無重力の旅路
 彼女の「大丈夫」が大丈夫の意味を成していないと気付いたのは、いつからだったろうか。
 悲しいとか辛いとか、そういう痛切な感情を等身大のまま表出することがは苦手だ。もっと言えば、切々な感情を綺麗さっぱり水に流すことも、順応して何事もなかったように静穏を貫くことも不得手だ。そりゃ望んで得意としているひとはいないだろうけど、彼女の不器用さは群を抜いている。抱え込んでいる心情が透けて見えてその陰鬱さが辺りを漂っているのに、まるでひとを寄せ付けない態度を誇示するものだから、どうしようもない。いつ何時、何人たりともの心の内側を覗き見ることはできないのだろう。痛々しい傷痕だらけの心臓を擁していても、他者はそれを確かめる術を持たない。そして、それは僕も同じだ。彼女の心に介入することを許されない大多数の内のひとり。が掲げる不文律を破ったことは一度もない。これから先も、その禁忌を犯すことはない。彼女が願ってもない癒やしや憐れみや慰みを齎すことは、ただ僕がしたいだけのエゴに過ぎないからだ。
 そう誓っていた筈なのに。
『ありがとうございます、大丈夫です』
 受話器越しに発された無彩色の声は、が佇む泥沼の心境を推察するのに十分だった。電子の海に揺られる儚げな一本の繋がりを断ち切るように、すぐに通話を切られてしまう。後に残された無機質な音の繰り返しは、明確な拒否を示唆しているも同然だった。そうと分かっていても、携帯を握るちからをこめられずにはいられない。気付けば、僕は脱ぎ掛けていた外套を放り出して彼女の元へ駆け出していた。
 長期の出張任務を経て帰着した矢先、高専での同期が死亡したと小耳に挟んだのはつい先程のことだ。葬儀は数日前に執り行われ、損傷がありつつも無事に戻ってきた亡骸は火に焼かれ、今は親族が遺骨を預かっていると言う。同業者の末路としては珍しくない、寧ろご遺体に最期の挨拶が遂げられたことを考えれば随分まともな死に方だった。普段の僕なら形式だけでも手を合わせて黙祷しただろう。でも、その行為は脳内に思い浮かんだの姿によって阻まれた。高専に在学していた頃から仲睦まじくやっていた片割れが身罷る悲劇を想像して、無意識に自分のときと重ね合わせて、携帯に手が伸びていた。呼出音が明けて手始めに繰り出した「大丈夫?」の問い掛けは僕の心配を抽象的にしか象ってくれなかったが、案の定、彼女からは反骨的な返答しか齎されなかった。それでも、それだけで十全の価値がある。は正しく大丈夫ではないのだと、はっきりと分かり得たから。
 ただひとりの大切な親友が僕の元を去ったとき、僕は何を思っていただろう?
 もうすっかり遠い過去になった記憶を呼び覚ますよりも、僕の本能が直々に教示してくれた。胸中にはざわめきの黒靄が広がり、じくじくと侵食するような痛みが伴う。あの日の沈痛な思いを誰かに曝け出すことはなかったけれど、同じ類のやりきれない思いを抱えているなら、分かち合って少しでも軽くしてやりたいと思う。
 これは彼女の意思を介さない単なるわがままだ。莫大な孤独の渦に巻き込まれて欲しくないという、僕のエゴだ。
 はよく昔から高い所に登っていた。当時は馬鹿と煙は高い所が好き、なんて揶揄したものだけど、その理由が今なら理解できる気がする。
 ある程度見当をつけていた目当ての場所に彼女はいた。同期が亡くなった廃墟の屋上で、雲ひとつない満天の星空を眺めていた。
「やぁ」
 背後から突拍子もなく声を掛けると、周囲と同化していた黒髪が揺れた。振り返ったまなこは充血して、光源に翳さずとも真っ赤に腫れていると分かる。彼女はぱちぱちと緩徐に瞳を瞬いた。そして驚愕から一変、怪訝な表情を湛える。身体を強張らせたままわずかに後退ると、落下防止の意味を成していない寂れた鉄柵に身体が当たって、重々しい呻りを上げた。
「五条さん、どうして」
 罪業を弾劾するような声を織り成していながら、微かに震えていたから、僕は思わず笑ってしまった。
「君が大丈夫じゃないって言うから」
「……言ってません」
「うん、なら僕の思い違いかな」
 抜け抜けと虚言を弄した挙げ句にわざと折れたふりをすると、は一層顔を顰めた。まるで納得していないし、何なら今まで積み重ねてきた信用が崩れ落ちているまであり得る。何を釈明しようとも僕の利己心に身を委ねた愚行の結果には違いなかったから、甘んじてその鋭利な視線も煮え切った感情も受け止めよう。そういう姿勢を示すと、途端に彼女は及び腰になって気まずそうに視線を逸らした。無性に面白く愉しくなって、腹を抱えそうになる。弱気なを虐げる趣向は更々ないが、少しばかりいじって反応を窺ってみたくなるのは、彼女の持ち得る気質があってこそだ。好きな子ほど虐めたくなる昔々の僕が蘇ってきて、絶妙に噛み合ってしまう。
 鉄柵を背にして危険と隣り合わせのがこれ以上警戒しないで済むように、適切な距離を保って鉄柵に歩み寄った。やがて彼女も肩のちからを抜いて、柵の縁に指を引っ掛ける。肩を並べて、目の前に広がる広大な夜景を眺め耽った。
「高い所から見下ろす下々の姿はどうだい」
 気分が沈んだが高所に登る理由を、敢えてそんな風に解釈してからかってみる。予想に違わず、彼女は薄い唇をむっと尖らせた。
「変に解釈するのやめてください。そもそもこんな廃墟の近くにひとっ子一人寄りません」
「僕はいるけど?」
「……五条さんは物好きだから」
 気難しい面持ちでは目を伏せた。その物好きには、彼女のためにわざわざ廃墟に足を運ぶ物好きと、彼女を好きでいること自体に対する物好きと、双方の意味が折り重なっているような気がした。僕の主観が入り混じった妄言に過ぎないけれど、どちらにしても間違いではない。我ながら厄介な趣味をしている自覚はあるのだ。
 をいじめるではない本来の目的を思い出して、僕は彼女の背後に回った。ぴくりと肩が震えて身構える様相は、さながら飢えた獣から身を潜める小動物のようで、愛らしい。後方から腕を伸ばしての左手を取ると、自分の内側に宿る能力を行使した。思い描いた通り、全身を纏う重力が打ち払われ、足底が地面からふわりと離れる。繋がった掌がぎゅっと握りしめられ、焦りの滲んだ短い悲鳴が上がった。僕にとっては近場までの散歩のような「ちょっとそこまで」の軽やかな気分でも、彼女にとっては初めて体感する無重力の世界だ。恐怖を抱かない筈がない。この状況に託けての腹部に手を回して自然に引き寄せると、血走った双眸の睥睨が寄越された。
「ちょっと、五条さん!」
「暴れない方が良いよ。僕から離れると真っ逆さまだから」
「……そういうことは浮く前に言ってください」
 半ば諦めたように肩を落として、は背中を僕に凭れかけた。それは少しでもくっつく面積を多くして落下しないよう努める必死の策略なのかもしれないし、それを建前にして僕と触れ合いたいだけなのかもしれない。まぁ、前者だろうな。考えるだけ無駄な期待を振り切って、浮遊を続けた。
 荒廃した屋上のタイルが徐々に遠ざかり、無下限のみでは決して辿り着けないであろう満月が近付いて来る。微々たる変化であっても、確実に地面を離れ、宇宙に向かっている証拠だ。
「君は高い所が好きだから、喜ぶかと思ってさ」
 誰もいないふたりきりの夜空を闊歩しながらそう囁いてみると、触れている身体がぴくりと跳ねる。けれど否定や抵抗の申言はなく、沈黙がその場を跨いでいた。嫌な感じの静けさではない。地上の雑音から逃れた天空の静寂は、身体に馴染んで心地良かった。それはにとっても同じ筈だ。
 宙を飛ぶとき、ありとあらゆる因果やしがらみから解放されるような、そんな心地がする。纏わり付いている一切合切が無になって、虚空と混じり合うような、そんな心境に陥る。もちろん架空の話だ。自由になりたいと願っているわけでもないし、実際そうなれるわけでもない。重力を断ち切って悪感情の蟠る俗世間から足を離したところで、何かが変わるわけでもない。
 けれど、もそういう思いを擁して地上から遠く離れた高所に向かって行くのではないだろうか。術師における数多の非業の死、それらに対峙して降り注がれる悲しみや苦しみから逃れたくて、解き放たれたくて、足を運んでいるんじゃないだろうか。脳裏を掠めた想像は思い及ぶだけに留めておいた。僕が辿り着いた結論と同じく、重力に縛られてこの地に立っている以上、万物との繋がりを振り払うことは不可能だからだ。この世はどうにもならないことだらけだ。
 暫くのあいだ空中散歩を続けて、が住まうマンションの路地裏に着地した。僕から離れた途端に訪れた重力の荒波に揺られていたが、よろけていた両足はやがて体幹を取り戻してしっかり地面に立ち及んだ。
「どうだった? 初めての僕とのデートは」
 普段と変わらずつっけんどんな返答が飛んで来るものだと予想して、普段と変わらず冗談めかした口振りで尋ねた。
「悪くなかったです」
 から、とても驚いた。彼女にしては珍しく、譲歩に譲歩を重ねてようやく繰り出されるような返答が、何の支えもなく落とされたから。
「……やけに素直じゃん」
「そういうこともたまにはあります」
 気恥ずかしそうには視線を泳がせて、小さく唇を動かした。その「たまに」をここで使い果たしてしまったと思うと、何だか惜しい気もする。一生分の運を使い切ってしまったのではと要らない心配で埋め尽くされた。こんな戯言を述べれば彼女から呆れ返る類の目線が送られるだけだから、言わないけど。
 マンションのエントランスまでを送り届けると、彼女は徐に僕を見上げた。力強い光彩を放つ双眸に射抜かれて、心臓が意思とは無関係の高鳴りを示す。これは予感だった。決して悪くはない予感。
「今度は五条さんが大丈夫じゃないときに、付き添ってあげます」
 僕がしたいだけのエゴを丸ごと飲み込んで、膨大な優しさに包み込んだエゴを突き返されるとは、想定外だった。まさかあのに気遣われる日が来ようとは。嬉しい誤算だった。にやける口唇は抑制できず、勝手を貫いている。そんな不実な笑みを引き摺りながらも、僕は大真面目に「そのときは頼むよ」と返して踵を巡らせた。
 僕にとっての「大丈夫」が意味を成さない日が来るとは思えないけど、もしその日が来るならば、近い将来なんだとは思っている。
 いつかの日、僕は傑と対峙しなければならない。かけがえのない親友が自分の命を賭して果たそうとする大志を、僕は僕の大志を賭けて打ち砕かねばならない。そういう日が来る。僕が大丈夫じゃなくなる日があるとすれば、きっとその日だろう。
 心配はいらない。傑と別離を遂げたあの日から覚悟は決まっていた。後ろ髪を引かれる思いがあるのは事実でも、そこに介在を許されるような甘い現実ではない。とっくの昔に知っていたことだ。
 そして、がいる。彼女が一瞬でも僕の悲しみも苦しみも断ち切ったふたりだけの世界で寄り添ってくれると言うならば、その誓いだけで有り余るほどのちからが湧いてくる気がした。

2020/07/08