
「……アイツと変わらない? まさか」
 声を荒げた五条にすら夏油は動じず、その言い分を鼻で笑ってあしらった。五条の手を払いのけ、シーツに散らばるの毛束を愛おしげに撫ぜる。その手付きには、確かに彼女に乱暴を働こうなどという邪悪な意図は感じられない。柔らかく微笑みながら、指先で至極大事そうに毛先をすくい上げた。
 夏油の意思は確認するまでもなく明らかだった。異常にしか映らない行動の中にも、確かに混じり気のない純情があって、その意思は一貫している。隣に居続けてきた五条が、それを察せない筈がない。
「愛してるんだ。傷付けるしか脳がない男とは違う」
 五条を眼差す夏油の顔貌は、まるで地獄の釜湯で煮えた後のように禍々しい赤に染まっていた。それは夏油だけではなく、五条も、も。
 直に日が沈む。残されるのは三人の男女と、もう後戻りのできないくらい濃密に熟した愛情だけだ。
 するりと憑き物が落ちたように、五条の顰め面は鳴りを潜めた。代わりとばかりに、の手首を掴んでシーツに縫い付ける。気付いてしまったのだ。あの男好みに仕立て上げられたの身体を、今度こそ自分の手でつくり変えたくなった。痛みだけが生の価値を齎すのではないと、全身を以て教え込みたくなった。夏油に発破をかけられて、五条はようやく奥に秘めていた願望を手繰り寄せた。浅はかで手前勝手な欲望だとは理解していても、溢れ出してしまえば止まらない。止められない。独占欲という火元で炙られ続けた好意がもう煮零れて、臨界点をとうに超えていた。
 五条がどんなに力を籠めても、籠めたつもりになっても、を想う力加減では手首に痣ひとつ付けられない。優しいばかりの拘束だ。それは反対側の手を拘束している夏油も同じことだった。
「怖がらなくていい。終わったら、もうアイツを必要としないでよくなる」
 それが五条の言葉だったのか、夏油の言葉だったのか、それすらも判別できない小さなささめきがの思考に浸透する。脳髄の芯から溶かされてふやけていくようだった。手に負えない。何も考えられない。しかし、鈍麻になった脳内とは裏腹に、剥き出しの皮膚は敏感だった。五条と夏油から差し向けられる劣情も欲情も、愛情も、すべてを実感している。遺漏なく受け入れている。ふたりの男の優しすぎる愛を乗せた手に身を委ねて、は目蓋を下ろした。声なき合図を皮切りに、唇がひっきりなしに素肌に落ちてくる。そのどれがどちらのだか感覚で覚えてしまうくらい、たくさん口付けを受けた。今までの痛苦が一瞬にして快さへと塗り替えられてしまうくらい、本当にたくさん。触れた先から快楽を得てしまう自分に嫌気が差す一方で、嬉しくて堪らない自分がいるのも確かだった。
 夕陽が完全に姿を消して、世界は黒以外の色を失う。それでも、色濃い三人の影はずっと縺れ合い、ずっと重なり続けていた。

2021/04/05