契と妙
 窓の外は、カーテン越しに轟々と唸りを上げるような焔の色が滲んでいる。夕闇が迫っていた。次第に暗黒を模した宵闇に移り変わる情景を思い描きながら、眼前のひとを見上げる。傑くんは、差し込む西日の朱に染まって、何だか見知らぬ人のように映った。
 結婚式が羨ましいと、私の唇から洩れ出た呟きを傑くんが真摯に受け止めてくれたのは、つい先程のことだ。
 本日の任務は、郊外に位置する小さなチャペルに派遣された。依頼主の花嫁は、一目でその事態の深刻さに気が付き、仰け反りたくなるほどの醜悪な呪いに犯されていた。結婚とは何も幸福ばかりが降り注ぐものではない。当人にとっては幸甚の至りでも、その一報を受けた周囲の反応は実に様々である。嬉しい、悲しい、切ない……。中でも嫉妬や憎悪なんて禍々しい負の感情は、転じて呪いとなりやすい。そういう汚物を煮詰めたような感情を凝縮した呪霊が、依頼主の肩にのさぼっていた。呪力を擁さない一般人の感情が源泉だからか、見るからに弱っちい低級呪霊で、私でも安易に蹴散らせそうなレベルだ。そこから先は流れ作業だった。傑くんが何の躊躇もなく呪霊を取り込み、結婚式場で火種となった人物を探し当てるだけ。憎々しい感情を内側に抑え込んで滾らせているひととは、どんなに平静を装っていても外側からは一目瞭然なのである。纏わり付く雰囲気が、常人とかけ離れた邪気で満ち満ちていた。それと思しき参列者はすぐに見て取れたため、式典の最中に仕出かす前に捕まえて、やんわりお灸を据えた。部外者に四の五の言われて、大人しく自分の感情を支配下に置けるようなひとは極稀である。けれど、呪いは人間の湧き上がる情感によって自然発生する謂わば災害のようなものだから、事前防止策などないに等しい。これが術師の為せる限界なのだった。万が一の備えを兼ねて、護衛という名目で式典が終わるまでの間、私達は式場の片隅で待機を命じられた。
 色彩豊かなステンドグラスが陽光を受けて、目映い光を降り注ぐ。あれはきっと天からの授かり物。祝福の光彩だ。光の礫となって、神に誓いを立てるふたりに舞い降りてくる。純白のドレスに身を包んだ新婦が、新郎にベールを両手で退けられて、誓いの口付けを交わした。
 視界に広がる美しい光景に、感嘆の吐息を洩らした。無関係の他人の婚礼であっても、夢と現の狭間のような純然たる麗しの情景にはうっそり心を奪われる。肩を並べていた傑くんも共感して、共鳴したらしい。男性らしい骨格と厚ぼったい皮膚から成る手が、私の手に覆い被さってきた。繋がれた掌から彼の体温が浸透して、境目を無にしてとろけ合うような錯覚を催す。柄にもなく胸が高鳴った。こんな恋愛の初歩よりもずっと先に、うんと高みに、私達は幾度も昇り詰めていると言うのに。私も参列者の人目を憚って、傑くんの掌を強く握り返した。絡み合った指先が互いの肌を撫で回したり柔く引っ掻いたりする。その様相は、傍目にはまるで子猫が戯れ合うようないじらしさが伴っていた。
 挙式は滞りなく閉幕したため、予定通り披露宴との合間を縫って撤退した。補助監督の送迎車に乗り込み、高専の寮へと帰路を辿るさなかで口を衝いて飛び出したあの独り言が、まさかこんな事態を招くなんて。思いも寄らない。寄る筈がなかった。
 私の突拍子もない発言に意表を突かれた傑くんは、目を瞠った。迂闊に滑らせた独り言とその反響に動揺して、呼吸を止めてしまいそうになる。言葉を反芻すればするだけ、結婚というある種の幸福を、ある種の束縛を強請っているように思えてならない。失言だと認めて謝罪しようと口を開くが、そこから声が繰り出されることはなかった。私の意を汲んだのか、柔らかく目を細めた傑くんに目が釘付けになったからだ。その移ろいを目の当たりにして、全身が震え上がった。体内を流れ打つ血液が煮え立つような、異様なほどの高揚感が背骨を迫り上がってくる。
「なら、今から結婚式を挙げよう」
 熱に浮かされた私の夢見がちな呟きを、傑くんはその一言で現の対岸へと引き上げた。ただの現実ではない。それは生々しい実体でありながら、理想と憧憬をここぞとばかりに詰め込んだ、現実離れした現実だ。
 傑くんはさも当然のように私を自室に招待した。手を引かれるままに後を付いて行き、手招きされるままに扉をくぐり抜ける。日頃から入り浸っている筈の部屋が、扉を閉めた途端に未知の空間へと変貌した。その原因が、カーテンから透ける夕陽のせいでないことくらい、分かりきっている。
「結婚式……」
 未だ実感が湧かず、その惚れ惚れとした音色を反芻する。部屋に連れ込んだ張本人は、悠長に床に散らばる雑誌を片していた。本当に私の願望を叶える気概があるのか、はたまた良からぬ企図を孕んでいるのか。判断しかねる背中をじっと凝視して、呆然と立ち尽くしていた。
がしたいんだろう。それとも私じゃない相手を想定していた?」
「ちが、違うよ。そんなわけない……」
 しどろもどろに否定を述べるも、こちらを振り向いた傑くんは唇に薄い笑みを乗せるだけだ。その返答すら見越した上での、駆け引きにすら及ばない画策だったに違いない。傑くんの掌の上で踊らされるなんて日常茶飯事で、彼の思惑を出し抜いて一泡吹かせてやりたい寸法はすべからく無理難題ということだ。
 壁際に配置されたベッドに座るよう促して、傑くんは一旦部屋を出て行ってしまった。待ちぼうけになった気はそぞろで、どうも落ち着かない。心も身体も浮足立って周囲に視線を往復させていると、十分もしない内に彼は戻ってきた。目を奪われたのは、傑くん本人でない、部屋を出る前と後とで明らかに異なる彼の変化に対してだ。沈んだ色調の制服によく映える、白妙の布切れが腕に提げられている。
「ベール……?」
 そう、想像を掻き立てた先に到達したのは今日目にした純白のベールだ。会話に上がっていた話題が結婚式ということもあって、ごく自然に、或いは引き摺られるようにそう思い及んだ。よくよく目を凝らせば、それはベールでも何でもない、遮熱用のレースカーテンだと認識できる。傑くんは扉を閉め終えると、私と向かい合うようにベッドに腰を下ろした。
「それ、どうしたの?」
「ロビーからくすねてきた」
「悪いひとだなぁ」
 悪びれる様子は欠片もなく、呆気らかんと傑くんは悪事を暴露した。彼は元来こういう気質がある。どこぞの不良少年のような出で立ちをしていながら、気遣いや配慮を欠かさない性格で物腰も柔らかい。けれど、優等生のような口調で相手を諭していながら、自分も純然たる善人とは言い難い行いを堂々とする。ちぐはぐで、善と悪の境界線が曖昧なひと。芯が強いようで、ひとたび触れれば折れてしまいそうな脆さも兼ね備えているひと。そういうところに心惹かれて、心を掴まれて、病みつきになっているんだけど。
 しみじみと呟いた私の言葉を受けて、傑くんはにこやかに口元を綻ばせた。瞬間、ふわりと風が巻き起こって、何かが頭上に舞い降りてくる。
「ならこれでも共犯だ」
 何が起こったのか咄嗟には理解できなかったが、徐々に状況を把握し、理解を遂げていく。傑くんがレースカーテンを広げ、私の頭に優しく被せてくれたのだ。チャペルで魅了された憧れの儀式、その一端の再現。身に纏う制服は純白とは程遠い暗黒色で、それどころか清白とは対極に位置する呪いや穢れがこびり付いた醜穢な装いだ。それでも、こうして愛するひとを目の前にして、契を交わす婚礼の片鱗を齎されると、本当に結婚式を挙げているような気持ちにさせられる。例えごっこ遊びであっても、真の永遠の愛を信じてしまいそうになる。
 共犯なんて分かりやすく凶悪で俗悪な言葉を用いなくても、私は何処にだって傑くんと共に行くし、何にだって加勢する。そういう覚悟なのだ。むずがゆくなる心情に比例して、頬に熱が溜まっていく。それを誤魔化すように両の指先でカーテンを引っ張った。出来上がる淡い影で顔を隠そうと謀を巡らすも、彼にはお見通しのようだ。くつくつ喉を鳴らして笑うから、私はぶうたれて唇を尖らせた。
「…………どう?」
「似合ってるよ。世界で一番綺麗だ」
「それは言い過ぎ!」
 明け透けに私を惑わせる発言に、全身を回る熱流が異常な激しさを伴う。今にも叫び出しそうになる衝動を必死に押し留めて、それを悟らせまいと傑くんの鳩尾辺りに拳を宛てがった。彼はわざとらしく両手を上げて降参を表明する。許さないの意を込めて何度も軽く拳を突き立てると、その両手で肩を掴まれ、引き寄せられた。
「わぁ!」
「ほら、続きをしよう」
「…………ん」
 鼻頭がくっつきそうなほど顔を寄せられて、熱い吐息がまぶされた。細長の双眸が眼前いっぱいに広がる。有無を言わさない強制力がちらついて、壁に貼り付けになったみたいに射止められてしまった。傑くんの優しさと艶やかさと力強さが撹拌するこの瞳に滅法弱くて、それを彼も心得ているから、見つめられてしまえばもう一溜まりもないのだ。観念して頷く他ない。
 肩を離され、互いに向かい合って居住まいを正す。結婚式の段取りを思い浮かべるが、ひとつひとつの段階こそ知り得ていても、詳らかな内容や正しい順序は覚えていない。本日の挙式も、ある工程を除けば殆ど上の空だったから。曖昧な知識だけで構成された儀式の中、突出して輝かしい工程を挙げるなら、やはり神に誓いを立てる誓約だろうか。あの神秘的で魅惑的な光景が脳裏を掠めた。私の願望は正しくあの工程に押し詰まっている。朧気な記憶から、牧師から語られる誓いの言葉を引き出した。
「何だっけ。病めるときも健やかなるときも……」
「愛し、敬い、慈しむことを誓う、かな」
「それだ。……誰に誓うの?」
 ふとした疑問をつい舌に乗せてしまった。此処は教会じゃないから牧師はいないし、神のお導きをまともに受けられるとは思えない高専の敷地内だ。一体誰に誓いを立てる? 主要結界の基底を成す、地下に眠る天元様? こんなお遊戯レベルの結婚式にそこまで正確性を求める必要は皆無だろうけど、気に留めてしまった以上は解決せねば気が済まない。脳みそが右往左往していると、私の愚鈍な思考を見抜いたのか、傑くんは顎に指先を添えて訳知り顔をつくり出した。どうやら妙案を閃いたらしい。
「悟に誓っておこうか」
「悟くん?」
「大声で叫べばきっと気付くよ」
 そう言って傑くんは壁を指差した。正確に言えば壁の向こう側、隣室にいるであろう悟くんをだ。もうとっくに授業は終わっている時間帯だし、悟くんのことだから夕食までの時間は桃鉄で暇を潰すか、微睡みの彼方に意識を飛ばしているかのどちらかだろう。どちらにしても彼以外のひとに小耳に挟まれでもしたら、羞恥の極点のような噂が広まる悲惨な事態になりかねない。それは悟くんにしても同様だ。熟眠を妨げられた彼が扉をけたたましく叩く未来を想像して、面白いような申し訳ないような複雑な感情を抱いた。
「うぅん、睡眠妨害だって乱入してきそう」
「はは、悟らしいな」
「笑い事じゃないよ。大惨事だよ」
 文句ばかりを垂れ流す私に耐え兼ねたのか、傑くんはそこで会話に区切りを付けた。意味深なしたり顔を浮かべる。そして極々自然な所作によって、誓いを立てる前に口を塞がれた。平静な姿を取り繕ってはいたけれど、本当は我慢の限界だったに違いない。重ねられた唇に意識が傾く前に、私はそう推測した。互いに唇の異なる熱感も質感も移し替えるような、混じり合わせるような、とろけるキス。触れるだけの口付けなのに、逃がすまいと後頭部を抑え込まれただけで、抵抗する手を簡単に往なして掴まえられただけで、こんなにも心臓の鼓動が早くなる。溢れ出る高揚と興奮に溺れた脈動に気付かれないよう、抵抗する手は緩めなかった。勿論、何の足しにもならなかった。
 暫くして、傑くんはすっと身体を離した。彼の唇が名残惜しくて、すっかり虜になってしまって、その器官にじっと濡れた視線を送る。すると視界がやおら傾いた。押し倒されたのだと認識したのは、赤赤と燃え盛る天井が見えた瞬間だった。擬似的な夕暮れの空、そこに傑くんの顔が映り込んだとき、私は手を伸ばしていた。見知らぬ傑くんを見知った傑くんにしたい。塗り替えたい。そんな気持ちの赴くままに、行為の先を強請っていた。初々しい自分はもう昔々に置いてきた筈なのに、どう足掻いてもこの営みに羞恥は付き物らしい。沸騰しそうな血流が、私に初心を取り戻せと警告してくる。何度も両手を引っ込めそうになったけど、傑くんが自分の手を重ねてシーツに縫い付けてくれたから、安心して泣きそうになってしまった。緩んだ涙腺に気付いていて追い打ちを掛けるように、彼は何度も額に唇を落とした。
「傑くん」
「うん」
「私の全部、傑くんにあげます」
 こそばゆさが募るキスの雨のさなか、そう宣言した。照れ臭くて嘘臭い科白だけど真の本心だ。何もかも、私の心も身体もそれこそ必要になれば臓器でさえも差し上げたい。そんな訳の分からない感情で埋め尽くされる。口下手なりに必死にその感情を発露すると、傑くんは少し困ったように眉を寄せて笑った。握り締められた手にちからが込められる。
「全部はいいよ。半分にしよう」
「半分?」
「そう、半分。家族は何事も半々に分け合うものだから」
 その一言に、傑くんから見た家族のかたちが凝縮されているような気がした。別個の存在でありながら家族という繋がりを愛しんで、尊んで、大事にする。家事や金銭のような物理的な配当だけではなく、嬉しいも悲しいも持ち得る感情すべてを共有して、分け合う。そんな理想的な家族の在り方が、それを望ましく思う傑くんの価値観が、彼の発言からは滲み出ている。
 そして何より私を喜ばせたのは、その憧憬に私という存在を組み込んで思い描いていることの示唆だ。
 傑くんは、私と家族になることを想定して、当然のものとして言い及んでくれているのだ。
。私の半分をあげるから、君の半分をくれるかい」
 いいよ。いくらでも。半分なんて言わず全部あげたいくらいだよ。傑くん、大好きだよ。
 莫大な想いを受け止めて、その分を纏めて返したかったのに、できなかった。用意していた言葉の数々は傑くんに寄せられた唇によって、呆気なく元来た道を引き返してしまったからだ。誓い合うための口付けではなく、愛を貪り合うための口付け。しっとり濡れそぼった舌がそこかしこを柔く蹂躙していく。こんな風に行為に及ぶくらいだから、きっと傑くんは私の返答さえ見越していたのだろう。聞くまでもないと思い至って、行為を先駆けたのだろう。彼はいとも容易く私の心を見透かしてしまう。ずるいひとだ。巧妙に仕組まれた罠に、まんまと嵌ってしまう。
 そうして、乱れた制服の裾から掌が入り込んできて、私はひしと傑くんの首に腕を回した。だらしなく、迫り上がる欲望に従順に、その先をねだる。零れ落ちてくる湿った吐息に肌を粟立てて、迫り来る快楽とその前触れに震え上がった。
 その日の行為は、言い表すなら倫理を度外視するような、誓いを立てる筈だった神様に背を向けて冒涜するような、そんな行為だった。ごっこ遊びに準ずるなら形式的には初夜だったのに、そんなことを微塵も感じさせない、途方もない背徳感と果てのない快感が目まぐるしく移ろう性行為。本当に自分の半分を持っていかれて、半分を与えられるような、全身を骨抜きにされる性行為。ずっとその営みに溺れていた。肉体が繋がる心地良さに浸って、時に激しくなる享楽に苦しくなって、それなのに止められない。止めたくない。歯止めが利かないそれを、互いに満足するまで、ずっとしていた。
 その日の初夜を越える劇的で圧倒的な熱帯夜は、きっとこの先訪れないだろう。終わったあとにそう断言できるくらい、満足感と充足感が体中を支配していた。傑くんの熱気に侵され、匂いに鼻孔を擽られ、逞しい腕に抱かれながら、眠気が降りてきた目蓋を閉ざした。



「随分まともそーな奴つかまえちゃってさぁ」
 まさかと思い立って振り返ると、そのまさかのひとが立ち及んでいたものだから、私は仰天した。腰を抜かして天を仰ぎそうになるくらい、驚愕した。久々に邂逅した友人は、まともに見える筈のスーツを着込んでいるのに、とても堅気の人間には見えない。昔ながらの使い古したサングラスも相まって、映画でしかお目にかかったことのない借金の取り立て屋みたいだ。
 旧友である悟くんは、得意気で不敵な笑みを唇に湛えながら、手に持っていた紙袋を差し出してきた。
「これ硝子が渡せって。アイツ抜けれそうにない任務に駆り出されたからさ」
「えっ! そんな……ご丁寧にどうも」
「それは僕じゃなくて硝子に言いな」
 それは正しくその通りだった。硝子ちゃんから頂いた贈呈品の謝礼を悟くんに述べても仕方ない。忙しなく反転術式を施して、疲弊して、つい癖でニコチンを摂取しそうになる硝子ちゃんの姿を思い浮かべる。心中で深々と頭を下げて、次に現実で相見えたときにもお礼を言おうと決意を秘めた。
「悟くんはよく来れたね」
「さすがに側の友人が誰もいない披露宴は可哀相だしね。ちょちょいのちょいで終わらせて来てあげたってワケ」
 明確に言葉としては紡がれなかったけれど、そこには言外に「だから感謝しなよ」という意味が含まれていた。それは勿論、強制されるまでもなく感謝しかない。高専で閉塞的な学校生活を余儀なくされてきた因果か、悲しきかな結婚式に招待できるほど心を許せる友人は非常に少ない。そのためにお手洗いと嘘を吐いて、息抜きがてら外の空気を浴びてきたところだった。そんな私が遅れて駆け付けてくれた悟くんと鉢合わせしたのは、披露宴の真っ最中であるホテルの一室、そのすぐ隣のロビーでだ。多忙を極める術師──それも招待したふたりは替えがきかない不可侵の領域に立つ術師だったので、来れなくて当然と諦めていた。だから、素直に嬉しい。あの手放しに褒められない性格の悟くんに後光が差して見えるほど、喜ばしかった。
 受け取った紙袋を受付に手渡して、披露宴の会場に向かった。長い脚を使って私の一歩後を辿る悟くんは、悠然とした面持ちでありながら内側にとんでもない怪物を飼っているような、奇妙で異質な雰囲気を醸していた。何となく、その理由に察しは付いている。最初に声を掛けられたときの、挨拶代わりとでも言いたげな捻くれた発言。今の悟くんの内面を形容するのに、あの拗けた言葉が意味するところはとてつもなく大きいと予想できる。だから、再びその話題に鞍替えするよう私から差し向けた。
「相手、悟くん見たことあった?」
「いいや? そこのウェルカムボード」
 長くて程良く引き締まった腕が、真っ直ぐに伸びて会場の入り口を指し示す。そこには私と結婚相手の特徴を捉えつつデフォルメ化された似顔絵のウェルカムボードが立っていた。確かに柔和で人好きのする笑顔を織り成していて、彼が綻んだときの表情によく似ている。とは言え、本物とは到底称しがたい、虚像に似た別物だ。呆れて物も言えない、という視線を差し向けた。
「ひとを見た目で判断するならまだしも、絵だけで判断するなんて……悟くんらしいというか」
「ハハ、まともは褒め言葉じゃん」
「悟くんの棘のある言い方じゃそうは思えなかったな」
 軽口を叩きながら入り口に到達する。扉の取手に指を添えたところで、後方の足音がぴたりと鳴り止んだことに気が付いた。見れば悟くんは、真剣な表情で、真摯な瞳を無機物の裏側に潜めて、私に視線を投げ掛けている。
「おめでとう」
「……うん」
「でも、残念だけど、傑は君に会いにも来ないし殺しにも来ないよ」
 ぐらりと視界が傾いて、真っ逆さまに転げ落ちていく感覚がした。急転直下。例えるなら出口の見えない長ったらしいトンネルに裸足で放り出されたような、そんな心境だった。一筋の光芒は疎か、一点の光明さえ窺えない。すべてを闇に葬り去られて、孤独の谷底に追い遣られてしまったような、そんな感覚だった。
 術師を辞めた。傑くんが術師を辞めて、足枷を嵌められた足を引き摺るように術師稼業を続けていたけれど、今日の結婚式を以て私は術師を辞める。
 結婚に介在する意図は、愛するひとと生を共にする幸せの享受とか、そんな生ぬるいものではない。もっと悍ましく、穢らわしく、身の程知らずな目的が潜んでいる。
 悟くんが言った通りだ。
 恋人も友人も捨て置いて、陰惨な術師稼業をかなぐり捨てて、新たな大義と人生を見出した傑くんに、私は会いたかった。非術師として彼に手を掛けられるさだめを請け負ってでも、姿かたちを目に焼き付けたかった。そういう覚悟を擁して術師を辞めた。生に向かうではなく、緩やかに死に向かって突き進む人生を歩もうと決心した。
 でもその願いは、悟くんが言うのだから、本当に叶わないのだろう。私は傑くんに相見えることはないのだろう。何故なら恋人として傑くんの人生に席を置いていた私より、親友として彼の人生の根幹を支え、時に揺るがしていた悟くんの方が、よほど多大なる影響を齎していたから。よほど理解に及んで、人生における重役を担っていたからだ。
「泣かせたかったわけじゃないんだけどな」
 その呟きで、ようやく私は涙を流す寸前で立ち止まっていることに気が付いた。潤みを帯びた世界は輪郭をぼかして、曖昧にしている。悟くんの細長のシルエットが歪んで、淡々とした声だけが鼓膜に滑り込んできた。
「傑は、君を殺したくないし生きていて欲しいから会いに来ないんだよ。会ってしまえば、アイツは自分の大義から目を逸らせないから」
「…………」
「まさに逆転の発想だ。とことんすれ違うよね、君達」
「……うるさい」
 妙に饒舌なのは涙目の私の決壊を防ごうとしているのか、純粋な心遣いで励ましてくれているのか、はたまた俄雨のような破天荒さを備える気紛れから成るものか。悟くんのことだから、どれも少しずつ切り分けて掻き混ぜてできあかったミックスジュースくらいの心持ちだろうなと思った。考えるだけ無駄なのである。まさか、悟くんの口からすれ違うという表現が飛び出すとは思いも寄らなかったけれど。だって、行き違いだのすれ違いだの言葉足らずだの、そういう表現が似合うのは高専時代の悟くんと傑くんのふたりだと思っていたから。悟くん自身も含めた皮肉だろうか。それにしたって、今の私には心臓の奥深くにまで突き刺さる痛い提言だ。自分がいかに浅慮で愚直で短絡的な考えに走っていたのか、思い知らされる。 
 私の情緒が落ち着いたのを見計らって、悟くんは会場に繋がる扉を開けてくれた。盛大な歓声が吹き溢れる。観衆の目を忍んで新郎の隣に座ると、彼は柔らかい笑顔で迎え入れてくれた。優しいひとだ。私には勿体ないくらい、律儀で素直で感受性の豊かなひと。このひとと、今日から私は生を共にする。何事も半分ずつ分け合って生きていく。
 傑くん、君はそれで良いの? 私は良くないよ。全然良くない。どんなに良いひとでも、心が広くて私の良いも悪いもすべてを受け入れてくれるひとでも、君じゃなきゃ私は駄目なんだよ。
 収まった筈の涙腺は呆気なく崩壊していた。ほろほろ溢れ落ちる涙が嬉し涙でないと彼は察していたようだけど、何も言及せずに背中を擦ってくれた。本当に、純然な優しさだけが根幹にあるような、そんなひと。その優しさが骨身に沁み入って、また涙が込み上げてきた。
 傑くんはいつだって私の心を見透かしてくれたけれど、今回ばかりはそうはならなかった。殺されてでも会いたい心理を見過ごして、或いはないものとして無下にした。それが彼の優しさだと分かっていても、ままならないし遣る瀬ない。離れた心の距離は縮まらないし、埋まることはない。私を心酔させる、あの熱気と冷気の入り混じった双眸に射抜かれる日はもう訪れないのだと悟って、なす術なく涙を流した。

2020/06/14