地下室の秘密
 虎杖悠仁くんが死んで三日が経過した。
 すなわち、虎杖悠仁くんが生き返って三日が経過したということでもある。
 生命兆候すべてが途絶え、息を引き取った筈の虎杖くんは、その日を跨がない内に黄泉の国から生還した。戦闘で失った箇所を十全のかたちで取り戻し、以前から十分すぎるほど屈強な身体は、凄みを増して一層逞しくなったように感じる。普通の人間、更に言うなら反転術式を使える術師であっても、不可逆的な死に追い遣られては巻き戻すことは不可能だ。彼は普通ではない。死の淵で一体どんな体験をして、どのような手段で蘇ったのか。無関係の私には知りようがないことだ。屈託ない笑顔を浮かべる虎杖くんからは想像もつかない、壮絶な修羅場を乗り越えて帰還したのだろうと、確証のない漠然とした予感だけがあった。彼が内側に秘める闘志や覚悟も、任務に赴く前と後とで若干の変化を兆したような気がする。……その変化をうまく言語化できるほど虎杖くんの深層を知り尽くしてはいないので、客観的視点からの邪推に過ぎないのだけれど。
 つい先日、顔を合わせる度にからかっては私の気を揉ませる直属の先輩――五条先輩から、虎杖くんのお目付け役兼お世話係を命じられた。
 悪賢い五条先輩の計らいによって、虎杖くんは薄暗く埃まみれの地下室にひとり軟禁状態にある。只でさえ死刑を控えた気苦労の絶えない状況に置かれているのに、その上死を偽装されて外界との接触の一切を禁止されているのだ。陰鬱が蓄積して塞ぎ込んだり、鬱憤が溜まって発狂したりしても何らおかしくはない。けれど、彼はとてつもなく善良な子で、とんでもなく単純な子だった。五条先輩の発言を鵜呑みにして、……言い直すならば頼りにして、この冷たい牢獄のような密室で不動を貫いている。それも洋々たる活気が滲む面持ちで。稽古を付けて貰ったり、呪力の基本的な使い方を教示して貰ったりはしているようだが、それにしたって思春期のおとこのこには残酷な話だ。いくら不穏が後を付いて回る呪術界であっても、高校生らしく仲間との交遊や娯楽くらいは許されて当然であったのに。四六時中缶詰め状態の彼は、出会って間もない私の来訪ですら他者との極稀な接触として喜んでくれる。こちらが申し訳なくなるほどだ。
 私は一介の補助監督であり、任務先への送迎や情報収集など、術師ほどではなくとも激務のさなかにある。請け負った役目が、食事を届けたり洗濯物を預かるだけの雑務とは言え、仕事量は勿論増える。稀少なスキマ時間を見繕っては身体に鞭打って、虎杖くんの様子を窺いに行く毎日だ。とは言っても伊地知先輩とも分担して、或いは彼の方がよほど重大な事案を割り振られているため、現時点では大した負担になっていない。私は私で、明るく朗らかな雰囲気で出迎えてくれる虎杖くんから癒やしと安らぎの一時を頂戴しているのだった。
 今日も此処に来るまでの道すがらに立ち寄ったコンビニでお弁当と飲み物を購入し、恐る恐る地下室の扉を開いた。
さん、いらっしゃーい」
 虎杖くんはこぢんまりしたソファから身を乗り出し、私が声を掛ける前に挨拶してくれた。もうこの時間帯に訪れる人物は私しかいないと踏んで待ち構えていたようだ。元気で快活な声に、今日一日の疲労が見る見るうちに消し飛んでいく。「お邪魔します」と軽く頭を下げて、彼の元に歩み寄った。
「あれ、映画?」
 テーブルには何やら数多のDVDが散乱していた。アクション、ホラー、恋愛物……。パッケージから推測するに、有名どころからマイナーまで、実に様々なジャンルの映画で溢れ返っている。まさに選り取り見取りだ。大型の液晶テレビに映し出されているのは、ド派手な爆発音と迷彩柄の軍人が織り成す画からして戦争映画だろうか。テレビから虎杖くんに視線を移ろわせると、彼はこれまた珍妙なぬいぐるみを両手に抱えていた。どれもこれも以前立ち寄ったときには見かけなかった、初めて目にする真新しいものばかりだ。首を傾いでいると、虎杖くんはソファの片隅に寄って人ひとり分のスペースを空けてくれた。ビニール袋を机上に置いて、ありがたくその空間に腰を下ろす。
「これどうしたの?」
 積み重なったDVDの山を指差して尋ねると、彼は人差し指で頬をポリポリ掻きながら笑った。
「なんかねー、呪力をコントロールする特訓なんだって」
「特訓……。五条先輩の発案?」
「そうそう。映画は五条先生ので、これは学長から借りたらしいぬいぐるみ」
 粗方を削ぎ落した大雑把な説明であったが、これでも呪術高専に通っていた身分であるので大凡の察しは付いた。この薄ら既視感を感じるキモカワイイぬいぐるみが夜蛾学長お手製の呪骸であるなら、呪力に纏わる特訓というのも頷ける。高専時代に私の同期もよくお世話になっていたのだ。どこか学生時代を想起させる懐かしさがあり、虎杖くんと極少でか細いながらも確かな繋がりが生まれた気がして嬉しく思った。
 すっかり寝静まっているぬいぐるみを横目に、私はビニール袋からお弁当とペットボトルを取り出した。映画に釘付けになっていた虎杖くんは、ほんのり漂う唐揚げの香りを嗅ぎ付けたのか、はっとしてこちらに視線を泳がせる。きらきらと目映い光がうんと詰め込まれた瞳に、心穏やかな気持ちにさせられた。この界隈には珍しい清らかな純真さを真っ向から浴びれば、耐性がない私は忽ち絆されてしまうのだ。
「今日は唐揚げ?」
「大当たり。温めて貰ったから冷めない内にどうぞ」
「よっしゃ! いつもありがとね、さん」
 こちらこそ、いつも元気を分け与えてくれてありがとう、という気持ちでいっぱいだ。ぬいぐるみを小脇に抱えながら、虎杖くんは器用に箸を割って食事に付いた。外出の機会がないため運動量も激減しているであろうに、容器の中身は瞬く間に姿を消していく。やっぱり年頃のおとこのこなんだなぁと、美味しそうに舌鼓を打つ彼を眺めながら微笑ましく思った。
 あっという間に虎杖くんはお弁当の中身をすべて胃の腑に落とし込み、お茶を飲んで一息ついた。満腹だという示唆なのか、腹部辺りを撫で回すような動作をしている。くすりと唇から笑みが零れた。
「口に合った?」
「うん! ちょー美味しかった」
「なら良かった。いつもコンビニ弁当ばっかりでごめんね」
 予てから気にしていた件について、これを機に謝罪する。もっと消化が良いものや栄養価の高いものを提供できればそれに越したことはないのだが、如何せん時間が取れない。不自由な生活の数少ない楽しみを委縮させているようで、申し訳ないと思っていたのだ。心苦しさからわずかに目を伏せる。すると、虎杖くんは驚いて目をぱちくりと瞬かせた。
「いや、なんで! 寧ろさんにはめちゃめちゃ感謝してんのに」
「虎杖くん……ほんとに良い子だね……」
「お世辞じゃないよ! マジマジ!」
 片手を大仰に振って、虎杖くんは否定の意を示した。素直で従順で、その上大人の失態に目を瞑り、顔を立てられる。ここまで純然なやさしさに包まれた子も中々いないだろう。彼のあたたかな思慮深さが胸に真に迫ってきて、私の心身は英気が漲っていた。
 虎杖くんは逡巡するように視線を移ろわせた先の、山積みのDVDを凝視してはっと息を呑んだ。
「そうだ。さん映画好き? 良かったら好きなの観て行ってよ」
「えっ?」
「あ、でも夜遅くなるし明日も仕事だったらまずいかな」
「ううん、それは大丈夫だけど……」
 何を隠そう、明日の予定はオールフリー。職種柄、滅多なことでは取れない全休が久々に取れたのだ。二時間程度の映画鑑賞に勤しむくらい、何なら夜通しの上映会に持ち越したところで全く支障はない。……恋人でもない未成年とふたりで夜を明かすなんて、間違いなく学校中の騒ぎになって最悪呪術界から追放されてもおかしくないので、絶対に断固としてしないけれど。
 とにかく、ここで虎杖くんの気遣いを反故にするなんて真似はできない。誰が許しても私の良心が許さない。それに間違いが起こり得る疾しさを一欠片も孕んでいない、純粋な善意から成るお誘いなのだから乗らない手はないだろう。私は意気揚々と、ふたつ返事で了承の意を返した。
 私は無数に散らばったDVDの中から、誰もが知る有名なSF映画を手に取った。高校生と観ても気まずい雰囲気にはならない無難な、かつオードソックスに心を揺さぶってくる名作だ。虎杖くんもこの修行中には未鑑賞だったようで、からっと陽気が溢れ返る声でオーケーを出してくれた。「さんセンスいいね」と、邪念の一切を振り払う名目で選び取った私の心境――別の観点では限りなくよこしまな心境など、まるで知らない無垢な称賛を添えて。
 映画が始まるとふたりはすぐ無言になった。先程もそういう節があったけれど、どうやら虎杖くんは映画鑑賞の際は感想や歓声を口に出さず、一意専心で鑑賞に臨むタイプのようだ。実は、私も同様の楽しみ方をする。まずは目先の映画にだけ熱意を注ぎ、後から感想や意見を取り交わすタイプの人間なので、同じ鑑賞方法で楽しむひとに巡り合えて心が踊った。彼の姿勢に倣って画面に集中する。一日の終盤であるにも関わらず、疲労による眠気は全く降りてこなかった。それくらい特殊な世界観に没頭できる、疑う余地なく面白いと断言できる名作であった。
 映画も中盤に差し掛かった頃合いで、私の身体には異変が見られていた。全身を襲う寒気だ。地下室内に暖房器具は見当たらず、どこからか皮膚を突き刺すように冷たい隙間風も舞い込んでいる。そもそも日中と夜間とで寒暖差が激しいこの季節では、薄手のワイシャツ一枚では心許ない。肌の表面上は見るからに鳥肌が立っている。何か対策を取れるわけでもないので、下唇を噛み締め肌を擦りながら堪えるしかない。映画への集中力を半ば削ぎ落とされてげんなりしていたところ、虎杖くんが私に降り掛かっている異変に気が付いたようだ。心配そうな面持ちで、映画に一心不乱だった瞳を初めてこちらに向けた。
さん、もしかして寒い?」
「あ……、うん、ちょっとだけね」
「地下だしやっぱ冷え込むのかな。俺、此処にいすぎて感覚麻痺してんのかも」
 笑いながら、虎杖くんは冗談めいた呟きを洩らした。確かに朝から晩までこんな密閉空間に押し込められていれば、感覚が鈍ってしまっても致し方ない。そもそも彼は平均的な男子高校生よりも遥かに剛健なので、私と比べるまでもなく、冷気を物ともしない筋肉を有していそうだ。何より虎杖くんが身に纏う厚手のスウエットは、見るからに防寒性に優れている。寒気に縮み上がる様子は見受けられないので、彼への心配は無用のようだ。
 この状況は自分がジャケットを車中に置き去りにしてきた弊害で、謂わば自業自得である。そんな私のために、映画に集中したい筈の虎杖くんの気を散らしてしまうのは不本意だ。形だけでも気丈に取り繕わなければならない。私は口元を緩ませて、大丈夫という体を装って話し掛けた。
「でも後三十分程度なら、全然へい……」
 虎杖くんを安心させるために紡いだ言葉が、中途半端に途切れる。映画内の音声に掻き消されたのではない。私が言葉に詰まったからだ。画面には感動的な場面が映し出され、物語も大詰めへと駆け出しているのに、意識は一目散に映画から脇道へと逸れていく。何故って、そんなのは決まっている。虎杖くんが何の躊躇いもなく、出し抜けに自分が着用していた上のスウェットを脱ぎ始めたからだ。
 ばっと距離を置いて瞬時に身構えた。あまりに突然で、あまりに大胆。予想だにしなかった展開が繰り出され、その上あり得ないと断定していた不健全な展開にまで思い及んで、たちどころに熱がこもり始める。頬だけでなく、全身隈なく熱流が迸っていくような感覚だ。飛び出そうなほど勢いよく脈打つ心臓をぐっと抑えつける。目蓋をぎゅっと引き結んで、恐々と虎杖くんの言行を待ち構えると、彼の変わらず明朗な声が鼓膜に届いた。
「はい、さんこれ使って」
「えっ……と?」
「さっき着替えたばっかだから汗とかはかいてないし……、ってさん大丈夫? 顔赤くない?」
 目蓋を持ち上げると、虎杖くんが脱ぎ終えたスウェットをこちらに差し出していた。上裸――では勿論なく、薄手の半袖を一枚纏っている。彼は異変を更に上塗りしたような私の異変を敏感に察知して、気遣わしげにこちらを覗き込んできた。思わず後ずさる。が、臀部がソファの肘掛けの部分に行き着いて、敢えなく身動きが取れなくなった。観念して「ありがとう」と弱々しい受け答えと共に、それを受け取る。体温が受け継がれて仄かにあたたかいスウェットを親の仇のように睨め付けて、俯いた。とてもじゃないが虎杖くんの顔を真正面からまともに直視できそうにない。
 つまり、虎杖くんは私の体調を慮って、保温効果が期待できるスウェットをさり気なく貸し出してくれたのだ。自分の防寒と引き換えに。
 なんて良い子なんだろう。こんな、やさしさを凝縮してできたような温良な子、そう相見えない。……と、つい先程まで虎杖くんのやさしさとかわいさに身悶えていた私なら、彼の思いやりで満ち溢れた行動に感銘を受けていたことだろう。無論、今だって感動している。いるけれど、脱線したまま帰り道を見失った私の思考は、ずっと不埒な方向に走り続けていた。だって、そんな。普通の感性であっても、寧ろ有しているからこそ、誰だってそうなってしまう。いくら年の差があれども、虎杖くんだってれっきとしたおとこのこなのだ。何の説明もなく脱衣の素振りが見られたなら、変に意識して、不純な考えが過ってしまっても何らおかしくない。至って普遍的な思考回路である。誰でも良いからそうだと賛同してほしい。
 とても本人には言い出せない、あられもない妄想が脳裏を掠めた私は、自分の保身ばかりに精を注いでいた。しかし、眉を曇らせて私の心身を案じる表情の虎杖くんが視界に入って、ようやく現状を省みて本に為すべきことを思い出す。この醜態を晒したままではいけない。かぶりを振って、脳内に棲み付いていた邪念を追い払う。彼の厚意に甘えて、ありがたくスウェットを借り受けることにした。
 頭から被ったそれはサイズが数段大きく、袖を捲っても中々指先が姿を見せない。地球外生命体並に手足の長い五条先輩が隣にいると意識が逸れてしまいがちだが、虎杖くんだって私なんかよりずっと手足も長いし、身体も大きくて逞しい。この状況に陥って、その事実が骨身に沁み入った。冷静になると途端に羞恥がぶり返しそうだったので、居住まいを正して画面に向き直る。悲しいことにこの映画の肝となる名シーンはとっくに過ぎ去っていた。
 私が着用し終えたのを見届けて、虎杖くんは小首を傾げて尋ねた。
「どう? 寒くない?」
「うん、あったかいよ。ありがとう虎杖くん」
「全然! どういたしまして。……あ、汗臭くとかない?」
 年相応と言うべきか、自身の汗臭さを憂慮しているようだ。かわいらしく、いじらしい微笑ましさ。ふっと薄く開いた唇から笑みが零れる。くん、と嗅覚を研ぎ澄ましてみて一嗅ぎしてみても、特に目立った異臭は感じられない。それどころか、室内に足を踏み入れたときに際立って感じられる、心地よい匂いがした。
「そんなのしないよ。何だろ……虎杖くんの匂いかな。落ち着く感じの……」
 しまったと口を噤んだのと、ボフッと何かを殴打したような音が響き渡ったのは同時だった。
 立場を一顧すれば、セクハラと捉えられてもおかしくない発言だ。不意を衝いて洩れ出た言葉とその反響を想像して、思わず背筋が震え上がる。虎杖くんが口を挟む隙もない内に釈明しなければ。そんな私の結論を撥ね除けるように、強烈な殴打音が鳴り響いたのだった。何事かと息を呑んでそちらを振り向くと、彼が手元に置いていたぬいぐるみが目を覚まし、軽やかに動き回っていた。虎杖くんはと言うと、自分の顎を押さえて仰け反り、声にならない悲鳴を上げながら悶絶している。どうやら呪骸の強烈な一打が顎先に加わったようだ。赤く腫れ上がった患部は見ているだけでも痛々しく、喉が引き攣るような光景である。適切な掛け声が咄嗟に思い付かず、まごついた。
「いっ……だぁ〜〜このやろ……」
「だ、大丈夫?」
「うん、や、全然ヘーキ!」
 私が声を掛けると虎杖くんは直ぐさま体勢を立て直し、にこやかな笑顔を取り戻した。どこからどう見ても平気そうには思えない。普通の人間であれば、真下からの顎先目掛けた一撃だけで立っていられなくなる。今の彼に異変は見受けられないけれど、本当に放置しても大丈夫なのだろうか。冷静さを失った状態で慌てふためいていると、虎杖くんは私を安心させようとしてか、にかっと白い歯を見せて笑った。彼がここまで平気だと主張するなら、大袈裟な心配は野暮かもしれない。そう納得することにした。二重の意味でほっと胸を撫で下ろす。虎杖くんの怪我が(本人によれば)大したものでないということと、私のセクハラ紛いな発言が自然に流されたこと、そのふたつに対してだ。
「でも何であのぬいぐるみ、突然殴ったりなんか……」
 脳内に浮かび上がったふとした疑問が零れ落ちる。最後に見たぬいぐるみは、虎杖くんの両手に包まれて健やかな寝息を立てていた。どうして突拍子もなく起き上がり、更には彼に殴り掛かったりしたのだろうか?
 その疑問を呈した瞬間、虎杖くんは何故かぎょっと肩を強張らせて、視線を泳がせた。たじたじと両腕をばたつかせている。挙動不審という言葉がぴったりの様相だ。
「ほんとにね! 何でだろーな! ほら、さん映画の続き!」
「……?」
 やけに狼狽した様子の虎杖くんに疑念を抱くが、折角の稀少な映画鑑賞だ。彼の提言通りそちらに集中することに決めた。もう終盤で、盛り上がりも最高潮の画面に向き直る。やがて虎杖くんも落ち着いたのか、ふうっと一息ついてぬいぐるみを抱え直した。襟を正してまっすぐ正面を向き、映画の物語に入り込んでいく。そこから最後のエンドロールが流れ終えるまで、ふたりの間に言葉が交わされることはなかった。
 気付けば時刻は夜半に差し掛かろうという頃合いだった。ディスクを片しながら映画の感想を述べ合った後に、本日の洗濯物と出たゴミを預かった。すっかり馴染んで、身体の一部のように思い込んでいたスウェットの存在を思い出し、慌ててそれを脱いで虎杖くんに手渡した。彼は複雑そうに頬を指先で掻いて、気まずそうな苦笑を浮かべる。どうしてだろう。結局私はこの疑問の解を得ることはできなかった。
「今日は本当にありがとう。楽しかったよ」
「良かった。いつまでこの特訓続くか分かんないけど、また観に来てよ」
 あぁそうか。虎杖くんのその言葉で思い至った。
 この閉塞的な生活も永遠に続くわけではない。いずれ彼は此処を飛び出し、陽の当たる場所に駆け出していく。自分の使命を果たすため、自分の生き様で後悔しないため。勿論その方が虎杖くんにとって良いのは百も承知だし、翳りが差す薄暗い部屋よりも陽光が照り付ける日なたの方が、彼にはずっとお似合いだ。けれど、ほんの少し寂しいな、なんて不謹慎な思いが頭を擡げてしまう。虎杖くんと親交を深めることになったきっかけの場所で、極わずかな人間だけで共有された秘密。特別だった繋がりが、普通でありふれたものになってしまうと思うと、無性に切なさが込み上げてくるのだ。
 虎杖くんが背負う使命も歩む道筋も普通ではないけれど、だからと言って彼の人生を身勝手に縛り付けるだなんて、できないし許されない。明るくやさしい心を持つ彼に相応しい、ただのひとつも障害物がない広大な真昼の大空に羽ばたいていくべきなのだ。
 扉をくぐり抜けて手を振ると、虎杖くんは柔和な笑顔の中に小さな悲哀を落とし込んだような、そんな表情をして手を振った。それは私の気のせいだろうか。
「ほんと、全然意識してねーんだろうな……」
 扉が閉まった後、彼から洩れ出た独り言は、私には知る由もない話だ。

2020/06/25