夏の残滓を追い駆けて
 アスファルトが焦げ付いたような匂いがじわりじわりと日常に侵食するような、そんな真昼の炎天下だった。
 予想を遥かに上回る猛暑に心身共にぐったりと疲れ果ててしまい、呪詛師の残穢を追う任務のさなかにありながら、私はすぐそこのコンビニで身体の熱を冷ますためのアイスを購入しようと提案した。真面目一徹な同期生であり、今回の任務の帯同者でもある七海はあからさまに眉を寄せたが、さすがの彼もこの皮膚が焼け付くような暑さは辛抱ならなかったのか、渋々その案に乗ってくれた。
 購入したアイスをぱきんと中央で割り、半分こした片割れを一舐めする。無難なソーダ味が舌先から沁み込んでゆく。真夏の直射日光に蔑まれ続けた身体に程よい冷感が齎され、束の間の安寧を手に入れることができた。
 歩道の防護柵に寄り掛かっていた私は、ひょいとその上に跳び乗って腰を落ち着けた。隣でアイスに齧り付いていた七海は、信じ難いものを見る眼差しを向けてくる。「行儀が悪いですよ」と申し訳程度に窘められたが、私とて伊達に彼の同期生をやっていない。自分を律することに惜しみはないが、他人に対しては優しく寛容的な性分であることは随分前から知っている。私はそのまま柵に乗り上げて垂らした足を行儀悪く揺らした。
「高専を卒業したら、術師を辞めようと思っています」
 頭頂部を照り付ける陽光が、持て余した鋭利な暑気を一段と強めた気がした。
 実に唐突だった。けれど前触れはあったから驚きはしなかった。それどころか、心の片隅で七海の唇から紡がれるこの宣言を今か今かと待ち望んでいた節があった。
 私と七海は同期生ではあるが、何も最初からふたりで在り続けたわけではない。一昨年の夏はさんにんで過ごすことが多かった。去年はふたり。今年もふたりだ。来年にはひとりになってしまうかもしれない。高専を卒業すれば、七海が宣言通りに術師を辞めてしまうのなら、私は必然的にひとりになる。
 さんにんの内のひとりは、呪いの世界で死んだ。儚い生命の息吹は一吹きで消し飛んだ。
 彼の死は決して満足いくものではなかっただろう。誰にでも死は平等に訪れる。術師という生業は、その死が無残で無慈悲で、救いようのない結末を齎すのに一役買っているというだけ。そこを許容できるかできないか。私と七海の決定的な違いはそこにあった。私は許容できてしまう。末代から伝わる呪術の血脈を受け継ぎ、そういう末路を当然のものとして育てられてきたから。けれど、七海は私とは違う。同じ人間で同じ齢という括りにあっても、彼は非術師の家系で、彼は呪術と縁もゆかりもない未来を選び取ることができる。それでも、それを知っていても尚彼はこの恐ろしく長くて歪な道程を歩んできた。苦労も挫折も経験してきただろうし、何度もこの世界を憎み恨んできただろう。だから、彼がようやくこの地獄の釜のような生き地獄から解放される道を選んだことを、素直に喜んだ。
「それがいいと思う」
 七海は、汗の滲んだ額に皺を寄せた。滴となって皮膚を伝うその汗は、茹だる熱気と地面を反射する日差しのせいなのか、それとも私の突き放したようなどこか他人事な発言のせいなのか。漠然と後者かなと思い描いた。そこには純然な推測とは程遠い、一匙の願望が含まれている。私の発言で七海が戸惑ったり迷ったりするのは日常茶飯事で、口に出すことは憚られるけれど、その様相は有り体に言ってしまえば気に入っていた。
「怒ってるの?」
「いえ……寧ろアナタに怒られるかと」
「どうして? 怒らないよ。七海の人生だもん。好きに生きたらいいよ」
「そういうものですか」
「そういうものですよ」
 七海の受け答えは彼らしからぬ歯切れの悪さがあった。納得していないというより、呆気に取られているようにも見える。人は皆、自分が掴み取ろうとする未来に向かう自分の背中を押して欲しいものだと思っていたから、どうしてそんな腑に落ちない表情を織り成しているのか、私には理解が及ばなかった。
 訪れた沈黙に意味を付与するために、私は適度に溶けて柔らかくなったアイスの端を齧った。眼前に没頭すべき事案があると人は余裕を欠いて夢中になってしまうものだ。だから、私もそれに倣って溶けゆくアイスを如何に早く口内に放り込むかという必死の攻防戦を繰り広げた。そういう体を装った。私の指先には既にアイスから溶け出た液体が垂れており、敗北が決定づけられているも同然だったのだが。
「そこで私も連れて行ってと言わないところが、アナタらしいですね」
 ぽとり、と棒切れにしがみついていたアイスの欠片が、呆気なく地に落ちた。後には液体に塗れた「ハズレ」と書かれた棒切れだけが残る。惨敗も良いところだ。
 ああ、そうか。そこで私はひとつの結論に思い至った。
 ――七海は、私に連れて行ってと言われることを望んでいたのか。
 ――この呪術の世界から足を洗って貴方と一緒に生きたいと言われることを、望んでいたのだ。
 解は単純なのに、どうしてか私の脳みそはその解を導き出すための方程式が抜け落ちていて、回りくどい方法でその解を得てしまった。
 七海が私に向け続けた曰くありげな視線。それは私が七海に向け続けてきたものに酷似していると、随分前から分かっていた筈なのに。
「考えたこともなかったな。普通の生活ってどんなだろうね?」
「こちら側よりずっと楽しいと思いますよ」
「だろうねぇ。私もそう思う」
 私にとって未知の領域へと思いを馳せてみる。呪術に携わることなく、呪いと対峙することなく、平々凡々でありふれた人生を全うする私。その人生に、大切なひとが最期まで寄り添ってくれる情景。想像するは容易いけれど、私がその空想に到達できる未来は、全くと言って良いほど想像が結び付かない。
「ごめんね、七海。私そっち側には行けないや」
 分かりきっていたんだろうな、と予感がする七海の翳りが差した顔付きに、喉の奥が締め付けられるような息苦しさを覚えた。
「……だから、アナタらしいと言ったんです」
「馬鹿だなって呆れてる?」
「いいえ。……そういうアナタを好きになったので、少し安心しています」
 どさくさに紛れた告白に、私の自分本位な聴覚が勝手に生み出した幻聴なのではないかと勘繰ってしまうほど会話の一端に潜ませた告白に、私は何も反応できなかった。私の全身を司る血肉は歓喜に湧いていたのに、乖離した心はどこか呆然とその告白を享受していた。
 虚無とも違う、空虚でぽっかり開いた穴を塞ぐ術を私は知らない。きりきりと胃の腑が絞られてゆく感覚に、私は無性に泣きたくなった。意思に反して涙腺は非情なもので、眼球に覆われた水の膜はからからに干からびていた。
 七海が私を好きだと言ってくれるのに、私はその莫大な想いの丈に応えることができない。彼は私と健全で華々しい人生を共にしたいと暗に示唆してくれたのに、私はその選択肢を手に取ることができない。今自分が抱いている感情は、そういうジレンマから成るものだった。
「幸せになってよ、七海」
 ぽろりと不意を突いて出たその言葉は、唇が勝手を働いた折に飛び出たものであるにも関わらず、私の本心をすべて詰め込んだ希望の祈りだった。
「今日私が七海の手を取らなかったことを後悔するくらい、うんと幸せになって」
「……」
「たくさんのひとと出逢って、別れて、笑って、泣いて、怒って……。そういうありふれているけれど当たり前じゃない幸せを、貴方にはいっぱい感じて貰いたいと思う。私の分まで」
 私には掴むことは疎か夢見ることさえ躊躇われる幸せを、その享受を七海に託した。
 七海の眉間に刻まれた皺はより一層深くなった。私はいつだって、彼を不快にさせる言葉しか吐き出せない。でも、七海はそういう私を咎めたり諌めることはあっても、本気で嫌いになることはないから。いつまでも彼の優しさに甘えてしまう。
 決別しなくてはならない。大切なひとを離しがたく、離れがたく、その上で依存し続けてしまう甘ったれた精神から。七海に依拠することで平静を保ってきた自分自身から。今日この日に私はそのことを実感し、痛感していた。
「それができたら、苦労はしません」
 七海が零した本音は、天の邪鬼で分かりにくい愛に溢れた本音だったと気付いたのは、後になってからの話だ。
 溶け落ちたアイスがすっかり原型をなくし、アスファルトに沁み込んで黒い染みと化してしまうまで、私と七海は蒸し風呂のような真夏の炎暑を受け止め続けた。


 季節の移ろいを肌で感じると、途端に私の心はその季節特有の感傷に浸ってしまう。だから、夏は嫌いだった。汗ばんだ皮膚に衣服が密着して離れない感覚。熱気に眩んで正常に機能しなくなる思考。溶け落ちたアイスは、もう二度とこの手の中には返ってこないという、万物に共通する定義。そういうものを止めどなく思い返してしまうから。
 しかし、今年の夏は少し違った。
 掌から零れ落ちたものがそっくりそのまま帰ってくることはない。けれど、別の形となって巡り合う機会が訪れることもある。
「お久しぶりです」
 同期生なのに相変わらず堅苦しい敬語だった。私はそういう七海の素気ないようで心地良ささえ感じる口調が、好きだったのだと思う。平等に人と接することを重んじるようで、時折飛び出る柔らかい語調は自分を特別であると実感させてくれるから、好きだった。
 炎天下でありながらネクタイを緩めることなくスーツを着こなしていた七海は、記憶の中でたゆたう彼と印象こそ違うものの、纏う雰囲気は変わらなかった。その姿かたちは、彼が経験してきたであろう別次元の世界を漠然と想像させる。私にとっての未知を既知に変えた彼は、その道を引き返してこちら側に戻ってきた。
 それを知ったのはつい先程で、私と七海の関係をいやに邪推する抜け目のない先輩から通達を受けたときだ。その情報が聴神経を伝って脳髄に辿り着いたとき、私は先輩を放って走り出していた。何の確証もなく向かった先は、七海がこの世界への決別を表明し、私が七海への決別を表明したあの場所だ。先走った心は留まるところを知らず身体を動かし続けて、気付けばその場所に立ち及んでいた。後方から掛けられた「さん」という聞き覚えのある声に、積もりに積もった期待がどこまでも私を高揚させる。振り向いた先の、口をぽかんと開けて放心する七海の姿は、私が最も欲していたそのひとの帰還を意味していた。
「次に会うのは、七海の結婚式かなって思ってた」
 あのときから若干くすみを増して錆び始めている防護柵に寄りかかり、私と七海は隣り合って話を始めた。
 手始めに、そんな冗談混じりの挨拶をお見舞いする。きっと七海は嫌がるだろうなと思った。分かっていてそんな冗談を振り撒く私に、七海はきっと顔を顰めて重苦しい雰囲気を滲ませるが、最後には許してくれる。そういう根拠のない自信があるから、飽きもせず七海に軽口を叩いてしまう。全く顔を合わせる機会はなかったのに、今もまだ学生時代の余韻が抜けきらない自分の気性が、何だか面白かった。
「……笑えませんね」
 それに反して、やはり七海は面白くないと訴えるように眉間に皺を寄せた。
「どうして?」
「……私は、アナタが笑って送り出してくれたにも関わらず、また戻ってきたんですよ。アナタに託された幸せな未来を何も享受できていないのに」
 ぽつりぽつりと呟かれた七海の心情は、私の胸を痛いほど締め付けた。私が勝手に託した祈りが彼への呪縛となりかけていた事実に、絶句する。鼻の奥がつんと痛んで、少しだけ目頭が熱くなった。
「そんなに思い詰めないで。私、七海の手を取らなかったこと後悔したよ」
「……」
「だから、今は素直に嬉しい。七海が隣に戻ってきてくれたこと」
 不謹慎かもだけど、と控えめに付言すると、七海は険しかった表情をわずかに緩ませた。それだけで、私の心身には安寧が齎され、程よい充足感で満たされる。七海に幸せになって欲しいという思いは本物だけど、押し付けがましい願望で七海を苦しめたかったわけじゃない。彼には、自分が悩み抜いて選んだ道に自信を持って欲しかった。例え私の目が行き届かない別世界でも、あの生真面目な雰囲気を和らげるひとときがあって欲しいと思っただけだ。七海がこのろくでもない世界に踵を返して戻ってきても、それが彼の意思ならば、私はその背中を押し続けたい。七海が足掻き抜いて得た結論を尊重したい。この場所でしか生きられない私の隣にいてくれるのなら、それだけで十分なほど、私にとっては又とない幸せなのだ。
「良かったらアイスでも食べませんか」
「え?」
「好きなんです、アナタが食べているところを見るのが」
 恥じらいも戸惑いもすべて放り投げたように、吹っ切れたように七海がそう言うものだから、私はただ頷くしかできなかった。紅潮する暇も、茶目っ気の利いた冗談を挟み込む余裕もなかった。
 目の前のコンビニで購入し、半分に割ったアイスはあの日と同じ馴染み深いソーダ味をしていた。
 失ったもの、形が崩れてしまったもの、永遠でなくなってしまったもの――……。それらを完全体で同じものとして取り戻すことは不可能に等しい。けれど、人生という長く険しい道程の半ば、巡り巡って相見えることもあるかもしれない。こんな風に。
 幸せを共有できる幸せを、学生時代の私は知らなかっただろう。ありふれているけれど当たり前じゃない幸せが、自分のすぐ近くにあるなんて思ってもみなかったから。
 再びこのアイスが溶け落ちてしまっても、あの頃感じた喪失感はきっと生まれない。七海が隣にいてくれる限り、彼ならばきっと再び私とアイスを半分こにして幸せを共有してくれるであろうと、そういう確信があるからだ。

2020/03/10