eternal ember
 春が纏う陽気は、朗らかで和やかな雰囲気に一役買っていると言えばその通りなのだが、が二十七回目に迎えた春は少しばかりの哀愁を潜ませた重々しい陽気で満ちていた。
 その日は身を包む暖かな温度が適度な心地良さを齎してくれる、又とない小春日和だった。春風に攫われた桜の花びらたちは次々にの横をすり抜けて、颯爽とその姿を消してゆく。地面に落ちた無数の花弁が斑点模様を織りなし、薄桜色の絨毯が敷き詰められているようだった。その上をは堂々たる姿態で闊歩し、本日の目的地へと足を急がせた。
 行き交う群衆が疎らになり始める一本の通りと、そこから更に一本外れた路地裏へと続く細長い通路の境い目に、は辿り着いた。彼女の薄ぼんやりと揺らめく影が、陽の当たる歩道かひっそり静まり返った通路か、どちらに属せば良いのか分からず不安げに蠢いている。はその曖昧な境界線を跨いで、やや通路寄りの位置で屈み込んだ。雑踏からわずかに遠退き、虚無に一歩近付いたような深沈たる静謐が広がっている。不穏で不吉とも取れるその雰囲気を、は気に入っていた。彼女にとって、その暗がりは黄泉の国へと繋がる架け橋だ。今まさに懇意にしていたあのひとから、地獄に連れ立つ呼び声が掛かるのではないかと荒唐無稽な期待で心が弾んでしまうのだった。
 は片手を占有していた一束の仏花を用意していた瓶に詰め込み、壁側に立て掛けた。老朽化が進み、塗装が剥がれ落ちて合板が露出しているその壁には、色味はくすんで希薄になっているが、血痕と思しき斑紋の染みがいくつも飛び散っている。その色褪せた模様を指の腹でなぞりながら、は徐に目を閉じた。
「やっぱり此処にいたか」
 耳馴染みがよく、聞き慣れた声が背後から掛かった。表面上はがこの場に佇むことを糾弾するような形に縁取られているが、心底安心したと言いたげな存外柔らかい声音をしていた。は細こい首を持ち上げて、陽光が降り注ぐ歩道に立ち及ぶそのひとを見上げる。目眩く光に溢れた一路と対立した、暗闇を模した出で立ちの男だった。はその珍妙なナリをした男をよくよく知っていた。
「五条先輩」
「心配かけさせんじゃないよ」
 ぼりぼりと頭を掻いて項垂れた五条は、の鼓膜にしかと届かせようとわざとらしく深く重たい溜息を吐き出した。彼も躊躇なく表と裏の世界の国境線を飛び越え、裏側の世界に蹲るの傍へと歩み寄った。
 年上からの説教じみたお小言と、遥か上方から見下される眼圧を一身に受けていると言うのに、は物怖じせずけろりとしていた。それどころか自分の身を案じたと言う五条の、普段ならばお目にかかれないであろう焦慮に塗れた姿を一瞥して、したり顔を浮かべた。先輩の威厳など露ほども知らない無垢な体を装うに、五条は更なる嘆息を洩らした。


 今日という日が単なる日常の一環で、特別とは程遠い一日だったならば、五条はを心配することも、思い当たった場所をシラミ潰しに探すこともしなかっただろう。しかし、五条が訪れたマンションの一角がもぬけの殻で、今日という日はその部屋の家主が生まれ落ちた特別な日となると話は別だった。数カ月前、彼女の身に起きた出来事を反芻すれば、五条の全身を流れ打つ血潮は嫌でも沸き立ち、その激情に身を任せて走り出していた。長い脚をみだりに動かして体力を消耗するよりも、無下限術式によって空中を伸し歩いた方がよほど効率的だったと気付いたのは、既に何軒かの場所に寄った後、駅前の信号に引っ掛かったときだった。我に返った五条は、自分らしからぬ直情的な浅慮を恥じると共に、冷静になった頭でようやくが足を運ぶであろう場所に思い及ぶことができた。
 五条の予想通り、そこに彼女はいた。翳りが差した狭苦しい通路には、思い出すことさえ憚られるあの日の陰惨な灯火が揺らめいている。苦々しい味が咥内に広がる錯覚に、五条は思いきり顔を顰めた。目を閉じても閉じなくても、その廃れた壁に男が寄りかかり、半身を失くして崩れ落ちている情景が鮮明に再生される。忌々しく脳髄に焼き付いて離れない場面を振り払うように瞳を瞬かせると、の外形を描き出す輪郭が徐々にはっきりと浮かび上がった。けれど、指先を壁に添わせたの姿を視認すると、五条の背中の産毛はぞわりと逆立った。まるでその行為は、向こう側に棲むその男を呼び覚ますような禁断のまじないに思えてならなかったから。
 は悲痛だとか苦悶だとかの負の感情とは無縁の表情を織り成していた。懐かしむように、慈しむように、瞳に映された灯火がゆらゆらと震えている。そうして、は緩やかにその灯火を目蓋の裏側にしまい込んだ。彼女はそのまま静かに目を瞑っているだけだったから、五条は逆に呆気に取られてしまった。何のために自分が能力を行使して、何のために一心不乱に彼女を探し求めていたのか。湧き上がる当てこすりに似た疑問達は、自由気ままに勝手をやり尽くしていた高専時代の五条が擁していた気性にそっくりだった。そういった独善的な自分と決別したつもりこそないが、という後輩を前にすれば、いつだって学生時代の自分が蘇り、無性に悔しく腹立たしくなる。彼女に抱く感情の起伏が激しく、情緒が乱されていると如実に物語っているようで、何とも癪だった。みじめな気持ちになる。あの頃と変わらず、自分はこの抜け目なく可愛げもない後輩に振り回されるだけ振り回されているようでならなくて。
 五条は喉奥でもだついていた言葉をようやく吐き出した。その声は五条が思い及んでいたよりもずっと優しくて、気味が悪くて、反吐が出そうになった。
 目蓋を持ち上げて五条の姿を捉えたの瞳には、過去を追い縋っていたあの残り火は潜んでいなかった。


「先輩、私に何か言うことあったんですよね?」
 五条の内側で燻っていた腹立たしさを増長させるように、は釣り上がった猫目を挑発的に細めた。何とも安上がりで見え透いた扇動だ。五条とて、今更それしきのことで慌てふためいたりはしない。のあくどく自分本位な誘導を分かった上で、五条は渋々誘いに乗ってやることにした。
「誕生日おめでと」
 五条はふいと目線を逸らした先の空虚に向かってそう呟いた。五条の発声器官は何故だかを甚振るようにはできていない。発する言葉の内容も声色も、意地悪くをからかうことはあっても程々の範疇に留まっている。いつだって、彼女の無体を非難する内情とは正反対を指し示すのだ。しかしながら、彼女の誕生を祝う今回の定型的な祝辞は、五条の心からの本心でもあった。
 五条の素気ない端的な一言に、は満更でもなさそうに唇を緩ませた。あまり五条が目にする機会のなかった屈託のない笑顔だ。思わず口の端がに綻びそうになるのを片手で覆い隠し、五条は大層らしい咳払いをした。仕方なく、その笑顔を見返りとして本日の愚行を大目に見てやることに決め込んだのだった。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「もっと嬉しそうに言えない?」
「本当に嬉しいですよ。私、今多分、世界で一番の幸せ者です」
 瞳の奥に純真な光をちらつかせたの言葉は心からのものだろうが、それにしたって大仰で嘘臭い表現だ。世界で一番だの、宇宙一だの、知りもしない世界の情勢を比較対象として持ち出すとどうしたって信憑性は薄くなるし、興も醒める。しかしながら、口から出任せの多い八方美人なにとっては常套句でもあった。だから気に留めもしない。寧ろ五条が気に食わなかったのは、そんな風に明け透けに宣っても五条になら許されるだろうという魂胆が透けて見える、の肝っ玉にあった。言い換えるならば、彼女の無意識でいて無防備な、五条への信頼だ。
「オマエ、とりあえず僕を持ち上げとけば良いと思ってるだろ」
「だって五条先輩、煽てられると木に登っちゃうタイプでしょう」
 五条のすべてを知り尽くしているとばかりに、は得意気に鼻を膨らませる。五条は呆れて物も言えない、といった意味合いを込めて、手を垂らしてぶらぶらと振ってみせた。煽てに弱いのは一体誰の方だか。五条は眼前で粋がる後輩の素行を思い返していた。ある男に褒められると途端に火照りを帯びてしおらしくなる女とは、一体どこのどいつなのだか。
 五条が見下ろしていた先のは、再び視線を壁際へと鞍替えしていた。照り付ける日差しによって伸びる五条の影が、を完全に覆い尽くす。闇ばかりが馴染む彼女は、いつしか本当にあちら側へと足を伸ばしてしまうのではないかと思った。
「ついに追い付いちゃいましたねぇ」
 愚鈍を装った間延びした語尾とは裏腹に、その声はいくらかの哀愁が滲んでいた。春の陽気に似つかわしくない、愁いを湛えたまなこはぼんやりと天を仰いだ。丸みを帯びた猫背がしゃんとして、地面と垂直なくらい真っ直ぐに伸びた。
 追い付いたの意味するところが何であるのか、五条は知っている。一つ年下の後輩が誰を目標に掲げて術師の生を歩んできたのか。誰の背中を目掛けて、その細くて肉付きの悪い足を無様に動かし続けてきたのか。これらの至極単純で明快な解を導き出せたのなら、自ずとが呟いた言葉の意味にも辿り着くだろう。学生時代からちょこまかとが視界の端にたゆたっていた五条は、直ぐさま思い至っていた。
 彼女が追い付きたかった男は、数カ月前を境に生の歩みを止めた。止められてしまった。はきっと二度と進むことのない彼の齢に追い付きたかったのではない。男に引けを取らない術師として成長すること。男が一目置くほどの術師として大成すること。そういうことを望んでいた。もう今となっては叶わない一縷の望みは、蟠ったままの状態での心中を漂っていた。そう予感がした。
「来年にはオマエの方が年上だよ」
 が望んでいるかは定かでない、冗談めいた返答を寄越すと、ぎこちなかった彼女の表情は僅かに和らいだ。らしからぬ堅苦しい姿勢は元に戻り、背中は再び半月のように丸まる。五条が胸を撫で下ろしたのはここだけの話だ。の真意こそ分かり得ていたが、彼女がどういった返答を求めているのかは分かり得なかったから。
「もう、やだやだ。そういうこと言うなんて先輩ってばデリカシーないなぁ」
「先に話持ち出したのはそっちだろ」
「それは……そうですけど。もっと優しくしてくれても良いと思います」
 優しくなる五条にちっとも期待を抱かない、見せかけの懇願だった。は指先を顎に添えて、くすくすと声を潜めて笑っている。その反応が何よりの証拠だった。五条は苛立ちとはまた違う、沸々と煮え滾る激情に任せて口を割った。無性にその笑顔が崩れる様を見たくなったのだ。
「傑は、今のオマエなんかじゃまだまだ手の届かない男だ」
 はっと見開かれたの眼球が、何の迷いもなく一直線に五条の元へと視線を送り出す。空路を駆け抜けた視線が肌に突き刺さって、異色の感触が纏わり付いた。純然たる驚愕と、溢れ返る高揚感。そういう類の感情がごった返しになって判別のつかない、奇妙な視線だった。はあんぐりと唇に隙間を作っている。少なからず、その言葉はにとって予想外であり、不快な感情を齎したわけではないという外面的なサインだった。それが露呈しただけでも五条は良しとした。
「先輩の優しさって、何ていうか……ずれてますよね」
 長らく五条の一言に太刀打ちできる返答を探して唇の開閉を繰り返していたが、やがて諦めがついたのか、は五条に対する正直な感想を述べた。呆れているようで、その発言にはどこか嬉々とした感情も潜んでいる。
 は、五条にしか形容しようがない彼女の感情を言い表したことを嬉しく思っていた。余燼が燻って、行き場を失くしていて夏油傑という存在への慕情。追い付いてしまったことで完全に滞るかと思われたその感情の矛先を、いとも容易く指し示してしまった。自分の力量では未だ夏油の背中に追い付いていないという明瞭な事実。五条はそれを口にすることで、がこれから先何を目標に定めて生きていくべきかを間接的に教示した。それは或る意味で、学生の頃から寸分も違わない目標だったけれど。
 永遠に認められないことも、追い付けないことも、夏油の人生が閉ざされたことも。本来ならば悲しむ理由になり得た筈なのに、今のにとっては生きる糧でもあった。永遠に触れられない憧憬のかたちは、今の彼女にとって絶望するには未だ早いという希望の縁取りでもあったからだ。
「僕に陳腐な優しさとか求めないでくれる? 頼むなら他の奴に頼みな」
 変化を兆したの心情をうっすら察した五条は、いつも通りの尖った態度を取った。分かりやすく捻くれていて、には手に取るように分かるつむじ曲がりである。
「ううん。いいです。私、そういう五条先輩のぶっきらぼうな優しさの方が性に合ってます」
 が赤裸々にそう暴露するものだから、五条は頭を抱えたくなった。どうしてこうもこの後輩は何事も包み隠さず言い放ってしまうのか。待ての躾を施されなかった犬のようだと思った。
「五条先輩は、私にだけ厳しくて、私にだけ優しいですね」
 思い立ったように、は五条の気性を語らった。事実無根とは言いがたく、それどころか全く嘘偽りのない真実だったため、五条は唇をむっと歪ませた。生粋の天の邪鬼であり、反骨精神で身体が成り立っているような男なのである。元来。
「自惚れてるなぁ」
「本当のことでしょう? 特別として見てくれているでしょう。でも、私それに甘んじる女にはなりたくないんです」
「……」
「先輩が私を好きでいてくれているように、私も先輩を……夏油先輩を好きでいる気持ちを諦めたくないから。あの世にいる先輩に見限られないよう、もう少し頑張りたいんです」
 後には続かなかったが、の真摯でいたいけな純情が見え隠れする表情には「それをどうか許してください」とでも言いたげな含みがあった。
 許す許さないの話なんて端からしていない。五条は、そんな風に夏油だけを思い続けてきたを好きになった。五条からの無愛想でぞんざいな態度でしか示せない恋慕を逸早く察していながらも、夏油だけを一心に見つめて追い続けてきたが、好きなのだった。がそうやって永遠を追い求める姿は、五条が永遠に追い求めるものでもあるのだから、受け入れる他ない。
「それで良いんじゃない」
「はい」
「傑に負ける気は更々ないけど」
「先輩、大好きですもんね。私も夏油先輩も」
「そうやってすぐ調子に乗るな」
 長い腕を伸ばして額を小突くと、は大仰な仕草で痛みを訴えた。そんな分かりきった嘘には引っ掛かってやらない。五条は無言で、その差し伸ばした腕をの目線に掲げてやった。その手を取り、五条が引っ張り上げるちからに従っては腰を上げた。長きに渡って足腰を屈めていたためか、は痺れた足を庇うように蹌踉めいて、壁に凭れかかった。は手を離そうと手指を動かしたが、五条は意地でも離さなかった。己も壁に凭れかかって、二本の腕だけで繋がれたを見つめる。
「来年はもう祝わないから。他の男捕まえるか、ひとりで寂しく祝いな」
「そう言って先輩、去年もその前の年もお祝いしてくれましたよ」
 そうだったっけか。と思い返して、事実その通りだったから、五条はきまり悪そうに首の裏側を掻いた。五条は自分のやること成すことが堂々巡りであると気付いて、悔しさを噛み締めながらを握る手のちからを強めた。今の五条ができる、精一杯の抵抗だった。
 生意気ばかりが先行する唇を塞いでやろうという気に触れたことは幾度もあるが、それをしてこなかった五条は、自分の理性を褒め称えたくなった。それを知らないでのうのうと五条を信頼しきっているに腸が煮えくり返ることも多々あったが、それを微塵も感じさせない態度を示してきた自分にも、勲章を与えたくなった。
 の小枝のような足が平常を取り戻したことを悟った五条は、繋いだ掌をそのままに大通りへと踵を返した。が恐る恐る陽と陰の境い目を跨ぎ、こちら側に戻ってきたのを五条の瞳は見届けた。
 いつの日か、は止めどない永遠に疲弊して、精神を擦り切らしてしまう未来があるかもしれない。彼女が自主的に終止符を打って、夏油の後を追ってしまうかもしれない。そういう想像が、光一つも届かない暗闇で目蓋を閉じるを見たとき、自然に思い浮かんでいた。だから、心底ほっとした。今日はまだ彼女はそういう意思を擁していないのだという、五条にとっての永遠が続く事実。それが暗に示されて、五条は安堵の息を洩らした。
「今度は何の花供えようか」
 五条が藪から棒にそう問うてみると、は考え込む素振りもなく、堂々とその回答を捻出した。
「スターチスにします」
 名前を言われたところですぐには姿かたちを思い起こせない、五条の知識にはない花をが吟味して選びぬく様子を脳裏で思い描きながら、五条は光で滲む通りを闊歩した。
 永遠に思いを馳せる彼女は一際鮮明で美しいと、五条は随分前から知っている。憎らしくも憎みきれない軽口を叩く後輩が沈黙と共に美を纏う。そういう一瞬を、目蓋を閉じて五条は描き続けた。
 桜が散りゆき疎らに広がる通りは、首尾よく過ぎ去ろうとする春の名残の象徴だ。もうあと何週間かすれば完全に春は過ぎ、季節は次の段階へと歩を進めるだろう。四季の移ろいに永遠はない。
 けれど、できることなら、五条は後方からあどけなく強かに呼び声がかかる永遠が、いつまでも続いて欲しいと思った。

2020/04/01