just the two of us
 水平線の彼方に沈み行く夕陽は、やがて朱色の一線と化した。視界の端いっぱいに広がる海面は、燃え盛るような太陽の色で染まり爛々と輝いている。しかし、それは刹那の一瞬だ。藍錆色の空と海に溶け合い、その瞬間がまやかしであったかのように跡形もなく消え去った。毎夜当たり前に訪れる日没を目にする機会は決して初めてではない筈だ。なのに、どうしてか私の瞳はその景色を捉えて離そうとしなかった。想像を絶する美しさを言語化できないまま、目蓋の裏にこびり付くまで焼き付けた私は、ただ感嘆の吐息を洩らすことしかできない。
 そうして私は前触れもなく、隣で同じ景色を眺めるひとの存在を繋ぎ留めなければならないと思った。唐突に、急激に襲い掛かる漠然とした不安。いつしか彼もこの夕陽と同じく忽然と姿を消してしまうのではないかという、根拠のない憂慮。取り留めなく己の内を侵食し出すそれに私の心臓はわなないた。
 しかし、悟は全てお見通しだとでも言うように絡ませ合った指の握るちからを強めた。はっとして彼を見上げる。此方を向いて薄く微笑む彼の、サングラスの奥に潜む薄氷色の瞳を想像して身体の芯がじんわり熱くなった。どうして何も言わずとも分かってくれるの。尋ねる代わりに、自分も指先に力を込めてぎゅっと握り締めた。
 今日も、太陽は沈んでしまった。私と悟をこの広くてさみしい海辺に置き去りにして。


 出張任務という名目のもと私は悟に本国から連れ出され、異国の地へと降り立っていた。日本を拠点に活動する術師が海外に駆り出されることは稀であるが、決してなくはない。だが、海外に赴くような特別任務には大抵の場合、特級術師が割り当てられる。今回の任務も海を渡って違法に取引された特級呪物を回収すべく悟が派遣されたのだが、何故か彼は無関係の私に現地に向かう出向便に同席するよう命じたのだ。経緯や理由を言及しても、悟は唇をにんまり半月状に形作るだけで頑なに唇を開こうとしなかった。やがて追及を諦めた私は彼の言うがままに手配された飛行機に乗り込み、数時間のフライトを経て、常夏の南国の地を踏み締めていた。初めて訪れた土地に感動する暇もなく初日から任務に当たったが、悟は手際よく滞りなく任務を進めた。加担する隙を与えないほど的確で迅速な処理を目の前にして、彼が自他共に認める最強であると再確認すると共に、ますます自分がこの場にいる意味を見出せなくなった。その疑問を問えども私の満足する回答は得られないだろう。だから、敷かれたレールを脱線しないよう突き進み、聞き分け良く演じるのみである。
 彼の任務遂行に支障が出ないよう、黙々と後処理を続けること早数日。特級呪物の回収と裏で糸を引いていた呪詛師の身柄拘束を終えて、すべての任務を成し遂げたその日に「最終日どこ行くか決めといて」と悟は当然のように言い放った。そこで、ようやく私は今この場にいる意味を認識するに至ったのだ。出張任務として設けられた期間は最終日まるまる一日を残している。どうやら悟はその日を観光に費やすつもりで、私をこの任務に同行させたのだ。憶測に過ぎないが、恐らく正解に違いない。と言うよりそれ以外に、最強たる悟が普遍たる私を連れ立った理由が思い当たらない。いつぞやに私が、彼とふたりだけで構成された空間で洩らした「ハワイの海を見たい」という呟きが脳裏を過った。写真というフィルター越しでしか知り得ない非現実的な情景に、当時の私は淡く想いを馳せていた。術師という稼業ゆえに、異国の地を偶然訪れる機会には巡り会えても、頭を空っぽにして思い通りにその地を満喫できるほど暇を持て余すことはまずない。だから、私が抱いた願望が現実へと昇華することは有り得ないと思っていた。それを実行に移す気力も体力も行動力も持ち合わせていなかったから。しかし、悟は違った。私が持ち合わせていないすべてを全力で行使し、実現へと持ち込んでしまったのだ。恐るべし、最強の座で胡座をかきながら眠りこけていそうな男、五条悟。彼がありきたりで些細な会話を記憶していたことも、それの具現化に向けて人知れず思索していたことも、ぜんぶが嬉しかった。だから私は彼の厚意に甘えて、決行日の前夜に観光ガイドを捲りながらうんと頭を悩ませた。無論、導き出す答えは分かりきっていたのだけれど。
「海を見に行きたい」
 最終日の朝、欠伸をしながら気怠げに起き上がる悟に率直な希望を伝えると、彼は「だろうね」と満足げに笑った。自分と悟の望みが一致した事実を呑み下して、私も自然に笑みが零れた。
 身支度を済ませてホテルを出ると、すっかり慣れた常夏の日差しが降り注ぐ。悟は普段の漆黒一色の出で立ちではなく、青と白で彩られた開襟シャツを着こなしており、自前のサングラスもよく馴染んでいた。私も日本では着られないような背中が開放的なデザインのサマードレスを悟に買い与えられたので、有り難くそれを着用している。互いに見慣れない夏の装いに僅かな緊張が生まれたが、レンタカーを借りて従業員に送り出される頃にはすっかり緊張は解れていた。
 母国とはからきし異なる風土や街並みは、知識として擁していても、実際目の当たりにすると心が踊る。例えば自然。四季折々の東京では観測されないような、この国の象徴も言えるハイビスカスやヤシの木といった熱帯雨林の植物が至る所に散見される。例えば気候。同じ気温でも日本のねっとりと皮膚に纏わり付く暑気はなく、からっとした陽気で日中でも過ごしやすい気候が維持される。車窓の隙間から吹き抜ける風は気温の割に涼しくて肌馴染みが良い。そして、例えば街ゆく人々の気質。彼らの心にゆとりある行動や純粋な親切心から成る言動に触れた回数は一度や二度ではない。接した先から全身に温かく浸透していくそれに幾度も感銘を受けた。そういう品格の人で賑わう街の景観は、心が洗われていくような不思議な感覚を齎してくれる。悟が車を走らせればその分だけ永遠に入れ替わり続ける景色にすっかり見入っていると、隣から不貞腐れた声の非難が浴びせられた。長らく放置されて気分を害した、と口ではそう言うが、そうは思えない朗らかな表情で悟はちぐはぐに訴える。まるで世界が己を中心に回らないと気が済まない子どものようだ。仮に私が悟を放置しなかったとして、それは運転中の彼の気を散らす行為に他ならない。自分の身に危険が及ぶ可能性が高まる行為同然ではないか。そこまで自分の命を軽視したくはない。ので、私が静かに口を噤んで景色を眺めていたのは正当な行いであると、臍を曲げる悟に主張した。お気に召さなかったのか彼は「ハァ?」だの「屁理屈捏ねてないで僕の機嫌取ってよ」だのぼやいている。挙げ句の果てには。
「そうだ、水着。水着着てもらわないとね」
「……はい? なんで?」
「僕がの水着姿見たいから」
「男子高校生の淡い願望みたいに言うんじゃないよ。そもそも持ってきてないし」
「そこら辺に売ってるでしょ。買ったげる。大体海行くのに海に入らないなんてハワイに恐れ多い」
「何その謎理論」
 全くもって理解に苦しむ暴論を振り翳しながら、悟は私の意見に聞く耳持たずで車を走らせ続けた。そこから意味のない押し問答を繰り広げたものの、結局彼が心変わりする気配は微塵も感じられなかったので、余計な気力を消費しないよう口を閉じた。悟が「また放置すんの?」と減らず口で挑発してきたので、投げやりに「いつもと違う角度から見る五条悟に見惚れてま?す」と返しておいた。実際、ハンドルを握る悟を右側から眺めたことはないし、本日の格好と相まってそれなりに物珍しく心を揺さぶる光景であったのはここだけの話だ。
 郊外へと道なりに突き進めば、吹き込む風に潮の香りが入り混じるようになった。海がすぐそこまで迫っている事実に胸の高鳴りが抑えきれない。そんな私に同調するように、悟は呑気に鼻歌を歌い始めた。どこまでも自由奔放な男である。
 ビーチ近くの飲食店や雑貨屋が点在する小さな街に到着し、その中でも水着に特化してるであろうショップの前に悟は車を停めた。都市部の華美に飾られたブティックとは程遠い小ぢんまりとした店だが、内装や取り揃えられた水着はどれも可愛いものばかりだ。私よりも悟の方が水着選びに熱心で、試着こそさせられなかったが鏡の前であらゆる水着を見立てられた。悩み抜いた末に悟が選んだ水着はホルターネック型の上下に分かれたビキニだった。とは言ってもレース素材のフレアトップとギンガムチェック柄のハイウエストスカートのために、背中は些か無防備であるが、前面の露出は少なめになっている。彼の趣味に寄り添ったどんな際どい水着になるかと戦々恐々としていたが、無難なそれに一先ず安堵した。曰く「は背中がきれいだからね」とのことだが、自分で把握できない部分を讃えられても反応に困ってしまう。悟は自分用の水着を、私の水着に費やした時間の一割程度で見繕い、合わせて会計をして店を出た。どうせなら悟の分は私が見立てたかったが、「僕は元が良いから何着ても似合うし」との自己肯定感の高い言い分に若干面倒になって流されておいた。そこから少し歩いた近場の飲食店で、腹ごしらえと言うには憚られる豪華で顎が落ちそうになる昼食を取った。私はガーリックシュリンプを、悟は名物のスフレパンケーキを頼み、それぞれ南国ならではのご馳走に舌鼓を打った。
 再び車に乗り込み、海沿いの道路を進めばものの十数分でビーチの駐車場に到着した。車を降り、視覚より先に嗅覚が海の訪れを感じ取る。早く海辺に足を運びたいという気持ちが先走り、悟をほっぽって駐車場近くの簡易的な更衣室に飛び込んだ。
 購入したての水着は露出が少ないとは言っても二の腕や太腿は余すとこなく曝け出さねばならないため、大の大人には少々心許ない武装だ。しかし、今このビーチにおいて心も身体も開放的でないひとなど存在しない。浮くことはないだろう。着替えを済ませ、意を決して更衣室を出ると既に水着に着替え終えていた悟が壁に寄り掛かっていた。そう言えばまたも放置してしまったことを思い返し、ねちねちとお小言を呈されるかと身構えたが、彼は無言で此方を見遣るだけであった。サングラスに隠された瞳だけが蠢いているのを、沈黙で満ちた空気から察する。つむじから爪先まで、上から下に舐めるように視線を這わせたであろう悟はご満悦な様子で口角をにっと上げた。
「うん、いいね。僕のセンス満点」
「……悟のセンスが、ね」
「何だい不服そうに。もっと他に褒めるとこあるだろって?」
「べっつにー」
「不貞腐れないの。は何着てもかわいいから言うまでもないでしょ」
「…………」
 既視感を覚える科白にわざわざ言及するのも億劫だったので、無反応のまま悟の横をすり抜けて海へと向かった。彼の長い脚を以てすれば私に追い付くことは容易だったが、追い付いた途端に速度を緩めて私に歩幅を合わせる彼は、それなりに女心を熟知しているのであった。悔しいけれど。言ってはやらないけれど。
 ようやく辿り着いた目的地の風景は、思い描いた理想を遥かに上回る絶景だった。端から端まで障害物が何もない、ただひとつ水だけで覆われた空間。濁りのない透き通ったセルリアンブルーが日光を反射して底抜けの艶めきを放つ。波打ち際の繊細なさざめきが鼓膜を通して私の心をより一層揺さぶってくる。
 どうしてこうも、人の手では決して生み出すことのできない自然の境地は、人の心を震わせるのか。人跡未踏の一端に触れてしまえば、ないものねだりのように、どうしようもなく渇望してしまう。もっと知りたいと。未知への欲求を抑えられなくなる。
 私は心の赴くままに海へと向かった。行く手を阻むように足を取る砂を蹴飛ばして、不要なサンダルを脱ぎ捨てて。湿り気を帯びた渚に立ち、押し寄せる塩水が爪先から足の甲、かかと、足首と浸していく感覚に、歓喜の短い悲鳴を上げた。常夏とは言え冬季の思いの外冷たい水に、全身の産毛が逆立つ。それもあっという間の出来事で、やっとの思いで陸地に辿り着いた波はあれよあれよと言う間に引き返してしまった。しかし、第二波、三波と後列で待機していた海水が順繰りに打ち寄せてくる。私は只管に、その波の満ち引きが身体を通り抜けていく疑似体験を満喫していた。
「まーたこの僕を放置しやがって、このヤロウ」
「悟」
 後方の頭上から声を浴びせてきたのは悟だ。私達が持ち出した最低限の荷物を持っていないところを見ると、砂浜の何処かに置き場所を確保してくれたのだろう。海辺に置き去りにしてきたサンダルも姿を消していたので、こちらも彼が避難させてくれたと推測できる。素直に有り難く思ったので、素直に「ごめん」と謝罪の言葉を述べた。悟はあんぐりと口を開いたが、やがて私ではなく私の向こう側に広がる海に目線を移したようだ。藪から棒に感想を尋ねられる。
「どうよ、待ち望んだハワイの海は」
「すごいよ。びっくりしてる。何がすごいのか分かんないくらいびっくりしてる」
「僕はの語彙力のなさにびっくりしてるけど?」
 余計なお世話だと彼の肩を小突くと、悟は痛くも痒くもなさそうに肩を竦めた。ぬっと伸びた腕が私の腰に回り、そのまま海の深奥部へと誘うように連れられる。徐々に水位が高くなり、必然的に身体が海水に浸される面積も大きくなる。肌が粟立つほどの冷感も最初だけで、鎖骨辺りまで水に沈めば程良く心地良い感覚に陥った。陸地の生き方をすっかり忘れて、今では海洋を生きる生物に成り代わった気分だ。とは言っても、決して私は水中に順応した生物ではないわけで。高身長の悟は後先構わず進んでいくが、私の身長では爪先立ちで何とか水面上に顔を出せる程度にまで水深が深くなっている。高波が襲い掛かれば一気に攫われてしまいそうだ。私は己の身を案じて、悟の前腕部を強く引っ張り、待ったの一声をかけた。
「ね、悟。もう深いから」
「え〜、僕はまだいけるけど」
「身長差考えて。足つかないと溺れそうで怖い」
「……なーにかわいいこと言ってんの。仕方ないなあ」
 悟の呆れた声と同時に、不可思議で形容しがたい感覚が私の身体に降り注がれた。
 ――あ、これ、悟の。
 直ぐさま、彼が実行した「それ」を理解する。悟が有する術式だ。彼の周囲に張り巡らされた目に見えない無限が、私達を覆っていた水を収束し、不可視の壁を作り出している。壁と言うよりはドーム状の球体の内部にいる感覚に近い。私達と空間を隔たてることによって現れる海水の断面は、水族館の水槽を彷彿とさせる。一体化するのではなく、鑑賞する側でしか眺められない景色。海に入っているのに、入っていない、奇妙な感じ。
 悟の術式を肌身で体感するのは初めてだった。外野として傍観することも、危機的状況を救われたこともあるが、術式の内部で実感を得る機会には巡り合わなかった。彼の内側に侵入する許しを得たような気分に陥る。密着する肌が無性に気恥ずかしくもなって、悟られぬように尤もらしい苦言を呈した。
「……こんな公共の場で帳も張らずに、私情で術式使うなんて」
「ばれなきゃいいでしょ」
「残穢でばれるよ」
「あのさ、これ誰のための私情だと思ってんだ? アァン?」
 悟は唇を尖らせて凄みを利かせた。チンピラじみた体を装っているが、声にそこまで威圧感を感じ得ないので、ただ私の反応が不満なだけだろう。確かに私のために術式を使用した彼にかける言葉としては不適切だった。己の天の邪鬼な性格を省みて、正しく有るべき回答を紡ぐ。
「…………ありがと」
「最初からそう言いな。素直じゃないやつめ」
 何の反骨精神か、悟は回した腕を自分の方に引き寄せ、更に身体をくっつけ合わせた。制止する暇を与えられず、すっぽり悟の両腕の中に収まってしまう。離れようと試みても彼はびくりともしなかったので、諦めてその身を委ねた。水に塗れていた体躯は少し冷たくて、でも仄かに温かい。
 彼の胸に耳を寄せて確かに鼓動を打つ心音を聴いた。私に反して、凪いだ海のように穏やかだ。
 少しのあいだ、海の奥深く、誰にも邪魔されないふたりだけの空間で、そうしていた。


 更衣室近くに設置されたシャワーを浴び、着替えた水着の水分を絞ったり、濡れた髪や化粧の落ちた顔面を軽く整え終えた頃には、すっかり辺りは夕焼け色に包まれていた。本日の夜中に出発する国際便を取っているので、時間を逆算すればそろそろこのビーチを出なければならなかった。後ろ髪を引かれる思いで「最後にもう一度」と悟の手を引いて向かった波打ち際で見た、あの言葉にならない日没の瞬間を、私はきっと忘れないだろう。忘れたくない。
 ちから強く握り締められた指を解きたくなくて、彼の腕に縋り寄った。
「……手、離さないで」
 私の柄でもない要求に、悟が空気伝いに笑みを零したのを察知した。八つ手のように広く大きい掌が、私の横髪を掻き分けるように通り、後頭部に回る。僕を見ろとでも言うように固定され、サングラスを徐に外した先の、極彩色の輝きを秘めた双眸に撃ち抜かれる。海より澄んだ透徹のアクアマリン。
「離さないよ。が怖がるすべてのものから守ってあげる」
 後頭部に回る手とは反対の、繋がれた手に確かなちからがこもる。悟の言う怖がるすべてに、先程の水中でのことが含まれているのだと気付いて、私はどうしようもなくこの人を愛おしく思った。
 さみしさが募る海辺に残されたふたりで、どこまでも共に在り続けたい。例え目の前の彼が、私とは到底分かち合えない孤独の渦中にいたとしても。それが悟を守ることになると信じたい。私にも悟を守らせて欲しい。
 世界の理が私達を置き去りにしても、私だけは、悟を本当の意味での孤独にはしたくない。ただそれだけの浅ましくて、身勝手で、ちっぽけな願いを海に沈める。非現実に別れを告げて、ようやく海辺を抜け出した。来る現実に飲み込まれてしまわぬよう、私の掌から浸透する温もりを逃さぬよう、ずっと悟の手を握っていた。

2020/01/18