悠久の冬は醒めない

 昨晩、今年初めての雪が降ったらしい。やけに冷たい爪先を擦り合わせながらカーテンを開けたとき、視界いっぱいにその情報が舞い込んできて、思わず言葉を失った。目を疑うほどの絶景だ。殺風景だった大地には純白の絨毯が余すところなく敷かれ、年老いてしなった枝先には淡雪の蕾が膨らんでいる。顔を覗かせた朝日が一面を照らし、目映いばかりの銀世界をつくり出していた。まるで寝ている隙に別世界の惑星に飛ばされてしまったみたいだ。都会生まれ都会育ちの私には中々刺激が強くて、奥に潜ませた幼心を焚き付けられる。そわそわと落ち着かない手付きで適当な服を見繕うと、お気に入りのダッフルコートを羽織って部屋を後にした。
 日々を座学と演習と任務に費やす多忙な高専生にとって、週末の午前中は計り知れない価値がある。隣人の硝子にも声を掛けようとしたけれど、さすがに朝方の自然現象ひとつで起床を促してしまうのは申し訳ない。そう思い留まって、ひとりで寮を抜け出した。重厚な扉を開いた矢先、眼球を突き刺すような冷気に迎え入れられる。随分な好待遇だと思ったが、本当は真逆の意味合いかもしれない。この神秘的な雪景色を守ろうとする意思が宿って妨害されているのかもしれない。そんな気持ちを拵えさせる強風に煽られながら突き進み、遂に私は未踏の雪原へと降り立った。
 下手を打てば厚底のスニーカーも埋まりかねないほど脅威的な積雪だった。それどころか、一度でも足をすくわれてしまえば転んで雪に埋もれてしまいそう。感動的で、もはや芸術のようでもあった。意を決して足を踏み入れると、足裏には微かな冷たさと、片栗粉のような心地良い感触が浸透してくる。背筋に高揚感とも背徳感とも知れない何かが迫り上がってきて、ぞくぞくした。月面に着陸した第一人者もさぞこれくらいの、否これ以上の興奮を覚えたことだろう。時間の流れに伴って解けて失われてゆくこの感動は、刹那的で呆気ない。勿体ないと疼きだす心の赴くままに私は駆け出して、まっさらな和紙にひたすら墨を落としていくような遊びを楽しんだ。
 その人影を目の端に捉えたのは、いたずらに走り回って疲労した身体のために一息ついていたときだ。男子寮の方角から歩いて行く彼は、雪に見向きもせずザクザクと軽快な足音を鳴らしている。湯気のように浮かんで消えてゆく白い吐息、その源流は偶然にも慣れ親しんだ背中だった。自然と口角が上がって、思考が悪賢い方向へと逸れてゆく。私はまだ果てしなく滞積する雪の山へと手を伸ばした。直接的な冷感に拒否を示す手指に鞭を打ち、雪を固めて即席のボールをつくり上げる。彼に気付かれないよう大きく振りかぶり、目一杯のちからを込めて雪玉を放り投げた。雪の弾丸は直線の軌道を描いて彼に向かったが、命中はしなかった。紙一重のところで避けられたのだ。一体いつから気が付いていたのだろう。振り向いてにこりと微笑む傑には、どうやら私の存在も画策も見透かされていたらしい。近付いて来る足音はさながら世界滅亡を前置く地響きのよう。私は必死に作り笑いを浮かべて、内心滝のように冷や汗を流して、死が訪れる瞬間を待つのみだった。
 傑は私の目の前に立ちはだかると、柔らかく目を細めた。相反するように私の心臓は早鐘を打ち身体は重くなるばかりだ。裸足で逃げ出したい気持ちに駆られた。
「喧嘩を売られたって解釈であってる?」
「……あってない。本当にごめん」
「真面目に謝られるとそれはそれで困るな。初雪にはしゃいで羽目を外しすぎたと思っておくよ」
 見透かされていたと言うよりは一部始終を目撃されていたみたいだ。尚のこと状況が悪くなる。年甲斐もなく大喜びで駆け回っていた過去の自分を思い起こし、その醜態に身を縮こめた。まさか知らずの内に赤っ恥をかいていただなんて。穴があったら入りたいとは正にこのことだと思った。
 よく目を凝らして傑の様子を窺うと、彼は派手な色彩のウィンドブレーカーに無地のサルエルパンツといった、比較的ラフな出で立ちをしていた。私服というよりは部屋着に近いかもしれない。艷やかな黒髪も普段より緩めに結われているようで、とりあえず纏めましたという大雑把な感じが滲み出ている。堅固な気質の傑から、十六歳相応のわずかな無防備が垣間見えた気がして、胸が優しく高鳴った。
「……どこ行くの?」
「麓のコンビニ。悟と買い出しに行く予定だったんだけど、アイツ眠い寒いって言い張って出てこないから」
「フラれたんだ。傑かわいそう」
 こうして自分の立場にそぐわない軽率な発言をしてしまうのは、私の根っからの悪癖だ。ほろりと零れ落ちた言葉にはっとして、急速に血の気が引いてゆく。案の定と言うべきか、傑の薄い唇は意地の悪そうなかたちを成していた。
「なら、が付き合ってくれないか。寂しい私のために」
 一体どんな遠回しな小言で刺されるのかと身構えたものの、今日はかなり手加減してくれたらしい。皮肉を一匙添えただけの痛くも痒くもない提案に、そんなことで良いの? と目を丸くする。傑は木洩れ日にも似た淡い微笑を浮かべるだけであった。
 コートには財布どころか携帯も忍ばせていなかったけれど、傑は「奢るよ」と言って構わず歩を進めた。広い背中を追って私も雪の中をかき分ける。隣に並び立って傑を盗み見ると、きれいな顎の輪郭がよく通って見えた。
 筵山の麓から車道に沿って少しだけ都心部に向かうと、申し訳程度に設置されたコンビニが見えてくる。時代に取り残された呪術高専とその近辺において唯一の近代的な表徴だった。品揃えが良いとは言い難いけれど、周辺の商業施設に向かうには電車を経由しなければならないので、手っ取り早く何かを買い求めるにはここしか選択の余地がないのだ。学生も、何なら泊まり込みの教職員も、こぞって馴染みの店として利用していた。
 道程の山道に出ると、そこらに撒き散らされた轍によって雪はほとんど原型を失っていた。学生は休日と言えども、無数に湧いてくる負の感情にも呪霊にも休みはない。終わりもない。今日も今日とてたくさんの術師や補助監督が、呪術界の中核である高専を行き来しているのだろう。路肩に居座っている、どろどろに解けた雪の残骸が何よりの証拠だった。見る影もなくなった上品なましろの美しさを偲んで、無性に悲しくなる。太陽が昇れば昇るだけ、春に向かえば向かうだけ、この儚い生命は大地に還ってゆくのだ。先程まで大いに楽しんでいた雪原に足跡をつける行為が、短命を助長させていたと気付くと、何とも言えない気持ちになった。
 しんみりと物思いに耽っていた私の微細な変化を感じ取ってくれたのだろうか。段々と歩幅が小さくなっていた私に合わせて、傑も速度を緩めてくれる。見上げると、春めくような麗らかな眼差しで覗き込まれた。焦れったくて、くすぐったくて、妙に心臓が痛い。
「何買いたい?」
「ん、えっと……あったかいやつ。ココアとか飲みたい」
「それだと自販機で事足りるだろ。折角なら硝子と食べるお菓子でも買いなよ」
「……今日の傑、いつにも増して優しいね」
「やっぱり喧嘩売ってるな」
 元々傑は誰にでも優しいけれど、いざこうして自分ひとりに優しさを向けられると、正直困る。その提案を手放しで喜べたら良かったけど、何だか変に意識してしまって、中途半端に失礼な嫌味が漂ってしまった。それでも傑は動じず、目尻を下げるだけだった。
 のどかな談笑が続くにつれて、心なしか足取りも軽くなる。けれど、それが別の災厄を招くことになるとは誰が予想できよう。勾配が急になり始める下り坂に加えて、雪が解けて水浸しになった道路。身を引き締めて進むべき悪環境だったのに、会話に気を取られていた私はつい緊張の糸を解してしまった。正にその瞬間、足が滑って見事に均衡が崩れ去る。重心が後ろに傾いたとき、状況は分からずとも、まずいという危機察知力だけが働いた。ぎゅっと反射的に目を瞑って衝撃に備える。けれど、どれだけ瞑目してもその一瞬は訪れなかった。恐る恐る目蓋を開けて、頭を持ち上げると、日光を遮るようにして傑の顔が覆い被さっていた。ほとんど目と鼻の先、だ。そこでようやく、傑は間一髪のところで私の腰を引き寄せて、尻餅をつく前に支えてくれたのだと気が付いた。体感したことのない至近距離で傑の目のかたちを、柔らかそうな耳朶を、熱くて白い吐息を目視する。頬一面が火照ってゆくむず痒さに、堪らず腕の中から抜け出した。
「ご、ごめん」
は危なっかしくて目が離せないな」
 落ち着きのない子どもを諭すような声色で、けれども煽っているとも取れる口振りだ。傑は私をじっと見つめると、面白そうに喉をくつくつと鳴らした。
「腕、掴まる?」
「……え」
「今度風にでも吹かれたら一瞬で下まで転がっていきそうだ」
 そうして、なんてことはないといった風体で、彼はとんでもない爆弾を落としてゆく。
 思わず目を瞠った。耳に流れ込んできた情報が脳内で正確に処理されるまで、すごく時間を要した。いくら瞬いても、傑は変化の兆しを見せない笑顔を向けるだけだ。極めつけに、彼は上着のポケットに手を忍ばせて、身体と腕の余白を見せ付けるような所作を示した。なんてずるい。私がこの誘いを断れないと、端から分かっている人にしかできない立ち振る舞いだ。顔を顰めて、かさついた唇を擦り合わせて逡巡する態度を取り繕っても、もう既に意向は決まっているようなものだった。結局、私は震える指先を伸ばし、傑の腕に掴まった。頭上から満足そうに吹き溢れる吐息のせいで、異様に顔が熱い。
 腕を組んだ傑の支えによって、滑りやすい斜面も難なく進むことができた。後はそこの曲がり角を曲がればすぐにでもコンビニが見えてくる。熱気を帯びて綯交ぜになっている思考を奮い立たせ、今一度当初の目的を思い起こした。
 だけど、目的から脇道に逸れたのは傑の方だった。終着点を目前にして、彼の歩みがぴたりと止まる。恥ずかしさのあまり俯いてばかりいたから、揃って動かなくなった爪先に、明確な意思を持って立ち止まったのだと瞬時に悟った。首を擡げると、傑の切れ長のまなこが私を――ではなく、私の向こう側を見据えている。魂を根こそぎ抜かれたように、うっとり見惚れた表情だ。その眼差しが私に差し向けられている錯覚を覚えながら、逃げるように眼球を移ろわせる。ふたりの視線の先には白雪に埋もれながらも咲き誇る、赤椿の生け垣があった。鮮やかな紅色が白色によく映えて、普段の深緑に包まれているときとはまた違った趣きがある。自然によって生まれ出づる美麗な景色に目を奪われながら、穏やかな沈黙に添って口を開いた。
「椿好きなの?」
「……どうだろう。好きって言えるほど知識が豊富なわけじゃないけど……まあ、好きなのかな」
「そうなんだ。何だか意外かも」
 最後にまたひとつ、余計なことを口走ってしまった。慌てて口を噤んで目を泳がせても、もう手遅れだ。傑は柔くなじるような瞳でちろりと一瞥した。格段に鼓動が大きくなる。大仰な心音が煩わしくて堪らない。彼の視線が私の輪郭をなぞる度、どうしてこんなにも胸がざわめくのだろう。
「知ってるかい。椿は花弁を散らさないで花ごと落ちるんだ。不吉の象徴とも呼ばれているけど、私は好きだな。花弁が散っていく無惨な姿を誰にも見られなくていい」
 目を伏せて波紋が収まるのを待っていたのに、滔々と語られた言葉のせいで、更なる波紋がまたひとつと広がってゆく。
 傑が零した言葉の裏側に、私は私の知らない彼を覗いてしまったような心地がした。聞きようによっては、椿という花が送る一生に憧憬を抱いているようでもある。発言に紛れ込んだ価値観の一端は、十代の男の子が擁するには些か大人びていて、寂しくすら感じさせた。いくら呪術の世界に身を投じているとは言え、折角の花の十代から死に様について思いを馳せるなんて、そんなの悲しすぎる。あんまりだ。胸に支える思いを届けたいのに、喉が砂漠のように干からびて、うまく言語化できなかった。
 傑の様子を窺うように顔を上げると、思い掛けず視線が絡み合った。憂いに沈んでいた私を引き上げるような、澄み渡った双眸。まるで雪降る青空の日みたい。一直線に惹き付けられる。
「それから今日、もうひとつ椿を好きな理由ができた」
「理由って? どんな?」
「私の傍にいる、白い肌でよく顔を真っ赤にする誰かさんとそっくりだ」
 胸の奥がじわりと熱くなって、背骨がぞくりと震える。意思と乖離した頬が茹で蛸のように赤くなっていると、傑の表情だけで察しがつく。
 一体どうして、そんな言葉を恥じらいも臆面もなく、舌に乗せられるのだろう。一体どうして、普通なら歯の浮くような台詞も、彼なら似合ってしまうのだろう。
 傑らしい腕曲的な表現が、もう私には手に取るように理解できてしまう。それでも、彼に返せる正しい言葉は見出せない。躍り狂っている心臓も、一遍に顔に集い始める熱も、もう間違いなく傑に抱いている心情を指し示していたのに。
 黙りこくった私を見留めて、傑は困ったように笑った。曖昧な私の反応は失望されてもおかしくなかっただろうに、まるで予期していたみたいに、見透かしているみたいに、清らかな微笑が続いている。そして畳み掛けるように、彼は腕に絡まっている私の手をすくい上げて、上着のポケットへと導いた。
 ずっと冷気に曝していたから気付かなかったけど、存外にも指先の体温は奪われていたらしい。閉塞的な空間に引き込まれて、傑の体温を分け与えられて、徐々に熱が浸透してゆく。彼はそのまま何も言わずに歩き始めた。含みを持たせた行為の真意を問いただす暇さえない。足が縺れそうになりながら、私も必死に両足を動かして後を追った。
 あの日見た、雪に包まれた椿の美しさのように、ふたりで過ごした冬の日がなければ、私は傑への思いを自覚することはなかったかもしれない。骨まで沁みる冷徹な冬がなければ、内側に潜んでいた仄かな恋心は色を持たなかったかもしれない。それくらい、私にとって大切な日になった。忘れられない冬になった。
 その日、控えめな優しさを降り注いで止めない傑のことを、好きだと気付いた。大きくて逞しくて隙のない手のひらを離したくないと、自分本位な願いが浮かび上がってしまった。誰かを恋しく思う気持ちで自分まで嬉しくなったり切なくなったりすることがあるのだと、初めて知り得た。
 それが私の、たったひとりの男の子に抱いた淡いようで胸を強く焦がれる、初恋だった。


 冷たい夜風に吹かれると、忽ち酩酊していた意識が正常を取り戻していく。地に足の付かない気分が年相応に落ち着き始めた頃、一息でうんと背伸びをした。遥か頭上では無数の星屑が瞬き、北斗七星は一際その存在を主張している。晴々とした冬空の星明かりは、帰路を朧気に照らし出した。誰もいない山道だけど、不思議なことに恐怖は感じない。どちらかと言えば、心に宿っているのは懐慕の念だった。
 個人の力量で依頼や任務を仕入れることは難しいため、卒業してからも高専に頼る術師は多い。けれども、仕事と切り離して、私用でここまで足を運ぶのは久方ぶりだった。本日開かれた宴会の会場となったのは、昔懐かしの学生寮だ。生徒が住まわない空き部屋に勝手に忍び込んで、同期とひたすら酒を飲み交わした。約一名ほど、ここぞとばかりに酒豪の悪態をつきながらオレンジジュースを呷る可哀想な人もいたけれど。そうして有意義な時間を過ごして、あっという間に解散の時刻となった。翌朝の出勤が控えている彼女は、本当に酒を口にしたのか疑わくなるほど平然とした面持ちで仮眠室に向かった。微風によって靡く髪に、随分伸びたなあと感慨が込み上げたのは誰にも内緒の話だ。
 さて、後のひとりと言えば、背後で堂々たる気配を滲ませていた。寧ろ気付けと念を送られているようにも思える。未練がましく付き纏う生霊のような男に、仕方なく構ってやろうという心境に至ったのは、丁度下り坂に差し掛かる手前だった。振り向くと、闇夜と境目が溶け合いそうな彼とサングラス越しに目が合う。高専の敷地内でなければ通報されかねない、どこをどう楽観的に捉えても怪しすぎる異端な出で立ちの男――悟は、不敵なかたちに唇を象った。彼の笑顔は、図らずしも胡散臭い心象が上乗せされていくばかりだ。
「補助監に車回してもらいなよ」
「歩きたい気分だからいい。……え、もしかして送ってくれるの」
「まっさか〜。僕は口直しに甘い物買いに行くだけ」
 酒気を浴びてもいないくせに、悟はふやけた笑いを口角に乗せて、足早に坂道を下ってゆく。果たして彼の辞書に思い遣りという言葉は存在するのだろうか。ないのなら、今すぐにでも油性のペンで書き殴ってあげたい衝動に駆られた。「早く来なよ」と言いたげに振り返っては人差し指で手招く悟に、苛立ちのような呆れのようないっそ清々しいような感情を刺激されながら、私も前へと踏み出した。
 その長い脚を大胆に広げて陸地を踏みしめる悟の背中をいくら追い掛けても、全く距離は縮まらない。こういうとき、決まって記憶の底から手繰り寄せられる人物がひとりいる。男女の体格差を考慮せず先を急ぐ悟と、その広がってゆく距離を見兼ねてか、彼の隣から半歩下がって私を気に掛けてくれる傑。そうすると、悟はばつが悪そうに口を窄めて、渋々速度を落としてくれるのだ。今、私達の狭間に傑の姿はない。だから、距離が縮まらないのも、離れていくのも、或る意味当然だった。
 本当なら二月の上旬には集まる予定だったけど、雪崩れてくる任務と出張が度重なり、結局三月の下旬まで縺れ込んでしまった。ただ騒ぎたいだけの祝宴は、学生時代と重なるところがある。一年目は趣向を凝らしたサプライズを催して、二年目は仲を深めすぎたがために駄弁って遊んでの適当な宴になって、三年目は……。三年目には、もう。
 大人になった私達の醜態を見たら、彼はどんな顔をするだろう。薄情な奴らだな、と嬉しいような困ったような、複雑に入り混じった感情を湛える彼の笑顔が浮かんだ。薄情なのはお互い様だろうに。心臓まで凍てつくほどの酷寒が、性懲りもなく寂寞の思いを連れてくる。
「最期、どんな顔してた?」
 意図せず溢れ落ちた私の小さな小さな問い掛けも、風声の合間を縫って容易に悟まで辿り着いてしまう。
 世界の命運を握る悟と、何も持たない私を繋ぐには、やはり彼の存在が不可欠なのだろう。たったひとつ、その話題を匂わせただけで、悟はその場に留まって勢いよくこちらを振り向いた。ようやく私達のあわいが狭まる。薄暗い夜道にて、悟は黒煙のようにひっそり立ち尽くし、真っ直ぐに私を見上げていた。
「笑ってたよ」
 漂ってきた悟の声はいつになく寂しそうで、それでもどこかあたたかな声色を成していた。
「そう思うのは僕が楽になりたいだけのエゴで、思い上がりかもしれないけど」
 ううん。そんなことない。世界のすべてをその双肩に担ってきた悟でも、きっと何よりも辛くて重たい所業だった筈だ。無限を弾き飛ばす指の引き金をひくこと、誰よりも躊躇って戸惑って嫌がった筈だ。いくら軽薄な彼であっても、かけがえのない絆で結ばれていた親友の殺生を、何とも思わない筈ないのだから。
 エゴでも思い上がりでも何でもない。傑は笑っていた、それが真実だ。親友の悟がそう主張するなら、疑う余地なく明白に、そうに違いないのだ。
「ありがとう。お疲れさま。悟で良かった」
 吹き抜けていく風にまことの思いを託して乗せる。流れ着いた言葉に、悟は歯を剥き出しにして軽快に笑った。どれだけ歳を重ねても色褪せない、子どものようなあどけなさが滲んでいる笑み。大人びた色気を纏う彼とは対照的だった。出自も思想も笑い方ですら真逆のふたりが、肩を並べて歩みを共にした三年間という年月を思うと、いつも視界が波打ってしまう。涙脆さを誤魔化すように、突っ立っている悟を追い抜いて前に出た。すると、背後から愉快そうな笑い声が轟いて、一気に涙が引っ込んでゆく。このときばかりは彼の無遠慮で気取らない性格が心底ありがたいと思った。
 その情景に引き止められて、硬直したのは私だった。坂道が途絶えてすぐの曲がり角を曲がったとき、息が詰まりそうなほど驚愕する。視線の行き着く先には、歩道の隅から隅まで椿の花が散らばり、異国めいた花畑が広がっていた。夜更けの暗がりであっても、真紅の花は色濃くその美貌を際立たせている。椿が落ちるこの季節に、徒歩で高専を往来することなんてまずなかったから、初めてこの光景に目の当たりにした。目が釘付けになって、思わず感嘆の吐息を上げる。ひょいひょいと花を避けて先を行く悟は、対岸に立つとこちらを見留めた。白い吐息に乗せて、昔日に浸るような音色で呟く。
「なんか懐かしー」
「何が?」
「その呆けた顔。ここを通り掛かっては立ち止まって眺めてた傑にそっくり」
 悟はきっと、傑のその横顔が意味するところを分かっていて、わざわざ口に出したのだろう。口端に灯る、大事なものを横取りされたような含み笑いに、そう予感がした。
 巨大な人影は春を待ち詫びる蝶のように、ひらひらとコンビニの明かりに吸い込まれて消えていった。彼の擁する無下限があれば、こんな場所まで足を使う必要がないと気付いたのは別れた直後だった。どうやら悟の辞書にも、ぶっきらぼうながら思い遣りの言葉が含まれていたらしい。数え切れない月日を共にしても、知り得ない内面とは存在するものだ。
 椿の花を見て私が傑を思い浮かべたように、傑も私のことを思い出してくれていたのだとしたら、彼にとってもこの冬が大切な季節になったのだろうか。忘れられない出来事として記憶に刻み込んでくれたのだろうか。今となっては分からない。もう傑の口から、私を象る言葉が紡がれることはない。
 でも、何の根拠もないけれど、そうだと信じたい。あの日、口を閉ざして表出されなかった恋心が、朽ち果て損ねた初恋が、そうだと嘯いている。信憑性の欠片もないのに、傑を恋しく思う心だけが誠に立派に育って、大声を張り上げている。馬鹿みたいだ。だけど、恋ってきっとそういうものだ。
 雪が解けても、椿が落ちても、あの日共にした一握の冬が過ぎ行くことはない。晴れた真冬の日、取り留めなく降り注がれる光芒にも似た恋心が、ずっと在りし日の傑を私の中に留めてくれている。
 今までもこれからも変わらない。私と共に在り続ける、ただひとつの初恋だ。


2021/03/12