鎖した愛には鍵をかけて
01.日下部 02.五条


 豆粒大の――はちと過言だとしても、俺の目にはそう映るくらいの小さな爪がきっちり足並みを揃えて並んでいる。
 普段は脱がせる手間暇を惜しんで破いてしまう安物のタイツも、今日は何となく、その労力を正しく使おうという気になった。厚ぼったいだけで防寒性を発揮しているのか甚だ疑わしいタイツを片足から引き抜く。素足を抱え込むときには桜貝にも似たかたちの良いピンク色が待ち構えていたが、今日は違った。一体どんな悍しい沼地に足指を浸したのか。人工的な青色が丁寧に塗りたくられた、禍々しい五指が露わになったのだ。只でさえよく分からんキラキラが詰め込まれているのに、光の加減によるものか、角度を変えると無限の色彩が表出する。何もこんな極寒の時節にわざわざやることか? 末端の奥深くで息を潜めていた奇抜な装飾に疑問を抱きながら、反対側の足からもタイツを引き抜く。
 そこでふと、シーツに横たわっている女の息遣いに気が付いた。その微かな吐息には確かな笑みが紛れ込んでいる。軽やかに洩れ出る息に共鳴して、丸まった爪先がよく動いた。面倒は承知で仕方なく、戒めの視線を送るために上体を起こした。
「いいでしょ、それ。五条くんにやって貰ったの」
 枕に預けていた頭をわずかに持ち上げたは、要求していない言葉を自慢げに差し出してきた。だらしなく緩まっている口元には、この場にいないヤツお得意の不敵な笑みがちらついて、鬱陶しいったらない。もう一度目線を下げて、蛇の抜け殻のように縮まったタイツを投げ捨てながら、まろみを帯びた足を担ぎ上げた。
「……やっぱり五条くんね、何してもお上手だよ。私が塗るより断然きれいにしてくれた」
 ひとりでべらべらと報告してくるは、俺も大概だが、まるでひとの心がない。聞き流して行為を続行する俺の態度がお気に召さなかったのだろうが、それにしたって、男とベッドに雪崩れ込むさなかにそんな話題を持ち出すヤツがあるか。この底抜けの性格の悪さを今更どうこう咎めるつもりもないが、怒りを通り越して萎えかねない言動だけは止めろと叫んでやりたかった。
 とは言え、わざわざの思惑に乗ってやる必要もない。溜めに溜めた鬱憤の代わりに、この愛憎ひしめく性欲をぶちまけてやろうかと考えながら足を開かせる。だが、存外は不服だったらしい。眉間に皺を寄せて頬を膨らませたかと思えば、肩に持ち上げていた拘束から抜け出して、両の太腿を固く閉ざしたのだ。揃えられたふたつの足裏が柔く下腹部を押し上げてくる。急所を刺激する両足の爪先が、片手で数えられるほどしか見た試しがない五条の眼球のようで、大層気味が悪かった。狙ってやってるのだとしたら、見た目に依らずには加虐の素質があるのかもしれない。
「ね、怒ってるの」
「……呆れてんだよ。年下の男に甲斐甲斐しく世話を焼かせるオマエにな」
 いかにも愉しげな声色が耳朶に触れたから、逆に俺としてもここで音を上げるわけにはいかない。ご乱心な欲望を抑え付けて、の鼻を明かしてやろうと望まない答えを突き付ける。皮肉を混じえた返答に目を瞠りこそしたものの、はすぐにけろっとしていつもの調子を取り戻した。寧ろ先程より濃度の増した嫌みったらしい笑みが上乗せされている。弄ばれている事実に辟易して、これ見よがしな溜息を吐きつけてやった。
「今度は日下部さんがやってよ。道具一式持ってくるから」
「やってられるか、んなまどろっこしい作業」
「案外向いてるかもよ?」
 爛々と声を弾ませるは、俺がどういう質の男かも余すところなく理解しているくせに、試すような口振りで誘導しようとする。向いてるワケがあるか。ちまちまと細かい作業に没頭するのは性に合わないし、失敗すれば頭上から文句が垂れ流されるに決まっている。脳裏にその情景が過っただけで、うんざりだった。何より、の計らいが言葉の隅々から滲み出ていやがるから、余計に煩わしい。
「俺がやったら今度は五条に見せつけるのか?」
 性悪なこの女が考えそうなことなんてお見通しだ。内なる企図を暴いてやると、の唇はにんまり弧を描いた。俺と過ごした時間の一部を五条に突き付けたところで、アイツは腹に蟠る重たい泥濘みのような感情をそう易々と見せはしないだろう。どうせ抜け抜けと躱して、ちっとも気にしていませんといった態度を貼り付けるのだ。この女に捕まってしまったがゆえの、さだめのようなものに絡め取られて、嘆かわしい虚勢を張らずにはいられない。俺と同じように。
「日下部さんが折角がんばった証、誰かに見せないと勿体ないよ」
「ぬかせ、この減らず口が」
「っ! んっ……」
 いい加減、取り留めのない無駄話も聞き飽きた。野放図な唇を塞ぎ、濡れた舌で存分に口内を踏み荒らす。は最初こそ抵抗していたものの、次第に借りてきた猫のように大人しくなった。暴虐を極める舌を受け止めて、従順になって、身体を熱くさせている。
 唇を離すと、涙を溜め込んで揺らめいている瞳と目が合った。翻弄していたつもりが逆に翻弄されている、形勢逆転を許したの浅はかさが、この瞳によく反映されていた。
「……せっかち」
「俺はここに五条の話聞きに来てねーんだわ」
 頑なに閉ざされていた足を開かせ、先を急ぐ。くどいほど塗り重なった厭わしい紺碧が視界から完全に消え失せたとき、ようやく俺は胸を撫で下ろすことができた。すべてを見果てる異能の眼を想起させるその色は、この行為さえも見破られているような不快感を湧き上がらせていたから。
 シーツに刻まれた皺に指を引っ掛けてたじろぐは、そのときばかりはあの男の影が消え失せるただの女になって、何よりも小気味良かった。




「あっからさまだねえ」
 色素の薄い髪が渦を巻いてつむじに流れている様を眺めていると、そんな刺々しい五条くんのぼやきが空気を震わせた。私がこの反転した上下関係にうっとり目を細めて浸っていたときだ。
 五条くんを見下ろすよりも見上げる頻度の方がよほど高い。身長差に鑑みれば当然とも言えるけど、一同僚として接するときも私生活に踏み込まれてなし崩しの夜を迎えるときも、大抵彼を見上げる側にいる。そんな私が五条くんを眼下に捉えられる唯一の瞬間がペディキュアを塗って貰うときだ。先日、任務帰りに何のてらいもなく家に転がり込んできた彼は、色彩を与えられる最中の爪先に大層目を輝かせた。確かに爪に色を付ける行為もその過程も、興味がなければ中々遭遇しない事象だろう。物は試しに使い掛けのネイルポリッシュを差し出すと、思いがけず五条くんは乗り気で、率先して小瓶を受け取った。厚い唇に抑えきれない笑みを乗せて、私の足首を引き寄せると爪先の彩色に没頭し始めたのだ。桁外れの図体を丸めて屈み込む姿に、私だけが知る五条くんを垣間見た優越感が湧き上がったのはここだけの話だ。それからというもの、偶にこうして爪先を自由にできる権限を差し上げている。見ようによっては年下の男の子を良いように侍らしているとも言えるけど。いや、つい先日指摘されてしまったけども。
 今日も今日とてソファに凭れて差し出した爪先に、床下に蹲る五条くんは嬉々とした様相で麗しく青々とした自分の眼球の色を乗せようとした。その直前になって、唐突にご機嫌斜めな文句が流れてきたものだから、私としては首を傾げる他ない。事態を飲み込めない旨を惜しげなく曝すと、私を見上げた五条くんは一層顔を歪めた。
「これ、僕への当てつけかなんか?」
「うん?」
「噛み痕、きれいに残ってる」
 左足の薬指、その付け根辺りを雑に撫ぜられて、ようやく得心がいった。五条くんの気が立ち、喉奥で押し潰したような低音を醸し出さずにはいられない理由。はっと閃きが走った瞬間、思わず吹き出してしまう。腹を抱えて笑うと、益々五条くんは不貞腐れて唇をむっと尖らせた。軽薄なお調子者、なんて外装を纏う彼だけど、案外年下らしくかわいい性格も秘めているのだ。私だけがその本質を炙り出せる、或る意味でひとつの特権。
 青味を帯びた銀髪をかき混ぜながら、五条くんではない別のひとの存在を思い起こした。あれはいつだったっけ? 仄かに思いを馳せると、噛み付かれた瞬間の痛覚が呼び覚まされて腰が疼いた。
「数日前かなぁ? 五条くんに爪塗って貰ったって自慢したら仕返しされちゃった」
「ふぅん? あのひとも大概幼稚だな」
「周りが思ってるよりずっと幼稚だし欲深いひとだよ」
 私が五条くんと過ごした一夜の片鱗を滲ませたときの日下部さんの表情といったら。憎らしくて忌々しくて堪らないのに、歯向かう余地なくシーツに私を沈めるしかない諦めの境地が見え隠れしていた。杜撰な性格を盾にしてペディキュアを断っておきながら、さらっと噛み痕は残していく辺り、強かで狡猾で、何より嫉妬深い。生きる活力を失ったような無愛想を貼り付けていながら、その実とても図太いし人間らしい人間なのだ。
「あーあー、惚気ですか」
「そう聞こえた?」
「聞こえたよ。さんも大概ってか……ふたり揃って良い性格してるよ、ホント」
 全くもって五条くんが言及するべきでない文句を垂れ流しながら、俯いて爪先に集中力を傾け始めた。偏光ラメの縹色をたっぷり染み込ませた刷毛で、丁寧に塗り込んでゆく。私より一回りも二回りも大きい手が、慣れた手付きで滞りなく彩色を施しているのを見ると、何とも言えないむず痒い心地に陥った。
「はい、終了」
「ありがとう。今日も大変お上手で」
「……あのさあ」
 むくれながらも完璧にやり遂げてくれた五条くんが無性に愛おしくなって、わしゃわしゃと頭を撫で回す。さながら散歩をすっぽかしたご主人に丸め込まれる大型犬のようだ。呆れ果てているのか、或いはもう苦言を呈したところで無意味な問答だと投げやりなのか。皮膚を焦がすような視線が突き刺さって、無言の静寂が徐々に波打ってゆく。五条くんのスイッチが切り替わる瞬間って分かりやすい。……ううん、違う。何でも熟す器用な彼ならきっと、煮え滾る欲望も嫉妬も覆い隠すことなんて造作もない。わざと発してるんだ。この摩耗して浪費する関係に浸って流されるだけではないと、年下の五条くんが繰り出すいじらしい反撃が牙を剥く。
 立ち上がってソファに膝を付いた五条くんの巨躰によって、すっぽり影に覆い尽くされた。体勢は逆転して、呆気なく見上げる側の常態に押し戻される。背もたれに両腕を突き出して腕の囲いをつくった五条くんは、ほくそ笑んだかと思えば瞬く間に唇にキスを落とした。
「上手にできたご褒美くれるんでしょ?」
 耳の穴にその甘美な囁き声を送り込まれてしまえば、私の身体は蝶番が外れたように制御が利かなくなる。肌が粟立って、背骨に熱い戦慄が走った。
 塗り終えたばかりの爪先はまだ乾く素振りすら見せなくて微動だにできない。つまり私はどうあってもこの柔い拘束から抜け出せないのだ。元より逃げるつもりは毛頭ないけど。私の前でだけ余裕を失って、年下相応の振る舞いで何とかねじ伏せようとする彼が、どうしようもなく可愛いから。
「いいよ。とっておきのあげる」
 両足をわずかに浮かせて、乾く前に剥がれてしまわないよう細心の注意を払いながら、五条くんの後頭部を引き寄せる。
 身体の表面から内側の最奥まで貪り尽くされかねない強欲な口付けが降りてくるとき、あの五条くんがただひとりの個体に夢中になっている実感を享受する。その人間らしい欲望の渦に飲み込まれて、目眩がしそうになるのだ。


2020/11/01