花唇の行く末
 五条から聞かされた「傑に会った」という単純で、けれどもそう易々と呑み込めない事実を前にして、は呆気ないふたりの――夏油との閉幕を予期していた。夏油は五条との邂逅を最後に行方を晦ませる。それは即ち、何も言葉を残されず置いて行かれたは、五条と同等にまで夏油の人生を良くも悪くも揺るがす存在ではなかったという証明に他ならない。夏油は会って話をする程の価値をに対して見出だせなかった。彼女はそう解釈した。
 だが、離反に助勢したという疑惑によって監視の目が光るさなか、単独任務を終えて補助監督の送迎を待つ間に監視の目を盗んで路地裏に引き込まれたのは、の解釈が見当違いであったという確かな裏打ちだった。夏油が捕縛される危険を冒してまで会いに来た。その事実は会いに来た理由が何であれ、胸が詰まるほどの寂寥と随喜をひしと浸透させた。
 口を塞がれ腕を引き寄せられた先にいた夏油は、最後に目にしたときよりも窶れて消耗していた。掛ける言葉を見失う。ただひとつ、今の夏油を前にしてが分かることは、彼はもう住む世界を移し変え、誰も夢想しなかった高みを目指し、外野の意見を無下にするだけの自分の意志を獲得してしまったということ。もう戻る気は更々ないのだと瞬時に悟ってしまい、閉口するより他なかった。夏油は大きくがっしりとした掌の拘束を解くと、迷いも愁いも感じさせない笑顔で「久しぶり」と言った。「元気にしてた?」と続く問いは、朗らな語調でありながら皮肉めいている。傑くんなくして元気にできると思う? そう当て擦り返してやろうかとは思案したが、性格の悪さを露呈しかねない行為に踏み留まった。代わりに「どうして此処に?」と自然と湧き上がる疑問を呈した。今こうしてと対峙する状況は、夏油の大義を果たすには非合理的でぎりぎりの綱渡りもいいところだ。自らその手札を取った夏油の心境を推察するには、今の彼を構成する情報が圧倒的に不足していた。
 夏油はその問いを想定していたにも関わらず、持ち得る答えを濁した。額にはじんわり汗が滲んでいるのに、それに反して涼し気な笑みを浮かべている。
「理由が必要?」
「必要だよ……。傑くん、今きみを取り巻く状況が分からない筈ないでしょ」
「そりゃあね。でも私がに会いに行かない理由にはならない」
「……会いに来て、どうするの?」
「どうもしないよ」
 どうもしないのなら何故会いに来るの? そんな意味のない質問を繰り返しても、夏油はうんともすんとも言わない。てこでも動かない。その予感がにはあった。夏油に向き直り、真摯で洗練された雰囲気を醸し出すその様相を眺める。たった数週間やそこらでは変わりようのない姿かたちの筈なのに、路地裏の陽が差し込まない閉ざされた世界ゆえか、陰影がかかって見知らぬひとのように思えた。こんなに近い距離なのに、離れてしまった心はもう近付くことはないのだと訴えかける事実が、に余波の如く押し寄せて打ち拉がせようとする。
「これでもう、お別れなの?」
 そして、不意に唇から零れ落ちた問い掛けは、彼女の内側に眠っていた本音の形を明確に象っていた。
 別れたくない。離れたくない。終わりになんてしたくない。疑問の体を装ってはいるが、の真なる本音が言葉の奥底には潜んでいた。そして、夏油はきっとそれを見抜いていた。細長の瞳がゆっくりと肯定するように瞬く。は愕然としたが、分かりきっていたことだ。今更どうにもならない。寧ろ思い掛けず訪れたこの邂逅は、に踏ん切りをつけさせるため降り注がれた最後の好機だとさえ思った。今この場で、彼への想いを断ち切らねばいつ断ち切ると言うのか。全身がそう叫ぶ。このままでは、この世で一番恐ろしく歪んだ呪いに屈して抜け殻のような人間になってしまう。の理知的な部分がそう提言するのに、彼女の片隅に住み着いている情動的な部分はどうしても諦めがたく、まだ夏油を想うことを許して欲しいと惨めたらしく嘆くのだ。
 この邂逅によって得たの本音に、夏油は清々しい笑顔を見せた。彼女に根付いている自分に向ける感情が自分の予想通りだったことに、言い知れない充足感で満たされたのだ。
「最後に顔を見れて良かったよ」
「……」
のその顔が浮かんでくる度、私はきっと立ち止まって思い悩んでしまうけど、同時に支えにもなる」
「支え……?」
「そう。皮肉なことにね」
 悠長に感けている暇のない夏油にとって、これは最後の追悼だった。心の底から笑えなくなるより以前の、目映くかけがえのない日々との決別。血族にまで手をかけて後戻りできないと心骨に沁み入っている自分が、後ろ髪を引かれる最後の要因。それをこの場で薙ぎ払うために、危険を顧みずやって来た。
 だが、それ以上の効力があった。の表情だ。彼女が無意識に浮かべたその表情は、夏油の心を際限なく揺れ動かした。痛切な悲しみを呑み込もうとして、できなくて、藻掻き苦しみ喘いでいる、そんな表情だ。夏油はきっとこれから先この顔を思い返しては苦悩する。彼女を捨て置いた罪責に苛まれる。それと同様に、己を奮い立たせる拳となる。が夏油を想うが故の切実で痛ましい表情は、彼女との離別を誓って初めて目にできたのだ。離れることで思い知るだろう。夏油がを想うように、も夏油を想う、その事実を。
 そして夏油は畳み掛けんとばかりに身を寄せて、の唇と自分のそれを重ね合わせた。
 が自分を忘れられなくなるように、願いと呪いを込めて。
 夏油が束の間の触れ合いを遂行すると、は大きく目を瞠った。驚きのあまり口が塞がらない。どうしてこんなこと。は瞳孔だけでそう訴える。この場面における夏油とは言わば価値観の相違による別離のようなもので、口付ける義理も誓約もない。更に言うなら夏油とは色めき立つ行為を許し合う間柄でも、ない。何もかもにそぐわない常識から浮きん出た行為のそれ。が信じがたいと目を疑うのも道理なのだった。
「忘れないでくれ」
「……何を、?」
「私が、君の人生の根幹を成す存在だということ」
 の意図を理解していながら、その愁訴を無視して夏油は独りよがりな言葉を吐いた。
 なんて傲慢。なんて独善。身勝手に唇を寄せることとどう関わりがある? 今から投げ捨てると覚悟を決めた女にどうしたらそんな遺恨を残すことができる? の内側を怒りに似た黒い迷霧が占有していく。けれど、複雑に折り重なった暗い感情と紙一重の、女としての心は打ち震えたのだ。悔しいくらいに、敢えなく途方もなく熱が広がっていく。誰だってそうなる。
 もう言葉はいらないだろうと、夏油は薄く微笑を浮かべてその場を立ち去った。そこにいた痕跡を微塵も残さず蜃気楼のように消え去っていた。後に残るのは、と、の内側に住み着いた抑えがたい情動と、突如として唇に訪れた感触だけだった。
 震える指先で唇をなぞる。たった数秒の儚くて淡い接触。それなのにの唇には、夏油から与えられたそれの形も柔らかさも温度も何もかも、明瞭に残されていた。記し付けられていた。例えば、どんなに美味しいものに舌鼓を打っても、そのときに感じた嬉しくて楽しくて堪らないという感情や記憶は思い起こせても、その誘因となった味覚に頼りきった味は思い出せない。美味しかったという記憶だけが残る。感覚とは本来そういうものだ。その折々の感覚によって引き出される喜怒哀楽は記憶に刻みつけられても、感覚そのものを留めておくことは不可能に等しい。その筈なのに。の唇にはまるで今も唇をくっつけ合っているような、熱に浮かされ続ける感覚そのものが迸っているのだ。ただのまやかしだと頭では分かっていても、どうしたって打ち消すことができない。意思に反して残存する。人体の真理を逸脱した不可思議な名残が、極限まで心を震わせる。
 は天を仰いだまま微動だにできなかった。かろうじて彼女ができたことと言えば、固まっていた口の端に掛けることだけだ。
「ずるいよ……」
 夏油に向けたちっぽけな呟きは、相手が不在のまま誰に届くこともなく、空気をたゆたい跡形もなく散っていった。じんわり暑気を纏う空気がの皮膚を撫で回し、情緒を駆り立てる。こんな気持ちを抱かせておいて、きみはいなくなってしまうの?
 人生で二度も三度もない、希少な一時が、の感傷を掻き立てる。どこにも発露しようがない感情は皮膚の裏を駆け巡り伝播してゆく。全身全霊が行方知れずの男を忘れがたいと叫んでいる。後戻りできないほどに。
 の恋慕をこうもあっさり簡単に、けれども解しがたい呪いへと変容させて、攫ってしまった。夏油傑というにとって何にも代えがたい、ただひとりの男が。
 あの日かけられた口付けの呪いは未だ解かれぬままだ。


 恋人ではなかった。
 けれど、互いが互いの想いを自覚している節があった。
 ふたりは己の想いを表出することなく、行動に移すこともなく、ただそうして佇むことが自然で当たり前のように振る舞った。それは或る意味で、恋人という名の縛りを課せられた関係よりも、よっぽど縛られていた関係だった。清らかで美しく、それなのに特別という意味を付随しなければ危うく脆く崩れ落ちてしまいそうな関係。夏油もも、そういう純然さを必死に纏い続けてきた。互いが互いの視線から滲み出る熱に気付きながら、指摘せず、否定せず、黙って享受した。まるでそれこそがふたりの美学だとでも言うように。
 そういうふたりに訪れた、美学を打ち崩す一瞬が、一度だけあった。
 何の変哲もない高専の一階に位置する空き教室。自分達の教室ではない、人目がつかない場所を選んでふたりは落ち合うことが多かった。何をするでもないのに。ただ空席に腰を下ろして、昨日の任務の話をして、明日の任務の話をする。他愛もない会話が行き来するだけの、けれど夏油にとっては心の底から笑えていた時間。にとってのかけがえのない時間。
 その日は陽気に包まれた春だった。換気のために開かれていた窓から、ふわりと暖かで肌馴染みの良い風が吹き込む。窓際の前後の席に腰を下ろしていたふたりは、風を身体全体に受け止めて自然に目を細めていた。
「あ」
 そう零したのは夏油だ。
 片側にだけ垂れた前髪を揺らしていた彼は、そんな素っ頓狂な声を上げた。視線の先にはしかいないので、必然的に彼女の何らかに向けた言葉となる。は意図せぬ夏油の反応に首を傾いだ。
「どうかした?」
「ん、少し待ってくれ」
 案ずるより産むが易し。状況を説明するより先に夏油は手を伸ばしていた。は近付く夏油の手にぴくりと肩を震わせた。眼球の瞳孔が僅かに揺らぎを見せる。そういう初心な反応が垣間見えたことに夏油は嬉しいような、誇らしいような、奇妙な感慨を覚えていた。
 厚ぼったい皮膚で覆われた大人の指先が、の横髪に触れる。それとは裏腹に夏油は柔らかい微笑みでを見つめているものだから、彼女は思わずぎゅっと目蓋を結んだ。何をされるか分からない恐怖も確かにあったが、反射的にでもそうしたの心理は、夏油になら何をされても構わないという意思の表れだった。
 自発的に閉じられた世界で、夏油がふっと笑ったのが空気越しに伝わった。「終わったよ」という呼び掛けに、こわごわと目蓋を持ち上げる。最初に視界に映った夏油はやはり口元に笑みを湛えていた。吹き出しそうになるのを堪えているような、そんな表情にも捉えられての顔には耐え難い熱が集中した。自分の心理を見透かしたのではないかと焦る羞恥によって。
「はい、これ」
「……桜の花びら?」
「そう。風と一緒に飛んできて髪にくっついたみたいだ」
 夏油が摘み上げての目線にまで持ち上げたそれは、淡い浅紅色で彩られた一枚の花弁だった。仄かな木洩れ日を浴びて透けそうな程に薄っぺらい。アーモンド型の形状に、片方だけ三角の切れ込みが入った独特の形は、この季節になると心を躍らせる代名詞の桜の花びらに間違いなかった。丁度この空き教室の真横には桜の大樹がどっしりと構えている。この位置からは見えないが、窓から身を乗り出し真上を見上げれば、それはそれは満開の桜の花が咲き誇っている様子が窺える。風に身を任せて世界をたゆたっていたこの花びらは、どうやらの髪の毛に進行を阻まれ、休憩がてらに腰を落ち着けていたようだ。交わる筈のないおかしな縁の結びにはぷっと笑みを吹き零した。
 夏油は再び吹き込んできた風に任せて、桜の花びらを指先から離した。途端に勢いよく飛び出して、同じように風に乗って放浪する花びら達と共に、最大風速に呑まれて姿を消してしまう。迷子の子どもを送り届けたような満足げな余韻に浸りながら、夏油とは顔を見合わせた。
は私に何をされることを想像した?」
 生き生きとの反応に悦楽を見出して発言する夏油は、確信犯だった。獲物を視界に捉えた静かな獣。どんな返答であってもそれを逃すことなく余すことなく迎合して喰らい尽くすという自信と期待が洩れ出ている。その空気を逸早く察したは、再び頬を朱色に染めた。彼女が思い及んだ想像を詳らかに説明することは、己の尊厳を殺すも同然だったから。今更取り繕ったところで隠し通せる筈がないと分かっていながら、は必死に無垢を貫き通そうとした。
「な、何にも」
「本当に?」
「本当に!」
「そうか……私は色々想像したのにな」
 耳を疑う夏油の言葉に思わず「え?」と訊き返した。わざと自分の内側を曝け出して、相手からの興味を引き出そうと誘導する手練のなせる技。夏油が放った言葉がそういう類のものだと気付いたのは、咄嗟の発声を許してしまった後だった。夏油は意固地なを打ち崩さんとばかりに妖しげな笑みで追撃をかける。
「知りたい?」
「うえ、や、……知りたい」
「いつになく素直だね。まあ教えないけどさ」
「な、何それ! 嘘つき……」
も教えてくれないからお互い様だろ?」
 知りたくば答えてみせて、と夏油の瞳は応酬と対価を求める。求めるなんて生ぬるい、迫ってくる。こうなったが最後、夏油の攻め手から逃げ果せることは不可能だ。もそれは痛いほど身に沁みている。人をからかうことに長けた人種としては最強を称するもうひとりの片割れに軍配が上がるのだが、彼はまた別の側面から、人を誑し込むことを得意としていた。夏油本人にその気があっても、その気がなくとも。けれど大抵その籠絡の被害に遭うのはで、大概そのときの夏油は意思を持って彼女を誑かし、狼狽する様子を愉しんでいた。夏油がに向ける感情を内包して、慎ましやかを装って紡ぎ出す言葉の数々に、は幾度も翻弄されてきた。だから身を持って知っていた。どうしようもなく負け戦であると。白状するより他ないと。
 思い至った結論に、慎重に言葉を選び取っては夏油のお望み通り応えてみせた。
「さ、触られるかと……」
「触られたかった?」
「そうは言ってない……! はい次、傑くんの番!」
「そう急かなくとも。私はが触って欲しいのなら幾らでも触りたいけど」
「…………うん?」
「そういう想像を、私もしていたよ」
 花びらを攫うのと同時に、頬を掠めたり鼻をつついたりしたらどういう反応をしてくれるか、考えた。
 そうやって褒美とばかりにが求めていた回答を一斉に開放するものだから、彼女の脳は処理しきれずキャパオーバーを起こした。全身を巡り巡っている血潮が沸々と燃え盛って逆流し出す感覚。あり得ないのに、あり得てしまうのではないかと幻を信じさせるちからが、夏油の言葉裏には備わっていた。
「触れてもいいかい」
 流れとしては不自然ではない。互いが思いを馳せていた行為が一致したとなれば、望むところをひとつにして、その行為に及んでも何ら可笑しくはない。
 けれど、その行為は色恋へと発展させずに築き上げてきたふたりの関係から逸脱したものだ。指先が肌に触れることで変化するものなどない。しかし、ふたりの揺るぎない関係が、その行為によって揺るいでしまう可能性を否定できない。その想像にまで及んでいたからこそ、ここまで変化を嫌って平坦な道程を踏み抜いてきた。恋人という陳腐な名前の関係ではなく、特別で名前の持たない関係を拠り所として。夏油は今その危うい境目を踏み越えようとしていた。ふたりがずっと恐れて踏み出せなかった一歩目。それを踏み出す許しをに乞うていた。
 は今迄の過程を振り返って、関係に軋轢が生まれる危険も考慮して、それでも尚のこと夏油に触れて欲しいと思った。ゆえに素直に頷いた。彼はきっとこうなる未来を見据えていたに違いない。漠然とはそう思った。
 夏油の骨太な指が、の横髪を一房摘んで流れるようにさらりと落とす。そして、彼女の頬に指の末端を触れさせた。ふにと弾力のあるそこに指を沈めて、何度か押したり引いたりを繰り返す。それから目尻を、睫毛を、鼻先を順繰りに辿っていて、ついに唇にその指を添えた。指先を唇のかたちに沿って上唇に始まり下唇へと迂回して、往復させる。の顔全体をやさしく蹂躙していた指はそれを最後に離れていった。
 は終始この行為に羞恥心が付き纏っていた。夏油が触れる行為を予想以上に真剣に決行するものだから。直線上にいる夏油の熱の籠もった瞳に耐えられず、は目を伏せて、彼の首元辺りに視線を落としていた。指先が離れてようやく生きた心地がする息を吐いて、夏油と向き合うことができた。心は決して穏やかではなかったけれど。
 ありがとう、と懇ろに謝意を込めた夏油の言葉によって行為は打ち止めとなった。何に対しての感謝なのか、にはてんで分からなかった。夏油はたったこれだけの接触で満足したのだろうかと考えを巡らすも、これでは己がより深くて際どいそれを欲しているようだったので、その場で不埒な思考を放棄した。
 午後から座学の授業を控えていたため、ふたりは足を揃えて自分達が教えを乞う教室に向かった。既に自席に着いていた片手で数え足りる数しかいない同級生の内のひとりは、ふたりが肩を並べて教室に入ると決まって茶々を入れた。普段ならそんな揶揄も適当に往なせる余裕があった。思春期の同級生が関心を示して思い浮かべているであろう営みを、本当にしていなかったから。でも今日は違う。極小で何の疚しさも孕んでいなかったとは言え、今迄の自分達の関係から脱した行為を決行したことに変わりはなかった。無駄に緊張の糸を張り詰めて、何にもないと追求を回避しながら席に着いた。
 互いの合意の上で臨んだ触れ合いは、それっきりとなった。
 踏み出した一歩は確かに境界線を越えていたのに、ふたりは怖気付いてそこから行動を起こすことをしなかった。夏油の離反によってとの間に広がる距離は広大で莫大なものとなり、触れ合う機会は当然減退した。路地裏で邂逅する機会こそ訪れるものの、合意の上での接触はなく、何れも関係を進展させるものではなかった。
 指先ひとつでこうも乱される。皮膚を這うあのきれいな指が、の情緒を悠然とかき乱す。それまで知らなかった事実。夏油によって初めて齎された、自分が夏油に触れて欲しいと希っていた事実。今も同様に願いを擁しているという事実。もっと早くからそのことを認識していれば、何かひとつでも道は違えていたのだろうか?
 あの日かけられた指先の魔法は未だ解かれぬままだ。


 がかつての同級生であり今も交流がある五条に呼び出されたのは、百鬼夜行が収束したとの報告を受けたのと同時だった。拠り所としていた男に捨て置かれた後も、無様に惨めたらしく術師を続けていたは、何の因果かその男が首謀の事件が予告されたときには沖縄の離島へと出張任務に駆り出されていた。連絡を受けて東京に出戻るも後の祭り。犠牲も被害も尋常ではなかった。後処理でさえも緊急を要する事態のさなかで、の奥深くで息を潜めていた感情が厄介なことにぶり返して荒波を立てていた。今は他に案ずるべきことがあると己の醜態を諌めていても、心のどこかで彼の顔がちらつく。目映い記憶と虚ろな幻想でかたちを縁取るその男を、今の今まではどうしても振り払えなかった。
 どうにかこうにか出戻り一日目の使命を果たし、は五条から指定された住所へと向かう。辿り着いたそこは今にも呪いに蝕まれそうな、或いは既に蝕まれているのか、人気がなく不気味な虚無を放つ廃ビルだった。鉄骨のコンクリートを踏み抜けば、靴の底が掻き鳴らす音がよく響く。廃れて埃っぽさが充満する階段を登った先のフロアに五条は立ち尽くしていた。
「おつかれサマンサ〜」
 常日頃と変わらない軽薄な挨拶で五条はを迎え入れる。しかしながら、とて伊達に五条悟という男の同期生を云年努めてきたわけではない。皮相には全面的な浅薄を塗りたくって誤魔化しているが、真相には翳りが差して今にも崩落してしまいそうな危胎を秘めている。五条の言葉にそういう側面が見え隠れしていると、は瞬時に悟った。こうなる原因には凡そ予想がついている。彼にとってたったひとりの親友。その存在は、にとってたったひとりの特別と同義だった。百鬼夜行が終結したということは即ち彼の死を意味すると、物分りの良い頭は漫然と事実を掴んでいた。五条は、あの高専時代に喪失したものの重みを思い知って生きてきた五条は、例え親友であっても今度こそ見逃さずに彼を葬るだろう。葬ったのだろう。にそう確信させる、確かな証拠が彼の足元に転がっていた。薄白いビニールで覆われたそれは五条と同程度の大きさを成している。周囲の闇に溶け込んで姿を暗ませていたそれは、視認するとその存在を否が応でも主張してくる。正体が何であるか考えるまでもない。の身体に鉛のような重さの現実が降り掛かる。足元を一瞥して平然を装うの様子に、五条は早々に勿体ぶるのを打ち切った。
「これ、傑の遺体」
 うん知ってたよ。はいそうですか。察していたとは言え、そう簡単に呑み下せる事実でもなければ、そう安易に納得できる事実でもない。五条はそれさえも承知の上で、これと足元を指差してにさっさと事実を開示した。五条の予想通り、は極々わずかに動揺の色を宿した。でも、それだけだ。心情は決して穏やかでないだろうに彼女は頑なに表情を崩そうとせず、夏油と明かされた遺骸をビニール越しに見つめた。生命の兆候が微塵も感じられないそれは、ありありと、に夏油の死という現実を到来させた筈なのに。こういう彼女の殊勝さを五条はよくよく知っていた。
 遺体から五条に視線を靡かせたは、少しだけ責め立てるような表情を織り成していた。
「……どうして此処にあるの?」
「どうしても何も、僕が殺して僕が持ってるから」
「そんな屁理屈で納得できない……。硝子ちゃんには?」
「見せてない。見せる予定もない」
 至極当然のように支離滅裂を唱えた五条だが、冷静に現状を見つめ直したは、彼の思惑に理解が及んだ。家入というふたりにとって最後の同期生を思い気遣う、見えにくい不器用な優しさ。彼女が血に染まり骨や肉が剥き出しとなった同期生の遺体を目にすることを、本能的な部分で拒否したのだ。五条の傍若無人な常とは乖離した、けれども確かに彼を構成する一因である慈愛の深さ。これまで幾度となく接してきたそれに感服してはこれ以上の言及を差し控えた。
 しかし、ならば。どうして己を呼んだのか?
 五条にだけ持ち得る正答は、が疑問を擁してすぐに紡ぎ出された。
「最後に別れの挨拶しときな」
 これもまた、家入に向けるそれとは違う類の慈愛の深さだった。がこの世で一番に欲してきたもの。別の世界へと足を運んだ夏油傑という男を一目見たいという叶う筈のなかった願望。一縷の望みを何も聞かずとも察していた五条は、それを叶えるか破棄するかの権利を有して、迷うことなく前者を選んだ。
 当然は目をひん剥いた。五条のぶっきらぼうな優しさにも、突如として訪れた夏油と邂逅する機会にも。肺腑に吸い込む酸素の量が知らずの内に増加する。心臓が頻りに鼓動を訴えてくるものだから、は寄る辺なくぶら下げていた両手を胸元に掲げて抑えた。全身が嬉々として、同時に張り詰めてもいる。 不謹慎にも。善かれ悪しかれ何かしらの反応を示している身体に反して、心は無情にも水を打ったようか静寂に浸されていた。これは衝撃が大きすぎたが故の反動で、思考の一切が停止していると言っても過言ではない。それくらい今のには落雷が如く刺激が強かった。
 ようやく覚悟を決めた先、は遺体の傍に寄って蹲った。小刻みに振戦する指先が彼女の裏側に潜在する心情を物語っている。恐る恐るその指でビニールを捲り上げると、一番最初に目にしたものは夏油の安らかな死に顔だった。血飛沫が飛散し未だ化膿せず痛ましい傷痕も皮膚に走っているのに、どこまでも安穏を享受しているような、そういう表情をしていた。思わずは反対の手で口元を覆った。あのときから変わらぬ面影を纏っていながら、会わずにいた年月の経過を感じさせる幾分か大人びた顔立ち。懐かしくて、愛おしくて、感極まって目頭が熱くなった。じくじくと胸を刺す痛みをはっきり認識する。夏油傑という人間がもうこの世に生を確立していないという確かな証明を、はまざまざと見せつけられた。右側の喪失した半身を隠すようにビニールを被せ、夏油の顔だけを外界に露出させる。は暫く夏油に見入って、心が落ち着きを取り戻し始めた頃合いに唇を開いた。
「ありがとう、傑くん」
 淀んだ空気を伝った声は存外震えて潤みを帯びていた。
 さようならは言わない。これは最後じゃない。いつか落ちる地獄で再会する。そういう決意があった。見当があった。だからは別離の手向けではなく今迄の感謝の意を伝えた。たった三年間を人生で一番光に満ち溢れたものにした、そうした主要因であった相手に、そう手向けた。もう今生では逢えないけれど人間の常軌を逸した世界でなら、また逢える。
 取り留めなく溢れるこの感情に終わりはない。例え想いを寄せる相手が目蓋を閉ざして、永遠の眠りに就いてしまっても。増幅するし走り続ける。湧き上がるこの想いってそういうものだと思う。は静かに目を閉じた。もう二度とは戻れない日々が脳裏を駆け抜ける。そうして、あのときの一瞬が目蓋の裏に浮かんだとき、は徐に目を開けた。
 夏油の唇に指先を近付ける。生気を失って永久凍土を凝縮したような冷たさ。何もかもあのときとは違う。けれどあのときにそうされたから、は唇の形状を確かめるように指を往復させて、そして自分の唇をそこに落とした。冷たくて硬い。生を喪い死を纏った人のそれ。その感触を予期していながらの唇には、確かにあのときと同じ形と柔らかさと温度が感じられた。そんな気がしたのだ。
 唇を離して、はビニールをやさしく夏油の顔に被せた。後方で見守っていた五条に視線を移す。さすがの五条もそこまですると予想だにしていなかったのか、呆けたように口をあんぐり開いていたが、すぐに普段のおちゃらけた雰囲気を取り戻した。無論彼が本心から無粋な立ち振る舞いをしているわけではないと、は知っていた。
「全くもって、愛ほど歪んだ呪いはないねえ」
 無下限呪術によって遺体を軽々と取り上げて、去り際にそう提唱した五条が最後に夏油に告げた言葉だけは、は知ることができなかった。
 夏油によってかけられた呪いも魔法も、彼自身の魂が消滅したにも関わらず、の内側に存在し続けていた。
 それで良いとは思った。寧ろそれが良い。永遠の愛を誓った相手に、この世を去っても己に齎される永遠の愛。その実感。この呪いも魔法もそういう類のものだ。
 傑くん、私は今もきみを想っているよ。
 だから、きみも私を想っていてね。
 何者にも邪魔されない歪んだ愛を刻みつけたの心も身体も、しるべを失くしたときよりずっと輝かしく愚かしく節を曲げない意思の強さを持って、そう叫んでいた。

2020/01/09