to the marrow
※教師←生徒の描写あり

 カンッと耳を打つ軽い打突音が、ふたりだけの世界に亀裂を入れる。
 周囲の情景から一際浮かび上がっていた先生が、徐々に一続きの日常に溶け込んでいく。私の手を離れて宙を舞った竹刀が、地に叩きつけられて無惨に転がっている様を、視界の端に捉えた。途端に身体を支配していた熱は急転直下をきたし、私を突き動かしていた内なる炎は一息で吹き消される。現実って、非情で無常だ。夢中になっていたふたりの世界は、どんなに長く続いて欲しいと願ったところで、その意思を反故にして呆気なく幕を下ろしてしまう。
「よし、解散」
 毎日の店仕舞のような気軽さを擁した声によって、先生との手合わせに終いの鐘が鳴った。その鐘はただの掛け声だと理解はしていても、無性に疎ましい。だってその朗らかさと軽快さ、まるで私との稽古を嫌々しているみたいじゃないか。担任とは言え、一級術師で多忙の先生から貰い受ける個人的な時間は極小でしかなくて、そこに浸れる感慨をもっと味わいたい。そして、先生にも味わって欲しい。私がどんなにこの稽古を待ち望んでいたのか、このひとはこれっぽちも理解してくれないし、寧ろ目を逸らしている節さえあるのだから。
 無様に横たわる竹刀を拾い上げ、先生は二本纏めて肩に背負い込んだ。身を翻し、呪具をしまってある校庭の外れの用具庫へと踵を巡らせる。尻餅をついていた私は慌てて起き上がり、ひらりと揺れるトレンチコートの腰紐を掴んで引っ張った。
「よくない! 私、まだ先生から一本も取れてない」
 なけなしの思考を振り絞って、ありったけの抵抗を示す。振り向いて呆れた一瞥を差し向けた先生は、大層露骨な溜め息をついた。
「おう、そりゃが弱いからだ。もっと精進しろ」
「……先生のくせに尤もらしいこと言う……」
「褒め言葉としてありがたく受け取っとく」
 先生はいつもこうだ。自分の言行を正論に見せ掛けて、精一杯の抑止を軽々往なしてしまう。今だって私の嫌味をおどけた口振りで、淡々と粛々と躱してしまった。必死でしがみつくことしかできない私は、まざまざと大人の余裕を教え込まれているようで、悔しい。奥歯を噛み締めて訴えようにも、もう今日の先生は完全に撤退モードだから、これ以上喚き散らしてもどうにもならないだろう。渋々、腰紐を離して先生の隣に並び立った。
 さっさと引き上げようとする先生も、のらりくらりと私の癇癪から逃れようとする先生も、嫌いだ。だけど、先生は剣を交える間だけは私と真摯に向き合ってくれる。私だけを自分の世界に引き入れてくれる。ただひとつ、私の剣術を鍛え上げようとする意思ひとつで、忙しない仕事の合間を縫ってまで個人的に手合わせしてくれるのだ。この稽古において先生が携えているのは、教師と学生という関係に固執する頑なな意思で、手放しに喜べはしないのだけど、それでもやっぱり嬉しいものは嬉しい。その優しさに胸を射抜かれてから、随分と月日が流れてしまった。好きだけど嫌い、悲しいけど嬉しい。そういう矛盾した思いが、ずっと腹の奥底で渦を巻いている。
 竹刀一本は持つと申し出たけれど、先生は何食わぬ顔であしらった。それならばと先を行き、倉庫の扉を開ける。中は得体の知れない呪具の数々と、そこからうっすら滲み出る妖異な邪気で満ちていた。私の実力では到底触れられそうにない高価な呪具には目もくれず、内部の片隅で肩身を狭くしているスチールのロッカーを開ける。私が残した足跡を辿るように、のっそり先生は竹刀を纏めてそこに放り入れた。
「ねぇ、次の稽古いつ?」
 ロッカーの扉を閉めながら、藪から棒にそう尋ねる。先生は私ではなく私の頭上──つまり倉庫の内部を見渡しながら、顎先を指でポリポリ掻いた。かったるそうな仕草、そして目を合わせようとしない白々しい態度。返答を得る前に、私にとって望ましくない答えなのだと察してしまう。
「来週末だな」
「そんなに先!?」
「仕方ねぇだろ。暇な学生と違って明後日から出張なんだよ、こっちは」
「……暇してないもん」
 私だって暇な学生なりに、実習も座学も鍛錬も欠かさず熟してる。少なくとも平和ボケした同年代の高校生よりは、与えられた責務は真っ当に果たしている筈だ。不平を零してむっつりする私には見向きもせず、先生は背を向けて歩き始めた。足音に紛れて、包装紙を破る音が耳孔に滑り込んでくる。恐らく糖分欲しさの、いつもの棒付きキャンディだろう。もうこの話は終いだと念押しされているようにも感じる。先生の一歩後ろを辿りながら、唇を極限まで尖らせた。
「なら、五条先生に稽古頼んじゃおうかな……」
 その発言自体に深い意味はなくて、五条先生への純粋な憧憬でもなければ先生への嫌味たらしい当てつけでもない。ぽっと出の思考がつい舌に乗せて押し出されてしまっただけだ。そも先生の手に掛かればこんな子どもじみた痩せ我慢、早々に見破られてしまうだろう。そう思っていた。でも、現実は意外なことに、私の予想を突き抜けてくる。
 私の言葉を聞き届けたのか、先生が足を止めて身を翻した。身体ごと振り返った先生は、気怠げな眼差しにどこか曇りを湛えている。まるで面白くなさそうな、まるで不服そうな、そういう表情。手付かずの新品のキャンディが、先生の手の中で安っぽい光沢を放っている。
「何でそこで五条が出てくる?」
「術式あるから怪我しなさそうだし、かっこいいし、……先生と違って親身だし」
「幻覚でも見てんのか? 俺以上にオマエに親身なやつがいて堪るかよ」
 きゅっと喉が締まった。そういう、そういうとこ。先生にとっては冗談を嘯いた程度の戯言でも、私にとっては一大事だ。胸を内側から叩く鼓動が、自分の片恋が深刻な局面を迎えていると訴え掛けてくる。私だけが特別じゃない、先生自身も少なからず私への特別を抱いている事実が、こんなにも嬉しいだなんて。骨身に沁み込んでいく言葉を何度も反芻して、脳に刻み込んだ。
 先生は私をじっと見下ろしていたけれど、やがて耐えかねたのかキャンディを口内に放り込んで棒を咥えた。何を思っているのか判別のしにくい瞳は、未だ私を捉えて離さないでいる。
「ま、好きにすればいいよ」
「引き留めないの?」
「なんだ、引き留めて欲しいのか」
「……べっ、つに!」
 嘘だ。引き留めて欲しくて、こんな無益な駄々をこねている。出張は先生の意思でないし、一生徒のために覆すことなんてできないから、せめて他の誰かに渡してやらない気概くらい見せて欲しい。やる気だの熱意だの、熱血漢から一番程遠い場所で胡座をかいているのが先生だとは分かっているけれど、願わずにはいられないのだ。それを口にする度胸もないのが、現状の私なんだけど。
 お手本のような天邪鬼を叫び散らすと、何故か先生はふっと笑った。不敵に象られた厚めの唇に、全身が震える。
「骨まで抜かれてくるなよ」
「ほね……?」
「俺より強くてかっこいい五条悟センセーに入れ込むなっちゅーこと。誰がここまで世話焼いてここまで手塩に掛けてやったと思ってる?」
 そう言った先生は、棒から離した手指を私の額に近付けた。厚ぼったい皮膚に覆われた、男の人の手。思わずぎゅっと目を瞑って身構えると、空気を零すような笑いと共に、額に軽い打撃が加えられた。頭蓋骨にわずかに響く振動に、反射的に声を上げてしまう。
「いっ、いた!」
「まだまだ甘ちゃんだな」
 目蓋を開けると、離れていく指先の向こう側に、先生の小憎たらしい笑みが窺えた。デコピンのような小手技にやられたこと、そしてまんまと先生の思惑通りの反応を取ってしまったこと、すべてがひどく恥ずかしい。ぱっと目を逸らして俯くと、コートの裾を翻した音が耳に入った。遠ざかる足音に追い付くため、早足で狭路を駆け抜ける。
「……頼むのやめとく」
 結局、折れたのは私だった。もう痛くも何ともない額をさすりながら、ぼそりと呟く。引き留められはしなくとも、先生の言行は私だけに向けられた特別な感情を縁取っていたから。もう十分すぎる。貰い受けたものがあまりに膨大で、こちらの心が沸点を通り越して、破裂してしまいそうだ。
 先生の太い声が背中越しに、けれどはっきりと流れてきた。
「そうしとけ。ちゃんと素振りしとけよ」
「うん。早く帰ってきてね」
「善処する」
 その声色と平素の様子からして全く善処しないだろうな、と思った。先生らしいと言えばそうだし、そういうひとだと知っていて好きだから、構わないけど。
 大きくて広い背中の後を追って、響く足音に重ね合わせるように、私も足を精一杯動かした。


2020/09/11