and I'm home
 完成された完璧ではなく、未完成の完璧を纏っているひとだと思う。多くの矛盾を孕んでいるこの表現を耳にしたなら、彼は一瞬眉を顰めて苦笑することだろう。曖昧な微笑を浮かべて、私の発言を柔らかく一蹴する。彼は他人に付け入る隙を見せることなく、実際、非の打ち所のない優等生を演じるのが上手かった。寧ろ十全の完璧を体現していると感じる人の方が多いかもしれない。
 けれど、私は知っている。彼が未完成たる所以。目を瞠るほど秀麗な横顔に翳りが差し、完璧がほつれてゆく一瞬があることを、私だけが知っていた。


 どことなく青白い皮膚に気付いたとき、震える指先で僧衣を引っ張った。咄嗟の判断だった。その日は午前中、非術師に取り憑いた呪霊を使役する作業が山のように積み重なっていた。つまり、彼にとって多くの負荷が一遍に押し寄せていた、ということだ。一歩先を歩いていた彼は――傑は、振り返ると意表を突かれたように私を見つめた。
 違和感の正体を見破るのは容易だけど、そこから先が肝心で鬼門だった。傑は他人の心の機微を気取るのが得意でも、他人から気取られることは苦手で、それどころか不快にさえ感じそうだったから。引き留めたは良いものの、彼が納得のいく説明なんて全く用意していない。そもそも私の感じた綻びが、確かなものなのかも自信がない。逃げ場を齎さない眼圧に気圧されて、萎縮したように喉が引き攣った。
「どうかした?」
「あ、えっと……傑、疲れてない?」
 結局、迷いに迷って絞り出した言葉はあまりに凡庸だった。わざわざ踏み留まってまで傑に問いただす必要性のない、生産性のない質問。投げ掛けられた傑も胡乱な目付きをして私を見下げている。はっきり言って失敗だった。多分、何よりも傑が疎ましく思う尋ね方になってしまった。居た堪れない気持ちに沈み込んで、つられて目を泳がせる。僧衣を離すと、未だ震えの走る指先がみじめに戻ってきた。
「特に問題はないけど。心配するほど私が弱って見えたのかな」
「……違うよ。弱ってるとかじゃなくて……」
「なら急ごうか。後の予定も詰まってる」
 言葉に詰まった。傑は時折、他者から差し向けられる好意や善意に皮肉を交えて返すきらいがある。穏やかに凪ぐ瞳が海氷のように冷たくなる瞬間が確かにある。普段の優しさが身体に馴染んでいるからこそ、唐突に訪れるその変化には刃物で貫かれたような心地になった。
 でも、ゆえに確信する。こんな風に遠回しに突き放されるのは、裏を返せばわざと遠ざけようとしている証明だ。無理をしているんだろう。つくり上げた完璧が綻んでゆく瞬間を見せたくないのだろう。誰に打ち明けることもなく、ひとりで抱え込んできた傑の背中を見続けてきた。だから、彼の心境にも理解を広げているつもりだ。放っておいてくれ、と切れ長に縁取られたまなこが痛切に訴えている。その事実に直面しても尚、私は引かなかった。引きたくなかった。意地を張って、傑を見上げ続ける。これがありがた迷惑なお節介だと知っていても、愛想を尽かされることになっても、彼の不調を見過ごす人間にはなりたくない。
 先に折れたのは傑だった。深い溜め息が溢れ、決死の対峙にようやく終止符が打たれる。眉間に寄っていた小皺が解かれてゆく。内心、私はすごく胸を撫で下ろした。
「分かった。総会は一時間早く切り上げて帰ろう。それで良いかい」
 傑からの妥協に妥協を重ねた提案に、私は力強く頷いた。本当は今すぐにでも横になって休んでほしいけれど、宗教団体を束ねる教祖という手前、簡単には予定を崩せないことも分かっているから。私のふてぶてしい反応が予想外だったのか、はたまた愉快な絵面だったのか、傑はわずかに目尻を下げて笑った。非術師の集う会場へと足を運んだ傑を見届けると、身を翻してふたりの幼子が待つ別室へと向かった。


 夜が近付き、外景の輪郭が宵闇に滲んで溶けてゆく。先程までは大広間の人の出入りが盛んで賑わっていたのに、今はすっかり静寂に包まれていた。疲れ果ててしまったのか、菜々子と美々子は手を繋いで私の膝元で眠りに就いている。もうかれこれ予定時刻から三十分は経過していて、一向に傑からの音沙汰はない。何だか嫌な胸騒ぎがした。虫の知らせなんて非科学的な現象を信じた試しはないけれど、この世に呪術という非科学的なちからが実在する以上、強ちないとは言い切れない。そのうち居ても立ってもいられなくなり、ふたりを起こさないよう慎重に身体を床に横たえて、立ち上がった。
 闇夜に潜む芳しい若葉の香りを吸い込みながら、私は縁側に沿って歩みを進めた。普段なら傑は広間の近くにある一室で、僧衣から私服に着替えてこちらに戻ってくる。けれど、長々と続く廊下にひとの気配はない。和室で、はたまた道中で傑が倒れている可能性を思い描いて、ぞっと背筋が凍った。ただの早とちりならそれで良い。でも、その恐ろしい「もしも」がない可能性を否定できなかった。
 丁度ひとつめの曲がり角を過ぎたとき、障子を透いて微かに燃え上がる行灯の明かりを視界に捉えた。傑がいつも着替えを済ませている場所だ。光にたかる虫みたいに、無心で明かりの灯る部屋へと忍び寄る。胸が軋んで、流れる血液が煮え湯のように熱い。息を潜めて外側から部屋の様子を窺うと、間髪入れずに声が漂ってきた。私のよく知る、傑の声だ。
「……?」
「あ……良かった。遅かったから、心配で」
 呼び掛けられた瞬間に、身体に張り詰めていた緊張が解きほぐれてゆくのが分かる。一先ずは考え得る最悪の可能性を排除できたようだ。辿々しい返答を送り出しながら、私は当然のように障子に手を伸ばした。けれど、引き戸の縁に指先が引っ掛かる寸前、そこで待ったの声が掛かる。掠れていて、冷たい空気を一層ひりつかせる低音。傑の姿形を見留めずとも、その声音ひとつで拒絶されていると理解に至った。また私は間違える一歩手前だったらしい。気付いた瞬間、思わず指を引っ込めた。
「……入らない方が良い?」
「すまない。もう少しあっちで待っていて」
 ぴしゃりとはね退けられて胸が詰まる。傑が謝る必要なんて微塵もない。どれだけ突き放されたって構わない。でも、彼の不調を知っていながらこの場を立ち去るなんて真似はできない。意固地になった心がそう叫ぶから、往生際が悪く、私は再び語り掛けた。
「……なら、ここで待ってる。待っていたい。それもだめ?」
「…………」
 隔たりの向こう側にいる筈の傑から返答はなかった。代わりに、障子に映し出される大きな影が仄かに揺らめくだけだ。明白な拒絶がなかったのを良しとして、私は障子に背を向けて廊下に座り込んだ。我ながら無神経だと思う。でも、ここで傑を独りにしてしまっては、私がいる意味がない。傑に付いて高専を飛び出してきたのは、彼の抱えていた重苦も孤独も絶望も、ぜんぶ吐き出して貰いたかったから。少しでも楽になってほしかったからだ。完璧なんて絶対ではないし、幾らでも綻びを見せる相手がいたって良い。そういう烏滸がましくさえある考えが基盤にあったから、私はどうしても傑の傍を離れたくなかった。
 すっかり冷え込んだ空気に沈み、膝小僧を寄せて縮こまる。目の前に広がる中庭は、のどかな昼間の雰囲気とまるで異なった。鬱蒼と生い茂る木々が巨大な影絵をつくり出し、風も鳥もこの屋敷を囲うすべてが鳴りを潜めている。世界から音が消え失せ、色彩を失うだけでこうも心寂しく感じるのか。宛もなく眼球を移ろわせながら、そんな些末なことを思っていた。そしてふっと降りてくる、淡いセピア色に染まりつつある、昔日の記憶。
 あれは炎陽が肌を焼け焦がすような夏日だった。灼熱の視線から逃れるように高専の敷地内にある休憩室に足を踏み入れ、そこの長椅子に腰掛けている傑の姿を見掛けた。解けて無造作に跳ねた髪とこうべを垂れ下げる姿勢が、いつもの彼とかけ離れていて只ならぬ不穏を感じたのを覚えている。静かに歩み寄ると、傑は徐に顔を上げた。尋常じゃない汗、やつれた頬、そして不健康な青白い皮膚が蘇る。どうしてあのときまで、こんなになるまで私は彼の異変に気が付けなかったのだろう。罪悪感が喉に詰まって、うまく言葉が出てこなかった。流れ出さない会話の代わりに、私は震える膝をついて傑の背中に手を回した。壮大な意思を掲げたわけではない。本当に無意識の内だった。好きなひとの支えになりたいという、浅はかな願望とひとつまみの自己満足。傑は少したじろいだような気がしたけど、嫌がる素振りは見せなかった。私はそのまま彼を抱き留め続けた。
 蝉の声が鳴り響いて沈黙を許されない狭間で、傑の完璧が綻ぶ瞬間を見た。それは秘密の共有なんて大仰なものではない。ただそこに傑がいて、私がいた。それだけだった。在りし日の記憶はそこで途絶えている。
 きっとあのとき、わずかな時間だけでも傑に寄り添う権利を貰えたから、その役目を許されたから、私は自惚れている。その自覚はある。あの一夏の偶然が縁を結んで、こんな場所まで私を運んでくれた。運命的な結び付きでは決してないし、傑の匙加減ひとつで私が高専に戻される未来だってあり得ただろう。でも、今私は確かに傑の傍にいる。障子を隔てた先の背中越しに、彼の気配を感じている。偶然に偶然が結ばれてできた繋がりは脆くて拙いけれど、不思議なことに、この繋がりが断たれる未来だけは全く想像できなかった。あまりに身勝手な思い上がりだ。
 瞑目すると、この場を制する静寂と一体化したような気分になる。時間の流れが緩やかに感じる。そうしてどのくらい時間が過ぎ去ったのか分からないけど、不意に障子の開く音がした。背後の気配が大きくなって、近寄ってくる。
「すぐ、」
 振り向きざまに呼び掛けようとした彼の名前が、最後まで紡がれることはなかった。手首を引っ張られ、その力に導かれて部屋の中へと雪崩れ込む。衝撃はなかった。あるのは私を包み込む逞しい腕の感触と、身体にこびり付いた冷気を一瞬にして飽和させる温もりだけ。傑に抱き寄せられたのだと気付くのにそう時間は掛からなかった。
 後頭部に手を回されて、息が止まるほど強く強く抱き締められる。耳元で囁かれた言葉は、ごめんという今にも消え入りそうな三文字だった。
「私はいつも、君を傷つけてばかりだな」
 自嘲めいた呟きが落とされて、胸の奥が熱くなる。体内に棲む悍しい数の魑魅魍魎に蝕まれながら、そんな些細なことを考えてくれていたの? 申し訳なさと不甲斐なさ、そして馬鹿みたいな嬉しさが込み上げてきて、胸が潰れそうだった。
 いつだってそうだ。傑は冷酷じゃないし非道でもない。彼なりに曲げられない正義があって、折れない信念がある。真面目で、優しくて、時々ずるい。懐に引き入れた大切な人ならば、責任も人生ですら背負おうとする。そんな器用なようで不器用なひとを私は好きになって、ここまで付いて来た。今になってその実感が湧き上がっていた。
「良いの。傑の力になれるなら傷ついたって良い。どんな傑も大好き」
 私の切実な思いの丈を、きっと傑は汲み取ってくれたのだろう。そう思わせる力できつく抱擁される。は馬鹿だな、なんて微かなささめきが耳朶に触れて、こそばゆかった。
 呼吸を求めて衣服の海から顔を出すと、傑と目が合った。滅紫の尖った双眼はその形に似合わず、柔らかく細まっている。瞳の奥には困ったような嬉しいような複雑な色が灯っていた。あの頃から少しだけ長くなった黒髪が解かれ、脱ぎかけの僧衣ははだけている。きっとこの姿を、今までの傑なら見せてくれなかっただろう。自分の不完全な状態を隠し続けていただろう。今日限りかもしれないけど、初めて傑が完璧な衣を取り払って、私を内側に招き入れてくれた気がして、嬉しくなった。そして性懲りもなく視界が潤む。緩みきった涙腺に我慢を強いれば強いれただけ、傑は少年のように朗らかに笑った。
 傑が選んだ道が正しいのか正しくないのか、私には分からない。でも、彼が選んだ道に光が差さなくても、その道程が完璧じゃなくても良い。間違いだって構わない。納得できる方に、後悔しない方に、進んでほしかった。
 私はここにいて、傑の傍にいたいだけ。優しすぎるこの人が少しでも肩の荷を下ろして心休まる居場所になりたいだけ。深い地底のような闇の中であっても、ここに留まる理由なんて、それだけで十分だ。


2021/03/05