I`m very very embarrassed.
 「糖尿病予備軍ですね」とこの事案に巻き込まれた腹いせに悪態じみた所感を述べるも、目の前の女性はどこ吹く風で聞き流し、あまつさえ「七海も食べる?」と尋ねてくる始末であった。丁重に断りを入れると、さんは特に気にした素振りも見せず咀嚼を再開する。ふわふわでとろける食感を謳い文句にして上々な評価を得ているパンケーキは、彼女の口内に運ばれては消えていく。たっぷりの生クリームや蜂蜜シロップで盛り付けられた甘味物は視界に入れるだけで胃もたれを催しそうだ。中和させるべく、酸味の効いた良い塩梅のコーヒーを啜る。彼女の食事風景には何の感慨も湧かないが、他に何か暇を潰せる算段があるわけでもなかったので、ただひたすらその光景を眺めていた。
 行列のできるパンケーキ屋への同行を求められたのは突発的ではあるが、珍事という程でもない。さんは私の一つ歳上の先輩で、高専時代からの知り合いである。術師を一言で説明するならばクソという表現が適切であると常々思っているが、その術師として一線で活躍しているさんもまた、クソであることに違いはないと思う。彼女はある事案によって自身の情緒がかき乱されると、大体私を呼んでその処理に当たらせていた。処理と言っても、食によって得る満足感で負の感情を打ち消そうとするらしい彼女に同行するだけで、自分が何か彼女のためにしなければならないことはなかった。とは言え、店の外まで続く長蛇の列に並ぶと宣ったときには、軽く殺意を抱いたのもまた事実である。私はこの人の伴侶でもなければ保護者でもない。そもそも年下だ。都合の良い後輩として扱われることに不平不満は湯水のように湧いてくるものの、それを表立って主張することはしなかった。何故って、いつだって彼女はあの軽薄で無分別で不行跡な男の被害者だからである。そう思えば同情の余地はある。そうこうして、ようやくパンケーキに有り付くことができた暁にはある程度腹の虫も治まっていた。これはいつものお決まりのパターンである。どうやら私は情に流されやすいらしかった。
 ちなみに、さんが食に走る衝動の原因を自ら打ち明けたことは一度もない。仄めかすようなこともない。痺れを切らした私があの人の名前を口にすると、そこでようやく彼女は頑なに結んでいた唇を緩めるのだ。渋々といった体を装うのも初めだけで、話し出すと堰を切ったように次から次へと彼の悪態が飛び出てくるのは、定石になりつつあった。聞いた限りでは、衝動に至る経緯の殆どは、あの人の性格の悪さや図々しさやデリカシーのなさに由来したいざこざや価値観の相違が根本にあるらしかった。さんが詳らかに説明する彼の言動や行動は容易に思い描くことができる。確かに、邪心を匂わせるせせら笑いを貼り付けながら、それが当然であるかのように地雷を踏み抜いていく男を想像すると業が煮えるし、実際に彼女はそれを経験したのだから、堪忍袋の緒が切れても更々可笑しくはない。私ならその時点で怒りを直球でぶつけるか、或いは諦めの境地で彼との関わりを途絶するだろう。うだうだ悩むくらいなら関係に終止符を打ってしまえとも思う。しかし、私と彼女とではあの人と結ばれた関係性の名前が異なるため、一概にはそう言えない現状が横たわっていた。二人の関係は俗に言う恋人同士であり、身も蓋もない言い方をするなれば喧嘩の原因は下らない痴話喧嘩が大半で、その傍迷惑に巻き込まれるのは決まって私だという現状。頭を抱えたくなる。彼のような男を恋人として自分のテリトリーに迎え入れたのは他でもないさん自身だ。ああだこうだと苦悩した回数は数え切れないだろうが、それと同等に私もアナタがたの被害を被っていることを忘れないで頂きたい。そういう思いで彼女の愚痴にひたすら耳を傾け、相槌を打ち、最後に適切とは程遠い適当な助言を付け加えている。適切を追求するならば、私はとうの昔にあの人との関係や連絡手段や周囲の関係との根絶を勧めているだろう。しかし、それは彼女の求めるところではない。食事に連れ出される役割を、曲がりなりにも理解しているつもりだ。そして、最重要事項はここからだ。今日はまだその役割を果たしていない。自ら彼の名を出してもいいのだが、折角の休日を行列に費やす羽目になったので、少し意地の悪い役割の果たし方をすることにした。
「誘う相手を間違えているのでは?」
「うん? どうして」
「こういう甘味の同伴者なら、適任がいるでしょう」
「………………悟のこと?」
 我ながら皮肉たっぷりである。毒を含んだ言い回しにさんはあからさまに表情を歪めた。眉間にいくつもの皺を寄せ、口元も大袈裟にひくついている。普段と意趣の異なる目論見に、依固地な彼女は暫し逡巡するような抵抗するような無言の間を貫いていたか、結局その男の名を紡ぎ出した。悟。より分かりやすく付け加えるなら五条悟。唯一無二の強さに全幅の信頼を寄せているが、底知れない悪辣さに尊敬はできない、私の数少ない先輩のひとりである。五条さんもさんも共通して甘味を好む傾向にある。この場に同席する適任者は間違いなく彼だ。それとも、喧嘩が勃発していなければ共に嗜もうと思いを馳せていた場所なのかもしれない。どちらにせよ、今のさんに五条さんを同行者に進言しても突っ撥ねられるとひと目で分かる。だからこれは一種の当てこすりであり、彼の話をするよう遠回しの催促だった。
 聡いさんはその指向を察したのか、ぽつりぽつりと五条さんとの間に走った軋轢のいきさつを話し始めた。何事も円滑に事が進むに越したことはない。私にとっては正直どうでもいい内容であるが、余計な口を挟まず聞き役に徹することで、彼女の鬱憤も幾らか晴れることだろう。後はただ彼女の求める同意や解決策を提示して、この場を出るだけだ。いつもの終結と変わりない。そうなる筈であった。
「やあ」
 まず、聴覚を司る感覚器官が反応する。聞き覚えのある声。淡泊でいて底が抜けたような明朗な声だ。次に視覚情報として、その発信源を捉えようと試みる。私とさんが声の発信元に視線を集中させたのはほぼ同時だった。長身で、痩躯で、全身に漆黒を身に纏う男。こんなこの世に一人とていないような出で立ちをするただ一人を、私は彼以外に知らない。
 五条さんが、目の前に立っていた。私達の視線を一身に浴びていることを知覚すると、口角をにぃと上げ、四人席のうちの空席――さんの隣に腰を降ろした。勢いづいて座ったために椅子は後方に重心が傾いたが、器用にそれを前方に戻し、椅子と床が擦れる耳障りな音を捻出しながら体勢を立て直した。五条さんの目隠しに隠れた視線は、さん一点に注がれている。どうやら私は外野と認識されたようだ。今日一番の面倒に巻き込まれたと悟った。
「ねえ、、僕お腹空いてるんだよね」
「……だからなに」
「それ一口頂戴」
「は? 絶対に嫌。悟も頼みなよ」
「注文待ってる間にオマエとんずらしそうじゃん」
「するよ。私だけじゃない、七海もする。悟はロンリーパンケーキでも楽しんでれば」
「何が悲しくて若者集団ばっかの店でロンリーパンケーキしないといけないワケ」
 視界の中央で、低俗で下らない痴話喧嘩を繰り広げる彼と彼女に辟易とした。公共の場でよくもまあここまで互いを罵り蔑み陥れようとできるものだ。私は二人が仲違いする様子を目の当たりにしたことがない。片方と接する機会は多くても、両方と同時に話す機会は訪れたことがないのだ。さんからの情報で推測するだけであったが、目の前の事実は推測と何ら変わりはなかった。呆れを通り越して奇妙な感心すら覚える。
 短くない時間そうやって言い合っていた男女を、何の感慨もなしに見ることはせず、既になくなりかけのコーヒーの残渣を見つめていたときだ。
「七海ィ、オマエも彼氏持ちの女と二人で食べに行くとかどんな神経してんのぉ?」
 突如として私の名が呼ばれ、不本意ながらそちらに視線を寄越す。声の主である五条さんは無骨でつまらなさそうに机に頬づえをついている。見るからに向かっ腹な彼は、憂さ晴らしの標的をさんから私へと変更したようだ。八つ当たりに近しいそれに腹立たしくもなるが、この人を前に感情を吐露することは敗北そのものだ。あくまで私は巻き込まれた被害者であるという体裁を取り繕わねばならない。
「……アナタにだけは言われたくありませんね」
「この密会、今日だけじゃないだろ?」
「密会の定義に疑問は抱きますが、まあ、それは否定しません」
に惚れてんの?」
「そればかりは否定させてください」
 「なんか微妙に傷つくんだけど……」と恨めしげに呟くさんに対して私の感情は揺れ動くことはなかった。どうしたって彼女が先輩以上に価値のある存在に昇格することはないだろう。五条さんもそれは分かっている筈だ。だから、さんの何の気もない言葉に臍を曲げるような、子供じみていて拗れた性格はそろそろ改めた方が良い。性格所以で愛想を尽かされる五条さんを見守るのもそれはそれで一興であるが、そんな悪趣味に興じる人間になりたくはないし、どうせこの二人が袖を分かつことなど滅多なことでは有り得ないので、この案は取り下げた。
 本来なら相談料と称してコーヒーくらい奢って頂こうという邪な考えがあったが、五条さんの横槍があった今、その考えは捨てざるを得ない。もう彼の嫉妬深さから生じる誤解も解けたであろうし、私は用済みだった。速やかに財布を取り出し、丁度の小銭を机上に置いて椅子を引いた。私の考えを察したさんは名残惜しそうに眉を寄せた。対して、五条さんは頬を緩ませて、手をひらひら降っている。
「じゃあな七海〜。今度オマエの金で飯行こうぜ」
「結構です。というか、死んでもご免です」
「ごめんね七海。今度私イチオシの美味しいパン屋さん行こうね」
「それも結構です。というか、また誤解を与えかねない誘いはご遠慮ください」
 席を立ち、野次に近い二人の言葉を右から左に受け流して、狭い店内を抜ける。店員に支払いは任せてある旨を伝え、早々に店を出た。店内を振り返るという野暮はしなかった。どうせ幾千もの論争を潜り抜けてきたあの人達のことだ。心配せずとも互いに納得のいく譲歩点を探し当て、落ち着くべきところに落ち着いているだろう。その様子を想像してみる。「機嫌直してよ」「他に言い方ないの」「スミマセンデシタ。僕が全面的に悪うございました」「……二度目はない」こんなところだろうか。周囲を顧みず傍若無人を発揮するあの五条さんが彼女に尻に敷かれている姿は小気味よく、清々しい。今度どちらかに相見えたときにでも答え合わせをしても良いが、あの二人の行き着くところにそこまで思い入れもないので、明日には忘れているだろう。しかしながら、さんの言うイチオシのパン屋が気にならないではなかったので、恩着せがましくも今度その店を御教示頂こうと思う。もしくは、近い未来、再びひと悶着あった彼女に連れられる可能性もある。どちらに転んでも良いだろう。
 ようやく解放された休日に、羽を伸ばす有り難みを覚えながら、人の群がる道沿いに歩き始めた。

2019/11/14