嫋やかなる服従
 浮ついている。どうしようもなく、呆れる程に、虚しい程に。
 高専の近くにある昔ながらの居酒屋で、それなりの規模の飲み会が催された。術師における繁忙期を過ぎた晩秋の日没後ということもあり、教職員だけでなく高専関係者にも呼び声を掛けたところ結構な人数が集った。七海もその呼び声が掛かった内の一人である。普段から熱心に親交を深めることなく、呪術師とはあくまで仕事仲間としての距離感を保ってきた七海だが、今日この飲み会に参加したのにはある思惑が働いてしまったことを否定できない。常に冷静で我欲を曝け出そうとしない七海が、欲望の赴くままに行動したくなるただひとりの例外。その人が飲み会に参加するという何の根拠もない風の噂を受けて、七海は己の肌に馴染みがない席に佇んでいた。我が事ながら柄でもないし情けなくもなる。待ち望んだひとは未だこの場に姿を現していない。その事実が何より七海の矜持を打ち砕き、アルコール度数の高い酒で思考力を放棄する手段を選び取るはめになってしまった。術師という非凡な職種であっても宴会で盛り上がる話題はそう変わらず、彼にとって面白味もない話を右から左に聞き流すだけの時間が続いた。
 昂ぶっていた熱気もピークを迎え、お開きを目前に控えた終盤、七海が懇意にするひと――はひょっこり顔を見せた。彼女の同期である五条と共に。
 七海のひとつ歳上であるとは、高専の在学時にはそこまで綿密に関係が編み込まれていたわけではない。ふたりの淡泊な関係に若干の変化が生じたのは七海が呪術の世界から足を洗い、後に再び術師として舞い戻った暁のことだ。「おかえり、七海」とは驚く素振りも見せず軽快に笑った。七海が此処に戻って来ると信じて疑わなかったかのように。七海を信じて待っていたの存在は、意図せずして彼自身の存在や価値を証明した。波打ち際にやさしく押し寄せる潮が如く、彼女の言葉は七海の心にじんわり沁み渡る。何の特別でもない迎えの言葉は、彼にとって特別意味を持つ言葉になってしまった。言の葉を紡いだ張本人であるのこともだ。それからと言うもの、じっくり時間を掛けて談笑する機会こそ訪れなかったが、顔を合わせたり姿を見かけたりする機会に出食わす度に、七海は幾ばくかの緊張と高揚を併せ持つようになってしまった。無意識に視線で追い掛けたり、彼女と古馴染みである五条にそれとなく近況を尋ねてみたり。これではまるで思春期の男子高校生だ。七海はその体たらくに自嘲する。己を律することに長じてきた七海のただひとつの誤算であった。
 と五条の登場は、口数も疎らになりつつあった会場にどよめきを生んだ。各所から色めき立つ声も上がる。酒のちからに頼り視界も思考も薄靄がかかっていた七海だが、状況を察すれば瞬時に酔いは冷めて意識も明瞭になった。座敷の一番奥まった席に通されていた七海は、遠慮がちに入口付近に腰を下ろしたに視線を漂わせる。募る感情は増幅するばかりなのに、周囲の目が気になって自ら話しかけに行くことは阻まれた。ここで意地気のなさを露呈しても仕方ないと分かっていても。七海の酒を口に運ぶ回数は極端に減ったが、対しては終宴間際まで同僚と酌み交わしていたようだ。暴飲とまではいかなくとも、明らかに日頃と異なる飲みっぷりに七海は遠目ながら違和感を覚える。その違和感の正体が浮き彫りになったのは、店を出て幹事が閉会の口上を述べた後のことであった。銘々で別れの挨拶や次回の約束を取り決めている群衆から離れた場所に、彼と彼女はいた。五条は至っていつも通りの風貌で突っ立ているが、彼が見下ろす先のは膝を抱えてしゃがみ込んでいる。額を膝頭に寄せているため表情は窺えないが、十中八九アルコールによる泥酔とその弊害だろう。七海の視線に気付いたのか、五条はにまりと薄気味悪い笑顔を浮かべて七海を手招いた。溜め息混じりの吐息を吐き出してその場に向かう。五条が呼ばずともの傍に駆け寄るつもりでいたので、七海にはそれが無性に癪に障った。五条は一瞥するだけに留め、腰を屈めて真っ先にの心身を案じる声を掛けた。
さん、大丈夫ですか」
「……な、なみ……」
 七海の呼び掛けに遅れて反応し顔を上げたは、すっかり出来上がっていた。火照りは顔どころか耳や首にまで伝っているし、瞳もとろんと微睡みの中にいるようで焦点が定まらない。彼女と飲み明かした会合は片手で数え足りる程だが、こうなるまで酒を取る手が止まらなかった日はなかったと記憶している。となると、原因は何なのか。先ず以て思い浮かんだ原因に七海は目線を投げやった。飄々と抜け抜けと携帯で時間を確認していた五条に、僅かな苛立ちが生まれる。つい七海はその感情が織りなすままに物申していた。
「こんなになるまで飲まさないで下さい」
「あん? 失礼だな。コイツが勝手に飲んだんだよ」
「……そうなんですか?」
「……うん」
 に向き直って問うたところ、小さく首肯の返事が呟かれたため七海は何も言えず閉口した。それならそれで近くにいた五条が止めるべきだろう、と七海は思ったが、沸き立つ感情の矛先をに向けたくないだけだと気付いて結局五条にも何も言わなかった。代わりに懐から携帯を取り出し、タクシーの配車を頼もうと電源を入れた。この状態の彼女を一人で帰すのも、況してや自分以外の誰かを同伴させるのも気が引ける。タクシー会社の電話番号を入力して通話ボタンを押そうとした七海に、後方から画面を覗き込んでいた五条が待ったを掛けた。
「何ですか?」
「僕そこに車停めてるから待ってろ。送るついでに七海も送ってやるよ」
「いくらアナタでも飲酒運転はさすがに引くんですが……」
「ばーか。僕は飲んでないよ。ノンアルだけ」
 さり気なく自分が下戸であることを白状した五条は、車の鍵が引っ提げられたリングを人差し指で回しながら付近の駐車場に向かった。いつになく親切な五条は気味悪く感じたが、現状を顧みると素直にありがたく思った。
 五条の車が到着するまでの間、七海はと同じ目線まで腰を屈め、戸惑いがちに彼女の背中をさすった。薄手のトレンチコートに包まれた背中は驚くほど小さく薄い。七海の皮膚が厚く骨ばった手とは対照的に映る。は掌が背中を撫でる感触にぴくりと身構え、狼狽した様子で七海を見上げた。
「すみません、不躾が過ぎましたか」
「……ううん、ありがとう」
 その言葉を真正面から受け止めた七海は胸を撫で下ろし、が少しでも楽になるよう奉仕を継続した。こんなものは気休めであると七海は分かっていたが、彼女から嫌悪の意が示されなかったことを免罪符に、暫くそうしていた。
 間もなくして五条の乗用車が店の前に停められ、七海はの腰を支えながら立ち上がった。彼女の覚束ない足元に合わせて、緩徐に足取りを踏む。後部席に繋がる扉を開いて座るよう促したところ、の指先が七海の背広の裾を掴んだ。後部席に一緒に乗れと言外に示唆され、七海は長身を屈めての隣に乗り込んだ。元よりその心積もりだったが、あくまで仕方なくを装いながら扉を閉める。何食わぬ顔で運転席から後方を見遣り、口元に笑みを湛えていた五条を、七海は素知らぬ顔で無視した。
 発車してはすぐに窓を開き、肌寒い夜風を露出した皮膚全体で受け止めていた。冬の到来を予期させる極寒の突風であるが、熱が燻る身体には心地よい。それは七海も同じであった。身体を火照らせる熱の正体が随分当初に飲んだ多量のアルコールのせいなのか、それとも隣で乗り口の扉に寄りかかって今にも目を瞑ってしまいそうなのせいなのか。訊かずとも分かりきったことだ。微妙な距離感を保つ七海とをバックミラー越しに眺めていた五条は、ひとりでに「寒っ」とぼやいた。酒に溺れていない正常な感覚を保つ人間からすれば、肌を突き刺すような冷感が後ろから入り込んでくる状況は割に合わなかった。
 五条が車を走らせる道を七海は殆ど知らなかった。だが五条は知っている。何も言わずともの家の位置情報を把握している五条に、思うところはあれど七海は言及しなかった。そういう男女の関係にあるのか。七海の心象を敏感に感じ取り、面白おかしくいじり倒す五条がまさかとは思ったが、決してないとは言い切れないのもこの男の特性だと七海は理解している。やはり追及は躊躇われて、ひたすら七海は眠りについたが寄る側とは反対の車窓から、移り変わる景色を見つめていた。沈黙で閉ざされた空間に切り込みを入れたのは五条だった。
「なあ、何でが今日こんだけ酒呑みなのか、七海分かるか?」
「……分かりません。その口振りだとアナタは知ってるようですね」
「まあね。今日たまたま現場一緒だったし」
 突拍子がないようで、実は七海が気にかかっていた部分を的確に突いてくる。無視しようにもできない。そういう状況を作り出すことに、五条は長けていた。後部席からは拝めない五条の卑しい笑みを想像しながら、七海は続きを促した。五条は囃し立てる七海を「せっかちめ」と揶揄するように笑った。
「今日の現場、子どもが死んでんだよ。何人も。惨いのなんのって……」
 ――ああ、なるほど。そういう。
 惨い惨くないは、術師が立たされる現場の珍しい珍しくないと相関しない。どれだけ残酷に嬲り殺されていようとも、何年も現場に立ち続ける呪術師からすれば有り触れた死に方なのだ。五条や七海程度の上級になれば被害者の死に様に同情すれど、私情に持ち込むことは少なくなる。まともでないのだ、元来。この職務に携わり呪いに断片的にでも触れてしまえば、まともな感性など一瞬にして吹き飛んでしまう。それが当然の生業なのだ。血も涙もないだの、道徳心の欠如だの、どんなに後ろ指を指されてもそう割り切れる。痒くも何ともないくらいには。
 けれど、どうやらはそうでないらしい。無惨な死に対して怒りも悲しみも抱くし、それを己の心境として引き摺ってしまう。根本的に呪術師に向いてない、正しくあるべき人間性。どこまで辿っても彼女はまともな感性を保ち続けている。
 の泥酔の理由に納得した七海は、彼女に視線を移した。静かに寝入る彼女が、人生の先輩であるにも関わらず、どうしようもなく脆弱で今にも崩れ落ちそうな儚い生き物に映った。七海の解釈が正しいことは、彼女の本日の行動がまざまざと物語っていた。気分の悪さはきっと、酒からくるものだけではないのだと、七海はそこでようやく理解したのだった。
「ほら、着いたよ」
 高専から程良く近い、川沿いのマンション前に車は停まった。に起きるよう七海は肩を揺らしたが、その最中に五条はとんでもない戯言を口走った。
「七海、オマエそこの酔っ払い部屋まで送ってってよ」
「はい?」
「十五分だけ待っててやるから。ほれほれ」
 眠気まなこを擦りながら微睡みから目覚めたを気に掛ける余裕は、七海には一塵もなかった。至極当然のように男を古馴染みの女の部屋に送り出そうとする五条の軽薄さに、七海は絶句した。部屋までという意味ではない。十五分だけ待ってやるの意味するところは、七海が送り狼になっても僕はとっとと帰るから気にすんな、の意である。の意思を度外視した発言に七海は頭を抱えたくなったし、眼前でへらへらといつもの調子を崩さない先輩の顔面目掛けて殴りたくもなった。
 結局、酔いが回って千鳥足のが一人で部屋に辿り着けるかは甚だ疑問であったため、七海は渋々車を降りた。熱を帯びたの身体を支えながら降車を手伝い、扉を閉める手前で五条に「必ず十五分は待っていてください」と念押しした。七海は何が何でも五条の意向に沿ってはやらないと決意した。
 ――決意した、筈なのだが。
 その決意も虚しく、の部屋に入った先の玄関近くの床に、ふたりして蹲っていた。
 七海の脳裏を、思い通りに事が運んでせせら笑う五条の顔が過った。むかつくことこの上ない。だが、そんな五条を一瞬にして闇に葬り去る程度には、七海の思考も身体も熟しきった熱が迸っていた。も同様にだ。噎せ返るほどの熱気がふたりの間を埋め尽くしている。呼吸をすればするほど、唇から零れ落ちる熱に、互いが当てられていく。
 部屋の前に連れて来たまでは良かったのだ。だが、扉を開いて玄関に入ろうとした瞬間、がパンプスの爪先を縁に引っ掛け、体勢を崩してしまった。後方にいた七海は思わず腕を伸ばし、背後から抱き締めるように彼女を支えた。どこに臓器が詰まっているのか、と不埒に考えたくらいに薄べったくて余分な肉を感じないの腹部に、回した手が震えた。どっと背中から汗が滲み出る。鼻孔の奥まで侵襲する彼女の香りも、女性らしく華奢で小柄な体躯にも、触れた衣服越しからでも感じる体温や肉感にも、何もかも、己の内なる欲望を掻き毟られてしまった。なけなしの理性で繋ぎ止められていた糸がぷちんと音を立てたのは、すぐだった。
「ななみ……」
「っ……すみません、出過ぎたまねをしました」
「出過ぎたまねって?」
「……それは」
「キスしたこと?」
 己が仕出かした過ちを直球で責められ、七海は言葉に詰まった。
 「ごめん、ありがと七海」と抱き竦められて照れた様子で振り向いたに、七海は吸い寄せられるように唇を落とした。触れ合った唇の柔らかさに驚愕した。おそろしく柔くて確かな温度を持った彼女のそれは、明らかに自分の持つものとは違った印象を与える。七海は倫理に背く行為を犯した気になりながら、生々しい感触のそれを貪った。夢中になりすぎての重心が後方に傾いていくのも察知できず、気付けばふたりで重力の赴くままに、床に転がり落ちていた。靴すら脱げずに、ほとんど押し倒されたような形で身体は密着する。そこでようやく、七海は呆気なく途切れてしまった理性を幾らか取り戻した。急いで身体を起こし、の手を引いて上体を起こしてやる。今更紳士を装って対応したところで関係の修復は不可能で弁明の余地すらないと、分かってはいた。
 は熱の灯る瞳で七海に向き直った。眉や目付きは憤怒の形を装っているのに、どこかかなしみも含ませた、そんな表情だった。
「……七海は、酔ってたら誰にでもこういうことするの」
「そんなわけないでしょう……」
「だよね。七海は、そういうひとじゃないもん」
 どういう反応をすべきなのか。が信じるような人間ではないと諭すべきなのか。著しく思考力の低下した頭で七海が悶々としていると、は明確に意思を滲ませた口調で七海に要求した。「目、瞑って」と。
「一発、殴らせて」
 の言わんとすることを悟った七海は、ゆっくり目蓋を下ろした。何もない暗闇。虚無的な暗夜。を視界に入れないことで冷静さを取り戻した七海は、己の不甲斐なさを顧みて情けなくなった。謝罪してもしきれないこの業がたとえ許されなくても良い。この行為が彼女の鬱憤を晴らせるならそれで。七海はいつ来るかも分からない一撃を只管に待った。
 だが、その一撃は来なかった。
 代わりに、再び七海の唇にやわらかな衝撃が走った。湿り気を帯びて艶めかしいそれが先程自分が貪ったものだと気付いて、七海は瞳を抉じ開けた。
さん」
「……七海も殴っていいよ」
「殴りませんよ。殴れるわけないでしょう」
 そう言って、七海はの唇に自らそれを押し付けた。今度は隙間から舌を侵入させて、口内を蹂躙するように。彼女が飲んでいたであろう甘めのカクテルの味を、舌が敏感に感知する。それすらも丸ごと飲み込むように、七海は舌を忍ばせ続けた。互いの唇のあわいから溢れ出る熱い吐息にも粘り気のある唾液にも気を留めず、ずっと、その行為を続けていた。
 いつの間にか再びを押し倒していた七海は、彼女の身体を慮り、すっと身を離した。しかし、はそれを阻止しようと七海の腕に縋りよる。途方もない劣情が身体の隅々まで流れ打つの表情に、七海は脳髄がくらりと揺さぶられる錯覚に陥った。
「七海、帰っちゃだめ。どこにも行かないで」
さんが言うなら帰りませんし、どこにも行きません」
「っ……ほんと?」
「ほんとです」
 再び七海は身を寄せて額に口付けると、は安心したのか、今にも泣きそうな顔で笑った。ずぶずぶと己の理性を雁字搦めにして沼に沈められていくような、おそろしい感覚。昇り詰めれば呆気なく墜ちてしまいそうな、矛盾した感覚。七海は身震いした。
「七海。七海の好きなようにして」
「っ……どこで覚えてくるんですか、それ」
「こんなの七海にだけ。ねえ、私、七海がしたいようにされたいよ」
 据え膳食わぬは男の恥とは、一体誰が考え付いた諺なのか。全くもって、その通りだと七海は思った。
 こんな風に誘惑の言葉を甘ったるい声に乗せてまぶしてくるに、どうあっても七海は抗えない。抗える筈がなかった。
 もうとっくの昔に、五条の車を降りてから十五分が経過していた。無用な気遣いだと突っ撥ねていたが、今日ばかりは感謝しても良いような気がしていた。ほんの少しだけだ。
 これから裾野を広げようとする行為の前に、余計な考えはいらない。七海はサングラスを外して床に放った。今七海が考えたいのは、目の前で己を待ち侘びている、愛おしくてはかないのことだけだ。来る夜の狂おしい熱気を予感しながら、要らないものを全てをかなぐり捨てるように思考を無にして、の服の裾に掌を滑り込ませた。

2019/12/15