スウィート・テイスト・ヘブン
「ただいま~」
 呑気に間延びした声を発しながら私の家に姿を現した人物は、海外出張帰りのべらぼうに機嫌が良い五条悟であった。世間が甘ったるい香りと雰囲気に酔いしれる極寒の季節のことだ。
 合鍵を用いて我が物顔でずかずかと入り込んできた不法侵入者――改め悟は、他人の部屋とは思えぬ無遠慮っぷりを堂々と曝け出し、私が座るソファへと腰を下ろした。彼には手狭で小さなローソファが軋んだ音を立てる。この自分本位な来訪も、一人暮らしの部屋に見合わない体躯も、サングラスの隙間から覗くぱっちりと巨大な瞳も、全てがいやに懐かしい。それもその筈で、悟と顔を合わせるのは実のところ約一ヶ月ぶりのことだった。その期間、彼はヨーロッパ圏に滞在していた筈なのだが、小脇に抱えていた荷物はとてもそうは思えないサイズ感である。異国を巡る前の悟は不機嫌そのものだが、終えた直後は見違えるほど清々しい雰囲気を纏っているので、出張帰りで間違いはないと思うのだが。
 私が怪訝そうに見入っていたのを勘違いしたのか、悟は手に持っていた小ぶりの紙袋を差し出してきた。
「なにこれ?」
「ハッピーバレンタイン」
「バレンタ……、悟どういう行事か知ってるよね?」
「勿論さ。僕の恋人が毎年用意してくれてるから、今年は僕からもあげてみよっかなって。いわゆる逆チョコ。しかも有名な本場のブランドもの」
 ありがたく思えよ、との付言は軽く聞き流しながら、受け取った紙袋からそれらしき物を取り出した。洋風でクラシカルなデザインが表面に描かれた立方体の箱だ。胸を躍らせながら箱を開けると、視覚に先立ち嗅覚が反応する。甘くとろけそうな匂いが鼻孔を擽った。蓋を開けて出てきた高級感が溢れるコーティングを施された小粒のチョコの群衆に、思わず顔が綻ぶ。
「すごい、美味しそう」
「なんたって僕の選りすぐりだからね。旅行中食してきたチョコから吟味した一品」
「旅行て……。やっぱり遊び呆けてきたんでしょ」
「休みもろくにない特級だし許されて当然。ほら、口開けて」
 口? と疑問を呈する暇もなく、悟は指でチョコを摘むと私の口内にそれを突っ込んできた。所謂あーんというシチュエーションなのだが、男女の色恋を全く感じさせない乱雑な手付きである。抗議したい気持ちは山の如しであったが、口内にじわりと侵食していくなめらかな甘味に、私は何も言えなくなった。この世で一度も食したことのない、悟がいなければ巡り合う機会が一度も訪れなかったであろうチョコに、私の味覚は圧倒されている。締まらない表情で未知の味を堪能していた私を、悟は至極ご満悦そうに眺めていた。
「どう? 何か言うことない?」
「ありがとうございます、特級術師様々です」
「最後のは余計。そんじゃ次、僕の番」
「……これ? あーんしろって?」
「違うよ。も僕に買ってくれてるんでしょ。そっちちょーだい」
 長きに渡って私の傍に居続けてくれているこの男は、甘味を主食にして生きていると言っても過言ではない。甘味とあらば何でもかんでも口に放り込むし、それ以外の味とあらば砂糖やら蜂蜜やらを駆使して味を調製しようとする。生粋の子ども舌だ。そういうわけで、バレンタインという風習自体に然程興味はないが、毎年の恒例行事としてチョコの用意はしている。悟はその用意された品を指し示して、それを寄越せと要求しているのだ。あーん付きという、その有無で甘味が変化するわけでもない普遍的なチョコレートを。
 理屈は分かる。分かるのだけれど。
 私は机上に放置されている、ラッピングされた箱の中身を思い描いた。何の変哲もないチョコレート。そう見えてある工夫が施されている。悟には悪意の籠もった悪戯と捉えられてもおかしくないギミックが。それを思い起こしたから、彼に渡すべきか否かの判断をより正しく行うために咄嗟に逡巡した。結論を導き出すのは早かった。
「悟さ、今回は食べない方が方がいいよ……」
 私がおずおずと提言すると、あからさまに悟は顔を顰めた。サングラス越しの形相を想像して少しばかり肝が冷える。
「何だそれ。自分で買っといて食べない方がいいってどういうこと?」
「いや、まさかこんな良いものくれるとは思ってなかったから……毎年甘いのじゃ面白くないかと思って」
 勘の鋭い悟ならばこれだけ仄めかせば自ずと私が何を言いたいのか察してくれるだろう。案の定、彼は暫く呆けていたが「あーはいはい。なるほどね?」と頻りに頷いて肩をすくめた。どうやら私が示唆した答えに辿り着いたらしい。
「要するに甘くないチョコなんだ?」
「たまには悪くないかなって。私も食べたかったし」
「後者が一番の理由だろ」
 まぁそうなんですけどね。押し黙った私の反応から後者だと確証づけたのか、悟は面白くなさそうな顰めっ面を湛えた。率直なところ申し訳ないと思う。彼は彼なりにこの慣例に成り果てた行事を楽しみにしていたのだと気付いてしまったから。今度ちゃんと悟好みの甘さが凝縮されたチョコを買って来よう。さり気なくそう提案してみたが、敢えなく却下された。唇を歪曲させて「今日じゃなきゃ意味がない」とぶうたれている。時折触れる悟の優しさには思わず胸が高鳴るけれど、やはり彼はこういう傍若無人で子どもじみた横着な態度があってこそだと思う。これしきの些事に臍を曲げないで欲しいと思うのも事実だけど。
 結局、私が用意したチョコで良いと頑なに主張を曲げないものだから、仕方なく机上の紙袋から箱を取り出した。パステルピンクのリボンを紐解き、上質なデザインで彩られた蓋を開ける。視界に飛び込んできたのは、悟が買って来てくれたチョコより一回り大きな球状のものだ。一粒を指で摘み、ゆっくりと焦らすように彼の口元に運ぶ。すると悟は不敵に笑って、そのままチョコを指ごと口内に誘い込んでしまった。触れた先の粘膜は熱くてじっとり湿っている。思わず「ひゃっ」と奇妙な声を上げて、指を引き抜いた。当の本人は唇の片側を持ち上げて、晴れやかな笑みを浮かべながら口をもごもごさせている。
「どう?」
「別に普通のチョコじゃ……、うぇっ」
 そのチョコに施された細工に到達してしまったのか、悟は見るからに顔を歪めて、不味いという意思表示に舌をべっと出した。まぁそうなるだろうな、と予感していたので私は特に驚くこともない。
「オマエこれ……酒入ってんの」
「そう。ウィスキーボンボン。悟全くお酒飲まないから、どうなるのかなって」
「信じらんねぇ〜」
 悟が気付いた通り、これは洋酒を砂糖の殻とチョコレートでコーティングした、紛うことなきアルコールを含む菓子である。ちょっとした悪戯心のつもりだったが、存外悟にとっては凶器に値する代物だったらしい。鼻筋に皺を寄せてむっと忌々しげに私を睥睨してくる。
「甘いものと酒を一緒くたにして食べる意味が分かんない。何の拷問だよ」
「そうかなぁ。美味しいと美味しいの掛け合わせじゃん」
「どこがだよ……。うへぇ、舌が鈍った」
 舌を突き出して見せつけるような仕草を取る悟に、申し訳ないような、私は最初からやめておけと主張し続けたから自業自得だぞと宣いたくなるような、複雑な気持ちが湧き上がる。やっぱり甘味に口酸っぱいこの男には、無難に大人しく甘いチョコを用意するべきだと心に決めた。
 私も一口食べようとウィスキーボンボンを手に取る。すると、悟はその手をがしりと掴んで阻止してきた。
「うん?」
が食べる前に、口直しさせて」
 掴まれた手を引き寄せられ、あっという間に距離を詰められる。状況を把握するのは私のちっぽけな脳みそより神経が張り詰めた器官が先だった。唇の重なる感触。次いで、隙間からぬめり込んでくる舌の感覚。抵抗を示そうと腕をばたつかせると、それすら予測していたと言わんばかりに呆気なくねじ伏せられた。掴まれた手は痛いわけではないが、どうしたって覆しようのない力の差が如実に感じられて、抵抗が虚しいものだと実感させられる。そうこうしている間も悟から伸びる舌は図々しく私の口内に居座り、傲慢不遜の限りを尽くした。絡み取られた舌から、甘味と苦味の混じり合った独特な味わいが移し替えられて、脳髄がとろけていく。
 悟の横暴は私の全身が酸素不足を訴えるまで続けられた。ようやく離された唇どうしの狭間に垂れた糸は、ぷつんと切れて空中に霧散した。酸素を求めて呼吸を繰り返す私に反して、悟はまだ余裕がちらついている。唇を舌で舐め回し、空腹を満たした野良猫のように目尻を下げた。
「ごちそうさま」
「…………さいあく」
「何でだよ。お互いに好きな味食べ合いっこできたじゃん。良いこと尽くめ」
「そういう問題じゃない……」
 自由奔放を地で行くこの男は、遠慮とか配慮とかいう言葉ととことん無縁に生きているのだった。自らの行動で機嫌をとった筈の悟は、やはりと言うべきか、欲望が漲り始めている。興奮が抑えきれず表情や動作に滲み出ているその様相は、今しがた飢えを満たしたと言うのに、どこまでも強欲で貪欲な獣なのだ。そういう悟から逃れる術はないと、身を以て知っていた。だから私は瞳を閉じて、彼にこの先の選択肢を委ねる。チョコレートよりもずっと甘く茹だった空気が迸るこの空間に、私はどうも毒されてしまったようだ。
 でも、今日くらいはそれも悪くない。そんな気にさせてしまうのは、後にも先にも彼だけだろう。

2020/02/17