mellow asterism

同一夢主によるそれぞれの△SS集のようなもの

家入+五条 夏油+家入 五条+夏油



、こっち」
 指一本を駆使してこまねくだけで簡単に、は家入の元へと駆け寄ってくる。それこそ従順な飼い犬のよう。癒やしの象徴、ポメラニアンのように。何の疑問も猜疑も抱かずに軽やかな足取りで歩み寄ってくるからは、ある筈のない尻尾の幻覚が見え隠れしてしまう始末だ。純朴を纏ったの笑顔に内心絆されながら、彼女を自分の真向かいに座らせた。
 何が催されるのか想像つかないはひたすら首を傾いでいたが、家入は敢えて明確な回答を示さずに行動に移した。
「手出して」
「手?」
「そう。ささくれ、ひどいって言ってたでしょ」
 あれは冬に向かって駆け出した半ばの季節のことだった。薄手のコートに身を包んだが自分の手指を食い入るように見つめ、恥ずかしそうに俯いていた。「私の指、あんまり硝子ちゃんみたいにきれいじゃない」妬みでも嫉みでもなく、純粋なないものねだりのように、鼻先を赤くしたは眉尻を下げた。
 他人の皮膚の状態なんて、それこそ怪我人の治癒のために観察する以上の意味を持たなかった家入は、そこで初めて関心を向けた。確かにの手指は所々表皮が剥けていて、お世辞にもきれいとは言いがたい皮膚が覆っている。おまけに術師稼業のさだめと言うべきか、呪具を扱うは必然的に傷痕や血豆が耐えない手のひらをしていた。年頃の女子として、滑らかで淑やかな指に憧れを抱くのはある意味当然かもしれない。
 何てことのない会話がずっと錨のように胸の底に沈められて、何とも気味の悪い蟠りを生み出していた。だから、家入はさっさとその懸念を払拭してしまおうと思い立ったのだ。
 家入の意向に沿って、は無邪気に手のひらを差し出した。それを見届けた家入はポケットに忍ばせていたハンドクリームを取り出して、絞り出した中身をの手のひらに塗り込んでいく。仄かな冷たさと家入の温もりが入り混じり、融和した特別な液体。しっとりと潤いの増した手のひらが傷だらけの肌を優しく包み込む。は感嘆の声を上げて、無垢な光を詰め込んだ眼差しを家入に向けた。
「これ、硝子ちゃんの?」
「そう。何もしないよりはマシでしょ」
「うん……ありがとう。すごい、良い匂いする」
 ふんふんと漂う空気を嗅ぐような真似をして、は嬉しそうに頬を緩めた。ハンドクリームの香りをも弾き飛ばすほどの愛い仕草に、柔らかな笑顔に、無表情を貫きながらも家入の内側は温もっていた。
「私、今すっごく役得だね」
 その上何の気なしに、そこらの男共ならば歯の浮くようなセリフを本心から紡いでしまうものだから、もう堪ったものではない。長い溜め息を吐き出して、家入はじっとを見据えた。
「それ、こっちのセリフ」
「え?」
「はい、おしまい。今度一緒に買いに……」
 自然な流れでそう約束を取り付けようとして、家入の言葉は止まった。正確に言うならば、引き戸の開く音に掻き消された。
「……何してんの」
 扉と同程度の身長の大男――五条が、教室の外側からまじろぎもせず家入達を射竦めていた。サングラスの隙間から覗くまるこい碧眼には、今にも暴発しそうな危うい青が揺らめいている。内心、家入はほくそ笑んだ。同じような感情を擁していても、男と女とでは至れないであろう境地を垣間見たからだ。指を咥えてささやかな妨害しかできない五条を討ち取ったような心地だった。
 は五条の到来に瞬きを繰り返して、「悟くんだ」と朗らかに名前を呼んだ。声のする方に、それこそ躾けられた飼い犬のように、五条がの元へと寄ってくる。眉間に刻まれた皺は今も尚健在で、家入への警戒心が解かれることはなく。
「硝子ちゃんにハンドクリーム塗ってもらったの。良い匂いするよ」
「ふーん」
「悟くんも嗅いでみる?」
「は……!?」
「バカ、
 家入が咎めるも時既に遅し。立ち上がったは、香りの漂う手の甲を五条の鼻下にまで持ち上げた。五条の鼻腔に香りを到達させまいと、家入が思いきりの腕を引く。ぐらついたは家入の肩に引き寄せられて、間の抜けた声を上げた。
「それ、私のだから」
「分ッ……かってるわ」
「え、なに?」
 変に興奮しないよう家入が念押しすると、五条は更に顰めっ面を湛えて、鋭利な低音を撒き散らした。好いている女の香りが別の女に植え付けられたものだと知っても興奮するのか、はたまた憤怒や嫉妬が先行するのか。興味深そうに、別の観点からは視線にたっぷりの憐れみを含ませて、五条をじっと凝視した。その家入の分かりやすい思惑には乗ってやるものかと、五条は更に顔を強張らせる。詰まるところ盛り上がる箇所が欠片もない、無得点続きの延長戦だった。
「今度買いに行くならどんな香りがいいかなぁ」
 そんな不穏な空気に絶妙に馴染まないの間延びした声を受けて、五条と家入はどちらともなく息を呑み、仕方なしに頷きあった。これ以上無為な戦いは御免こうむるとばかりに、個々に意見を述べていく。
「あー……甘い感じの」
「何言ってんの? には柑橘一択でしょ。これだから童貞は」
「オマッ……何テキトーなことぬかしてんだ」
「否定しないんだからそういうことじゃん」
「ちげーわ!」
「どっちの香りもよさそうだねぇ」
「……」
「……」
 五条と家入とは別世界に住んでいるのではないかと疑わしくなるの穏やかな返事に、見る見るうちに毒気を抜かれていく。再び目と目を合わせた五条と家入は、同時に大層な溜め息を吐き出して、また無為な口論へと身を乗り出していった。



「一本もらっても?」
 この柔和に彩られた声がそう尋ねるとき、ある種の強制力が伴っているような気がして、家入の気分は滅法下がる。それでもその願いを無下にはしない。温顔に似合わない嗜好品に縋る優男の姿は、日々の溜飲を下げてくれるのだ。ある種の優越感を、充足感を、合意の上で摂取している。
 箱から煙草を一本抜き出して、差し出す。差し向けられた本人――夏油は、滑らかな所作でそれを引き抜き、口元に運んだ。どうせその厚い面の皮を被ってライターも要求してくるだろう。そう思い及んで家入はポケットを弄るために視線を落とす。そこにぬっと影が忍び寄った。小さな体躯を覆い尽くす暗影が降りてきて、あっという間にそれは起こった。
「! ちょっと……」
 夏油が、咥え込んだ煙草の先端を家入のそれに近付けたのだ。程なくしてその境界は溶け合い、線香花火を炎に翳したように、じんわりと鮮やかな赤が伝っていく。力業で貰い受けた熱を大事そうに持ち帰り、夏油は緩やかに紫煙をくゆらせた。その仕草かたちは学生身分に似つかわしくない、煙草を嗜んでもう何年にもなる愛煙家のような品を感じさせる。どうせ街に繰り出した先で、こうやって年上の女と文字通りの火遊びに興じているんだろう。真偽は定かでないにしても、想像上の夏油にはそのまま火傷して大惨事になってしまえと念を送っておいた。ついでに毒っ気をたっぷり含ませた白煙を、現実の夏油に向かって吐き出す。煙たそうに咳払いをして眉を顰める夏油に、小馬鹿にするように家入はふんと鼻で笑った。
「どんな神経してんの?」
「ライター取り出すの面倒だったろう」
「そっちが待ちきれなかったんでしょ」
「そういうことにしておくよ」
 上に上にと発言を積み重ねて自分の地位を譲ろうとしない夏油に、呆れ半分で家入は溜め息を吐いた。ゆらゆらと揺れる煙が真昼の太陽に向かって立ち昇る。木々の隙間から差し込む陽射しは、ふたりがかりで濃度を上げた紫煙に掻き消されてしまった。規律的な学生から大きく逸脱した贅沢な一服に、身を委ねる。
 さて、どこで話題を切り出そうと考えを巡らせていた家入だが、結局口を割ったのは役目を全うした燃え殻を靴裏ですり潰した後だった。
「来週末、とデート行くから」
 舌に残る苦々しくて病みつきになる馴染みの味を移し替えるように、毒々しい宣言を押し付けた。承諾を得るためではなく、決定事項を伝える事後報告として。そして、邪魔を入れてくれるなという牽制の意を込めて。
 珍しく、夏油は意表を突かれた表情をした。動揺の色を隠しきれないまなこと、薄く開かれた唇。あまりお目にかかれない表情に、家入の鬱憤もいくらか晴れていく。たまにはこちらが優勢になるのも悪くない。そんな心情が浮かんで「それじゃ」と立ち去ろうとした家入だが、夏油が腕を取り、素早くそれを差し止めた。
「……女性ふたりだけじゃ危ないんじゃないか」
「愛娘を手元に置いておきたい毒親?」
「そういう意図はないけど。純粋な心配だよ」
「ふ〜ん」
 聞く耳を持たない家入は、興味なさげな相槌を繰り返した。夏油の上擦った焦りを孕む声には、純粋どころか隠しきれない不純な下心がうっすら透けている。いつも家入や五条よりも一歩先を行き、安定した立場を確立していた夏油が、こうまで焦燥を露わにするとは思いも寄らなかった。一矢報いた気になって、家入はけらけらと陽気に笑い声を上げる。その快活な声色に反比例して、夏油の気分は地中にまで落ち込んでいった。
 やがて夏油も吸い殻を地面に落とし、土埃で火を消した。家入の腕を解放し、やんわり宥めるように言葉を探した。
「変なこと吹き込まないでくれよ」
「変なことって? あぁ、この前腕がの胸に掠ったって五条と騒いでたこと?」
「…………硝子」
「夏油も男子高生だもんね〜仕方ないよね〜」
 その言葉が仇となり、ちくちくと針を刺すように仄めかされる。家入のやけに弾んだ声が、今の夏油には重石のようにのしかかっていく。結局折れたのは夏油で、こめかみを指の関節で解しながら、妥協案を提示した。
「今度、煙草買っておくから」
「二ダース」
「はいはい……」
 突き出された二本の指をうまく躱して、家入より先に学舎へと足を動かす。日除け代わりに真後ろを着いてくる家入も、気が滅入って眉間の皺が解れない夏油も、教室の窓際からふたりを呼ぶの強制力には敵う筈なく、我先にと走り出していった。



 背後にひとの気配を感じたとき、普段ならば警戒心を強める五条もまことに人間味のある男であったから、意図して無下限を解いていた。瞬間、思いきり腕を引っ張られる。肘あたりに加えられたちからの弱さ、温もり、それらの断片的な情報から五条の推測した通りの人物だとすぐに分かった。盛大な溜め息をひとつ零しながら振り返ると、そこには勿論、がいた。緊迫感の溢れ出る切羽詰まった表情に、見ている五条まで感化されて生唾を飲み込んでしまう。動揺を隠しきれずにぐらぐらと黒目の揺れるまなこに泣きつかれてしまえば、五条の覇気はどうしようもなく萎えてしまうのだった。
「ど、どうしよう、悟くん……」
「……ちょっと落ち着け。あと手ぇ離せ」
「落ち着けないし離せない……や、離すはできるけど……」
 五条に促されて正常な思考を取り戻したは、即座に手を離した。ふんぞり返って居残る体温が煩わしく、けれどその感覚を惜しくも思う。五条の中で繰り広げられる葛藤の乱闘騒ぎになど見向きもせず、はこわごわと話を続けた。
「悟くん、知ってたの?」
「何を」
「その、傑くんと硝子ちゃんが、付き合ってること……」
 人生に思い詰めたような声を振り絞っているにも関わらず、その内容はまるきりとんちんかんだったから、五条は思わず「ハァ?」とドスの効いた声で聞き返していた。サングラスの奥できつく細まった双眸、その微かな気配だけでは震え上がる。捕食される一歩手前の小動物のような状態の彼女に、しまったと口を噤んだ。五条の一挙一動がに大いなる影響を齎すならば行動を慎むべきと分かっていても、つい反射的に物を言ってしまうのが五条の常であった。仕切り直すように首の裏側をかきながら、刺々しい低音を削ぎ落とした声を紡いだ。
「……何でそう思ったの」
「さっき傑くんと話してたんだけど、いつもと香りが違うなって思って。後から思い返してみたら硝子ちゃんの煙草と似てるなぁって……!」
 最初こそ五条の顔色を窺うように言葉を選んでいただが、その内滾る熱量を食い止められず、白熱の形相へと変化する。トップスピードで見解を言い終えると、身悶えるように全身をわななかせた。
 そんなの言い分に五条は全く動揺せず、それどころか彼女の挙動を眺めて人知れず愛でる始末であった。話題に対して欠片も興味が湧かないし、あり得ないと断言できる。自分と同様に、に対して言い知れぬよこしまな感情を持ち合わせているあの男女が付き合う? 何を馬鹿なことを。の目の届かない領分で牽制し合う同期ふたりを脳内に浮かべ、内心鼻で笑っていた。けれど、現実をそちらに動かす方が五条自身には都合が良いとも、気付いてしまった。
「付き合ってるよ、アイツら」
 ここぞとばかりに悪知恵を働かせた五条は、息をするように嘘を押し付けた。見事に真実を装った、純度100%の虚偽がに嵐となって襲いかかる。たった四人ぽっちで構成された学年でふたりを除き、唯一無二の頼れる地位を確立してしまえば後はもうこっちのものだろう。そんな底の浅い考えが五条の脳裏を過ってしまったことが運の尽きだ。衝撃波によってふらりと重心が傾きかけたを支えるように手を伸ばしたが、それは叶わなかった。の後方から腕を突き出してきた人物が、その役割を鮮やかにかっさらってしまったからだ。
「誰と誰が付き合ってるって?」
 普段の穏やかな人となりをどこへ置き去りにしたのか。地獄の底から這い上がってきたような低音が五条の耳を掠めて、限界まで頬が引きつる。自分が種を蒔いた悪事に芽が出ぬどころか、最悪のかたちで失敗に終わったことを、そこでようやく悟った。
 廊下で立ち竦んでいたふたりを捉え、自然に割り込んできたのは勿論、夏油であった。この場にそぐわない菩薩のような微笑は胡散臭く、五条に更なる後ろめたさを上乗せする。肩を抱かれたが夏油を見上げて、目を見開いた。
「傑くん……」
「置いて行くなんてひどいな、。飛んで帰ったからびっくりしたよ」
「ご、ごめん」
「……」
「それと私は硝子と付き合っているつもりはないから。どこかの誰かさんがホラを吹いてるみたいだけど」
 明らかに五条を指した風刺と、研ぎ澄まされた眼差しによって、稲光に似た亀裂が差し込む。言い返そうにもその手立てはないし、下手な釈明はにこの下衆な企みを勘付かれかねない。五条が奥歯を噛み締めながら視線だけで白旗を上げると、夏油は満足そうにほくそ笑んで手を退けた。
「……、午後から演習だろ。着替え行け」
「えっ、……あ、そうだった」
 手っ取り早く、やや強引な手段で五条はをこの場から遠ざけた。この流れではどうしてデタラメを吹聴したのか、図らずしもその結論に至ってしまう恐れがあったからだ。教室から高専指定のジャージを手にして出てきたは、急ぎ足で一階の空き教室へと駆けて行った。
 突然水を打ったように静まり返った廊下で、先に切り出したのは夏油だった。
「残念だったね、悟。お望み通りの展開にならなくて」
「なーにが残念だよ。内心ヒヤヒヤのウハウハのくせに」
「君こそね。あの場で根掘り葉掘り聞き出されないかヒヤヒヤしたろ」
「……るせー」
 言い返せば言い返すだけ倍になって返ってくる問答に、嫌気が差して音を上げるのはいつも五条の方だ。充満していた険悪な雰囲気は、驚くことに、そこでしっかり打ち止めとなる。下手な悔恨も遺恨も残さずに関係を立て直すふたりは、稀有な事例ではなく、もう見慣れた光景だった。顔を見合わせてぷっと吹き出した五条と夏油は、肩を並べて肘で突き合う戯れに興じながら、演習に備えるべく教室の扉をくぐった。


2020/10/18