明滅するは未完の夜
 外界では色とりどりの明滅が並んで華やかな情景を編み出しているのに、車内は色彩を持たない闇が溶け落ちている。この場で唯一、彩を与えられているのは青味がかったしろがね色の髪だ。助手席に座る彼女の美しい髪が、後方に過ぎ去っていく電灯によって仄かに明光を浴びる。絹のように艶めく髪を視界の端に捉えながら、前方だけを見据える優秀なドライバーを取り繕って、車を走らせ続けた。
 補助監督というどこにも根を張れない中途半端な管理職を続けていると、意思を押し殺して世間を渡ることばかりが上手くなる。その性質に紐付けられて、車内で送迎相手の意思を推し量ることも、どういう応対を求められているのか見極めることも、長けてくる。例えば五条さんなら、口を挟む余地なく舌が回り続けるから話題を提供しなくて済むし、彼の性格も相まって肩肘を張る必要があまりない。例えば七海さんなら、術師と補助監という同僚としての適切な距離感を保って接してくれるから、仕事上のミスさえやらかさなければ問題ない。私の一番身近にいる術師なら――あのひとなら、どうだろう。五条さんと似て非なる勝手を貫くひとだけど、体裁は寡黙で実力のある術師を装っているから、少し近寄りがたいかもしれない。話題の選択ひとつ取っても手に汗握るし、それで話が弾まなければ車内一帯はお通夜会場だ。一般的にはそういう認識なんだろうけど、実際のところはただ飴を貪って、今は断ち切っている煙草を未練がましく偲んでいるのだと知っている。
 さて、それじゃあ隣の女性はどうだろう。
 隣の女性――冥冥さんはフリーランスの術師だから、高専に従事する私が送迎を任せられることは滅多にない。というか一度もない。今日は偶々、高専で何やら商談を進めていたらしい彼女の帰着便に、敷地内で暇そうに彷徨いていた私が目を付けられただけのこと。術師のひとは大抵、目線の源泉を覆い隠して呪霊との関わりを極力避けているけれど、それにしたって冥さんの相貌は群を抜いて異質だ。美しく流れる髪を前面に押し出して、目元どころか表情の機微すら窺えないようにしている。髪の束を持ち上げたときに一瞬、目視を叶えるあの薄く笑みを象った唇だけが、ただひとつ私に齎される彼女の情報だった。そこから計り知れることなんて何もない。つまり、車内には雑音混じりラジオが浮かんでは消えていくだけで、私の能力はほとんど意味を成さずに沈黙が場を制しているということだ。
 幾らか先の信号が点滅し出したのを見届けて、ゆっくりブレーキを踏んだ。ここは捕まれば中々発進できないことで有名な魔の交差点だ。落とした沈黙の影が着実に伸びてきて、足元を脅かす。何か言葉を発したいのに何も思い付かない、逃れられない緊迫感が喉元にまで迫り上がってくる。焦燥感が満ち満ちていく手のひらで忙しなくハンドルを握り直していると、突如としてそれは起こった。
「昨晩は随分、野蛮な獣とお楽しみだったのかな」
「えっ……」
 すぐ耳元でささやかれて、思わず肩が跳ねる。突然耳朶に触れた冥さんの声は、外見に違わず怪しげで含みを持たせていた。まるで心の奥底まで見透かされて掌握されてしまうような感覚に、荒々しく心臓が波打っている。声色に気を取られて肝心の内容には上の空だったから、改めて噛み砕いてみた。――野蛮な獣?
「ここ、赤くなってるよ」
 のろまな脳みそが理解するより先に、その追随が先行した。冥さんの細長い指が伸びてきて、首筋を軽く叩いたのだ。先程の抽象的な問い掛けよりはだいぶ具体的に指し示されても尚、私は首を捻るばかりだった。赤くなっている――首が? 狭苦しい車内で紡がれた、冥さんの数少ない発言を反芻する。そして点と点が繋がるように徐々に事実が輪郭をもち始めて、はっと息を呑んだ。思い当たった昨夜のとんでもない記憶が沸々と蘇ってくる。車窓側に後退り、勢い余って後頭部を打ち付けた痛みにさえ対処せずに、真っ先に指摘された首筋を手のひらで覆い隠した。昨晩溢れるほどに与えられて、溜め続けていた熱が再びぶり返してくる。
「や、これは、ちが……」
「おや。青になってしまったようだね」
 私の奇天烈な狼狽っぷりには見向きもせず、冥さんは手指の矛先をフロントガラスに差し替えた。分厚いガラスに隔たれた視野の向こうで点灯する信号機は、確かに青色に切り替わっている。慌てて姿勢を立て直し、ブレーキからアクセルへと足を踏み変えた。後方に車が停車していなかったことに感謝しながら、散り散りになっていた落ち着きを取り戻すように少しずつ前進する。その最中、自然な所作を装って耳にかけていた髪を下ろす。首筋を隠す荒業に打って出るも、冥さんはお見通しだと言いたげに唇から不敵な笑みを零した。振り払えない羞恥の熱が絡みついて、穴があったら入りたいとさえ思った。
 平日の夕方にしては比較的空いている大通りを抜けながら、目的の駅をカーナビ上の地図が捉える。冥さんが指定したその駅は、高専の最寄り駅よりは若干遠くに位置しているから、あまり訪れる機会がない。慣れないロータリーへと慎重に進み、丁度一台分空いていた脇に停める。「お疲れ様でした」とできるだけ平静な声を絞り出して見送ろうとするも、シートベルトを外した冥さんはドアを開く気配を見せない。こちらをじっと凝視してくる。取り隠された目と目が交じり合うことはなく、見つめ合う体裁だけが整ってしまう。あたかも視線が絡み合い、心まで通い合っているかのように。
「ありがとう。良いハンドル捌きだったよ。優雅な休日のドライブを楽しんだ後のようだ」
「それは……光栄です……?」
「補助監督としては申し分ないけれど、後は男の趣味かな。もう少し嗜みのある男か――女を見つけると良い」
 正直、過大評価も良いところな冥さんのリップサービスは、分かっていても心をくすぐられた。けれど途中に挟まった男の趣味とやらには首を傾げざるを得ない。冥さんがどうしてそんなことを気にするのだろう? 不可思議な靄に包まれたように思考は不鮮明だったけれど、その薄靄は呆気なく取り払われた。外界からの差し金によって。
「何やってんだ、オマエら」
 突然、助手席側の扉が開く音が響くと共に、昨晩ずっと耳孔に注ぎ込まれた声が降ってきた。心臓が今日一番の高鳴りを披露する。流れ打つ血液が沸騰しそうなほど熱いのに、肝は急速に冷えていく。相反するふたつの現象が、私の身体を縦横無尽に揺さぶった。
 日下部さんだ。任務帰りか、市内の見回り帰りか定かでないけれど、くたびれたトレンチコートを粗雑に着込んでいる。口寂しさを紛らわすための飴の棒を右手に持ち替えて、助手席の冥さんを見下ろした。あまり目にした試しのない、鋭く研ぎ澄まされた眼光が宿っている。冥さんは日下部さんの形相にも尻込みすることなく、それどころかやや砕けた口調で応対した。
「やぁ日下部。奇遇だね」
「奇遇ってことで通したいならもう少しマシな面しろ。面白いって顔に出てんだよ」
「おや。オマエと、オマエの彼女に巡り会えたのに面白くない日があるか?」
 彼女と名指しされたのが私なのだと気付いて、大仰に全身がびくついた。見れば日下部さんが、冥さんに向けたものと同じ類の睥睨を私に寄越している。生徒の不始末を目で叱り付けるような、失望しているようなそんな表情だ。非ぬ嫌疑をかけられて咄嗟に首を横に振る。私は一言たりとも解答を、そう勘付かれる証拠のひとつさえ提出していないという意を込めて。日下部さんは私の慌てふためく挙動を一瞥して、意図を察したのか重たい吐息を吐き出した。
「……とりあえずそこ代われ。オマエこの駅だろ」
「あぁ。じゃあね、お嬢さん。今度はふたりきりでのドライブに耽るとしよう」
 本気か冗談かの判別が難しい誘い文句を置いて、冥さんは悠々とした足取りで構内へと消えてしまった。闇夜に同化しそうで、けれどその鮮明な彩が浮き彫りになる後ろ姿には思わず見惚れてしまう。煌めくしろがね色を目で追っていると、惚けた私に一喝するように日下部さんが放つ低音が響いた。
「高専まで」
「は、はいっ」
「……。オマエも何で猫被ってんだ」
 別に猫を被っているつもりは微塵もない。ないけれど、これはれっきとした仕事だから公私の区別はきっちり付けなければならない。そう意気込んでエンジンを噴かせると、日下部さんは諦めたように腕を組んで背中を倒した。
 丁度任務が終わった矢先、補助監督に迎えの連絡を入れる手前のこと。前方に薄っすら見慣れた黒塗りの車両を捉えて、手間が省けたとばかりに近寄ってみればフロントシートに座るのは私と冥さんだったものだから、急いで駆け付けたのだと言う。日下部さんは淡々とした物言いで経緯を語ると、手元の飴を咥え直した。気怠そうな面持ちで、また煙草に思いを馳せていそうだ。
「冥はとにかく腹に一物あるっつーか……何考えてんのかサッパリ分からん。俺の知り合いだからって信用するなよ」
 暗がりの車内に、日下部さんの芯の通った声はよく通る。急いで駆け付けたなんて言う割には随分落ち着いていて、そういう大人ぶった姿勢が時たますごく悔しくなる。今日だって絶妙に私の幼心を刺激してくる日下部さんに対して、むかむかと内なる憤懣が育ってゆく。大層立派なものでもない、きれいな女性と知り合いだという事実をサッパリの言葉ひとつで丸め込もうとされたが故の、みっともない反抗心のようなもの。全く見当違いなところで蟠りを募らせていると露ほども知らない日下部さんは、能天気に窓の外を眺めていた。
「……冥さんに付け込まれる隙をつくったの、日下部さんなのに」
「なんだって?」
「だから、その……首の、キスマークが……」
「あぁ?」
 渦巻く反骨精神に見合った反撃が繰り出されることはなく、飛び出た言葉は尻すぼみになって闇の彼方に沈んでゆく。徐々に怒りよりも羞恥が勝ってきた。私、何言ってるんだろう。浮ついた失言にぎゅっと唇を噛み締めていると、突然、左側から指が差し伸ばされた。思わず心臓が口から飛び出そうになる。触れた指の感触は、冥さんのなめらかな女性のそれとは全く異なる、ささくれ立った厚ぼったい指だった。私の横髪をかき分けるようにしてうなじにまで侵入し、曝された首元を日下部さんがじっと覗き込む。デジャヴュだ。冥さんに齎された既視感ではない。昨晩、私の後頭部を支えるように髪をかき分けた日下部さんがフラッシュバックする。汗で濡れた背中を抱き寄せてもらいながら、その後、どうなったんだだっけ。その後……。
 運転中にあられもない情景が過りそうになって、慌てて意識を入れ替えた。このままじゃ大事な一級術師様が同乗する車で危うく事故を起こしかねない。窓を若干開けると、のぼせた頬に心地よい風が貼り付いてくる。首筋から目を離さない日下部さんから意識を逸らすように、冷気に縋り続けた。
「そんなん付いてねぇぞ」
 十分吟味し終えたのか――といっても、この暗闇で見極められたのか甚だ疑問ではあるけれど――運転席側に少し身を乗り出していた日下部さんは、何の感慨もなさそうに呟くと助手席へと戻ってゆく。私はと言えば、また別の側面から混乱を強いられてしまった。与えられた情報の整理に奔走する脳内が悲鳴を上げている。
「う、嘘。だって冥さんが……」
「……化かされやがって。大体そんなしょーもないモン付けるか」
 呆れ果てたように飴を噛み砕きながら付け加えられた日下部さんの一言に、胸がきつく締め上げられる。最初の質問がうまいこと噛み合ってしまって、冥さんの優しさから成る指摘なのだと勝手に納得してしまった。馬鹿正直に反応したがために引き起こされた悲劇だったのだ。騙された挙げ句当て擦りのような減らず口を叩いてしまった自分の失態に辟易して、今すぐにでも死期を悟りたくなる。あれよあれよと気分が沈んで肩を窄めると、反比例するように日下部さんはかっかっと呑気に笑った。嘆かわしいのは自分の体たらくだとは言え、やっぱり悔しいものは悔しい。最後の抵抗とばかりにちからを振り絞った。
「し、しょうもなくない……私にとっては大事なことだったの」
「何だ、付けられるの好きだったのか」
「ちがっ……好きじゃない! 付けなくていい!」
 ニヤリとほくそ笑む日下部さんを気配だけで察してしまって、もうどうにも制御できない感情で煮え立ちそうだ。日下部さんが後に零した「見えないとこな」という今夜を暗示する鮮烈な呟きには、知らないふり、聞こえないふり。黙秘を貫いて、けれども肯定と捉えられかねない沈黙をかき消すように、アクセルを目一杯踏み込んだ。


2020/10/10