二宮匡貴
 仕立ての良さそうなシャツの袖口が皺くちゃになっているのを視認したときになって、ようやくおのが罪過を理解した。袖から覗く骨ばった手の甲には、薄い発赤が浮かび上がっている。二宮くんの白い皮膚、加えて明るい人工的な光源のもとでは、その痕はよく目立った。何とも心苦しい。寿命がすり減りそうなほど拍動が強くなるのを感じながら、笑顔で佇むカウンターの店員に向き直る。頼まれたソフトドリンク、それから偶然視野の片隅に入ったスコーンを追加で注文した。
 待つことものの数分で手渡されたトレイを持ち、人混みをかき分けて二宮くんの元へ向かう。窓際のテーブル席に腰掛けている彼は、日当たりの良さも相まって、遠目で見ても見事に調和して様になっていた。あの辺りだけ、喧騒の一切を排除したような別世界を感じさせる。その格を下げている要因があるとするなら、やはり左手に居残る赤い痕だった。現実味を帯びたそれは相容れない不和を生じているし、単純に痛そうでもある。益々申し訳ない気持ちが増幅した。肩を丸めながら二宮くんの真向かいの席に座り、頼まれていたジンジャーエールと頼まれていないスコーンを差し出した。途端、彼は訝るように眉を顰める。そりゃそうだ。誰だって、想定していない商品を突き出されたら困惑するだろう。ただでさえ険のある表情に拍車がかかる前に、恐る恐る口火を切った。
「て、手が……」
「何?」
「二宮くんの手、強く握りすぎて赤くなってたから……」
 視線を逸らしながら白状するも、徐々に言葉尻が弱くなっていく。この的を得ない説明でも、優れた推察力で二宮くんは意図を掴めたらしい。何か勘付いたようにじっと自分の左手を見つめた。
 全米が震えたらしい話題のホラー映画を見たいと、街中の映画館に誘ったのは私の方だった。二宮くん自身はさほど映画に興味はないだろうけど、私の誘いには大抵応じてくれる。今回もふたつ返事で了承の意が返ってきた。大概甘やかされている自覚はある。けれど、堅物な彼を好き放題できる恋人としての権限は思う存分振りかざしたいとも思う。そんな風に久々のデートを楽しみに待ち侘びていたのだけど、映画の中身は壮絶なものだった。人ならざるものの殺戮により、血肉が飛び散るわ臓物が抉り出されるわ、挙げ句の果てには人間同士の醜い争いまで勃発していた。しかしながら、凄惨な絵面に負けず劣らずの古典的な怖がらせ方をしてくるので純粋に怖かった。そして、その恐怖の実害を受けたのは私ではなく二宮くんだ。悲鳴を上げないよう片手で口元を覆いながら、もう片方の手はがっちり彼の手を絡め取って離さなかった。事あるごとに指先にちからを込めてしまったため、その握力は総じて二宮くんが貰い受けていたということだ。映画館を出て付近のカフェテリアに入るまでその事実に気付かなかったことは問題だが、何よりただ恋人に付き合ってくれただけの彼に惨い仕打ちをしてしまったことは大問題だ。贖罪の意味も込めて、私は陳列されているスコーンを注文していた。
 どうやら大凡の企図を察してくれたらしい。二宮くんは満面の笑みを浮かべる――ことはなく、唇をむっとひん曲げた。スコーンはお気に召さなかったのだろうか。明らかに機嫌を損ねてしまっていた。
「要らん気を遣うな」
「でも」
「何ともない。蚊に刺されるより気にならない」
 蚊に刺された後って、最初の方は割りかし私生活に支障が出るレベルで気にしてしまうような。というか、二宮くんのような血気の薄そうなひとでも蚊に刺されたりするんだ。あまりに面白い発言だったから、現状と無関係なことばかりを思い浮かべてしまう。慌ててかぶりを振って雑念を追い払うも、目の前から突き刺さる怪訝そうな視線までは追い払えなかった。
「大体あの内容のどこに怖がる要素があったんだ」
「全部! もう最初から最後まで!」
 脳内で再上映するのも本能的に拒んでしまうほど、私にとっては強烈な内容だった。今日の夜は眠れるだろうか、と余計な懸念が生じてしまうくらいだ。対する二宮くんは終始けろっとしていて、今も顔色ひとつ変えずにグラスを傾けている。元来、そういう非科学的な現象に恐怖を見出さないタイプなのだろう。突き返されてしまったスコーンを厚意に甘えて食しながら、彼の性質についてぼんやり思いを馳せた。
「二宮くんって幽霊とか悪魔とか信じてないタイプなんだ」
「信じてないんじゃない。いない」
「ボーダーにいてそこまで断言できるひと中々いないと思う」
 一般的な市民ならまだしも、仮にもボーダーに所属する人間としては矛盾と誤解を生みかねない発言だ。研究が進んでいるとはいえ、近界民も謎に包まれたある種の宇宙人であることに変わりはないのに。目配せでそう訴えかけてみるも、二宮くんは素知らぬ顔を貫き通している。この理屈屋なようで自分の不都合にはまともに取り合いすらしない偏屈な一面もあるのが、彼の面白くて興味深いところだ。
「じゃあ私が幽霊になっても気付いてもらえないね」
 何の気なしに、ふっと脳裏を掠めたことをそのまま舌に乗せて押し出した。恋人の背後を付き纏う怨霊なんてホラー映画でも定番中の定番だけど、二宮くんには全く効果がなさそうだ。舐め回すように睥睨を投げ付ける私と、一瞥すらくれずに淡々と肉を焼く彼を想像してみたら無性に笑えてしまった。
 口端が緩みきっている私に反して、何故か二宮くんの表情筋は険しく引き締まっていた。あからさまな怒気が滲み出ている。単なる与太話くらいの感覚だったために、私はひどく困惑した。面白おかしくからかってしまったのが、そこまで気に障ったのだろうか。逆鱗に触れた理由を探し倦ねていると、彼は鋭く眼光を光らせた。
「くだらんことを言うな」
「確かにくだらないけど、そんなに怒らなくても」
「馬鹿が。俺に許可なく死んで良いわけあるか」
 そして、その一言に思わず呆気に取られてしまった。
「…………二宮くん。これ、仮定の話だよ」
「仮定の話でもだ」
 どうやら仮定の話であっても、二宮くんは私の死去を前提とした話を良しとしないらしい。じゃあ許可が下りれば良いの? なんて野暮な質問はぐっと堪えた。さすがにそこまで知能が低いわけではない。彼が許可を出すことはないし、私を死なせる気なんて毛頭ないということだ。
 こういう、二宮くんの真っ直ぐすぎて眩い一面を目の当たりにすると、肺腑の辺りがくすぐったくなる。甘やかされている自覚以上に、大切にされている実感を与えられてしまった。スコーンで乾いた口内を潤わせるため、カフェオレに手を伸ばす。砂糖は一匙も入れてないのに、とびきり甘い味がした。