彼女は逃げ水のようで
※成人女性と未成年の恋愛です


 子ども扱いされている自覚はある。それか、世話の焼ける年の離れた弟扱い。何れにせよ異性として意識されていることはまずないと断言できる。今までに遭遇してきた、俺の見目に釣られて尻尾を振る女達とはどうも勝手が違うからだ。別にそういう女を鬱陶しいと撥ね退けたりはしないし、くだらないと嘲け笑ったりもしない。寧ろ俺のような秀でた相貌と才能を併せ持つ男を、早い段階から捕まえたことを誇れば良いとさえ思う。その誇りが今後何かの役に立つかと問われれば、そんなことはないけれど。
 兎に角だ。俺は、そんな大衆の層から外れた見識を持つという女に対して、一言や二言ではとてもじゃないが言い表せない、並々ならぬ感情を抱いていた。端的に形容するならばこれは一種の恋煩いなのだと思う。最強の俺には全くもって似つかわしくない表現だが、彼女に対して淡い恋慕と浅薄な劣情を抱いていることを否定できない。年上の地位や権力を鼻にかけない謙虚な性格とか、不躾極まりない俺の言動を咎めることなく受容する控えめな物腰とか、年相応に笑ったり悲しんだりする情緒の健やかさとか。そういうの全部ひっくるめて、正直に告白してしまうならば、好きだ。でも、好きだからこそ自ずと湧き上がる負の感情もあるわけで。永遠に埋まることのない年齢差に虚しくなるし、俺の心境とは真逆の大人の余裕がちらつく表情には向かっ腹が立つし、男女の距離感において五分も透かない鉄壁の守りには舌打ちしたくもなる。のこういった部分は反吐が出そうなほど嫌いだ。だからと言って、真に嫌いになれれば苦労はしないし、純粋に好きでい続けるには気が重い。そういうことなのである。一筋縄ではいかないのが今の俺の複雑な心模様だった。好きとか嫌いとかで単純には明分化しきれない、複雑な事情なのだ。
 そういうわけで、俺は現在、の自室のソファに横たわっている。
 話の前後の文脈が噛み合っていないが、この現状を疑問に思う気持ちは俺も同じである。どうしてこうなったんだっけ。覚束ない思考で記憶の底に追い遣られた解答を導き出すより先に、照明を遮って出来上がる希薄な影が落ちてくる。俺と同じ目線に腰を屈めてくるひとの気配に、視線だけを寄越した。
「五条くん。具合はどう?」
「…………
「ちょっと失礼。……うん、熱は大分下がったかな」
 は手に持っていたトレイを机に置き、断りを入れてからその手で俺の前髪を避けて直接額に掌を宛てがった。己の感覚だけを頼りにした曖昧な体温測定のしかた。正確性より被検体が抱く安堵を優先する、ある種の子供騙し。けれど、彼女の冷たい手指が熱の灯る額に思いの外心地良く、抵抗せずそれを感受してしまった。触れた時間は短く、役目を終えると瞬時に離れてしまったそれを名残惜しく思ったが、引き止めはしなかった。
 微睡んでいた脳みそが徐々に機能を果たし始めると共に、俺はここに至るまでの経緯の断片を取り戻し始めた。但し、俺の期待に匹敵するような大層な物語は紡がれていなかったけれど。朝から体調の芳しくなかった俺は、特級呪物の回収任務後に意識が遠のくまでに体調が悪化し、共に任務に当たっていたに何とか支えられて高専よりも現場から近い彼女の家に雪崩込んだという、己の醜態が浮き彫りになるだけの追憶だ。寧ろ忘却していた方が身のためだったかもしれない。俺の無様で不甲斐ない醜悪を、他でもないに見られてしまったという現実は、ただただ俺を辱めるだけだ。
 熱は下がったと彼女は言ったが、それでも身体は鉛を埋め込まれたように重く、思考は四散して収集がつかない。加えて、間断なく脳髄に押し寄せる痛みだとか、空腹に反して食物を受け付ける気配のない摂食器官だとか、明らかな風邪の症状が無慈悲に俺を蝕んでいる。折角の部屋に転がり込むという又とない最高のシチュエーションを掴み取ったのに、それを堪能する余力もなければ、何かしらの行動を起こす気概もない。一介の病原菌に完膚なきまでに叩きのめされた己の有様に、余計気が滅入って、思考回路が負の連鎖に陥りそうだった。
「五条くん、身体起こせる?」
「…………むり。あたま、いてェ」
「頭痛がひどいのね。薬飲んだらましになるだろうから、その前に胃に何か入れておいた方が良い」
「……」
「お粥作ったの。つらいと思うけど……ちょっとだけ頑張って欲しいな」
 にこう頼まれて、頑張れない奴がいるのだろうか。いないだろうな。俺然り。
 うつ伏せになり、の身の丈に合ったサイズ感のソファからはみ出す足を無造作に放り出していた俺は、肘を付いて決死の覚悟で上体を起こした。長らく維持していた体勢からの脱却に、身体のあらゆる器官が悲鳴を上げる。特に頭をかち割るような頭痛の激しさは著しく増長された。拳でこめかみを抑えて症状を緩和させようと試みるが、焼け石に水もいいところだ。本当の意味で症状が改善される術は、医療界の目覚ましい発展によって完成された叡智の結晶しかないと、いくら最強と言えども分かっていた。先延ばしにしたって劇的に回復するわけでもないし、というか寧ろ一番手っ取り早い緩和手段ですらある。意識を片隅にやって頭痛を耐え忍んでいた俺は、ようやく自発的にを見遣って、食事の決意を目配せした。
 机に置いていたトレイを手渡され、膝の上に置いて固定する。中央に置かれた卵粥を漫然と眺めて、次いで俺の様子を見守るも一瞥した。一瞬かち合った視線の意味を自分なりに丁寧に紐解いた彼女は「ひとりで食べられそう?」と首を傾ぐ。ここで首を横に振るとどんな待遇が受けられるのか、不埒に想像してみた。心躍るもてなしが脳内を独占する。それを味わうのも十二分に益のある選択肢だったが、未だ体裁を気にする小生意気な精神と衝突して、華々しく散っていった。結局俺は頷いて、蓮華を持ち自分のちからで粥を口に運んだ。正直なところ味は分からなかった。無味の米と湯を胃に流し込む行為は今の衰弱した身体にはそれだけで苦行だったが、自分の味覚が異常の境地にあって、の料理の腕は決して悪くないと思い込んだ。
 小ぶりの茶碗を空にし、薬と水を飲み下し終えたところで、「コンビニ行ってくるね」と途中で抜け出したの帰宅を報せる物音が聞こえた。時間にして十数分だろうか。家主がいない部屋にひとり佇まうことは、何処か気もそぞろで心の平穏を保ち難かったため、彼女の帰宅を何より喜んだ。はビニール袋を携えてリビングに入ると「ただいま」と口元を綻ばせた。鼻や頬が赤ばむ姿に、外界の凍てつく寒気を擬似的に体感して背筋がひやりとする。がソファの肘掛けに凭れさせた袋の中身を覗き見ると、スポーツ飲料やら冷却シートやらが集っていた。目が点になる。これはもしかしなくとも。顔を上げ、脱ぎ終えた外套を衣桁に吊り下げるさなかのを凝視した。あからさまな視線に気付いた彼女はこてんと小首を傾げたが、袋の中身を気にする俺の様子に得心がいったのか、ゆっくり目を細めた。
「五条くん風邪と無縁そうだから。寮の部屋に置いとくといいよ」
「それ、どういう意味」
「……あ、気を悪くしたのならごめんね。単純に健康体そのもので、身体が丈夫そうって意味」
「…………あっそ」
「うん。それと、さっき高専にも連絡したから。もう少ししたら補助監の誰かが迎えに来てくれると思う」
 あと少しの辛抱ね、とは再び俺をソファに横にならせて、肌触りの良いブランケットを被せた。
 別に辛抱堪らんわけじゃねえし。寧ろご褒美とさえ思うけど? と軽口を叩く余裕は微塵もなかった。あったところで恐らく口にもしなかった。思い掛けない状況下でもひとつずつ冷静に的確に対処してしまった彼女に、今更そういう青臭い発言をしたところで、同様に片付けられてしまう未来が見え切っていたから。本音を言えば、このまま泊まらせてくれたって良いだろと詰め寄りたかったが、万全でない体調も変なところで高尚な自尊心も、それを許さなかった。何より、は分別のついたまともな大人だから。未成年の男を家に連れ込んで一夜を共にする、なんて世間体の宜しくないヘマを絶対に犯さない。自分のためにも、俺のためにも。そういう正しい身持ちの堅さを、劣悪な気持ちを有する俺は今にも打ち崩したくなる衝動に駆られているのに、実行に移せた試しはない。今日は恐らく二度と訪れない絶好の機会だ。そんなのは分かっている。けれど、俺に課せられた数多の重圧は稚拙な俺の心を抑えつけて、逃してはくれなかった。
 それなりに満たされた満腹感や全身を包む保温効果、感冒薬に伴う眠気で、俺の意識は散漫とし始めた。ソファ近くに座り込んでノートパソコンを静かに開いたが、長い髪をひとつに纏めて結い上げる様子をぼうっと眺める。後ろ姿だけでこうも昂ぶらせるなんて、やらしいおんな。見え隠れする曲線のうなじは魅力的だったが、それよりも軽やかに宙を舞う毛先に指を伸ばした。くるくると人差し指に巻き付けて、離して、繰り返す。こそばゆい感触を楽しんでいると、やがて俺の児戯めいた戯れに気が付いたが「もう、少しでも身体を休めなさい」とやんわり叱り付けた。遂に興じる手立てを失った俺は、仕方なく瞼を閉じる。本当なら悪戯を粘ってを困らせることも、彼女の所帯じみた生活空間を目に焼き付けることも、彼女からふんわり香る甘い匂いを鼻腔に押収することもできたけど、催す睡魔によってそれらを遂行する気力は喪失していた。目蓋を閉じれば、呆気なく意識は眠りの海に引き摺り込まれる。そうして俺は少しの間、眠りに就いた。
 身体を揺り起こされる感覚に、重たくなった瞼を抉じ開けると、の顔がそこにあった。まだ寝惚けきった頭で、首根っこを掴んで唇を奪ってやろうかと愚考する程度には至近距離でも無防備であったが、彼女は俺の目覚めを視認するとすんなり身を離してしまった。何だよそれ。もっと期待させろ。言語化できない無念さに暫し放心していたが、再び催促される前に身体を起こす。全身に迸っていた熱っぽさも脳内をかき鳴らし続けた頭痛も程々に鳴りを潜めていて、頼ったことのない感冒薬の万能さに驚いた。御三家やら伝統やらで雁字搦めのまま腐敗しきった呪術界とは反対に、医療界の進歩と発展は実に目覚ましいようだ。
「起こしてごめんね。もう迎えの人来てくれたみたい。用意して出ようか」
 は簡潔にそう説明して、俺を視界から外して立ち上がった。ここで拒否を示したところで彼女はこのまま俺をこの家に置いてはくれないだろう。子ども扱いされるのも癪だったので、鳩尾あたりをのたうち回る邪念を押し殺して、すんなり頷いた。お利口さんに甘んじるのはこれで何度目か。数えるのも億劫になるくらい、俺はの前では良い子のふりをしている。生意気で小賢しくはあっても彼女を決して否定しない、そんな何処にでもいそうなありふれた後輩を演じる。見返りは何も用意されていないのに。こうして猫被る間にもは他の男に惹かれているかもしれないのに。愚かなことだ。
 だから、外に出る身支度を整え、手土産がてらの品々が詰め込まれたビニール袋を持って靴を履こうとしたの腕を無意識に引っ張ったとき、俺は今まで自分の内側に巣食ってきた、愚かしい自分自身に踏ん切りをつけたいのだとはっきり気付いた。
 爪先だけを靴に入れて静止を促されたは、純粋な疑問を訴えるまなこで俺を見上げた。訝しむでも不審がるでもなく、ただ真っ直ぐに、俺の瞳を見据えた。
「……どうかした?」
「どうもしない」
「そう? でも、手離してくれないと帰れないよ?」
「帰れなくてもいい」
「……五条くん?」
 オウム返しで呈された疑問を繰り返すだけの俺が、今どんな心情を抱えているのか、は判断し倦ねているようだった。けれど、さすがに「帰れなくてもいい」が示唆する俺の意図に薄々勘付き始めたのか、瞳には懸念の色が宿り始める。彼女は子どもじゃないから。男が女にそう言い放つ意味を、きっと自ずと理解してしまうだろう。その前に、先手を打つ。無意識のうちに俺は次の一矢を放っていた。
、俺の彼女になって」
 今の今まで、此処に至るまでにまごついていた俺の告白は、こうもすんなり言い及べるものだったのか。逆に俺は驚いた。告白と言っても、素直に好きとは言えない複雑な感情が絡み合い拗れ切ったが故の、拙い申し出に成り果ててしまったけれど。
 対して、受け手のは上向きの睫毛を微かに震わせて目を瞠った。俺を注視する彼女の表情は驚愕や愕然といったそれと似て非なるものだ。発言の内容よりも突飛な行動そのものに驚いているような、感嘆すら入り混じったあべこべの表情。そこで思い至る。彼女は俺から向けられ続けた視線の正体を察していたのではないかと。だって、彼女は大人だから。俺以外の男から好奇の目で見られることも、遠回しに言い寄られたことも、あったに違いない。物事も心情も隠し立てするのに不向きな性格をしている俺の機微など、きっと敏感に、手に取るように分かった筈なのだ。
 俺の読み通り、徐々に困惑の色を浮かべるに、まずいと思った。生半可な気持ちだとか軽はずみな発言だとか、今日この日の表面的な俺だけで判断されるのは本意でない。
「冗談でもないし、誰でもいいわけでもない。俺はと、合理的にハグもキスもセックスもできる権利が欲しい」
 追い込みを掛けるように、矢継ぎ早に拗けた思いの丈をぶつける。身勝手に、の意志を介することなく。明け透けに羅列した単語達が、それこそ己に吹き溜まる欲のかたまりを強調してしまっていると気付いたのは後になってからだ。向こう見ずに発言したことを些か後悔する。他にも言いようがあったのに、俺はどうも言葉をオブラートに包むのが苦手なようだった。それどころか、直接的な、の心を良くも悪くもどっと突き動かせるような言葉選びを本能的にしたがる。周囲から悪癖だと釘を刺され続けてきたのに、結局俺は何も学んじゃいない。
 俺の真意を掴みかねているのか、やはりは戸惑いがちに表情を曇らせた。怯えてはいない。俺の露骨な表現を受けても尚、目を逸らすことなく、真摯に考え抜いている彼女の様相には甚く安心する自分がいた。例えの内情が計り知れなくとも。もしかしたら蟠りなく断る術を模索しているのかもしれないが、それでも、今彼女の内側を占めているのが己だと思うとおかしな感慨が湧くのだ。
「なあ、。なんか言って。答えてよ」
「……五条くんは、まだ高校生だけど、これからたくさんのひととお付き合いしていくと思う。きみがしたいこと、快くさせてくれるひとは他にもいっぱいいるよ」
「は? それ本気で言ってんの?」
「あ……、ごめんなさい。今の言葉は、五条くんにとても不誠実だった」
 が俺をできるだけ刺激しないよう、丁寧に言葉を選んで阿っているのだと気付いて、途方もない虚無を覚えた。まるで一人相撲だ。どんなに俺が真剣な意思を抱えて距離を詰めようとしても、は年齢とか学生とかくだらない理由に託けて、ふたりの間に広大な透き目を置こうとする。走り抜けることも泳いで渡り切ることもできない。彼女の独善によって出来上がる溝は、俺がどう足掻いても変えようのない不変の理なのだ。なあ、、それってずるくねぇ? そういうのを利用して逃げ果せるのは、あんまりだ。
 反抗の意を秘めて、掴んでいたの腕に込めるちからを強める。痛みに歪む彼女の顔もきっと見物だろうと踏んでいたのに、実際「五条くん、痛いよ……」と眉を寄せられると呆気なくその縛りを解放してしまった。つくづく難儀なことだ。俺の身体は、が不快だろうが業腹だろうが、彼女を傷つけられるようには創られていない。どこにも発散できない仄暗い感情を孕んで、俺は黙りこくった。
 は目線を下にやって、俯いた。今度こそ彼女は俺の不遜な態度に呆れて物も言えなくなったのだろうか。やるせない静謐を前にしてぐっと息を呑む。の薄くて瑞々しい唇は結ばれ続けたが、やがて思考が纏まったのか、それとも藁にも縋る思いなのか、小さく開かれた。
「……あのね、五条くん。これは持論なんだけど、恋人になったからと言って、きみの求める行為すべてがいっぺんに許されるわけじゃないの。段階を踏んでいくし、積み重ねだって必要になる」
「……」
「五条くんが私のことをとっても考えてくれてるのは、痛いほど伝わってるよ。でも、それは推し量ってるだけで、本当にそうかは私視点では分からない。どうしてかきみは言いたくないみたいだけど。男女の付き合う過程において、順序よく事を運ぶのは、セオリーだしマナーだと思う。きみはどう思う? 五条くん」
 最初こそが俺に何を伝えたいのか、全く見当がつかずにいたが、彼女が話を進めるにつれてその全容を少しずつ解き明かすことができた。
 の指摘は実に的確だ。彼女が推し量った俺の心情に大きくずれはないし、それを露呈できない俺ののっぴきならない感情が交錯する状況を正しく理解している。本当に指摘された通りなのだった。俺は順序立てる必要性を無視して、大事な過程のひとつをぶっ飛ばして、彼女に迫っている。それはと同じか、或いはそれ以上の独善だ。彼女をどうこう言える権利を、俺は有していない。
 こうして悶々と思考を巡らせる間も、俺はに向ける感情を純粋な好意としてカテゴライズすることに躊躇していた。それが簡単にできていれば、俺はここまで彼女への思いを拗らせはしなかっただろう。だからと言って、このまま途方に暮れ続けることもできない。が俺に何を促しているのか。分かっているのなら、後はもう俺だけの問題だ。素直に心情を吐露するだけ。例えそれが澄み渡るような純然たるもので構成されていなくとも、伝えるという行為そのものが大事なのだと気付かされた。
「俺、好きだ。のこと」
「……うん」
「でもおんなじくらい嫌いだ。俺のこと子ども扱いするし、ガードかてえし、そのくせ気があるんじゃないかって思わせぶりなことするし。今だって、俺のちからじゃどうにもならないことで、俺を捻じ伏せようとする」
「……」
「最初から素直に言えなくて、ごめん。好きとか嫌いとか以外にも思うことはあるけど、さっきのは本心だし、が他の誰かのものになるところなんて見たくもねえし」
「…………うん。五条くん、ありがとう」
 相手を想う心を明確に形取ることは、告白の大前提だ。複雑な心情からそれを忌避していた俺は、彼女に導かれて、ようやく本心を口にした。「好き」という素直な感情と共に、相対関係で結ばれた「嫌い」というこれまた素直な感情も添えて。
 が俺の要領を得ない告白をどう受け止めたのか。どう思ったのか。この日に回答は得られなかった。彼女は短くも心の底から込められた謝意を伝えると「下に待たせてるから、そろそろ行こうか」と有無を言わさぬ口調で玄関の扉を開いた。
 率直に感想を言ってしまえば、まじで? である。ここまで言わせておいて、イエスかノーか、二択のうちひとつ選べば十分の返事もしないつもりか? 一気に憎悪が膨れ上がる。先行くを、エレベーターの中で乱暴に俺のものにする妄想までしたけど、それはただ空想の産物として片付けられた。大人ぶった卑怯なやり口は気にいらないけど、妄想を現実に落とし込んだところで誰も幸せにならない。実行する俺本人でさえも。彼女の心を置き去りにして身体だけをせしめても、虚しく、後悔が募るだけだと分かっていた。
 エレベーターで一階まで降りると、既にマンションの下に停車していた黒の送迎車に、俺は半ば強引に押し込められた。後部席の奥に雪崩込んだ俺に、は腕に引っ提げていたビニール袋を手渡す。「健康は何よりの資質だから、今日はゆっくり休むこと」とのやさしい訓戒も供えて。
「すみません、今日は私の監督不届きで、五条くんに無理をさせてしまって……。詳しいことは私から夜蛾さんに伝えておきます。後のことお願いします」
 の傍にいた時間があまりに膨大で、流れ込む情報量が半端でなくて、そのせいか彼女が離れてゆく反動でどっと疲労が押し寄せた。目を瞑ると、の透き通った声が鼓膜に届く。運転席に座る補助監督への説明に、無性に腹が立った。最後まで、アンタは俺とは違う次元に立つ大人で在ろうとするんだな。そんな皮肉を込めた別れの挨拶をしようとしたが、もう閉じ切った瞼はびくともしなかったので、諦めた。視界が葬られた無の世界で、発車を報せる音だけを手繰り寄せた俺はそこから意識を失った。
 寮に戻ってからもありとあらゆる全てを放って爆睡を極めた俺は、風邪とは無縁ですといった体で翌朝にはぴんぴんしていた。夢かと疑う程に昨夜の記憶が曖昧だったが、ベッドの隅に乱雑に置かれたビニール袋は現実を如実に物語っている。それを見ると同時に、収まりがついていた筈の憤怒も湧き上がった。
 シャワーを浴びて、昨日貰ったスポーツ飲料を嚥下しながら、頭の中を整理する。に対する怒りや愁いが収まることはなかったが、彼女が昨日置かれた立場を顧みると、それはそれで歯痒く苦々しい味が占めるのだ。体調不良の後輩を厚意で介抱してやれば、つけ上がったそいつに詰め寄られたのだから、彼女からしてみれば上がったりだろう。の言動に大いに苦しめられた気になっていたが、そこに至るまでに俺も彼女を大いに苦しめていたのかもしれない。今更そう思い及んだところで昨夜に巻き戻れるわけではないのだが。再び虚無の波が強襲してきたので、俺はぶんぶんとかぶりを振って、煩わしいそれらを薙ぎ払った。暫くは考えたくない。ふとした弾みで簡単に浮かび上がってきそうではあるけれど。
 は逃げ水のようなおんなだ。近付いても心の内には触れられない。それどころか追い掛ければどんどん遠くへ逃げていく。でも、俺のまなこは確かにその存在を認識している。どうすれば彼女の心を引き寄せられるのか、全く分からない。もしかしたら、本当に逃げ水のように、彼女を手繰り寄せる手段など、この世には存在しないのかもしれない。
 だとしたら、俺はこの莫大な想いをどこにやれば良いのだろう?


 あの日から二週間が経とうとしていた。尻が青いかつての俺がせがんで入手したの連絡手段に、意固地が祟って未だ着手できないでいた。上から何のお咎めも説教もなく今日まで過ごせているのは、間違いなくがそう事が運ぶよう進言したからで、看病して貰ったことも兼ねて礼を述べるのは不自然ではない筈だ。それでも俺の馬鹿高いプライドが邪魔をして、結局何の実行にも及ばず今日に至る。なんて惨めったらしい。
 そうして、変なところで意気地がない俺より先にアクションを起こしたのはの方だった。震えた携帯端末を手に取って、画面に浮かび上がった相手の名前に、文字通り背筋に震えが走った。あまりがっついていると思われたくなくて、出るのが早すぎないよう呼吸を整えてから通話ボタンを押した。
です、お久しぶり。体調はどう? ……うん、なら良かった。最近任務が立て込んでいて、ようやく落ち着いたの。突然なんだけど五条くんと話がしたくて。そっちの都合に合わせられるか分からないから、無理なら電話でも良いんだけど、できれば直接会って話したいな。いつなら都合が――』
 機械越しでもなめらかで俺のよく知るの声に、そして話の内容に、耳がとろけそうだった。心はとっくにとろけていた。意識が浮ついて半分上の空だったが、何とか会う約束を漕ぎ着けて通話を終えた。明後日の夕方。仕事があって高専までは迎えに行けないから、都内まで出てきて貰える? そう問うたに、俺は反射的にオーケーの返事を被せていた。暗くなった携帯の画面、そこに映り込んだ口角が上がりきった自分に、より一層笑いが込み上げた。
 あの日を有耶無耶に終わらせず、こうして約束を取り付けようとしたということは、の返事が期待しても差し障りないものであるということ。その証明に違いない。そうだよな?
 謎の自信に満ち溢れた俺が心待ちにして迎えた当日、は自家用車に乗って待ち合わせ場所にやって来た。わざわざ仕事終わりに家に戻って、此処までやって来た。任務に同行していた補助監督に送迎を頼まなかったのは、恐らくこの遭逢を公にしないための策だろう。しかし、単純な俺は非公然の危うい落ち合いに、ひとつまみの背徳感を得てしまった。が窓越しに促したので、気兼ねなく俺は後部席でなく助手席に繋がる扉を開けた。
「さて。それじゃあ五条くん、きみの好物を教えて」
「……好物?」
「うん。風邪ひいたとき、不味そうにお粥食べてたからね。あれが私の料理の腕だと思われるのは不本意なので、今日はそのリベンジマッチです」
 つまり今日は、手製の渾身の料理を俺に振る舞おうという魂胆らしい。彼女は視線を俺に向けることなく、律儀に前だけを見つめてエンジンをかけた。
 たったそれだけの、彼女が特段気にした素振りでなかった料理の評価の改定を、この場に及んで致すものだろうか? しかも、告白された異性相手にだ。そこにどういう意図が組み込まれているのか。思い当たる節はあれど、ただの俺の願望じみた理想のような気もして、言及は躊躇われた。だから、表面上はあくまで無垢を装った。或る意味で当てこすりでもあったけれど。
「彼氏でもない男、部屋に連れ込んでいーわけ」
「うーん、時と場合によりけり。体調が悪くなったひとにはやむなしね」
「俺のことじゃん……」
「そ。きみのこと。今日連れ込むのも五条くん」
 だから問題なしと意味ありげに呟いて、前より赤味を帯びて生々しい唇を緩めたに、さすがの俺も察しがついた。寧ろ、こんなものは気付いてという剥き出しのサイン同然だ。分かりにくいったらありゃしないけど。
 こんな風に目の前に餌をぶら下げて、俺の反応をこっそり窺うに、沸々とあの日の自分が込み上げる。彼女を俺のものにしたいという浅ましい欲望だけで突き動かされた自分。そんな俺自身が、彼女の思わせぶりで匂わせぶりな態度に腹を立てていた。だってそうだろう。あの日は俺の告白をなあなあにして往なしたくせに。自分は断片的に情報を開示して、俺を惑わせようとするのだ。大人の余裕を垣間見せて。なんとまあ、ずるいおんなだこと。俺はもう遠慮せずに思ったことをそのまま口にした。
「なあ、それってずるくねえ。あんだけ俺にはちゃんと言えって促しといて」
「五条くんは、私にちゃんと言って欲しいんだ?」
「そりゃそうだろ。こっちはくたびれて死にそうになるくらい待たされてんだけど」
「せっかちさんだなあ。待てを覚えることも大事だよ」
「子ども扱い……犬扱いすんな」
「してないよ。ちゃんと男の人として見てる。大好きだよ、きみのこと」
 話の流れに沿って、俺の振り絞った告白と打って変わって自然に表出されたそれに、一瞬ぽかんと口を開いた。状況が飲み込めなかったのだ。が余りにさらりと、俺が欲しくて欲しくて堪らなかった言葉を紡ぐものだから。言語化されたそれが空気を伝い、聴神経を伝い、脳に辿り着いたとき、ようやく俺ははっとして、全身を滞りなく流れる血液が沸騰したかのように熱くなった。は俺のその様子をちらりと一瞥して、満足そうに含みある笑みを浮かべた。なんておんなだ。
「……聞こえなかった。もっかい言って」
 彼女の掌の上で踊らされたことが悔しくて、一矢報いたくて、そうねだる。はまだ想定内なのか小憎たらしく微笑みを見せた。
「好きだよ、五条くんのこと」
「さっきは大がついてた」
「聞こえてるじゃない」
「聞こえてない。もっかい」
「……もう。大好きだよ。ずっと待ちぼうけにしてごめんね。あの日決断するのは、互いのためにも良くないと思った。考える時間が欲しかったの」
 はそう言って目を伏せた。真剣味を帯びたその表情からして、きっと言葉通り、本当に考える時間を作りたかったのだろう。それは告白の返事に対してではない。はれっきとした大人だ。俺との間をかけ隔つ埋めようのない年齢差や、未成年と付き合うことの不道徳性について、考慮しない筈がない。思い悩んだに違いない。脳天気にと恋人めいた秘事を勤しみたがる俺と違って、まともな感性でこの呪術の世界を生き抜いてきたひとだから。
「……答えはそれでいいわけ」
「うん。いいの。五条くんが隣にいてくれると、自分が普通の女だったんだって思えるから」
「ふぅん。……どういう意味?」
「そのままだよ。きみにドキドキしてしまう、どこにでいるような平凡な女だってこと」
 その言葉に、俺の方がドキドキした。どうやらは俺が思う以上に、俺を異性として意識していたらしい。
 車が停まる。馴染みのない小さなスーパーの駐車場に停車させて、はようやくこっちをしっかり見据えた。きれいな形をした麗しの双眸に捕らわれる。今すぐにでも彼女を抱き締めたい衝動に駆られたが、「それじゃあ行こっか」と既の所でお預けを食らった。やむを得ず俺は助手席を降りた。
 は自動扉の近くに置かれた買い物籠を持ち、もう一度俺に向かって「何がいい?」今夜の献立について尋ねた。率直に言えば、俺は何でも食うし何でも好きだ。けど、そういう答えって食事を作る身としては一番困るんだろ。だから、俺は「の得意料理が食いたい」と自信満々に答えた。我ながら最適な回答だと自賛する。は奇をてらったつもりの俺の心を見え透いているかのように目元に笑みを湛えていた。
 てきぱきと要領よく材料を籠に放り込み、会計を終えると、流れるように円滑にの家に向かった。見覚えのある間取りや迸る香りに、二週間前の出来事が昨日のことのように鮮明に思い出される。にとってはいつもの日常を過ごす空間のため、さっさとキッチンに向かい「大人しくしててね」と俺に念押しした。確かにリビングには思春期の男心を刺激する彼女の所有物が散見されたが、受け取った言葉通り、俺はテレビをつけて眺め入る作業にだけ没頭した。心ここにあらず状態だったけれど。
 程なくして出てきた料理はオムライスだった。立ち込める熱気とふんわりと芳ばしい香りが食欲をそそる。そう言えば、俺の実家では到底出てこない代物だし、寮の食堂にも絶妙に置いてないメニューだし、傑や硝子と共に入るファミレスでも滅多に頼まない。初めてではないが、頻りにお目にかかるわけでもないそれに、自然と心が躍った。「見て、この卵のふんわり加減。お店と比べても遜色ない出来でしょう」と鼻高に話すに、店から出される品をまじまじと見たことがないとは言わなかった。けれど、スプーンで掬って口に入れたそれは、今まで俺が食べてきた何よりも美味しいと思った。
 こうやって恋人として過ごす時間は、長ければ長いほど、終わりから目を背けたくなる。本日の教訓だった。共に食器を洗ったり、一押しの映画を鑑賞したりする内に、夕方と言える時刻はとっくの昔に過ぎ去っていた。映画の見せ場で流れた代表的なバックミュージックに乗せて、エンドロールも終盤に差し掛かる。このクレジットが全て無くなれば、俺達の有意義な安らぎの時間もおしまいだろう。車に乗せられて、最寄りの駅まで送られる。そんな学生身分の自分が疎ましくなる未来がはっきり見えた。
 だから、俺は恐る恐るの手を握った。指は絡めなかった。彼女は、恋愛は順序立てて進めるものだと主張していたから、それに倣った。次の行程を許されることを密かに祈りつつ、最後まで映画から視線を離さなかった。
 エンドロールが終わりを迎える。終幕。静かに映画は幕を下ろした。一瞬だけ訪れた暗闇の画面に、ソファに並んで座るふたりが反射して映った。
「どうだった?」
「面白かった。が選んでなきゃ一生縁もなかっただろうけど」
「五条くんの趣味じゃなさそうだもんね。普段はどんなの観るの?」
「ん……最近観たのは性格悪いヒロインが最後に死ぬやつ」
「悪趣味だなあ。次はそういうのも借りておくね」
 はそう言って微笑んだ。握った手は離されなかったし、握り返してくれたが、次のお許しも出なかった。薄々察していたので落胆こそないが、残念ではある。駄目押しで指のちからを強めて、彼女に向き直った。
「……キスしていい?」
「ええ? うーん、今日はだめ」
「ハグは?」
「それもだめ。止まらなくなってしまったら困るでしょう」
「はあ……知ってた。今日は何なら許されるんだよ」
「今日はもう帰ること。そんなに急かさなくたって、これからたくさんそういうことできるんだから。後に取っておく楽しみも覚えてみて」
 そしたら、きっと五条くんがしたいことは、もっと楽しいものになるよ。甘美な響きではそう付け加えたから、俺はその言葉を信じて押し黙った。確かに我慢した先に手に入ったものの喜びは一入だろう。決して辛抱強くはない俺には中々どうして耐え難くはあるが、彼女に無理強いさせたくないという思いは本物だから。宥められるままに、俺は頷いた。
 は最後のお許しとばかりに、繋いでいた手を絡め取り、恋人繋ぎへと変えた。俺の指の隙間に、彼女の指がお行儀よく収まって、弱々しいちからでぎゅっと握られる。こうして見ると全然違う。俺の太くて骨ばった指と、の細くて柔らかな指。長さも質感も、同じ器官とは思えない程に異なる。不思議だ。俺も彼女にされたのと同じように、握り締める。初めて許された恋人としての行為は、何だか頼りないようで、しっかりの存在を俺に示してくれる。
「いかがですか、五条くん」
「…………悪くない」
「ふふ。それは良かった」
 その手をそのままにして、過ぎ行く時間に急かされるように俺とは外に出た。車に乗り込むまでの間、寒々しい夜空の下、そうやって互いの存在を、温もりを確かめ合った。
 混み合った駅のロータリーに車が停まり、別れのときがやって来る。助手席から出ようとして、俺は思い留まっての方を見遣った。「次会うのいつ?」とか「次は何なら許してくれんの?」とか。訊きたいことは山のようにあったけれど。自然に唇から溢れ落ちたのは、ちっぽけな俺の願望のひとつだった。
「俺のこと、名前で呼んで」
「……名前?」
「それぐらい良いだろ」
 は予想だにしなかったのか、目をぱちくりとまじろいだ。でも、俺の願望を無下にすることなく、愛おしいものを慈しむように、応えてくれた。
「悟くん」
「…………
「うん。悟くん、気をつけてね。大好きよ」
 のやわらかい笑顔に、呼ばれた名前から滲み出る甘ったるさに、今日という日を永遠に焼き付けるような、そんな鮮烈さを覚えて、俺は名残惜しくて何度も振り返りながらも駅のホームに向かった。
 悟くん、とからの聞き慣れない呼名に俺の心臓はずっとわなないていた。
 親しいひとは俺を下の名で呼ぶことが多いから珍しくも何ともない。けれど、同時にこの世界において五条という名字が付き纏う厄介は数知れない。忌まわしい伝統や歴史を重んじる五条の家を何度も厭ったし呪った。そんな五条の血筋としての俺ではなく、五条悟というただひとつの個体として、が下の名を口にして存在を縁取ってくれることに、俺はひどく安心したのだ。
 これから彼女と共に過ごして生まれ出づるであろう、後に取っている楽しみを想像して、表情筋が緩んだ。
 早く明日が来ればいい。次会う日が来ればいい。もっとがすべてを許してすべてを委ねられるような、そんな恋人になりたい。
 純然ではいられない気持ちを胸に掲げて、俺はホームに迫り入ってきた電車に乗り込んだ。

2020/01/03