asymmetry karma
 初めてひとを殺したときの情景、匂い、感触、何もかもが咽返りそうな邪悪に染められていた。血に染まった掌を流水に翳しても生々しい鮮血が付着している感触は拭い切れなくて、不快感が蟠っている。醜悪な光景が脳髄に焼き付いて、網膜にこびり付いて、二度と離れないのではないかと恐怖を抱いた。
 けれど、その日を跨がない内に私は愛するひとに初めて抱かれて、その恐怖を呆気なく葬り去ってしまった。身体を明け渡した先に待ち構えていた鮮烈な心地よさに、取り憑かれていたすべての感覚を薙ぎ払われる。邪気に染まった記憶も感情も波に攫われて、冷たい水底に沈んでいった。身体も心もすべてを捧げた気になって、そこでようやく私はこの行為の真髄に気が付いたのだ。
 夏油くんは、私のことが好きだから押し倒したわけではない。殺生という罪業を請け負った私が蝕まれている罪責感を上塗りするように、或いは希釈するように、この行為に及んだのだ。それは私のためだけに施された優しさだった。彼の心はここにはない。行方知らずの心を探し求めるように夏油くんに身を寄せると、彼は少しだけ苦しそうな吐息をはいた。
 私の内側で蠢いていた異物は、夏油くんの自制心から乖離した、得体の知れない何かのように感じた。


 ひとを殺すという枠内であっても、その相手が呪詛師か非術師かというだけで天と地ほどの差があった。悪を断たねばならないから、報いを受けさせねばならないから。そういう理由を免罪符にして、殺生に伴う筈の罪悪感を押し殺してきた。だから、自分が呪詛師側に回って非術師を殺めたとき、初めて本物の罪とその重責を実感したのだ。それは未だ私が、非術師のいない世界が正しいと信じられていない証明だった。こうして夏油くんの背中を追い掛けていけば、いつかは自分も雁字搦めの罪悪感から逃れられる日が来るのかもしれない。当たり前として受け入れられる日が来るのかもしれない。それが私にとって、世界にとって良いか悪いかは分からないけれど。
 夜風に当たってくると言って夏油くんが寝床を抜け出してから随分時間が経っていた。体力を使い果たしているのに、意識は異様なほど鮮明で睡魔は一向に降りてこない。無性に気が散って、代わりに漠然とした不安が落ちてくる。先に寝ていてとは言われたけれど、散らばっていた肌着と衣服を身に着け、こっそり部屋を抜け出した。
 彼はすぐに見つかった。暗雲に覆われた夜空が視界いっぱいに広がる屋上で、いくつもの光が灯された夜景を眺めている。肌寒さが強襲し始めた秋の夜風に、夏油くんの黒髪が靡いていた。忍び足で近寄ったけれど、夏油くんは当然のように振り返って、完璧なかたちの微笑みを浮かべた。

 優しさに包まれていて、でも少しいじめるような咎めるような声色で、夏油くんは私の名前を呼んだ。動悸を催して、心臓が縮み上がる。後ろ手で指を絡めて、少し俯きながら彼の元に歩み寄った。
「あの、ごめん……遅かったから心配で」
「どうして謝るんだい。ありがとう」
 感謝される謂れは何もないのに、夏油くんはそう言って目を細めた。闇夜に落とされた言葉は混じり気のない純然たる感謝の意が込められている。その隙のない模範的な回答が違和感となって押し寄せたけれど、小さく頷くだけに留めた。
 肩を並べて地上を見下ろした私に、夏油くんな自然な所作で着ていた薄手のパーカーを羽織らせてくれた。
「えっ……と」
「汗かいた後だから、今の季節だと風邪引くよ」
 夏油くんはそう言うと、汗で額に貼り付いた前髪を指先で攫った。唐突に降り注がれた汗と熱気に塗れた夜を思い起こす発言に、その名残が体内で鳴動しているような錯覚が迸る。自分とは全く異なる異質なそれに内側を暴かれ、内蔵を押し上げられる感覚。そんな蹂躙紛いの行為に付き纏う、体感したことのない激しい恍惚感。目まぐるしく移ろう感覚に意識を飲み込まれ、引き摺り込まれていく。信じがたい夜だった。そして、今はその一夜の地続きだということも、信じがたかった。罪業の泥濘から掬い上げられた夜は少しずつ朧気になって、縁を曖昧にぼかしていく。あのとき夢中になっていた強烈な快感も、混じり合う汗も温もりも、いつか思い出せないくらい遠い過去になってしまうのだろうか。
 貰い受けたパーカーの縁をぎゅっと握り締める。夏油くんを見上げると、目が合った瞬間にすっと笑顔をつくり出された。完全を装って象られた微笑はどこか他人のような壁を感じて、少し寂しい。
「……でも、これじゃ夏油くんが風邪引いちゃう」
の方が体調崩しやすそうだから」
「そんなことないと思うけど……」
 気恥ずかしさを押し込めて「ありがとう」と呟くと、夏油くんの唇からふっと空気が零れ落ちた。その吐息は秋風に乗って遥か彼方へと流されていく。
「そろそろ戻ろうか」
「あ……、そうだね」
 夏油くんが屋内に戻ろうと踵を返して、私もその柔らかい声掛けに釣られて振り返った。すると、彼は一歩先のところで手を差し出していた。暗闇に大きくて肌白い掌が浮かび上がる。不意に訪れた手を繋ぐ機会に、思わず目を瞠った。そもそも彼の目的も意図も全く見当がつかない。それでも、この契機を逃すほど見栄を貼る余裕はなかった。おどおどとした挙動で掌を重ね合わせると、夏油くんに優しく握り締められる。
「もう大丈夫かな」
「……えっ?」
「ずっと震えてたから」
 最初は震えていたが指すところをすぐには理解できなかった。不透明に靄がかかった彼の言葉を反芻して、脳内にふわりと浮かぶ。目尻の下がった双眼が、疑問に埋め尽くされて藻掻いている私の様子を捉えて、更に細まった。唇の端に意地悪な笑みが乗せられて、無性にそわそわする。身を捩ると、夏油くんは繋いだ手をぐっと引き寄せた。
「今日は君に無理をさせただろう。たくさん我慢もさせた」
 耳元に囁かれた一言で、ようやく数々の疑問が腑に落ちていった。ひとを殺したこと、もしかしたら身体を重ね合わせたときのことも含めて、夏油くんは私に無理をさせたし我慢をさせたと解釈している。身に覚えはないけれど、そのときの私は確かに全身を震わせていたのかもしれない。目眩がしそうな光景を目の当たりにして、伸し掛かる重圧に潰れそうになって、或いは貫かれる痛烈な感覚に耐えられなくて。そういう折節の私が震えていたと知っていて、触れ合うことで確認したかったのかもしれない。夏油くんはそういうひとだ。例え心が揉みくちゃになっていても他人を気遣うし、彼の背中を無心で追ってきただけの私にも責任を感じている。世界をより良くするために地獄に身を投じる覚悟があるのに、それを誰かに強要させることも任せることもしない。夏油くんって、そういうひと。
 風向きが変わって、冷たい夜風が夏油くんの方角から私目掛けて吹き込んできた。ひんやりした心地なのに、乗せられてきた風には彼のあたたかな優しさが入り混じっている。そんな気がして、涙が出そうになった。繋ぎ合わせた指先でそっと夏油くんの爪をなぞる。形の良いきれいな輪郭が、ここに夏油くんがいる実感を与えてくれる。私が彼の傍にいる証明を成している。
「もう大丈夫。これからも。だから心配しないで」
 これから先、人々の憧憬も羨望も猜忌の念でさえ、夏油くんは一身に引き受けて、その感情を束ねて歩んで行くんだろう。誰に止められても、誰と刺し違えてでも。だから、私から贈る言葉はひとつだった。何から何まであなたが背負う必要はない。そんな意味を込めて、私への心配は不必要だと意地を張って、辿々しく笑みをつくり出した。彼は私を一直線に見入って、困ったように唇を歪める。
「本当かな」
「本当だよ」
「今日の様子を見ている限り、慣れるには時間が掛かると思うけどね」
「……え?」
 慣れるという言葉の行き着く先の予感がふっと舞い降りてくる。夏油くんは私を再び腕の中に収める未来を見ているのだと気付いて、全身に熱流が駆け巡った。遠回しな言い方で分かりにくい表現なのに、流水のような滑らかさで理解の範疇に落ちてくる。きっと彼は、そういうところまで見越しているんだろうなと思った。
 この関係が適切なかたちを保っていない、輪郭のない歪なものだとしても、断ち切りたくはない。一本の脆弱な糸だけで結ばれた危うい繋がりでも大事にしていきたい。今はまだ見えない夏油くんの心のありかは、きっと触れ合った先の温もりを通して、感じ取れる筈だから。

2020/07/08