The afterglow on that day leads you.
      xx


 野を越え山を越えて走り続ける鈍行列車に、ようやく終点の報せが響き渡った。おもてなし精神を窺えない無機質なアナウンスは端的に次の駅を予告すると、途端に静まり返る。背中から伝わる単調な振動も、混じり気のない緑が続くだけの景色も、顔面目掛けて降りてくる生ぬるい空調も、何もかもが永続的だと思っていたが、そうではなかったらしい。長ったらしい旅路を終えて、辿り着くべき行き先の気配を感じ取ったにも関わらず、五条はどこか他人事のように捉えていた。ボックス席の窓際で肘をつき、車外の遥か遠方を見つめている。視線の先に目的物はなく、いつまでも彷徨い続けて焦点が結び付かない。列車に乗り込んだときから表情も体勢も何ひとつとして不動のままで、正しく放心状態という表現がぴったりだった。酷暑の気温によって熱されたアスファルト、その上でじわじわと焼け落ちていく無惨な蝉の抜け殻のように、五条は身体の外皮だけがこの世に留まっている。心は吐き出して放置したまま、行方知らずだ。
 ほんの一年と少し前なら、あらゆる任務先に肩を並べて赴き、息の合った共闘を繰り広げていた人物がいた。阿吽の呼吸と呼ぶに相応しい意思疎通と連携で、気を許し背中を預けていた男。彼はこの列車内にいなかった。今この場限りでない。夏油は、二週間前の新宿で邂逅した日を境に、五条の目の前から姿を消した。
 のろまな列車は鈍い音を響かせて、やがて緩やかに停車した。ブレーキの余韻につられて肘が滑り落ちる。体勢が崩れて目線は下に傾いたが、五条はそこから微動もせず、顔を俯かせていた。都内では日常茶飯事の、扉が開いた瞬間に溢れ出すどよめきは微塵もなく、ただ爽やかな自然の風が吹き抜けて肌を撫で回していく。その素朴で長閑な空気が、余計みじめたらしい気持ちを増幅させる。暫くして車掌が心配そうに声を掛ける寸前まで、五条は虚脱した身体をひとつも動かせずにいた。


 夏油が呪術高専を離反し、五条はその幇助の疑惑をかけられたがために、上層部から二週間余りの謹慎処分を下された。
 偶然の邂逅ではなく、確固たる意思を持って夏油に会いに行った五条は、話を交わすまで連れ戻す気でいたのは確かだがそれは叶わなかった。連れ戻さなかったのではない、できなかった。五条がそう言って自分の非力を打ち明けたのは夜蛾ひとりだけだった。無粋な想像力を働かせた上層部にあることないこと詰問されても、そのすべてを受け流して沈黙を貫いた。赤の他人、それも余計な干渉が過ぎる鬱陶しいことこの上ない人間に、明け渡してやる真実は何もないと結論付けていたからだ。手を焼かせるな、と言わんばかりに一睨を利かせて調書を取るこいつらが、自分と夏油のような絶対的な強者が不在の現状を嘆けば良い。そんな八つ当たりに近い感情が内側で渦巻いて、干からびそうな晩夏の気怠さも災いして、何もかもに嫌気が差していた。
 二週間、利口のふりをして寮の自室に引き篭もり、世界から爪弾きにされた。睡眠と食事だけで構築されたサイクルを淡々と回し、ようやく謹慎が明けた五条を出迎えたのは夜蛾の毅然とした声だった。
「暫く実地任務は厳しいと上が判断した。そこでひとつ、提案がある」
 若者の感情が急転直下をきたしやすい夏休み明けはとっくに過ぎ去って、術師の繁忙期はやや落ち着きを見せていた。特級レベルが必要となる山場は乗り越えたから、無闇やたらに幇助犯の被疑者を出歩かせたくない。そういう意図が見え隠れしている。普段の五条ならば激情に任せて歯向かうところを、咄嗟に押し留めた。夜蛾の話に続きを示唆する糸がたゆたっていたからだ。
「明日、ある村落に向かえ。人口の少ない小さな村だが閉鎖的な土地柄や人間関係ゆえに低級呪霊が湧いている」
 はぁ、と五条は曖昧な相槌を打った。糸は掴めたものの、ふわふわと浮かんで弛む糸では繋がれた先の正体を引っ張り出せない。不透明な霧に覆われた真意に見当も付けられないまま、五条は首をひねった。
「そいつらを祓って来るの?」
「いや、オマエは呪霊の祓除には関与しなくて良い。その地域に暫く滞在して、害をなし得る呪いや呪霊を発見した場合のみ報告しろ」
「……それ、俺の必要あります?」
 拍子抜けもいいところの内容に、五条はあからさまに顔を顰めた。その案件には迅速性は疎か重大性も見受けられない。特級の冠を擁する自分が赴く必要性を露ほども感じなかったのだ。適当な窓にでも頼めば良いという無遠慮な悪意は、喉元で突っかかって引き返していく。ただでさえ世界を疎ましく思うほどの辛気臭い感情が胸中で燻っているのに、これ以上失意の底に陥れてどうしたいというのか。五条は苦虫を噛み潰したような表情で露骨な不快を呈したが、その反応まで見据えていたのか、夜蛾は全く動じずに続けた。
「悟、今のオマエに足りないものは何だと思う」
 きつく目を細めた夜蛾の問い掛けを真正面から受けて、反射的に唇を広げた。俺に足りないものなんてないに決まってる。漲る自信を溢れさせて、驕慢を取り隠すこともなく堂々と言い放っていただろう。少し前までの五条ならば。今の彼は、そこから口を動かすことなく固まって、無念を引き摺るように唇を閉ざした。気付いたからだ。今の自分は完全ではない、不完全の半身なのだと。当たり前のように隣にいて、片割れとして絶大なる信頼を寄せていた男は、もういない。五条を完璧たらしめていた存在が抜け落ちた穴、そこから迫り来る途方もない虚無に魘されて、反吐が出そうになる。
 わずかに顎を引いて目を伏せた五条に、端から返答を期待していなかった夜蛾は粛々と告げた。
「息抜きだ。課された任務なら心置きなくリフレッシュできるだろう」
 ああ、そういう。ようやく夜蛾に持ち掛けられた話の意図を手繰り寄せて、その正体を暴き出した。同時に何とも筆舌しがたい心地に陥る。謹慎が解かれた矢先に静養しろと言い渡されても納得しないから、恐らく夜蛾独自の考えで任務という名の休養を課したということだ。歯に衣着せない指導が専らだった担任にまで変に気遣われていること、不甲斐ない体たらくが他人の目を通しても浮き彫りになってることに、五条は辟易とした。己は未だ成人すら遠遠しい未成年であり、忌み嫌う上層部に守られる立場の生徒である。そう教え込まれているようで無性に癪に障ったが、夜蛾の善意であるとも重々身に沁みて分かっていたので、押し黙った。
 沈黙を肯定と捉え、空気を淀ませる隙も見せず夜蛾は話を進める。
「今あちらに呪術関係者はいないからその辺りはうまくやるように。宿泊施設は既に手配している。場所は――……」
 予め取り決めていた事柄が夜蛾の口から流れ出し、五条の耳をすり抜けていく。脳が必要だと断定した情報だけを片隅に留めて、後はもう反対側の耳孔に追い遣るだけだった。その淡泊で適切とは言えない処理を、無意識的に行っていた。
 真頂点にまで昇り詰めた白日が、教室の窓から惜しみなく日光を降り注ぐ。
 今までも気にも留めなかった視界を侵略する光の束がどうしてこんなにも煩わしく、厭わしいのか。



 重々しい鉛を引き摺るような身体に鞭を打ち、数日分の着替えだけを詰め込んだボストンバッグを肩から提げ、五条は無人駅に降り立った。辺りは閑散としており、車どころか人っ子ひとりの気配もない。呪霊も、いるにはいるが感じ取れる気配は希薄で、少なくとも駅の付近に潜んでいる可能性はない。鍛え抜かれた感知力と世にも珍しい異能の眼球、ふたつともが高らかにそう告げていた。陰湿な呪いとかけ離れた鮮やかな新緑が周囲を取り囲み、風に揺らされて葉擦れの音が常しなえに響き渡っている。自然の細やかな出迎えを聴覚が捉え、受け流した。
 乗換駅で購入した切符を設置されていた小箱に突っ込み、形だけの改札をくぐり抜けた。駅のすぐ近くには線路を跨ぐ道路と踏み切りがあり、更に道の向かい側には何やら広場らしき空間が窺える。薄目に見える遊具やベンチの類からして、小規模の公園だろう。平日の昼間、それも周辺には住宅も何もない耕地だけが広がっていることもあってか、人影は見当たらない。些か気味が悪くなるほどにひっそりしている。本来子ども達の恰好の溜まり場となる筈が、立地に失敗したがために不穏な空気が居着いているその空間に、どうしてか五条の視線は奪われた。大した用もないのに、吸い寄せられるように道路を渡って公園の出入り口へと足を踏み入れる。
 五条の予想に反して、敷地内にはひとがいた。入口の対角線上、公園の奥まったところに設置されたブランコに、ひとりの少女が腰掛けている。濃紺を基調としたセーラー服を身に纏う少女は、疾走感や平衡感覚を楽しむために漕ぐ従来の使い方ではなく、ただ座るだけの姿勢を保っていた。肩あたりまで伸ばされた黒髪が風に吹かれるだけで、少女自身は微動だにしない。こうべを垂らしているために顔色は窺えず、木陰が重なってどこか陰鬱な雰囲気すら漂っている。大人しそうに見えるが、この時間帯に屋外を彷徨いているからには不良への道程を駆け出した真っ最中なのかもしれない。無為な憶測を巡らせながら、足音を潜めることなく、五条は自分の存在を昇然と主張するように少女の元に歩み寄った。空いているもう一方のブランコに、横柄な態度で座り込む。座面を吊り下げる両端の鎖が大仰な音を立てて、そこで初めて少女は隣に出現した五条の存在に気が付いた。徐に持ち上がった顔は五条が思い描いていた以上に幼く、純粋な驚愕の表情を象っている。見開かれたくりっとした瞳が、しっかり彼の姿形を捉えて、瞬いた。
「……」
「何」
「……何でも、ないです」
 五条に威嚇する気は更々なかったが、半日ぶりにひととの対話に及んだ声は、低くて鋭さを帯びていた。当然、少女も怯えた面持ちに切り替え、慌てて首を振る。居心地が悪そうに、再び自分の爪先へと視線の照準を戻してしまった。けれど、依然としてこの場を立ち去る気はないらしい。長い足を組み、五条もここから動かないという意思を押し出して、目線を天上に移ろわせた。
 そこからどれだけの時が流れたのか。五条はかったるそうな欠伸を幾度も落としたのに対し、少女は堅固なシャッターを下ろしたかの如く固く唇を閉ざしていた。猫に牽制された後、家具の隙間から様子を窺う鼠のように、落ち着かない眼球の動きが五条の表面を滑っていく。そこに不快は生まれなかった。不審者と決め付け睨め付ける警戒心ではなく、純然たる興味から成る視線だったから。五条が折り畳んだ携帯の開け閉めを繰り返していると、鼓膜に直進してくる声を聞き届けた。
「……あの、村のひとじゃないですよね」
 じりじりと膨れ上がる好奇心に観念したのか、少女が口を開いた。へっぴり腰の物問ではなく、少しでも真実に近寄ってやろうという気迫が滲んでいる。今時珍しい気概に内心五条は感心したが、いつもの反骨精神が勝って、素っ気ない反応を送っていた。
「そうだけど」
「こんなところで何してるんですか?」
「……仕事」
「仕事って……。学生じゃないんですか?」
「ガキンチョには知らない世界があんの」
 ガキンチョ呼ばわりされた不満ではなく五条の不思議めいた生態への興味に軍配が上がったようで、少女は益々難しい顔をした。謎解きゲームに奮闘するような、何か手掛かりとなる証拠品を探しているような表情。どの角度から熟視しようとも、己が呪術師であるという予想はそう浮かばない。そもそも世界の裏側にしか存在しない規定を表側から暴くようなことは、並大抵の人間には不可能だ。五条はそう思い、鼻高にどっしりと構えていたが、ふと夜蛾から得たある知見を思い出した。何かの関連性を見出したわけでもない。野生の勘とも言うべき直感が、五条に奇妙な閃きを与えてしまう。胸がざわついて異質な動悸を催す前に、彼はゆっくりと発話器官を動かした。
「オマエ、名前は」
「え? ……知らないひとに教えられるわけないです」
「五条悟。十七歳。呪術師。もう知らなくないだろ」
 四方八方の抜け道を塞がんとばかりに、五条は自己について端的に述べ、追い打ちを掛ける。身勝手な自己紹介に、少女はわずかに眉を持ち上げた。突然、見知らぬ他人から名乗りを求められて戸惑ったようにも見える。しかし、それ以上に「呪術師」という単語に強い反応を示した瞬間を、五条の双眸は見逃さなかった。少女の挙動が明らかに鈍って、顔全体が強張っていくが、五条がサングラス越しに見つめ続けるとやがて従順に自分の名を告げた。
 昨日の厳然たる夜蛾の話し声が、蘇る。
 ――村には既に引退した術師が移住していて、恐らく彼女が風紀を正していたが、ひと月前に亡くなった。そのせいもあって呪霊は増殖している可能性がある。一緒に住んでいた祖母と妹は存命。名前は――……
 あのとき面倒だと聞き流していた話は、五条に思いの外、克明に刻み付けられていた。現在と過去、双方で示された名前が時空を越えてぴったり重ね合わさる。少女が術師の妹だと判明した事実は、だからどうするという話でもない。知り合った村人が同業者の血縁者であるというのは、理解が得られれば手筈が容易になり散策しやすくなるのは明白である。しかし、今後呪術界に携わる人材候補として、彼女に呪力や相伝の術式が備わっているのかを把握する必要性も出てくる。謂わば一得一失、寧ろ厄介を被る割合の方が大きいかもしれない。五条が考え得るありったけの可能性を広げていると、鼻頭に突き刺さる熱い視線に気が付いた。少女が、先程までの心躍らせる求知心を一蹴し、別の顔を覗かせている。何かを真摯に訴え掛けているような、燃え盛る野蛮な焔を隠そうともしない双眼がサングラスを突き抜けてくる。目が合った、そんな気がした。
「お兄さん、呪術師なんですか」
 五条が少女を引き寄せるために利用した肩書を、今度は少女が用いてくる。疑問というより念押しに似た力強い声音が醸し出され、五条は少し嫌な予感がした。形容しがたい邪悪な嫌疑が背筋を這い上ってくる感覚に、息を呑む。
 五条の返答を待たずして少女は勢いよく立ち上がり、彼の目の前に立った。鋭利に尖った真剣な瞳が見下ろし、口火を切る。
「――なら、殺して。この村の奴ら全員」
 空気が変わる。あれだけ風と草木が織り成していた音楽が、指揮棒を叩き止めたようにぴたりと鳴り止む。
 五条はまず自分の耳を疑った。この年端もいかない少女から殺人の依頼が飛び出したとは思いも寄らなかったのだ。けれど、少女の険しい決死の表現は、紛れもなく本物だった。聞き間違いでもなければ冗談でもない、少女は本気でそう懇願しているのだと、はっきり分かった。
 緩やかに夏の名残が浮かび上がる。あの日、新宿で対峙したあの男の、濁りのない本気の眼差しが思い浮かぶ。
 ――君にならできるだろ、悟。
 馬鹿げた理想を理想で終わらせないと宣った夏油の意志が、どうして今、こんなにも自分の胸倉を掴み上げるのか。五条には分からなかった。
 あの夏は終わった。喧しく合唱していた蝉の声が、二週間の世界との断絶を経てもう微かな気配すら寄越して来ないことに、そこで初めて気が付いた。



「いやぁ、こんな若くて男前やんにフィールドワークたぁ、たまげたもんやなぁ」
「……はは」
「この村は空気もええし米も美味いけど、見ての通り何もないさかい、明日は好きに回ってくれて構わんから」
 まともに舗装すらされていない砂利道を、車体を揺らしながら走り行く。運転席に座る村長はカッカッと活気に溢れる笑い声を上げる。反して助手席に座る五条は、暫くぶりに相見えた太陽にすっかり気力を吸い取られていた。
 あの後、少女は言いたいことだけ言い放つと、脱兎の如く走り去ってしまった。華奢な背中が小さくなっていくのを、五条はただ見届けるだけであった。追い掛ければ捕捉することは造作もなかっただろうが、村の土地勘がない自分では最悪道に迷いかねないと判断したのだ。ひとりきりになった公園に佇む趣味もなければ理由もなく、重い腰を上げて本来の目的地に向かうことにした。
 本来の目的地とは、駅から北に位置する公民館である。任務初日はそこで村長と落ち合い、村にたったひとつの民宿まで送ってもらう手筈になっていた。公民館に到着すると、溌溂とした細身の初老の男性に五条は出迎えられた。非の打ち所もなく、殺害を願いたくなる要素はどこにも見当たらないが、人間の奥底に秘められた醜悪な心とは外面からは計り知れないものだ。呪術の世界に触れて、任務を通して五条はそのことをよく知っていた。その目も当てられない下劣に絶望し、見切りをつけた人間がいることも、よく知っている。
「あの、最近この村で亡くなったひとがいるって聞いたんですけど」
 黄昏時が迫り来て橙の色味を帯び始める村の景色と、時折横を通り過ぎる蠅頭達を漫然と眺めながら、五条は話を切り出した。ハンドルに添えられた指がぴくんと跳ねるのを、横目に捉える。
「ああ、うん、せやなぁ……。可哀相やったわ、雨ん中足滑らせて川落ちてもうてなぁ」
 歯切れの悪そうに村長は相槌を打って、訥々と語り出す。その語りに耳を傾けながら、五条は民宿に向かう道すがらに広大な川が横たわっていたことを思い出した。今日は清らかなせせらぎの音が自然に調和を生み出していたが、悪天候下、丈高に荒れ狂う川波に飲まれてしまえば一溜りもないだろう。いとも容易くその光景は想像できるが、引退したとは言え戦場を駆け抜けたひとりの術師がそんなヘマを犯すものだろうか? 拭いきれない疑問を、五条は留めることなく表出した。
「本当に事故だったんですか?」
「そう聞いとる。……二三ヶ月前に越してきたばっかりで、村にはまだ馴染めてへんかったみたいやけど、ええ子やったんになぁ」
 しみじみと呟く村長に、五条の内側では一種の不快感が巻き起こっていた。死者との繋がりを後から悔いることは、表面上だけ取り繕った偽善に違いないと思っていたから。村長の片時も崩さない悲しみを押し出した表情は、完璧な悲痛を象っていて、かえって不気味に感じられた。
「……妹がいると窺ったんですが、彼女も馴染めてないんですか」
 話題の矛先をようやく真髄に潜り込ませた。深淵に浸したような鮮やかな黒髪と、対極的に莫大な熱情が迸る瞳が、五条の脳内に蘇る。彼女のことを知っておくなら今しかないと思った。やたらその家族を気に掛ける五条を訝しんだ村長は一瞥を寄越したが、とやかく言及することはなかった。記憶の欠片を呼び覚ますように、ぽつりぽつりと呟きを落としていく。
「ああ、妹さんなぁ。あの子も中々クセモンらしいてなぁ……学校でも浮いとるみたいやが」
「中学生ですか」
「そう。確か二年やったかね。村にひとつしかない公立の中学校で……ほら、あれや」
 骨ばった人差し指が、西陽を追い掛けるように滑り行く。村長が指し示した方角には、夕陽の光に埋もれているが、確かに木造の建造物が視認できる。車の速度に追い付けず、その建物はすぐ後方へと過ぎ去ってしまった。
「あの子もなぁ……悪い子やないさかい、もし何か言われても堪忍したってくれなぁ」
 もう既に邂逅を終えて、村人の殲滅を頼まれたとは、さすがの五条も言えなかった。


『そうか、事故だったのか』
 夜蛾のしんみりとした声音がいやに鼓膜に染み付いて、五条は意図せず喉を唸らせた。通夜に参列しているような湿度の高い雰囲気を薙ぎ払うように、はぁ〜と仰々しい溜息をつく。そこで夜蛾は我に返ったように、ひとつ咳払いをした。
 小さな民宿に送り届けてもらい、片手で数えられる程しかない客室のひとつに通され、一先ず五条は夜蛾に電話を掛けた。普段より幾ばくか抑えめにした声量で、亡くなった術師につて得た情報を開示する。この程度の情報量でわざわざ申し送る必要はないのだが、彼女について夜蛾が口を開いたとき、その表情がどうしてか心に引っ掛かった。夏油の離反を信じられない五条の激昂を収めようとしたあのときと、酷似していた。そこで思い付いたのは、その術師は夜蛾の元教え子だったのではないか、という仮説だ。五条の想像は凡そ的中したらしく、聞いたこともない切なげな声が受話器越しに響き渡った。肋骨が軋む。世界中の死には慣れてしまっても、身近な誰かの変化というものは、中々慣れない。
「それから……妹の方にも会ったけど、どうすりゃ良いの」
 簡素な和室の隅で胡座をかきながら、五条は続けた。術師である姉と結び付けた張本人、まだあどけなさの残る中学生を一体どうしろと言うのか。正直なところ、課せられた面倒な任務より、彼女の扱いには困り果てるものがあった。放置するのは気が引けるし、かと言って殺人に加担する気は更々起きない。
『基本的には身寄りがいなかったり、劣悪な環境下にある場合は高専の方で保護する。その辺りはどうだ』
「いや、まだなーんも。マジで会っただけ」
『なら一緒に身辺も洗い出しておくように。術師としての素質も判断できれば尚良い。……くれぐれも祓除はするなよ』
 耳にタコができるほど聞いた文言を受けて、五条はぼりぼりと頭を掻いた。そこまでして俺にちからを振るわせたくないか? 思わず口の端に掛けそうになった疑問は押し留める。みすみす対立を仕掛けるほどの愚鈍ではない。この任務の裏側で糸を引いている存在を、朧気にだが五条は感じ取り始めていた。
「じゃあ、もし特級レベルが誰かに襲い掛かっても?」
『そうだ。増援願いを直ちに出す、前提としてそういう状況をつくらない。これが今のオマエに課されている任務だ』
「……」
『返事はどうした?』
「へいへい。お堅いこって」
 負け惜しみのような捨て台詞を吐いて、五条は通話を切った。畳の上に携帯を放り投げ、こうべを垂らす。すっかり宵闇が侵食して、電気をつけていなかった客室には暗闇が降りていた。薄ぼんやりした月明かりだけが入り込み、窓際を照らしている。
 太腿の上で頬杖をつき、たゆたう視線を収めるように五条は目を瞑った。
 息抜きをさせたいが夜蛾の意思だとしても、恐らく、五条の行動を制限しているのは上層部の意思によるものだろう。獲物を探し出す嗅覚が過敏に反応していた。上は、先の一件から圧倒的な能力を擁する強者を、そのちからによる暴虐を恐れている節がある。飼い慣らした筈の犬が牙を剥き出し、歯向かい、鎖を引き千切って飛び出してしまう事例があると知ってしまった。それならば、もう一匹への躾を一層厳しく、鎖をより強固なものに変えるのは至極当然である。彼等は五条を飼い慣らそうとして、手始めに試しているのだ。厳格に定められた規律を破らないか、呪術界を反故にしようとする精神が窺えないか、この任務を通して見定めようとしている。
 頭が痛くなった。こんな、馬鹿げた世界と上層部に、俺のちからを捧げるつもりなのか? 五条の纏まらない思考が道を誤りそうになる前に、かぶりを振って強制的にシャットダウンした。
 性根から腐り落ちてもう残骸になりかけの奴らであっても、そいつらが生み出したこの世界に蔓延る陰気も因習も受け継がれていく。
 世界が朽ち果てるのが先か、自分が消耗して擦り切れるのが先か。それは卵と鶏どちらが先に存在したのかという問に似た、平行線を辿る不毛な論争だった。



 明くる日、五条はいつもの一時間前に目が覚めた。都会と違って遮るものが何もない田舎では、太陽はここぞとばかりに輝きを解き放つ。カーテンの隙間から洩れ出る光に目蓋が刺激され、気怠い身体をどうにか起こした。すっかり夏の峠は越えた筈なのに、背中には大量の寝汗が伝っている。民宿から貸し出された浴衣を脱ぎながら、脳内で本日の行程をなぞり始めた。
 村長には術師という生業を隠して、高専から課されたテーマに即した実地調査を行う体で、宿に泊めて貰っている。しかし、今回五条が実施するのは正しくフィールドワークのようなものだった。地域ごとに呪霊の数や強さを測定するポイントを決め、そこを転々と回っていく。本来ならその土地に住まう窓が請け負うべき作業だ。昨日車から見渡した限りだと、徒歩であっても午前中で十分事足りるだろう。五条はそう判断して、地図に書き込んだ数か所のポイントを頭に叩き入れ、地図をポケットに仕舞い込む。身支度を整えたその足で、早速最初の観測地点に向かった。
 そのフィールドワーク自体に、大した成果は得られなかった。地点ごとの呪霊の数も強さもほとんど変わらず、低級呪霊が数匹彷徨いている中、どっしり構える呪霊が一匹いるかいないか程度の違い。その呪霊も凶暴化すれば祓う必要が出てくるが、今のところ敵意はなく、害を成す気配もない。例の術師が被害が及ぶ前に呪霊を祓っていたとなれば、彼女が亡き今、活発化する恐れも十分にあり得る。その可能性は頭に入れておくとして、となれば、五条が次に取るべき道は決まっていた。
 鬱蒼と生い茂る雑木林を抜け、畦道を辿っていく。踏み均された道がスニーカーによく馴染み、湿った土と甘酸っぱい作物が混じり合った匂いが鼻孔を擽った。微風が吹き抜ける度、実った稲の海が穏やかに波立っていく。長閑という表現が大層似つかわしいこの村里に、少女は一体何を見たのだろう。親友は、あの村落で何を見て、人々の平穏を壊す手札を取ったのだろう。ぼんやり浮かぶ疑問を追い払うように、五条は足早に黄金の稲田を駆けた。
 村の西側には昨日見た建物が聳え立っていた。木造の校舎は老朽化が進んでおり、真夜中に幽霊が彷徨い歩くという噂が広まってもおかしくない外観だ。五条は正門の門柱に寄りかかり、静寂とする空間に身を委ねる。丁度時間帯が良かったのか、十分もしない内に生徒と思しき少年少女が出てきた。皆が皆、似たような髪型と着崩すことのない地味な制服姿で、この学校の校規が一目で分かってしまう。大方は見覚えのない長身のサングラス男に不審感を抱いて逃げるように立ち去っていくが、その中にひとり、際立って異質な人物を見つけた。此方に見向きもしない、それどころか周りを寄せ付けない敵意丸出しのオーラが溢れ出ている。五条が目当てにしていた、昨日の少女だ。少女は脇目も振らず駆け足で正門をくぐると、五条とは反対方向に曲がってしまった。思わずちっと短い舌打ちが出る。その背中を追い掛け、セーラー服から覗く細こい手首を掴みにかかった。
「ひゃあ……!?」
「よお」
「え、あ、昨日のお兄さん……」
「言ったろ、五条悟」
 突然背後から捕捉された状況に少女は目を白黒させ、必死の抵抗とばかりに腕を振り回したが、五条の相貌を捉えるとはっとした。不審な人物ではないと強調するように自分の名を再度唱えると、少女は「五条さん」と骨心に沁み込ませるように呟く。柔らかく、うっとり聞き惚れるような声音が、五条の背骨をくすぐった。
「……昨日、何で逃げたんだよ」
 こそばゆさを振り切るように、五条は唇を開いた。本日の本命はこれだ。少女の懇願にどんな思惑があったのかを聞き出すため、糸口を掴み、引っ張り出そうと試みる。少女はうっと喉に詰まらせたような苦々しい顔を織り成し、ぎこちなく明後日の方向を見遣った。
「それは、自分でも突っ走りすぎたかなって、我に返って……」
「へぇ。とりあえずそこに至った経緯を話してみろよ」
「殺してくれるんですか?」
「……オマエ、もうちょっと配慮とか危機感身に付けろよな」
 こんな御天道様も見放題の、晴れ渡る往来で易々と口にして良い単語ではない。それとも現代の若者には、殺すなんて物騒な言葉も日常会話と然程相違ないのだろうか? 世間で物議を醸しそうな知りたくもない疑問は脇に押し退けて、五条は改めて少女を見下ろした。きょとんと見開かれる丸こい瞳が、緩慢に瞬かれる。ちからを込めれば呆気なく折れてしまいそうな手首を離すと、逆に今度は少女が五条の手を掴んできた。奇想天外な少女の行動に驚くと同時に、無限の対象を切り替える寸前の隙を掻い潜って触れられたことに、文字通りひやっとする。張り巡らした罠を全く予想だにしない人物に、予想だにしない方向からすり抜けられたような、そんな感覚だった。少女は身を翻し、木々が聳え立つ細道へと五条を連れ込んだ。
「オマっ……、なに」
「五条さん、その髪と身長じゃ目立ちすぎるから」
「はぁ?」
「変な噂が立ったり目を付けられると困るでしょう」
 思いの外膝を打つ意見ではあったので、五条は不本意ながら口を噤み、承諾の意を示した。少女はしたり顔を浮かべると、手を離して道なりに進んで行く。五条の方を振り向いて手招きしている様子からして、付いて来いとの御命令らしい。仰せのままに、と五条は立休らっていた足を徐に動かした。
「どこ行くの」
「私の家です」
「危機感持てって言った端から……」
「え? 何ですか?」
 無邪気に聞き返してくる少女に、五条は無気力な溜息を吐き出した。学習能力の欠片もないが、かと言って真性の馬鹿でもない。力強い眼力には並々ならぬ野心が根付いている。真っ直ぐに見据える少女の横顔を眺めながら、五条は彼女の半歩後を付いて行った。
 高々と聳える木々が陽光を拒み、道にはまだらな木陰が降りている。その部分だけを踏み歩くように、少女はひょいひょいと軽やかに足裏を接地させた。その身のこなしからして運動神経が良いのだろう。小学生の頃、横断歩道の白い箇所だけを踏んで進み行く遊びがあったな、と五条は過去の自分を懐かしんでいた。
 そのとき、低く掠れた声が何処からともなく流れてきた。少女から目を逸した先、森林の奥深くに数人の人影が見える。五条は少女の手をぐっと掴み、その場にしゃがみこませた。
「な、今度は何ですか……!?」
「しっ。静かにしてろ」
 少女の口を塞ぎ、微かな話し声の源泉を視線で辿る。人影の正体は男だった。黒の作業着を纏った屈強な男達が固まり、ぼそぼそと小声で密談が行われている。ただ仕事の談合というわけではなさそうだ。周囲を警戒し、頻りに目線をちらつかせる男達の様相は、聞かれてはならない話題を持ち出しているからに違いない。しかしながら、その素振りはずぶの素人そのものだな、と五条は鼻で笑った。視線は横にスライドするだけ、上下を丸っきり視野に入れていない。五条達の存在には目もくれず、ややあって男達は通りに停めていたワゴン車に引き上げていく。排気ガスを撒き散らしながら去る車、そのナンバープレートが剥がされている違法車であるのを確認し、五条は口を開いた。
「行ったか」
「んー、んっー!」
「お」
 そこで五条はようやく少女の状態に気を留めた。塞いだ手に噛みつきそうな勢いで暴れ回る少女の奇行を堪能した後、解放する。溺死寸前だった救難者のように、少女は目一杯口から酸素を取り入れ、二酸化炭素を吐いてを繰り返した。涙の膜が揺れる瞳にキッと睨まれるが、どこ吹く風で五条は先程内談が行われた場所を指差す。
「見てたか?」
「見てました……」
「見覚えは?」
「ない……と思います。電柱工事の人も水道工事の人も、あんな怪しい作業着じゃなかったような……」
「……」
 村の外から来た外注契約の業者という線もないではないが、それにしたって仕事着も密談も違法車も、何から何まで怪しすぎる。あの不審な挙動からして、少なくとも自分達が正規の業者ではない、人目を忍ばねばならない立場という自覚はあるようだった。探りを入れるにしても今日はもう厳しいと判断し、五条は少女に目配せした。さっさと家路を急げとの傲慢な指令を素早く受け取り、少女は渋々歩き始める。日が傾き、辺りは少しずつ夕陽の色を宿して始めていた。
 細道を抜け、大通りの角を曲がったところにその一軒家はあった。木造建築の家屋は五条の実家程ではないにしろ、それなりに広い敷地と立派な御屋敷である。屋敷は住宅街からやや離れた場所にあり、ぽつんと侘しい雰囲気を醸していた。巨大な門戸をくぐり、先立つ少女が玄関の引き戸を引いた。
「ただいまぁ、ばあちゃんおるー?」
 そこで初めて、五条は少女の訛りの入った言葉を聞いた。標準語の敬語しか耳にしてこなかったが、開けた方言もそれなりに板についている。大声を張り上げた少女を凝視していると、家の奥から覚束ない足取りの老婆が出てきた。すっかり背の丸まった老婆は少女と五条の姿を捉えると、にっこりと屈託のない笑顔を浮かべる。
「おかえりぃ。そないな男前連れてどないしたんね」
「えっ、あ、……友達! 気にせんとって」
「ほんまかいねぇ。お赤飯炊いちゃろか」
「そないなことせんでええよ! 五条さん、私の部屋上だから先上がってて!」
 玄関のすぐ目の前に設置された階段を指差すと、少女は靴を脱いで老婆の元に駆け寄った。そのまま居間へと押し戻していく様子を見届けると、五条は「お邪魔します」と小さく会釈をして扉を閉めた。靴を脱ぎ、木張りの階段を上がる。青年の重みをまるで知らない階段が歪な音を立てるので、そっと足を置いていくようにした。二階の廊下にはふたつの部屋が向かい合って位置していたが、迷うことなく少女のネームプレートがぶら下がった扉を開いた。途端、室内からはふんわりと少女が纏っている甘い香りが漂ってくる。五条は疚しいことを仕出かしている犯罪者のような気持ちに駆られながら、その部屋の中央へと座り込んだ。できる限り無闇に目線を動かさないよう俯いていたが、扉の向こうからノックする音が聞こえたので、腰を上げて扉を開いた。
「お待たせしました」
 部屋に入ってきた少女は両手に塞がったトレーを見せびらかすように五条の眼前に掲げ、それを机上に置いた。麦茶と、剥いて等分された柿が並んでいる。果物の瑞々しい匂いを嗅覚が刺激して、空腹を訴える腹の音が鳴り響いた。そう言えば、と五条は民宿で出された朝食以外何も口にしていないことを思い起こす。ばつが悪そうに五条が唇を尖らせると、少女は腹を抱えてけらけらと笑った。
 手を合わせてから、五条は遠慮なく柿に手を伸ばした。フォークの先に刺さった柿を口内に放り込み、咀嚼する。自然の甘い旨味が広がって、舌全体に沁み込んでいく。順当に空腹を満たしながら、五条は麦茶をちびちび飲んでいる少女に目を向けた。
「オマエ、こっちの人間なの」
「えっ、いえ。東京生まれの東京育ちです。……あ、訛りですか?」
 五条が頷くと、少女は眉根を寄せてはにかんだ。指先で頬を掻き、恥ずかしそうに視線を泳がせる。
「ばあちゃん、こっちの言葉じゃないと通じないから。越してきたのはつい最近……三ヶ月前くらいです」
 昨日の村長との会話を揺り起こす。大体の期間が符号しているし、両者の話に矛盾はない。脳内で擦り合わせを行いながら五条は続けた。
「姉貴と一緒に?」
「そうです。お姉ちゃんが呪術師辞めて、ばあちゃん家で休養するってなって、一緒に住んでた私も一緒に」
 十四という齢での一人暮らしは正直なところ現実的ではない。夜蛾の口振りや、一度も話題に上がらない両親といった要素をかき混ぜると、姉妹は天涯孤独に似た境遇だったのかもしれないという憶測が自ずと出来上がった。憶測は憶測を呼ぶだけであると知っていたから、五条は敢えてこの話題に追及しなかった。
 当時を懐古する少女の瞳は、穏やかに凪いだ海のように、光を一点に集める。淡くて弱々しい、今にも消え落ちてしまいそうな光が涅色の淀みで確かに瞬いている。
「お姉ちゃん、精神的にまいっちゃって。人の死ぬとこもう見たくないって。でも、この村は呪霊の吹き溜まりになりやすいから、体調が良いときには祓いに行ってて……」 
 視線を注ぐ五条は気にも留めず、思い思いに少女は吐露するが、やがてはその声も尻窄みに沈んでいく。泣くのを必死に堪えようと我慢しているが、その努力も虚しく今にも決壊しそうな声色だった。どれだけ涙を押し留めても、眼球には潤みが累積されていく。
「それなのにお姉ちゃんを余所者のインチキ霊媒師とか言って、村の皆遠巻きに噂して、叩き者にして……」
「おい、ばか、泣くな」
 遂に溢れ出て、スカートに斑点を織り成していく涙の数々に五条はぎょっとする。頬を伝い落ちていく滴を咄嗟に指で拭おうとするが、思い留まり、本棚の上にあったティッシュ箱を手渡した。少女は嗚咽の止まらない震え声で「ありがとうございます」と呟くと、ティッシュで涙を拭い、五条の目をお構いなしに鼻までかんだ。暫くの間、少女が落ち着くのを五条は無言で待ち続けた。
 もう言葉も涙も、出せるものを出し切ったのか、赤く目を腫らした少女が顔を上げる。切実で痛々しいその表情か目を逸らしたくなるが、踏み留まって、五条は少女に向かい合った。
「それが殺す理由か? よく考えろ。そんなん正当防衛でもなけりゃ復讐でもない、ただの八つ当たりだ」
「……違います」
「何が違ぇの」
「呪霊は人間の負の感情を養分に大きくなるんでしょう。なら、お姉ちゃんがあんなひどい雨の日にまで祓いに行ったのは、此処の陰湿な村人のせいじゃないですか」
「……そういうのを人は屁理屈って言うんだよ」
 理屈はまるで通ってないくせに、意志だけは針金を一本通したように真っ直ぐ伸びている。余所者を厭う村人のせい、噂によって負の感情を伝播させる悪習のせい。そう信じて疑わない頑固で強固な意志が、少女に根差している。それは正しく呪いのようだった。姉を想うが故の強い愛情が、世界に亀裂をつくり、歪んだ視界を生み出している。周囲を敵と見なし、何者の介入も許さない。少女が陥っている心境はそういう、被呪者のような雁字搦めの状態に近かった。
 五条は右手を首元に当て、項垂れた。考え込むように目を閉じた後、目蓋を持ち上げ、一直線に少女を見つめる。
「俺は呪術師。人殺しの善し悪しを決める権利はないし、俺がするのは呪いを祓うこと」
「……」
「オマエの言い分はよく分かったけどな、人が悪いか呪いが悪いか、そんなもんは誰にも決めようがないだろ」
 この程度で納得するならどんなに楽だろうか、と五条は脳裏で愚痴をひとつ零した。案の定、少女は動揺こそしているものの、得心した様子は微塵もない。諦めという境地を一切知らない瞳は、途切れることなく焔を燃やし続けている。その双眸が諦めを知り、焔を吹き消してしまったとき、少女は一体どうするのだろう。そこに生という選択肢はあるのだろうか。途方もない恐怖が五条の身に降りかかって、身震いした。
 長い長い沈黙を経て、ゆっくり少女が立ち上がった。カラカラと音を立てて、そよ風が迷い込んでいた部屋の窓を閉める。辺りは夕暮れを通り過ぎ、闇が刻々と侵食し始める夜色へと変化していた。
「お線香、良かったら上げて行ってください」
「線香?」
「はい。お姉ちゃん、きっと喜ぶと思います」
 突拍子もない少女のお願いに引き連れられて、五条は一階の仏壇に線香を供えた。遺影の中で笑う女性は、笑ったときの目蓋や口角が少女そっくりで、まるで生き写しのようだった。仏間は質素なもので、家族や五条以外が手を合わせに来た痕跡がまるでない。その光景は確かにこの村の異様な性質を浮き彫りにしていた。
 お暇する際、五条は少女から民宿までの大体の道筋を教わり、街灯のほとんどない道程を危なげなく辿ることができた。
 心の片隅で引っ掛かる事象は幾つもあったが、何より大きく占めていたのは少女のことだ。周囲に何もない、呪霊一匹も彷徨かない屋敷の軒下で手を振る少女は、あまりに寂しく苦々しい印象を与えた。
 今の彼女を形作るのは、憎悪と孤独以外の何物でもないと知っているからこそ、余計に。


「そないな顔してどうかしたんね。口合わんかったかい?」
「あ、いや。めちゃくちゃ美味しかったです」
 民宿の女将は愛想を振りまきながら五条を迎え入れ、今日も今日とて豪勢な夕食を差し出した。故郷の素朴な味――と言っても、五条にとって実家の食事は無味無臭の記憶しかないため、一般的な故郷の味として――をしかと堪能し、最後の小鉢を浚えたところで手を合わせる。座卓の食器を片付けに来た女将に指摘され、そこで初めて五条は自分の表情筋が凝り固まっていたのだと気が付いた。知らずの内に、少女が持て余す不穏を貰い受けてしまったらしい。頬を叩き直して、内側にこびり付いた陰鬱な空気を入れ替える。片している女将の手慣れた所作を眺めながら、何の躊躇いもなく、堂々と唇を広げた。
「あの、不躾な質問しても良いですか」
「うん? 改まってどないしたんね」
「先月亡くなった女の人、村で迫害されたって伺ったんですが、それって本当ですか」
 遠慮なんて言葉と無縁に生きてきた五条が、その生き様をこれでもかとひけらかすような、鋭利に研ぎ澄まされた言葉だった。迫害という顰蹙を買いかねない言葉を用いたのには、女将に――村人側に罪の意識があったのかを確認する意図があった。そこに何の後悔も罪悪感もないのでは、五条が幾ら村人を庇い立てようとも、結局少女の目には罪人としてしか映らない。人の心、人の意思、いずれも五条が尊重してきたものだから、確かめねばならなかった。村人をただ悪人と迫害するのではなく、その意思がどこに向かっていたのかを見定めなければ。
 女将はぎょっと目を見開いたが、それも一瞬の出来事であった。表情は瞬く間に、接客業として在るべき形につくり変えられる。満面の笑みを浮かべる女将は、止まっていた手を動かし始めた。五条の意識を逸らすためか、食器を片付ける音がやけに騒々しくなる。
「なんや、えらい物知りやねぇ。五条くん」
「知られたら何かまずいんですか」
「そんな睨まんといてぇな。悪い思うてたんよ。でも、壬生さんに言われたら、もううちらにはどないもできひん」
「壬生さん?」
 珍しいからか、やけに胸に引っ掛かる名前だった。聞き慣れない筈なのに、鼓膜の縁に残って生み出される違和感が、記憶を刺激する。五条が得体の知れない奇妙な感覚に飲み込まれているさなか、女将は何の気なしにさらりと付け加えた。
「村長さんやよ」
「そん……ちょう」
 昨日の夕暮れ時の車中、あの人当たりの良さそうな横顔が五条の脳裏を掠めた。フラッシュバックのような閃光と、膨大な記憶の波が押し寄せる。混乱して処理の追い付かない脳内を休ませようと、五条は女将に向かって片手を翳して制止を促した。
「ちょっ、……と待って。村長さんに命令されたの」
「命令いうか……。会合のときに、あそこの血縁は呪われた一族やら何やらで近付いたらあかんて言われてなぁ」
「……」
「此処来る前は変な仕事で生計立ててたり、日中徘徊してたりって噂も流れてきて、皆信じてもうたんよ」
 閉鎖的なコミュニティの盲点を突いた、何とも姑息なやり方だ。風の噂、少数故の同調圧力、出る杭を打つ姿勢。信憑性がなくとも排他的な地域社会に属するだけで、信じなくてはならないという強迫観念に駆られてしまう。そういう特性を知り尽くした、正に手練の成せる業だ。その大元が、まさか村を治める長老だったなんて。いくら五条が思い起こしても、自分は加害者の枠から外れた傍観者だと主張したげな発言しか蘇らなかった。言葉の表面だけではそんな事実、まるで窺えない。つまり故意的に秘匿していたということだ。自分が手に染めた悪事、その事の重大さを理解しているからこそ、話の源流を曖昧にしてはぐらかした。
 ならば、と五条は思い留まる。村長は姉妹の何がそこまで気に食わなかったのか。そうまでして、村長が彼女達を追い詰めたかった真意とは、一体何なのか。
 その疑問はただの疑問に留まらず、解を求めて過去を巡り歩いた。同時に不審な点、怪訝な点を順繰りに拾い集めていく。そうして、無数に散らばっていた疑問が集めて固められたとき、ひとつの仮説が浮かび上がった。未だ証拠も手掛かりもない、ただの言い掛かりだと失笑されても仕方ないような仮説。けれど、調べてみる価値は十分ある。五条は此処に来てようやく、霧に覆われていた視界を自ら切り開いたような感覚を手にした。
「壬生さんの言うことは絶対やで、逆らうなんてとんでもない。寧ろこっちが追い出されてまうかもて、皆反論なんてできんかったんよ」
 続けられた女将の言葉は、保身の意味が割合大きいのだろうが、そこには確かに後悔も罪悪感も含まれている。俯き、声を震わせる彼女の姿が、嘘で塗り固められているとは思えなかった。六眼という異能に頼っただけの情報ではない。五条の内なる本能が、そう判断した。
「本当に悪いと思ってるなら、あの家に線香の一本くらい上げに行ってください」
「五条くん……」
「誰もしないからやらないんじゃなくて、誰かが最初のひとりにならないと、村全体の意識なんて一生変わりませんよ」
 辛辣なようでいて優しさを捨て切れない助言を吐き出し、五条は「ごちそうさまでした」と軽く会釈してから大広間の座敷を出た。殺風景で物寂しい印象を拭いきれない仏間に、一輪の変化を添えて欲しいという願いを込めて。
 客室に戻った五条は、直ぐに携帯を開いた。
「あ、お疲れ様です、五条です。至急確認して欲しいことがあって、あと増援願いも――……」


 最近は寝付きが悪く、ついでに言えば夢見も悪かった。しかもその日の夜は、来る明日に備えた脳が目まぐるしく活動する始末だ。中々眠りに就けない五条は、ひたすら天井のシミを数えてやり過ごそうとしたが、天邪鬼な身体は知らずの内に微睡みに落ちてしまった。
 夢だと分かる夢だった。五条がそう感じたのには理由がある。意識は鮮明で、まともな思考回路を伴っているのに、眼前に広がる光景は決してあり得ないものだったからだ。
 夏油だ。彼が、咎めるように目を細め、仕方がないと溜息を吐き、そして親愛を分かち合うように、笑っている。屈託なく晴れ渡った青空のような親友の笑顔を、五条は久方ぶりに目にした。
 会話は流れていなかった。正確に言えば、対面する夏油の唇は形を変えて動いているのに、表出される音がない。けれど、周囲の音に関して言えば、それは違った。行きの鈍行列車に似たボックス席に座り、車体の騒音やさざめく会話も流れて込んでくる。全くの無音ではない。だから、そこで五条は気が付いた。これは実際の記憶に象られた夢で、自分が親友との他愛もない会話を一欠片も覚えていないのだと。このようにふたりだけで任務先に赴き、車内で駄弁るという状況は珍しくはなかった。普遍的な過去の断片としては居座っていても、詳細までは書き記していないのだ。
 記憶とは本来そういうものだ。過去は上書きされ続けるし、重要性の薄いものから色褪せていく。永続的なものなんて何もない。長ったらしい旅路も、大事に抱え続ける記憶も、――ずっと隣で未来永劫笑い合っている筈だった親友も。何もかも、永遠に続くわけがないのだ。この世の全ては刹那的で、蛇口から溢れていく水のようで、排水口に流れてしまえば一生元には戻らないものだらけだから。
 けれど、なかったことにはしない。してはならない。五条は、夏油と過ごしたかけがえのない一瞬一秒をなかったことにはしたくなかった。
 例え脳が衰えて使い物にならなくなっても、記憶のタンスから引き出せるものがなくなってしまっても。五条が夏油の親友で、夏油が五条の親友だという事実は変わらないし、色褪せない。
 親友ひとり引き留められない非力を嘆くのは、ここまでだ。此処で成すべきことがある。少女の追い詰められた表情を、煮え滾った双眸を揺り起こしたとき、五条は自然に目が覚めた。
 朝日が顔を出していた。この村の朝は早い。夜が終わればすぐに朝が顔を上げる。そうして、彼等の日常が始まる。
 少女にも夜明けを見せなければならない。瑠璃色に灯火が燃え、滲んで溶けていく美しい一瞬。明けない夜はないと示さねばならない。
 それこそが、五条が少女に残せる唯一で、色褪せることのない刹那だと思った。



「ラブレターって、もう少しロマンチックなものなんだと思ってました」
 人里からやや離れた山奥の神社、その拝殿近くの石段に座り込んでいた五条は、目当ての声を聞き届けて顔を上げた。学校帰りの少女が、杜撰に破られた紙切れ一枚を手にして、彼の眼前に立ち及んでいる。その紙は今朝方、五条が少女の靴箱に突っ込んできたものだ。田舎の中学校ゆえか防犯意識がまるでなく、一際目立つ相貌の五条ですら容易に出入りできた。平時はともかく、今日ばかりは感謝だ。五条は誰にも勘付かれず、そして人目を忍ぶ場所に少女を連れて来る必要があった。だから、端的にこう書き記したのだ。夕方、神社にて待つ、と。ご丁寧に自分の名前を添えて。
 一体どんな勘違いだ、とぼやきつつ五条は腰を上げた。少女を見下ろし、指先で摘まれていた紙切れを強引に奪い取る。
「これがラブレターに見えるんなら、オマエの目、節穴にも程があるだろ」
「違うんですか」
「ちげーよ」
「それは残念です」
 その返答は残念でも無念でもない、からっと陽気に満ちた声色を保っていた。最初から恋文なんて奇抜なものではないと、少女は悟っていたのだ。その上で五条をからかった。年下のあどけない少女に翻弄されかけた事実に唇を歪めながら、紙切れを丸めてポケットにしまい込んだ。
 少女を見つめると、目が合う。濁りのない湖のような広大な奥行きがあるのに、そこに詰め込まれているのは淀みのない怨嗟だ。妄執に取り憑かれている瞳から目を逸らすではなく、向き合って、五条は口を開いた。今日彼女を呼び出したのは、与太話をするためでもなければ戯れ合うためでもない。大事な話があった。
「壬生八郎。呪詛師――悪徳な呪術師で、各地で人を呪い殺していたが、数年前を境に行方を晦ましてる」
「壬生……、村長さん?」
「そう。で、呪いが発生しても傍目に気付かれにくいこの村を隠れ蓑にして、自分の術式で呪いを物体に宿して密売していた」
 当時から壬生は呪殺を生業としていたが、何らかの理由――推察するに、身体能力の低下や優秀な呪術師の台頭――があり、身を隠して別の職で生計を立てる必要があった。そこで手を出したのが、呪物や呪具を必要とする呪詛師へと横流しする、いわゆる裏取引の商売だ。壬生は自然発生する呪いを物体に封じ込める術式を擁しており、この稼業との相性が良かった。都会から離れた集落は、その限られた地域だけで負の感情が巡るために、発生する呪いは弱くとも、発生する頻度は高い。だから、呪術師は疎か補助監督も窓もいないこの村落は、壬生が密売稼業をするにはうってつけだったのだ。自分が表立って呪詛師と取り合うわけにはいかないから、別の業者を雇い、彼等に運び屋としての役割を担わせていた。
 ここまでが、昨夜東京の補助監督に頼んでおいた調査の結果だ。大方が五条が予想していた通りだったため、うまく事が運んでいれば、増援として駆け付けた術師が壬生の塒に突入しているだろう。この売買によって勢力を伸ばしていた呪詛師はいずれも衰え、何処かしらの地域に少なからず平穏が齎される。この村が安寧に包まれる日も、そう遠くはない。
 けれど、それは今から五条が成すべきことを成し遂げることができればの話だ。
 もうひとつ、はっきりさせなければならない事実がある。明確に、白黒付けなければならない事実が。
「考えてみれば不自然なんだよな」
 五条の呟きに、少女はわずかに肩を震わせた。神妙な面持ちで五条の話に耳を傾けていたが、そこに怯えを一滴垂らしたような表情へと変貌を遂げる。五条は微かな変化の兆しを即座に見抜いたが、それでも良心に阻まれることなく、話を続けた。
「この村には大体どこも一定数の呪霊がいる。それなのに最初にオマエに会ったときも、オマエの家に寄ったときも、不自然なくらい呪霊は周りにいなかった」
「……」
「偶然、ってことも考えられるけど……一番に思い付くのは呪霊の方がオマエを避けている可能性」
 不可解な点から線を伸ばし、考えを巡らせた五条が行き着いたのは、その可能性だ。呪霊が少女を嫌悪し、忌避している。もしそうだとしたら、その源泉は、そこに付随する理由は何だ? 五条がその疑問を浮かべたとき、予感の風が吹き込んできた。彼が思い描く仮説を後押しするような、何の根拠も理屈もない仮定に自信を付けさせるような、そんな風だ。追い風のちからを借りて、五条は静かに口を割った。
「持ってるんだろ? 呪霊操術――呪霊を操るちからを」
 五条がぴしゃりと言い放つと同時に、木々のさざめく音が広がった。烏が一斉に飛び立ち、禍々しい赤に染まる夕空へと羽ばたいて行く。吹き荒ぶ強風が、轟々と唸りを上げながら森林の隙間を駆け抜けた。
 反して少女は、水を打ったような静粛を守っている。微動だにしない全身も、揺らぐことのない双眼も、そこには確たる意志があるだけで困惑は見受けられない。肯定も否定もなくとも、その様子は五条の想像が正解であるという裏打ちに違いなかった。
「オマエの姉貴を教えていた教師に確認した。父方が呪霊操術の保持者で、姉にも相伝していたって」
「……」
「姉妹共々その術式を持っていたとなれば呪霊が避けるのも、村長が呪われた血縁なんて意味深な触れ回しも納得できる。呪霊を取り込まれてしまえば、壬生自身の懐に入る銭は乏しくなる一方だからな」
 壬生にとってネックだったのは、姉が元呪術師であるという点だ。越してきた彼女がこの地に順応していくにつれて、不当な取引が行われている実態に気付く確率は高まる。もし何処かでボロを出せば、術師の連絡網によって身元を割り出され、あっという間に縄を打たれると壬生は考えた。だから、当初は村から追い出す目的で村民を焚き付けた。けれど事が思い通りに進まず、それどころか呪霊を祓われる始末であったから、事故死を偽装して、殺害した。呪術界から引退した身であるから、そう波紋が広がらない可能性に賭けて。実際、その死は界隈にまで届くことはなかった。何せ二週間前、将来を有望視された男の離反により界隈は荒れに荒れていたのだから。
 恐らく、次に殺意が向かうのはこの少女だった筈だ。親族が立て続けに事故死するのはあまりに不自然で、術師どころか警察に目を付けられる恐れもある。だから姉を追って自殺したように見せ掛ける小細工でも準備して、機が熟すのを待っていた。
 幸か不幸か、少女は気付いていなかった。それもその筈で、少女はまるで見当違いな方向へと殺意の矛先を向けていたのだから、気付きようがなかったのだ。
 この村落の裏側に潜む悪意を、五条はそんな風に推察した。この憶測の答え合わせは自ずとできる。けれど、少女に隠された真実は、今この場で解き明かさねばならない。正しい方向へと導かねばならない。
 彼女が踏み出そうとしている道、その先には奈落の底に繋がる断崖しか広がっていないのだと、五条は知っている。
「……五条さんの言ってること、何ひとつ分かりません」
「嘘つけ、顔に書いてるぞ。私は全部分かっていますってな」
「っ……!」
 その瞬間、少女は五条から距離を取り、手のひらに呪力の塊を生み出した。悍ましい底なし沼のような暗黒から、呪霊が湧き上がり、五条目掛けて飛び出してくる。蠅頭と違って図体だけはかなりの大きさだが、それでも所詮は地方で蔓延る呪霊だ。五条は全身に張り巡らせた無下限を解き、呪力を籠めて勢いよく蹴り飛ばした。術式を用いない、文字通り体術だけのシンプルな攻撃。それでも、この程度の呪霊になら十二分に作用する。宙を舞った呪霊は、重力に従って地面に落下し、叩きつけられた。くたりと仰向けになった様子からして気絶したのだろう。五条の思惑通りに祓除ではなく、ただの乱闘騒ぎとしてその場を収めた。
 一連の流れを目撃した少女は焦慮の汗を滲ませて、じりじり後退る。追撃を掛けようと再び呪力の塊をつくり出したところで、地面を蹴って少女の目の前まで駆け寄った五条が、腕を掴んで制止した。
「離してっ……!」
「オマエがそのちからを使って村の奴らを殺して、それで何になる? そこに意味があると思うか?」
「そんなの、五条さんには関係ない……!」
 悲痛な感情をぶつけるように、少女は掠れた金切り声で叫んだ。掴まれた腕を振り回し、逃れようと身を捩る少女を物ともせず、五条は淡々と言葉を返す。
「そうだよ、俺には関係ない。そのちからはオマエのものだ。復讐だろうが八つ当たりだろうが、好きに使えば良い」
「……っ」
「けどな、姉貴がそのちからを何のために使ってきたのか。何を守ろうとしていたのか。その背中を見てきたんなら、オマエが一番分かってるだろ」
 そうやって少女を諭しながら、五条には自分がひどく狡猾で卑怯な手を使っている自覚があった。全く知らない術師の背中を知ったかぶりで引き合いに出し、幼気な少女を丸め込もうとする、その悪賢い自覚。迫り上がる罪悪感が身体の隅から隅まで巡り、胸にむかつきが居座る。
 けれど、何も五条はただ想像で語らったわけではなかった。戦闘に際して、振り返ればすぐそこにあった頼もしい背中。意のままに呪霊操術をあやつり、多くの呪霊を取り込み、使役してきた親友の姿。道は違えても、夏油が何のためにちからを使い、何を守ろうとその身を奮い立たせてきたのかは分かっている。高専を離反してまで、非術師を不要だと払い除けてまで、何を志しているのかも理解していた。
 五条は、そうなって欲しくなかった。
 正確に言うなら、そうまで思い詰めて掴み取った選択に、ひとつの未練も後悔も紛れ込ませて欲しくなかったのだ。
 少女が我に返って、自分の選択に負い目を感じてしまったら、それは五条にとっての負い目と同じだ。今この場で少女を引き留められなかった自責の念が一生後を引きずる。そうならないために、五条は叫んだ。
 あの日、背を向けて小さくなっていく親友の姿に覚えた途方もない虚無感を、何もできない屈辱を、二度と味わいたくはない。誰かに味あわせたくもない。
「姉貴の墓前に立ったとき、胸張って会えるような使い方をしろ。それだけだ」
 五条は手のちからを緩め、少女の腕を解放した。もう抵抗する余力がないのか、はたまた納得できたのか、少女は俯き加減に脱力している。夕焼け色の翳りが差して、その表情は窺えない。少女からのアクションを身構え、ひたすら見守っていると、突然少女から啜り泣く声がした。
「ごめ、なさい……ごめっ……」
「は……!? 何で泣くんだよ、オイ、泣くなってば」
 ひっきりなしに目の縁から溢れ出ていく涙が、少女の顔に軌跡をつくり出す。五条は顔を上げさせて、顔中をくしゃくしゃに歪める少女に苦笑した。まるで生まれ立てに泣き喚く赤子のようだったから。
 今度こそ、五条は片手を持ち上げて、大雑把な手付きで涙を拭ってやった。生温い水滴が皮膚に吸い付く感覚が、妙に安心する。五条は笑いながら、少女が冷静を取り戻すのを待った。
 ふたりだけの神社に、夏の終わりの小風が吹き寄せる。新たな季節の匂いを乗せてくる風は、まるで科戸の風のようだった。



 じんわり肌に纏わるこの地の気温が心地良く、ほんの少しの優しさを孕んでいることを、五条は今になってようやく知り得た。
 鈍行列車の始発時刻まで後わずかだった。朝早くから爛々と存在を主張する太陽から身を隠すように、駅に設けられた簡易の待合室に腰掛ける。人ひとり分の空間を空けた隣からは、鼻孔を程よく刺激する甘酸っぱい香水の香りが漂っていた。
「五条君が推理した通り、壬生はすべての容疑を認めたよ。昨日の内に警察に送検されたから、高専の方で聞き取りができるのはもう少し先になりそうだね」
「……まさか冥さんに来てもらえたとはね」
「当時、壬生の呪殺事件を追っていたのは私だったんだ。尻尾を掴ませない老獪だったけど、いざ戦ってみると拍子抜けだったかな」
 冥は指先を顎に添えながら、何でもないことのように言ってのける。体術や判断力が衰えていたとしても、相手は界隈に名を馳せていた極悪非道の呪詛師だった輩だ。ただ術式頼りではない知略と戦術は、やはり他の一級とはレベルが違う。膝上で肘をつきながら、五条は冥をまじまじと見つめた。それにしても冥さん、数年前の事件を任されてたって一体何歳なんだ。不遜な性格を振り翳す五条も、さすがにその疑問を口にすることはなかった。生意気を吐き出す前に唇を引き結び、黙って空を仰ぐ。窓の外に広がる雲ひとつ見当たらない快晴に、思わず五条は目を眇めた。
「良かったのかい。彼女を置いてきてしまって」
 突拍子もなく降り注がれた冥の問い掛けに、五条はぴくりと耳を震わせた。彼女と指し示された人物が誰のことか、それくらいは察しがつく。けれど、少女についての仔細を冥に話した覚えがまるでなかったから、単純に驚いた。壬生と対峙したタイミングで、或いは夜蛾から指令が下ったタイミングで、小耳に挟んだのだろう。それ自体は、五条にとって至極どうでも良いことだった。
 家に送り届け、無言で見送った少女の後ろ姿が思い起こされる。絹糸のような鮮やかな黒髪に、夕景の色が落ちてきて、混じり合う。あの神秘的な煌きを放つ後ろ姿が、自分が見る少女の最後であっても良いと、五条は本心から思っていた。
「世話してくれる祖母がいて、精神的にまいった術師の姉を見てきた女の子、術師にさせらんないでしょ」
「ふふ、そういう意味じゃないんだけどね」
 じゃあどういう意味? 冥が投じた疑問とその意図が純粋に掴めなかったから、五条はその上から更に疑問を重ねようとした。けれど、それは叶わない。冥は徐に立ち上がり、結い上げた髪の束を揺らしながら待合室の扉を開いた。
「五条君は彼と違ってレディーを思い遣る気持ちがないってことだよ」
 扉の向こう側に、騒音を響かせながらホームに入ってきた鈍行列車が見えた。軽く伸びをした冥は、五条を置いて列車の中へと吸い寄せられていく。図らずも置いてけぼりを食らった五条は、冥に突き付けられた言葉を反芻しながら、待合室を出た。彼が夏油を指すとは理解できたが、そこから先は全く意図が読めない。寧ろ、少女への思い遣りに溢れた判断だという自負すらあると言うのに。顔を顰めながら、冥が滑り込んだ車両へと足を踏み入れようとする。けれど、それは後方からの猛烈な引力によって引き留められた。実際には地球の引力でもなければ磁石の吸着力でもない、ただの非力な妨害行為だったのだが。
 五条が肩に提げていたボストンバッグの肩紐を、思い切り引っ張られたのだ。無下限の対象を鞄にまで広げる必要性を感じなかったため、その抜かりによって、五条は敢えなく歩行を阻まれた。その暴挙に出たのは、勿論、彼女だ。
「なっ、オマエ……!」
「はぁっ、まに、間に合っ……五条さっ……!」
「せめて名前呼んでから引っ張れ! ビビるだろ」
 ホームに引き戻された五条が振り返ると、息を切らして喘ぎ散らしている少女の姿がそこにはあった。額には多量の汗が滲み、プリーツスカートから覗く膝小僧は異様なまでに震えている。全速力で走り続けて、此処までやって来たのだろう。そうまでして駅に向かって来た目的は分かる。自惚れでも何でもなく、五条は自然と理解していた。この村から去り行く自分を見送るためなのだと、そう確信を持っていた。
 胸に両手を当てて息を整えた少女は、遥か上方の五条を見上げた。光を集める丸こい粒が、いくつも首筋を伝っていく。
「昨日、伊藤さんが……」
「伊藤?」
「お線香、上げに来てくれたんです。近所のひとも連れて、それで謝ってくれて……」
 事実をひとつひとつ丁寧に紐解いていくように、少女は話し始める。線香という単語を経て、ようやく五条に閃きが走った。伊藤とはあの女将のことか。一丁前に説教を垂れ込んだ夜のことを思い出し、五条は得心がいった。しかし、そのことを自ら仄めかすのは無性に気恥ずかしくて「あー」とどっち付かずの声を洩らす。少女はその反応に目を輝かせて、前のめりになった。
「五条さんですよね?」
「……ちげー」
「嘘! 絶対五条さん! 何か言ってくれたんでしょう!」
「うるせ。……そうだよ、悪いか」
 興奮気味に捲し立てる少女に詰め寄られた五条は、意地を貫き通すことを諦め、泣く泣くそこで折れた。耳を赤くしながらそっぽを向き、鳥が囀るような小声で白状する。わざとらしく眉間に皺を寄せ、開き直る姿勢を誇示して羞恥を散らそうとする五条に、少女は朗笑した。緩まった口元から空気が洩れ、唇は小刻みに揺れる。その笑顔を網膜に映した五条は、無意識に胸を撫で下ろしていた。最後に相見えた少女が、悲観するでも絶望するでもなく、前向きな希望を灯す瞳をしていたから。それを証明せんとばかりに、少女は五条の双眸を一直線に捉えて、はっきりと告げた。
「ありがとうございました」
「……」
「伊藤さんのことだけじゃないです。五条さんがしてくれたこと、全部に対して」
「……分かってるよ」
 五条の素っ気ない返答も予想の範疇だと言いたげに、少女は得意気に鼻を鳴らす。後ろ手を組みながらはにかんで、五条からわずかに距離を取り、その場に踏み留まった。
「私、呪術師になります」
 その瞬間、少女の声だけが五条の世界で唯一の音になった。
 様々な種によって織り成される自然の混声も、背後から微かに流れてくる電車内のアナウンスも、その刹那的な一瞬だけはすべてが無になった。一際大きく、一際優しい音が、五条にどれだけの歓喜を齎したのか。どれだけの希望を降り注いだのか。少女には知る由もない話だ。鼓膜に染み込んでいく言葉を脳内で何度も何度も唱えながら、五条は少女が続ける話を黙って傾聴した。
「中学を卒業したら高専に入って、お姉ちゃんも五条さんも追い越せるくらい強い呪術師になります」
「……」
「それで、胸張って言うんです。私がお姉ちゃんの後を継ぐから安心してねって」
 どこか遠い地を、いつかの未来を遠望して思いを馳せる瞳は、穏やかに凪いでいる。少女は瞬きひとつして、照れ臭そうにくしゃりと笑った。
 その決意の果てにあるものが、どれだけ険しくどれだけ過酷な道であるか、五条はよく知っている。自分もその残酷な道程の真っ只中であるから。守れなかったもの、失くしたもの、引き留められなかったもの。そういう二度と元の形には戻せない儚い生命を喪い続けてきたし、これから先も、きっとそうだ。それを知っていて少女をこの世界に引き入れることは、非道で悪徳なのかもしれない。でも、五条は少女が掲げた意思を蔑ろにはしなかった。したくなかった。少女が悩みに悩んで獲得した答えは、誰にも侵されることのない純然たる輝きを放つものだから。
「オマエが決めたことならそれで良いんじゃね」
「はい!」
「まぁ俺を越すのは百億年無理だけど」
「そんなことないです」
「俺、今いる呪術師の中では一番ツエーんだけど」
「えっ……、えぇ!?」
 少女が驚きの様相を呈したと同時に、五条の後方から声が掛かった。冥だ。見れば、もう発車時刻へと差し掛かる一歩手前である。五条はボストンバッグの肩紐を掛け直し、無言で車両内へと足を踏み出した。気怠そうに持ち上げた片手をひらひらと振りながら。
「五条さん、またねっ」
 さよならではなく、またね。その意図に思い及んで、はっとした五条はわずかに振り返る。扉が閉まる直前に見えた、少女の表情。あどけない無邪気さと気高い芯の強さが同居し、一体化したような、そんな表情だった。やがて自動扉が閉まり、緩慢な動作で列車は走り始める。扉に向かい合い、呆然と突っ立っていた五条は、誰にも窺い知れないところで笑みを湛えた。
 旭日が優雅に昇っていく。太陽から零れ落ちる光の粒子が自然を、人々を、少女を眠りから揺り起こす。
 扉の窓から降り注ぐ視界を埋め尽くす光の束が、今の五条には目映く、そして仄かに優しい。


「未来への投資は用益潜在力を存分に発揮する初歩的な段階なんだけど」
 目的地に向かって突き進む列車の中、ボックス席に座る冥がそう口の端に掛ける。彼女の対角線上の窓際に腰掛け、意識を上下に浮かばせていた五条は、また珍妙なことをと思いながら耳だけを傾けていた。
「昨日今日と私の身体をこの辺境地にまで貸したのは、五条君の用益潜在力を期待した投資なんだよ」
 冥独特の難解な言い回しだが、言わんとすることは何となく察した。つまりこれがただ任務の手伝いではなく、謝礼金が発生する貸し借りだと念押ししているのだ。抜かりなく報酬を要求してくる冥に苦笑を浮かべながら、五条は期待される返答を差し出した。
「冥さんの賞与、上乗せするよう先生に頼んどきます」
「賞与は勿論。けれどそれ以上に、五条君に貸しをつくったという投資が花咲くことを想像して胸が踊るね」
「ハハ……。借りひとつ、覚えときますよ」
 この借りでどこまで大金を貪り取られるのか。想像すると急速に肝が冷えたが、それでも冥ほどの術師がちからを添えてくれたのは、全くありがたい話だった。五条は曖昧に笑いながら、窓の外へと視線を移し変えた。青々とした野山が、緩やかに来た道へと去っていく。
「君の投資も、いつか花咲く日が楽しみだ」
 そのささめく呟きが冥の本に伝えたかったことなのか、それとも与太話の道草に過ぎない独り言なのか、五条には判別が付かなかった。
 少女に施した善行は、確かに傍から見れば未来への投資だった。腐り切った呪術界に新しい風を吹き込むような存在に、少女は駆け上がってくるかもしれない。けれど、五条は狙ってそうしたわけではない。この世界の行く末ではない、少女の輝かしい未来そのものを願って、動いたのだ。だから投資という表現は不適切で、この結果は後から付いてきただけのオマケみたいなものだった。
 そして、もうひとつここまで必死になった理由を付け加えるなら、それは対抗心だった。
 親友に――あの日背を向けた夏油に、何もできなかった自分。夏油の意思を連れ戻すことは叶わなくても、あのとき指一本でも動かしていれば、殺めることはできた。道を違える親友を、別の手段で引き戻すことはできたたのだ。そうしなかったのは自分の甘さ故で、自分がいかに夏油傑という人間を信頼し、喪いたくなかったのかを実感する瞬間だった。あの場で殺すことに意味はあっても、そうしなかったのは五条の意思だ。だから、証明したかった。あの日、夏油を殺す選択は最適解ではなかったと。自分にできる最大の選択によって、夏油の選択を引き留めることができるのだと。夏油のように非術師に絶望していた少女の選択を光ある方に導いたのは、夏油を同じように導けるという立証に他ならないと、そう思っていた。
 記憶は薄れていく。いつかの任務で笑い合った親友の姿も、今日見た少女の誇らしい笑顔も、いずれはその本質を失ってしまう。形だけが残る。永続的に続くものは何もない、刹那で構成されるクソッタレな世界だから。
 けれど、なかったことにはならない。
 いつか、また、どこかで。五条が落としてきた数多の残光を辿って少女が自分の元に巡ってくる予感がする。想像するに容易い未来が、五条の内側にこそばゆい温もりを与えていた。


xx
「あ~、だるい。暑い。腹減った」
「悟、車内でうるさいよ」
「いや、俺ら以外に客誰もいねーし。やる気も出ねーし」
「一応、これから行く任務は一級に該当する呪霊の祓除だよ。あまり気を抜くのも考えものだな」
「なに、傑オマエびびってんの?」
「何だって?」
「そんなんヨユーだろ」
「……はぁ」
「だって俺達、最強だし」
「……」
「傑?」
「はは、そうだな。そうだろうね」
「何笑ってんの」
「いや、悟ぐらいの能天気さが欲しかったなぁと思ってね」
「喧嘩売ってんのか」
「冗談だよ。そうだね、さっさと祓ってお昼食べに行こう」
「俺、ラーメン食いたい」
「こんな暑苦しいのに? 信じられないな」
「信じらんねぇのはオマエだよ。夏にラーメン食べないでいつ食べんだよ」
「知らないよ。ほら、もう着くよ」
「はぁ~!? おい、コラ、傑!」
………
……


2020/08/10