特別の切れ端を上げる
 ゆらゆらの意識。ずたずたの身体。何が起きたのかを思い返すのも、指一本動かすのも、すべて億劫になる。それくらい自分の意識と身体が制御できない方向に霧散していた。こうまでこっ酷くしてやられた経験がまるでないから、どうやって立ち直せば良いのか皆目見当がつかない。暫くは無心で瞑目して、どこかひとつでも感覚が休まるよう努めた。効果は定かでないけれど。
 そうしている内に、どの程度時間が経ったのか。頬に触れたわずかな感覚を頼りに、重たい目蓋をどうにか抉じ開けた。漆黒で覆われていた世界とは正反対の鮮やかな色彩と、微かな光明が降りてくる。そして、見所は何と言っても彼の表情だろうか。私を覗き込む先輩の顔が、日頃とは比べ物にならないほど険しく重々しい翳りを帯びていた。強烈な光景だ。網膜に焼き付けて離したくなくなる。この光景を一生心に刻んで生きたくなる。そういう一景だった。
 ──先輩、貴方は私を思って、そういう顔をしてくれるんですね。
「ななみせんぱい……」
 やっとの思いで紡いだ七海先輩を呼ぶ声は、掠れていたし震えていた。存外潤みを帯びていた。このひとの前でだけは泣き言を言いたくないと気を引き締めて術師稼業に臨んでいたのに、すべてが水の泡だ。けれど、その呼応を受けて、七海先輩は殺気立っていた雰囲気を少しだけ和らげた。相応の成果はあったのかもしれない。私にだけ向けられる特別の表情。特別の感情。そういう特別を、私はこの惨状に陥って初めて認識した。
「……七海先輩、ごめんなさい」
「謝る必要がどこにあるんですか」
「呪霊、取り逃がしてしまったので……」
 謝る必要しかない。私の身体のあちこちを引き裂いた呪霊に、雑木林の奥深くへの逃亡を許してしまった。呪霊に襲われた直後、残存するちからの限りを振り絞って渾身の術式を放ったが、恐らく仕留め損なっただろう。倒れ込むさなか、禍々しい肉片紛いの呪霊の背中を見送ることしかできなかった。何たるザマだ。
 けれども、あの手傷では遠くまで逃げ果せるのは相当な至難の業。今なら追い掛けて討ち祓うこともできる。七海先輩のちからを以ってすれば。そう目配せした。けれどと言うか、やはりと言うか、先輩は不変の表情で不動を貫いた。ネクタイを解き、致命傷になりかねない箇所の止血を施してくれる。応急処置を慣れた手付きで行いながら、さも当然のように言い放った。
「呪霊の強さを見誤ったのも、アナタに此処に残るよう指示したのも私です」
「……」
「私の判断ミスです。自分を責めることはよして下さい」
 絵に描いたような模範解答だ。私の自尊心を慮り、自分が負い目を引き受ける。先輩として正しく在るべき姿。でも、それで私の自尊心が元通りに復元されるかと問われると、そんなことはない。我ながら面倒で厄介な性格をしている。
 処置を終えた七海先輩の袖を、指先で引き留めた。弱々しいささやかな制止の筈なのに、先輩は律儀に応えてくれる。留まってくれる。些細な気遣いが嬉しくて、安堵と期待が胸の内側に広がって、涙が出そうになった。
「先輩、私のために向かって欲しいです」
 だから、少しだけ突き放したように言葉尻を整えた。七海先輩の袖だけじゃない、指先から掌全体まですべてを繋ぎ留めたい意思を押し沈めて、真っ直ぐに先輩の目を見つめた。
「……何を、」
「このままじゃ私、単なる木偶の坊です。役立たずです。あの呪霊を祓わないと死んでも死にきれません」
 虚偽を一匙も含まない、紛れもない本心だった。七海先輩に寄り添っていて欲しいという身勝手な欲望の裏で、術師としての自尊心を救い出したいという、これまた身勝手な欲望もひしめいていた。
 あの逃した呪霊が一般人を襲う事態、それこそ死者が出るような無惨な事態に陥れば、私は非力で無能な自分を一生恨むだろう。呪うだろう。けれど、今ここで七海先輩が背を向けて走り出してくれたのなら、安心してひとりで死ぬことができる。納得して目蓋を下ろすことができる。
 目を開いた矢先、真っ先に視界に飛び込んできたあのときの表情。私の身を案じて柄にもなく切羽詰まった様相の七海先輩が、今まで得た何よりも嬉しく愛おしく、十全の価値がある代物だと満足してしまったからだ。先輩に纏わる思い出のなかで、限りなく一等賞。私を思ってくれる特別の感情があると知れたから、そこに悔いは微塵もなかった。
 指先にこめていたちからを解く。押し黙ってしまった七海先輩の背中を押す意味を込めて、動かせる表情筋を酷使してありったけの笑顔をお見舞いした。先輩は私のこの顔に弱いのだ。急所なのだ。随分前から知っている。分かっていて追い討ちを掛けた。
 七海先輩の唇を跨ぐ言葉を予想した、そのときだ。
 感覚が乏しくなり始めた指先を知ってか知らずか、力任せにぎゅっと握り締められた。指先だけでない。掌全体を包み込むように、硬くて骨ばった感触とあたたかな体温が沁み渡っていく。
 それは、七海先輩がこの場を動かないという明確な意思表示だった。
「え……」
 目をひん剥いた。理由を問い質すように視線を彷徨わせると、此方を正視していた七海先輩のそれとかち合う。これが当たり前だと主張するような泰然とした佇まい。弛まぬ強い意思で先輩を送り出そうと決心したのに、呆気なく打ち崩される。尻込みして何も言葉が出てこない。
「すみませんが、そのお願いは聞けません」
「な、なんで……」
「ここでアナタを置き去りにして二度と会えなくなったら、私は初めて自分の選択が不甲斐なく腹立たしいものに思えてしまいそうだからです」
 きっぱりと、そう突っ撥ねられた。他人の口出しを一切必要としない、巨岩のようにびくともしない頑なな意思。凝り固まった決意。七海先輩の発言から、そういう類の強固な思いを感じ取った。こうなってはどうしようもない。只でさえ頑固な先輩の意思を鞍替えさせることなど、天地がひっくり返っても不可能なのだ。それに先輩の、私を失う事態を嘆いてくれる心と、自分の中に確立している術師としての在り方を依然として崩さない心が無性に嬉しかった。私の自慢の、七海先輩だ。
 繋ぎ留めた手は、補助監督の車に連れられた家入さんが傍に駆け寄って来るまで離されなかった。
 家入さんの反転術式による治癒を受けている間、七海先輩は呪霊を追い求めて颯爽と森林の陰に姿を消した。かと思えば、使い古した鉈を手に颯爽と舞い戻ってきた。淡々と「祓除に成功しました」と報告する先輩に、開いた口が塞がらなくなる。七海先輩の言い分によれば、私の術式によって呪霊に呪力がこびり付き、その残穢を辿ってすぐに大元に到達したとのこと。人気のない山奥が功を奏して、一般人の被害は皆無。被害を出す前に祓い終え、終息したのだと言う。
 その報告には胸を撫で下ろした。しかし、残穢に気付いていたなら私を置いていけないなんて思わせぶりな物言いはせず、そのことを一言伝えてくれたら良かったのに。そんな差し出がましい仮定の願望が拭い切れない。私は私で、あのとき背水の陣で口火を切って後押ししたのに。恨めしげに唇を尖らせ、七海先輩を睥睨する。すると、先輩はつつがない様相を保ったまま、とんでもないことを口走った。
「やはり、アナタを置いていかなくて良かった」
「うん……?」
「良いものが見れたので」
 その良いものが、私の涙目で寄り縋った表情と追い縋るような指先の動きだと気付いて、顔から火が出そうになった。甲高い小さな悲鳴の上から、家入さんの「へぇ」という気怠げでいて興味が入り混じった感嘆の声が覆い被さる。何やら良からぬ方向に邪推されているような家入さんの面持ちに、更に心臓が縮み上がった。
「何だ、お前らそういう関係だったのか」
「ちが、違います」
 慌ててかぶりを振って否定する。というか、そういう関係ってなんだ。どういう関係だ。
「まぁ此処で訊くのも野暮だな。酒の場の楽しみに取っておくよ」
 こともなげに処置を終えた家入さんは、束ねた髪を解いて即刻車に乗り込んでしまった。何だか私達ふたりに要らぬ気遣いを与えたようにも思える。訝しげに目を細めた。
 横たわっていた私に手を差し伸べ、七海先輩は私を軽々とした所作で起こしてくれた。反転術式の効能で、既に重篤状態を脱したどころか清々しい英気が満ち溢れている。ひとりでも十分に歩けるが、先輩のやさしさを蔑ろにしたくなくて、寧ろ今は甘えていたくて、その手を離さなかった。
 ぽつりと「離れたくたいな」と呟きを落とすと、七海先輩は「私もです」と堅苦しい語調で、けれどもきっとまことにそう思っている真摯さを孕ませて、そう返してくれた。

2020/05/22