Yon are not honest.
「はぁ〜〜」
 隣からこれ見よがしなドデカい溜め息が聞こえてくる。遥か彼方に頭が位置する大男は、悪びれもなく、倦んだ気持ちを繁繁と発露させた。言うまでもないが、お察しの通り悟である。
 こちとら小言のひとつも零さず、やさぐれる同級生の好き勝手を許容していたと言うのに。真正面だけを見据え、彼を視界に入れないことで怒りを鎮め安穏と調和を保ってきたというのに。寛容と名高い私も、もう限界。堪忍袋の緒が切れそうだ。その溜め息、何回目? この状況に陥った原因が悟ではないと重々承知しているが、それでも意地悪くねちっこく憤懣を刺激され、澄まし顔で黙認できるほど大人じゃない。再び大層悩ましそうな吐息が頭上から落ちてきたところで、呆気なく私の糸は切れてしまった。
「ねぇ、そこまで溜め息吐くことなくない?」
「……大アリだろ。どうすんだよ、この状況」
 悟も悟で気が立っているらしく、怒気を全面に押し出した私の提言に、唇をわざとらしく尖らせて応戦してくる。分かり切っていたことだが、何とも不粋で厄介な性格だ。猛烈な負けん気を発揮する彼の気質から推測するに、これ以上私がとやかく言ったところで何の利益も旨味も得られないだろう。ああ言えばこう言うの押し問答が繰り広げられるだけだ。口達者で頭の回転も速い悟と口論に及んだところで、私が白旗を上げるのは目に見えている。早々に切り上げて、唇を固く引き結んだ。
 ──それにしても本当にどうするんだろう、この状況。
 私と悟が立たされている窮状は、ふたりの間を分かつことなく一点で交じり合う手のひらに問題がある。この手、まるで互いを想い合って別れを惜しむ恋人のように、がっしり掴み合って離れないのだ。私達の離れたい意思を無下にして、白昼から堂々くっつき合っているのである。
 こうなった原因は解明されていないが、経緯はある。話せば気が遠くなるほど冗長になりそうだが、割愛すると、ふたりで赴いた任務先でのことだ。任務を完遂し、気が抜けて躓いた挙げ句に床を転げ回った私に、悟は鼻で笑いながらも手を伸ばしてくれた。その手を取って起き上がった直後、異変に気が付く。手がぴったり隙間なく密着して、離れないのである。いくら引っ張ってもうんともすんとも言わない。これは、まさか悟の悪徳極まりない謀略なのでは? 私を陥れて嘲笑うための策略なのでは? そう思い及んで悟を弱々しく睨め付けるも、彼も瞠目して驚愕しているようだった。つまり、ふたりの意思を介しない何かがこの両手のひらの内で発生しているということである。
 その場で何を試しても手のひらは離れず、頼みの綱の悟でさえお手上げだと言う。呆然としていても埒が明かなかったため、私達は任務先から颯爽と抜け出した。陰鬱さを帯びた廃墟から、陽光の照り付ける路上へと駆け出し、今はこうして高専への帰途を辿るさなかである。
 街ゆく人々の目線は大抵、隣に向かう。雑踏からひとつもふたつも飛び抜けた巨体に加え、現実離れした髪色に、サングラスに阻まれても周囲が色めきだつ美貌を兼ね備えた顔をしている。これで目立つなと言う方が無茶だろう。けれど、今私が恐れを成しているのは、悟がべらぼうに脚光を浴びることではない。彼の隣にいて、蒸し暑い真夏にも関わらず手なんて握り合っている私が、同様に視線を注がれていることに対してだ。色男(と称するのは何だか腹立たしいけれど)の恋人に値する女かどうか、じろじろ値踏みされている気分である。物珍しさから注視する視線ならまだマシで、刺々しく大層憎らしげな視線を送ってくる輩も少なからず存在した。悟の彼女になるひとは後にも先にも大変だろうな、と未だ見ぬ誰かを思って心中で労っておく。
「無限で何とかならないの?」
 やがて人混みが捌けてきたところで、私に比べて数段大きな手のひらをぶんぶん振り回しながら、ふと思い浮かんだ妙案を尋ねてみた。この世で恐らく最上級の冠位を擁する万能の術式。六眼を持つ悟だけに許されたある種の特権。これを今振り翳さないでいつ振り翳すと言うのか。暗にそう示唆してみた。尤も聡明とは言い難い私が思い当たるぽっと出の提案に、悟が思い至らない筈もなく。
「やってみてぇの? こんだけくっついてるんじゃ皮膚や肉諸共剥がれ落ちるか俺らが吸い込まれるか……」
「待って! とんでもないこと淡々と言わないで!」
 唐突に降りてきた物騒な話題を即座に打ち切るべく、大声を張り上げて耳を塞ぐ。右手は悟の掌中なので、左手だけの意味を成し得ない防護壁だ。わざとらしい小芝居に悟はあからさまに眉を顰めて、再び溜め息を吐露した。本にげんなりしているのは私だって同じである。と思ったが、これでは先程と同じことの繰り返し。堂々巡りもいいところだ。悟の逆鱗に触れかねないため、再び閉口する。
 そうして最寄り駅が近付いてきた途中、沈黙を遮る着信音が鳴り響いた。私はマナーモード派なので必然的に悟の携帯ということになる。初期設定からひとつも弄っていないような、模範的な着メロだ。
「悟、電話じゃない?」
「ん、……あ、やべ」
「え?」
 悟にしては珍しいわずかな焦燥が滲んだ声に、何事かと見上げる。どうやら携帯が左ポケットにあるらしく、身体を捻って右手で取るにも一苦労のようだ。その様子を網膜に焼き付けて笑い者にするのも一興だが、そんな悪趣味に興じる人間ではないので、仕方なく私が悟のポケットを弄った。携帯を探り当て、それを悟に手渡さず自分で操作する。開いた画面に映し出される名前は、私もよくよく心得た人物だった。些末な悪戯を投じても問題なく、寧ろ悪ノリさえしてくれるだろうと判断できる。躊躇うことなく通話ボタンを押して耳元に近付けた。
「はい、五条です」
「ばっ、オマ……!」
『ん、……悟?』
 通話口から聞こえてきた声は、本来目当てとしていた男でない明らかな女の声に一驚を喫したようだ。訝しげに、確認するように悟の名を呼ぶ。私もそれに応えるべく「はい、悟です」と偽りの名を名乗った。この携帯の持ち主は悟なので、半分は真実、半分は虚偽。強ち間違ってはいない。しかし、その返答が彼に──傑に決定的な閃きを齎してしまったようだ。電話越しの親友を名乗る正体が何であるのか確信したらしく、ふっと唇の隙間から空気の零れる音がした。
『何だ、か。私がいない間に祝言を上げるなんて水臭いじゃないか』
「だって上げてないもん。悟が今電話出れないから、私が代わりに出てるの」
「出れるっつーの!」
 悪戯の度が過ぎたようで、反論を響かせると同時に携帯を奪い取られた。サングラスが覆い被さっていても察する眼圧に、さすがに私も命が惜しくなって口を噤む。眉間に深い皺を刻みながら、悟は携帯を耳に寄せた。
「あー傑? ……何笑ってんの。……ハァ? 結婚? してねぇっつーの! コイツが勝手に携帯取って……だーかーらー笑うなって!」
 私の方から聞こえているのは悟の発言のみだが、それだけで傑の発言も安易に想像が付く。私にからかったのと同様に、或いはもっと男子高生らしく揶揄を含ませて、隈なくいじり倒しているに違いない。すぐそこに傑がいるような錯覚を覚えながら、悟の怒鳴り声に耳をそばだてていると、やがてその声が途切れた。通話を終了したようだ。多分、悟から一方的にだろうけど。
「傑なんて?」
「…………なんもない」
 何もなくはないな、と思ったけど敢えて指摘しないでおいた。散々傑に翻弄されたであろう疲弊が如実に表れていたので、優しい私はそっとしてあげる。勿論、彼の耳が真っ赤に染め上がっていることも、私だけの秘密だ。


「それで手は離れたんだ」
「そうなの。傑との電話が切れた後、すんなりね」
 盆休み明け、帰省を終えて久々に顔を見せた傑とは、その話題で会話が弾んだ。ふたりだけの廊下で、窓に凭れ掛かりながら酷暑を紛らわすように駄弁り続ける。ちなみに悟と硝子はじゃんけんに負けた敗者として、コンビニにアイスを買い求めに行く使命を下された。少なく見積もってもあと十分は帰って来ないだろう。室内でかろうじて高温を耐え凌げているというのに、屋外の猛暑を一身に受けるとは、地獄の釜で煮えられているようなものだ。耐え難い艱難辛苦である。
「任務先の呪いのせいかもね」
 傑は何やらその原因を突き止めようとしてくれているらしかった。彼の観察眼と洞察力は、それはもう疑う余地のない折り紙付きだけど、さすがに首を捻らざるを得ない。確かに先程、任務先の呪いは人と人を混じり合わせて自分の内側に取り入れる厄介なそれであったと説明した。私と悟の間に生じた異変の片鱗はあるが、そうなると辻褄が合わない箇所が多く存在する。納得には程遠い。
「そんなことある? ちゃんと祓ったのに?」
「ないとは言い切れない。例えば強力な残穢がこびり付いていて、その弊害とかね」
「悟にも分かんないくらい強力な?」
「それに至っての答えは簡単さ」
 指先を顎に添えて、傑は目を細めた。この勿体ぶった前振りからして、彼には大凡の察しが付いているらしい。
「悟は分かっていたけど放置した。後から祓っても構わないくらい微弱な呪い……または残穢の効力。それにあやかっただけだろう」
「呪いにあやかる? 何で? 何のために?」
「分からないかい?」
 その問い掛けは純粋な疑問ではなく、私は分かって当然だろうという意味が裏側に潜んでいた。傑は良くも悪くもひとをそうやって試す節がある。私は試されているのだ。悟が呪いにあやかって何か得したこと。私は分かり得て当然なこと。脳内を馬車馬のように駆け巡らせて、そして徐々に気が付いていく。腑に落ちていく。辿り着いた事実が降り注がれて、私の顔はぼっと火を噴いたように熱を催した。にまりと唇の端を上げる傑を、恨めしげに睥睨する。
「祝言を上げるなら今度こそ呼んでくれよ。とびきりの祝辞を考えよう」
「……傑、その悪ノリめっちゃ気に入るじゃん」
「始めたのは君だろう」
「そのうち悟に殺されるよ……」
 事実に気付いてしまったと悟られたら、今度こそ命を根こそぎ奪われる覚悟をせねばならない。実際のところは私が到達した事実は予想の域を出ないから、当たっているとも限らない。……外れているとも限らないのだけど。
 もし、仮に、万が一だ。悟が私と手を繋ぎ留めておきたくて呪いを祓わなかったのだとしたら。帰ってきた悟を、私はどんな表情で迎え入れたら良いのだろうか。
 最適解の見当たらない難問に悶々と頭を悩ませる私を横目に、傑はご満悦そうに笑っていた。「一緒に考えてよ」と促すと、傑は「それは君が答えを見つけるべき課題だろう」と応えた。それは正しくその通りだと思ったので、結局はない頭を絞るしかない。当然ながら、ふたりが帰ってくるまでに正解を見出すことはできなかった。
「あんだよ、そのしかめっ面」
「…………何でもない」
 何でもなくはないのだけれど、そう言うしかない。できる限り普段の自分を装って、悟からアイスを受け取った。ひやりと肌を通して伝わる冷感が、火照った身体に心地よい。その場しのぎでも、私の煮え切らない感情を誤魔化すのに打ってつけだと思った。

2020/06/03