ひねもすに融け合う指先
 長閑で優雅な昼下がり、たゆたう空気はじんわり暖かくて心地良い。目蓋を透いて眼球に降り注ぐ陽気が、頻りに目覚めを促してくる。十分な午睡を取り終えたものの、夢と現のあわいを漂流するこの時間を手放してしまうのは些か惜しいと思う。だから、私は瞳を閉じたまま、浮上を控えている意識を遠方へと追い遣った。論理的思考と乖離した身体は、重みを増して、肌触りの良い布団に落ちていく。枕から漂う、自分のものとは異なる香りが心も身体も落ち着かせる。再び微睡みの縁へと駆け出していくのに、そう時間はかからなかった。
 そこから数分か、数十分か、或いは数時間。私からしてみれば一睡だった。意識を揺り起こしたきっかけは自発的なものではなく、他発的な接触によるものだ。私の頬骨辺りを何かが滑りゆく感覚。意志を持って、私の肌を優しく蹂躙していく。縦横無尽で傍若無人を極めるその感覚は、どこか儚げで、忽ち離れてしまいそうな覚束なさも秘めている。うっそりと、私は重たい目蓋を持ち上げた。
 視界に広がる景色は、私の大好きなひとの顔で埋め尽くされていた。
「……」
「……」
「……わぁっ!」
 長らく沈黙していたから、掠れて可愛げの欠片もない素っ頓狂な声が出てしまった。身体が大袈裟なほどに跳ねて、ついでに心臓も過剰にわななき始める。無心で飛び起きて、壁側に逃げるように後退った。私の睡魔を一瞬にして昇華させる、ひやりと冷たい質感が背中から伝わってくる。思考も視界も鮮明に晴れていく。壁に貼り付けになって、ようやく私は一連の流れと、その全景を目の当たりにした。
「夏油くん……」
「おはよう。よく眠っていたね」
 空っぽの部屋で私が思いを馳せていたひと。この部屋の主であり、部屋を留守にする間、此処で帰りを待つことを許可してくれたひと。そして、私の恋人。
 夏油くん。彼が、床下で胡座をかき、ベッドの縁に肘を付いて私の方を見つめていた。
 いつもの煤けたような黒の上着を脱いで、ポロシャツ一枚のラフな出で立ちだ。丹念に整えて結われた髪は、若干だが崩れが見られている。にこやかに浮かぶ微笑は、きっと身近な人間にしか察知できない、少しの疲労が垣間見えていた。紛うことなき、任務帰りの夏油くんだ。
 彼は、私の奇行に目を瞬かせたものの、すぐに余裕を湛えた表情を取り戻した。それどころか、瞳の奥に慈愛に似た柔和な色を宿らせている。夏油くんが目映いものを眇めるように優しく目を細めるから、背骨をくすぐられたようなこそばゆさが迫り上がった。
「びっ……くりしたぁ」
「驚かせた?」
「驚かせた……」
「それはごめん。気持ち良さそうに寝てるのを起こすのも悪いかと思ってね」
 愉快そうに夏油くんは喉を鳴らした。隙だらけで締まりのない寝顔を凝視されていた事実と、彼の慈しみ深い反応とを同時に浴びせられて、何だか面映い。身体の芯なる部分が発火して、轟々と火達磨になるような熱さだ。汗ばむ両の掌を、胸の前でぎゅっと握り締めた。
 夏油くんは私を視界から外すことなく、ベッドに乗り上げた。ふたり分の重量が加えられて、軋んだ音が鳴り響く。私が肩に力を入れて緊張を張り詰めたのさえお見通しと言わんばかりに、夏油くんは薄く笑う。唇がきれいな半月を描いて、その色めき立つ艶っぽさに胸が高鳴った。
 夏油くんはベッドの縁に腰掛けて、上体を捻って私に視線を縫い付けたまま、右手を持ち上げた。指先は迷うことなく私に照準を定めて突き進む。生唾を飲み込むのと、彼の手指が私の皮膚に到達したのはほぼ同時だった。肌に優しく触れられて、輪郭を確かめるようになぞられる。そのまま横髪を一房摘んで、私の耳にかけた。頬骨の縁取りをすべて暴いてしまうかのような手付き。既視感を感じる。思い当たる節はあった。瞳を閉じて微睡んでいたときの、あのかわいい蛮行だ。
「これ、さっきも……」
「あぁ。してたよ。いけなかった?」
 ちっともいけなくない、と知っていてわざと尋ねる。私の唇から否定の言葉が飛び出るのを今か今かと待ち侘びている。そういう、夏油くんの常套的なやり方だ。彼は、私の意思を回り道して、少しだけ捻くれた方法で確認したがる。夏油くんが私を見透かしているように、また、私も夏油くんを見透かしているのだ。分かっていても、彼の思惑通りの道を進む以外に選択肢など、ないのだけれど。
 私は、夏油くんの質問に弱々しくかぶりを振った。彼が嬉々として顔を綻ばせたのを、見逃さなかった。
「ううん、寧ろ……」
「寧ろ?」
「夏油くんのこと、もっと好きになっちゃうよ……」
 我ながら、例え本心だとしてももっとうまい言いようはなかったのかと思う。でも、仕方ない。この指先が肌に馴染んで融け合う感覚は、私の奥底に眠っている劣情を引き出すことに長けている。無知を既知に塗り替えて、身体を重ね合わせる一体感を巧みに思い起こさせる。こんな情欲的な指先の使い方は、夏油くんにしか真似できない。だから、もっと、彼を好きになってしまう。沼の底から危うい情感を根こそぎ引き摺り出されてしまう。
 私の仰々しい発言に、夏油くんは面食らったように呆けた。そして、吹き出した。けらけらと眉を寄せて思いきり笑う夏油くんは、大人びた皮を脱ぎ捨てた、齢相応の純粋なおとこのこだった。


 随分伸びたな、と黒髪を指先で梳いてみる。男性らしい、わずかにざらついた手触り。窓から差し込む真昼の陽光に照らされて、真黒の髪は少しだけ茶色がかった色に見えた。
 私の膝元で、夏油くんは健やかな寝息を立てている。彼にとっては久方ぶりの安息でもあった。ここ最近は呪いを集めるにも資金を調達するにも、何かと彼自身が動かねばならない事態が多かった。夏油くんは、家族を大切に想う心があるから、不測の事態には一人で抱え込むし一人で遂行しようともする。高専の頃からそうした気質は備わっていたけれど、今の彼はそれに拍車がかかっているようで、近くにいて漠然とした不安に蝕まれる。
 私は、彼の役に立っているのだろうか? 隣にいることで、彼は少しでも肩の荷を下ろせているのだろうか?
 顎から耳にかけた、すっきりとしたラインを指で往復させる。頬に貼り付いていた数本の横髪を指で摘み、耳にかけた。健康的な肌色が、淡く眩しい。
 うっすら目蓋を持ち上げた夏油くんは、睡気がこびりついた瞳で私を見上げた。
「……おはよう」
「おはよう。起こしちゃった? ごめんね」
「いや、いいよ。よく眠れたから」
 あの頃から変わりない、慈しみを湛えたまなこは熱烈な輝きを秘めていて、どうしたって私は夏油くんから離れられないのだと思い知る。思い及んでしまう。瞳も、指も、何もかも。彼を司る器官すべてが愛おしい。咽返るような思い出が何処かしこに詰まっている。
 夏油くんは、私の指を自分の指に絡め取った。ちからを強めて握ってみると、彼も共鳴するかのように、ぎゅっと握るちからを強める。密着する肌の感覚が、真昼とは思えない熱情を孕ませてしまう。
「……夏油くん?」
「こうするの好きなんだ」
「そうなの?」
「ああ。……温もりが伝わって、のこと、もっと好きになってしまうような気がする」
 明け透けな言葉に、いつぞやの懐かしい思い出が浮かび上がってきて、私は笑ってしまった。どうしたって、そんな昔の何でもない日のことを覚えていられるの? 嬉しさの滲む疑問は胸中に仕舞っておいた。夏油くんだけじゃない、私にも同じことが言えてしまうからだ。
 夏油くんと歩んできた日々に後悔はなかった。彼と道を違えてしまう、有り得たかもしれない未来の方が、よっぽど後悔を生むと分かっていたからだ。
 けれど、でも。何でもない日常のひとときが脳裏を掠めるとき、私は泣きそうになってしまう。
 これは悲しい涙じゃない。戻れない道筋を振り返って過去を追悼する涙じゃない。
 あたたかで、おおらかで、真昼の光に満ちている。夏油くんの隣で、彼を愛しむための優しい涙だ。

2020/04/11