岸辺
 慣れ親しんだ玄関の扉を開けると、慣れ親しまない生命体と目が合った。それは玄関先の廊下の中央に居座り、私の行く手を阻んでいる。涅色のくりっとしたつぶらな瞳に真正面から捉えられた。果てのない、混じり気のない双眼。心を見透かされているような、落ち着かない気分に陥ってそわそわする。暫くは視線を交わして無言で応戦していたが、先に音を上げたのは向こう側だった。「にゃー」と間の抜けた鳴き声と共に、すっと廊下の片側に身を寄せる。どうやら私に進路を譲っているらしい。完全降伏の姿に満足感と優越感を覚え、その潔い表明を称えて抱き上げてやった。抵抗せず、気持ちよさげに咽頭を鳴らしながら胸元に顔を埋める。随分調子の良い輩だが、柔らかな毛並みが人肌に心地良いので、許しを与えた。
「この子どうしたんですか?」
「アキんとこのニャンボちゃん」
「ニャンボちゃん」
 廊下を抜けた先のリビングで焼酎片手に寛いでいる師匠は、この猫をそう称した。そんな名前だったのかい、キミ。胴体に両手を添えて抱き上げ、向き合ってみる。穴が開くほど見つめても物怖じせず、猫は「ニー」と唸り声を上げた。肯定か否定か、私には全く判別が付かない。なので師匠に倣ってニャンボちゃんと呼ぶことにした。私の決意を知ってか知らずか、ニャンボちゃんは再び「ニー」と鳴いた。
 マキマさんと、早川くんと、ついでにあの騒がしい弟弟子ふたり組は今東京の街から姿を消している。多忙を極めていたマキマさんは有給休暇の江ノ島旅行で、早川くんは例年通りのお墓参りで、あとふたりは早川くんの後を追い掛けて行った。賑やかしい面子がいないこともあってか、先日の喧騒で溢れる街並みから一転して、辺りは静寂に包まれている。ような気がする。公安の人員はそれなりの犠牲を払い、デンジくんの護衛は成功した。喜ばしいことだ。喜ばしいことばかりでないのが、世の常だけど。
 ニャンボちゃんは高さを顧みず両手からすり抜け、華麗な動作で床に着地した。その足で師匠の元に駆け寄っていく。足首の踝辺りに身体を寄せ、ゴロゴロと喉を鳴らした。愛着が湧いている行動そのものだ。屈強でガタイの良い男性と、愛くるしく丸まった子猫。見事にミスマッチな光景である。口元に手を押し当てて、吹き溢れそうになる笑いを抑えていると、師匠はじっとこちらを見つめてきた。無言の圧力を感じたので、わざとらしく咳払いをして背筋を伸ばす。
「懐かれてません?」
「餌やってるからだろ」
「可愛い顔してゲンキンなやつだな〜」
 蹲ってニャンボちゃんに指先を近付けるも、素知らぬ顔で師匠の足元に縋り寄った。生物なので好き嫌いはあって当然だけど、中々どうして強かな性格をしている。先程まであんなに懐いていたくせに。あれが演技だとしたら、私は生涯猫を信じられそうにない。
「猫って、人間の心の機微に敏感なんですよ」
 羽織っていたコートをハンガーに掛けながら、そんな持論を述べてみた。そのまま手洗いを済ませ、師匠の隣に腰を下ろす。机上に並んでいた安物のつまみを一品摘んで、口内に放り投げた。イカの塩辛が染み込んで、少しだけ涙が滲む。
 師匠はグラスに焼酎瓶を傾けながら、唇を結んで黙って傾聴していた。
「だから、心がさみしいひとの傍に寄り添ってくれる」
「どうしてそう思う?」
「実家の猫が、母が亡くなってから父によく懐いてたので」
 実家の縁側で、すっかりしおらしくなった父親とふくよかなうちの猫が並んで佇んでいる情景が思い浮かんだ。頑なに父を拒んでいたのに、母が床に臥してからは嫌がらなくなり、亡くなってからは自ら近寄るようになった。心を通い合わせるきっかけが母の死というのは皮肉な話だけど、そういう経緯があって、何となく小動物は人間の心に寄り添う生き物だと思っている。ニャンボちゃんがそうだとは必ずしも限らないけれど。限らない、けれど……。……。
「なるほどな」
 納得したとは到底思えない声色だが、師匠にとってそれは納得したという意趣同然だった。このひとの心の機微はとても分かりにくい。傍らで彼の人生の大半を覗き見てきた私でさえも、分からないことばかりだ。
 師匠はグラスを置いて、骨ばった掌でニャンボちゃんの背中を撫でた。
「利口だな。どいつもこいつも」
 師匠はそう言って、ニャンボちゃんではなく、私の額を小突いた。
 どうやらお見通しらしい。私がどうして、先日の後処理を切り上げて疲弊した足でこの部屋に立ち寄ったのか。察しが付いている。何も映さない真っ黒の双眸が、反射して私の姿を映し出した。情けなく眉を寄せて、苦笑を湛えている自分。小突かれた右手は私の後頭部に回って、その自分は跡形もなく姿を消した。師匠の瞳が視界に入らない、彼の肩口に引き寄せられたからだ。
 このひとには、すべてお見通しなのだ。
 心の機微に敏感な性質も、人間の心に寄り添いたいという心理も、小動物だけが持ち得るものではないということ。


 垂れ流される愚痴に耳を傾けるだとか、雪崩込むように情事に耽るだとか、そんな特別な事象はなかった。一組の敷布団を分け合うように床に就く。正面には師匠の寝顔があって、睡魔の降りてこない私はぼんやりその様相を眺めていた。
 そうして、唐突に背中側に何かが伸し掛かってきた。仄かにあたたかく、適度に重さがある。浮き出た肩甲骨を目掛けて押し寄せてくるそれに、心当たりがあった。
「ニャンボちゃん」
「にゃー」
「師匠はあっちだよ」
 私の背中に擦り寄っていた正体はニャンボちゃんだ。わずかに振り向くと、真正面から目が合う。師匠の方角を指差すも、一向に動く気配はなかった。それどころか頬をぺろりと舐めて、そのまま私の首元に腰を据えて蹲ってしまった。一体どういう心境の変化なんだか。そう思い及んで、その意図を見出してしまった。
 さみしいのは師匠だけじゃない。
 知らず知らずの内に、かつての相棒を偲ぶ心此処に有らずの師匠の姿に、私にもさみしさが募っていたということだ。
「利口だね、キミは……」
 その言葉を聞き届けるとニャンボちゃんは緩慢に瞳を瞬いて、目蓋を閉ざした。自分の定位置を主張するように「ニー」と鳴いて、私から離れることなく眠りに就いた。