鼬雲をすくって
 夏の終わりを身近に感じていた。
 静まり返ってうんともすんとも鳴かない蜩、少しずつ早足になって迎えに来る夕暮れ、ねっとりとした熱風に紛れ込む汗冷えしそうな秋風。夏の象徴は瞬く間に侵食されて、晩夏すらも霞んでいく。秋季に足を伸ばしかけた暦は、もう誰の手に阻まれることなく、快活に進んでいくだろう。時の流れは、早く短く、呆気ない。
 任務と任務の間に挟まった貴重な休日が、何年かぶりに彼の命日と重なった。往年は命日の前後に隙間を縫って墓参りに赴いていたが、今年はゆっくりと墓前に立つことができそうだ。白菊をふんだんに詰め込んだ仏花を片手に、慣れ親しんだ道筋を辿っていく。墓地に続く砂利道の手前になって、本日の待ち合わせ相手を視界に捉えた。
「七海くん!」
 果てのない青空を覆い尽くすような雲の峯と、そのシルエットに重なって同化しそうな純白のワンピースを身に纏ったさんが、手を上げた。生ぬるい微風が通り抜けて、ワンピースの裾を軽くひろい上げる。シンプルなノースリーブワンピースは、まるで彼女だけが過ぎ去る夏に置いてけぼりを食らったような、正しく真夏の装いだった。
 腕時計を一瞥し、定刻の十分前であることを確認する。呪術界から遠ざかっていた一社会人として染み付いた仕草の名残に、さんはわずかに眉を寄せた。同期として学び舎を共にしていた頃から変わりない、困ったような咎めるような、複雑な心境を滲ませる表情だ。
「すみません、お待たせしました」
「ううん。寧ろ予定時刻よりも早いくらい」
「良かったです。……行きましょうか」
 その促しに対しては、さんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
 水を目一杯まで張った水桶を既に彼女は手にしていた。両手が塞がって必死に持ち堪えているその様相に気が付かない筈がない。空いている片手で桶を持ち去り、呆気に取られるさんを置いて砂利道へと進路を取る。焦って背後から駆け寄ってきた彼女は、変わりとばかりに私の片腕を埋め尽くしていた仏花を手に取り、隣に並び立った。
 お盆をとうに越えたからか、墓地はがらんどうを極めていた。辺りに呪霊の気配もなく、負の感情が蔓延りやすい墓地にしては珍しく清涼感に満ちた風が吹き抜けていく。職業柄、張り詰めた緊張の糸を解くことはせず、研ぎ澄ませる神経をいくつか残して目当ての墓石へと足を運んだ。
 辿り着いた墓石は、思い描いていた以上に手入れが施されていた。灰原家と刻まれた墓石は綺麗に磨かれ、香炉や区画内にも掃除が行き届いている。恐らく自分達より先に彼の親族が来ていたのだろう。昔々に一度、妹さんと鉢合わせたときの記憶が呼び覚まされた。
 さんが花立てに水を注ぎ、仏花を供える。蝋燭に火を付け、線香も添えて手を合わせた。こうして目蓋を閉ざして思い浮かぶ情景は、悲惨な末路を辿ったあの日の任務での彼ばかりだった。全身が引き裂かれそうになる感覚ばかりが募っていく重苦しい時間。けれど最近は──再び術師の道へと踵を返してからは、太陽より眩しい笑顔が思い浮かぶようになった。今年は、尊敬する先輩を追って無邪気にはしゃぐ姿だった。冥福と感謝を祈り、目を開ける。目の前に聳え立つ墓石は、彼からの言伝を承ることもなければ彼の思いの丈を遺してくれることもない。いつまでも、私は彼の心を探り続けている。──灰原は、今の私を見て何と言うだろう。思考を巡らせて、自然と口角が上がったのを感じた。さんに墓前を譲り、彼女がお参りを済ませるのを後ろで見守っていた。
 墓石に冷水をかけながら、さんは額に滲ませた汗を拭って私を見上げた。
「術師の仕事はどう?」
「まぁ、それなりです」
「七海くんのそれなりって、あんまり宜しくない意味っぽくて心配だよねぇ」
 その言葉はただの返事ではなく、第三者に同意を求めるような語調を成していた。さんがこの場で賛同を呼び掛ける相手がいるなら、それはひとりしかいない。ふわっと青葉を巻き込んだ風が靡いて、空高く舞い上がっていく。まるで彼の高らかな声に代わる返事のようだと思った。
 さんは、私が呪術界から足を洗ってからも術師を続けていた。逃げ出した自分が、懸命に呪いに抗い続ける彼女に連絡を取るのは烏滸がましい気がして、一向に便りを出せなかった。私がある転機を迎え、術師として再び鉈を握ったとき、さんは入れ違うようにして術師を辞めた。ある祓除任務において呪力を支配できない致命的な怪我を負った、と人伝に窺った。どこまでもすれ違い続け、平行線を辿っていた人生がようやく交わったのは去年のことだ。今日と同じ場所で、偶然墓参りに訪れた彼女と邂逅を果たした。あの日、さんの瞬く瞳と視線が交錯したとき、ようやく自分の逃れられぬ因果から解き放たれたように感じたのだ。
 一通りのお参りと掃除を終え、名残惜しく墓石を見つめる。来年も命日か、その前後には来れると良い。自分の肉体が骨と化さない未来を願いながら腰を上げたときだ。背後で妙に微笑んでいたさんが、私の腕を指先で突いた。
「七海くん、まだ話し足りない?」
「……はい?」
「私先に片付けてくるから。ゆっくりしてきて」
 ほくそ笑んで言い放つや否や、彼女は空になった水桶を持ってそそくさと元来た道に戻っていく。スカートの裾を揺らして歩く背中は、直ぐに砂利道の木陰に消えてしまった。
 十中八九、さんは私に気を利かせたのだろう。男同士ふたりでごゆっくり。高専に在学していた頃から、彼女は変な方向に気を遣うきらいがあった。それは男ふたり女ひとりの居心地の悪さがあったのかもしれないし、単純な配慮だったのかもしれない。少なくとも自分も、きっと彼も、さんを疎ましく思ったことなど一度もなかったのに。それどころか私は──……。
「……何から話そうか」
 思考に一旦の区切りを付けて墓石に向き直る。話したところで得られるものは何もない。そう理解していても、どうしても彼に聞いて貰いたい話があった。ただの独り言で、拙い告白のようなものを、彼に打ち明けたかった。
「……このことを誰かに話すなら、一番最初は灰原にだと決めていたことがあります。面白味のない話ですが……」
 彼にこうまで畏まった前置きをする必要なんてないだろうに、妙に緊張している。緩やかに跳ね上がる心拍を捉えながら、唇を動かした。
 返事はない。墓場から漏れ出てくる声もない。けれど、後方から吹き寄せる心地良い風が、身体を優しく包み込んでいく。確証どころか科学的な根拠すらないのに、その風は、きっと彼が齎してくれたものだろうと思い込んでしまう。唇から空気混じりの笑みを零して、立ち上がった。
 学生時代、私とさんの関係を自分のこと以上に心配していた灰原は、一体どんな反応を見せてくれるだろう。考えずとも、脳内には眩しく光り輝く笑顔の彼が浮かび上がっていた。


「ひとりにしてしまって、すみませんでした」
 砂利道を抜け、水桶を片した場所のすぐ近くにさんはいた。石段に腰をうずめていた彼女に手を差し出して、そう謝罪する。さんは私の手に自分のそれを重ね合わせながら、軽快な声で笑った。
「全然。そんなに時間経ってないよ」
「……今日だけのことじゃありません」
 手を引いて立ち上がったさんは、その言葉を受けて丸い瞳を更に真ん丸にした。ぱちぱちと幾度か瞬いた後、得心がいったような声を響かせる。
 今日だけじゃない。彼女を置いて呪術の世界を抜け出したこと、ひとりにしてしまったことは、一生刻みつけられる過ちで、数少ない悔恨だ。それを今の今まで有耶無耶にしてしまっていた。だから、これはある種のけじめだった。
「これからはアナタをひとりにはしません」
「……七海くんの人たらし。それ、期待していいの?」
 意地悪く目を細めるさんに、握った手のひらのちからが籠もる。個人を指してひとりにしないと宣言する意味なんて、他に何かあるわけがない。答えは決まっていた。
「期待してください、存分に」
「……じゃあ期待します、存分に」
 眉を寄せてはにかんださんに、心底安心する。そして心底、目を奪われる。入道雲を背後にして微笑むさんが飲み込まれてしまわないよう、しっかり手を握り締めた。
 夏の終わりが迫り来ても、そこに伴う寂寞は、もうひとりだけのものではない。

2020/08/21