堕落を待ち焦がれた
 自然との調律が取れた空間に身を委ねると、束の間、忙しなく血腥い日常が遠退いていく。久しく休日らしい休日を謳歌していなかった反動なのか、張り詰めていた緊張の糸はひとたび弛むと中々元通りに引き締まってくれない。恐ろしく舞い上がっている。精巧なホログラムでも再現できない瑞々しい新緑に囲まれて、本物の豆で挽いた芳醇な珈琲に舌を巻いて。激務による過労で緩やかに濁っていた色相が忽ち浄化されていくような心地だった。そして何より、眼前の彼女に個人的な時間を共有することを許されている。そんなかつてない恩恵に、心底酔い痴れていた。
 思わず失笑が洩れる。全くもって不甲斐ない。これでは快楽や性欲に身を窶して堕落する劣悪な潜在犯と大差ない。手綱を握り直すように、宜野座は自嘲めいた苦笑と共に珈琲を飲み込んだ。丁度良い塩梅に混じり合った苦味と酸味が、彼に厳粛な自制心を取り戻させる。濃厚なカフェインによって襟を正した宜野座は、チーズケーキを口に運んでは破顔するを静かに見守った。
 偶然にもと非番が重なり、ショッピングの荷物持ちを依頼されたときも宜野座はけして悪い気はしなかった。寧ろその役目を言い渡されたことが誇らしくさえあった。昔は健気に宜野座から指南を受けていた彼女は、今となっては彼の上司として凛然と事件に立ち向かっている。その逞しく成長した背中に敬意を払い、後ろ盾として支えることこそ部下である己が責務だ。そうした帰結を胸に秘めて職務に従事している宜野座だが、彼とて邪念を持ち合わせない聖人でもなければ感情を宿さないサイボーグでもない。鷹揚に構えていようとも、意表を突かれて取り乱す事態も大いにある。今日がまさにその不測の事態だった。
 執行官宿舎に迎えに来たが、華奢な身体を際立たせるレース仕立てのフレアワンピースで着飾っているのを見留めた瞬間、宜野座は唖然として立ち尽くすことしかできなかった。隙のない普段のスーツ姿を見慣れていては到底想像できなかった装いは、目に痛いほど眩しくて直視を躊躇われる。似合っていると、素直にそう思った。しかしながら、賛辞を送ることさえ二の足を踏み、それどころか掛けてもいない眼鏡のブリッジを押し上げる醜態を晒す始末だ。宜野座には馴染みの照れ隠しの手癖だと心得ているは、口元を弛ませて腹が捩れんばかりに笑った。力なく項垂れてから彼女を連れ出し、質素な公安局用車両の助手席に押し込めたのが数時間前の話だ。
 お目当ての百貨店に車を走らせると、そこから先はの独壇場だった。春めいたシアーシャツやデニムワンピースをホログラムで投射させて、全身鏡の前で身を翻しては、眉間に皺を寄せて首を捻る。彼女の背後で気配を押し殺していた宜野座だが、頻りには意見を求めてきた。期待を詰め込んだ眼差しに射抜かれても、レディースファッションやトレンドに疎い宜野座はその期待に応えられる自信がまるでない。悩んだ挙げ句「良いんじゃないか」としか返せない自分は、この見立て役に不向きであると改めて痛感していた。女っ気のない朴念仁の昔馴染みでも、もっと気の利いた返事を差し出せるだろう。宜野座はこめかみを押さえながら、の小さな背中を見据えた。鏡越しに映り込む彼女はご機嫌なようで、あどけない無邪気な笑顔が浮かんでいる。片手では収まりきらない量の試着を楽しんだ後に、はそのほとんどをホロではない実物で購入した。同じように段階を踏んで、夏らしいサンダルや華やかな色合いの化粧品も手持ちに加わっていく。気付けば宜野座の両手は溢れ返りそうなほどの紙袋で賑わっていた。
 随分と羽振りの良い浪費だ。危ない橋を渡っては命をすり減らす勤労の対価として相応の賃金を得ているのだから好きに使えば良いと思う反面、意識の片隅では不安が降り積もっていく。何とも品のない、くだらない懸念だ。大量の服飾品は自分を労うための慰労品なのか、――それとも真剣に粧し込んで会いに行きたいほどに惚れ込んだ人物でもできたのか、ということだ。この可能性に辿り着きたくなかった、と宜野座は己の豊かな想像力を呪った。とんでもなく無粋な自覚はあるし、立場上この疑問を突き付けるのは明らかな越権行為だろう。屈折した妄執に取り憑かれる前に、すぐさまその低俗な邪推には蓋をした。例えそうであっても、恋人でもない自分が干渉できるわけでもない。これ以上の詮索も憶測も色相が濁るだけだ。そう思考を巡らせて気を紛らせようとするのが、宜野座にとっての手一杯だった。
 に抱く感情を、常守や霜月のような上司に向ける敬慕として片付けられたなら、どれだけ良かったことか。奥底で燻っている純粋な信頼や誠実な忠誠心とは程遠い感情が、いつか正気を食い潰してしまいかねない。宜野座はそんな厄介な感情を持て余し、漠然とした危惧を拭い去れないまま、物分かりの良い猟犬を演じている。
 が目星を付けていた店舗を回りきったのは午後に差し掛かった頃合いだった。本日の使命を全うしたとなれば、程なくして宿舎に送り返されるだろう。宜野座は充実した休日の閉幕を予期していた。ただ、その見込みは彼を嘲るように大幅に逸れていく。
「寄りたいところありますか? 日没までに戻ってこれそうなら、どこにでも」
 先に車両の運転席に乗り込んでいたは、後部席に紙袋を詰め込んでいた宜野座にそう問い掛ける。不意打ちの提案に宜野座は分かりやすく狼狽えた。車内の天井に後頭部を打ち付けて、その衝撃に下唇を噛み締める。律儀に反応した痛覚のおかげで状況把握に手間取ったが、徐々に思考は冴え始めた。慌てふためくの「大丈夫ですか」の切迫した声が鼓膜を掠めて、宜野座は余計に情けなくなっていた。
 突拍子もないようだが、の発案には彼女なりの意図があると宜野座は勘付いていた。何も休日を延長しようと私情を挟んでいるわけではない。寧ろこの申し出は、が差し出せる最大限の誠意であり厚意でもあった。厚生省に首輪を繋がれた公僕である以上、まともに休息が取れる完全なオフは限られている。上司の権限を行使してその貴重な一日を食い潰した負い目があるのだろう。残りわずかとなった余暇を少しでも宜野座に活用して貰いたいという、の仄かな罪悪感が透けて見えていた。
 階級も身分も異なる監視官と執行官という立場だからこそ、本来なら同情も恩情も余計な感情なのだ。それでも、はその垣根を越えて平等であろうとするし、こうやって義理堅く謝意を示そうともする。ある種一番人間らしく、一方で反社会的とも捉えられる彼女は、宜野座の目にはいつも目映く映っていた。
 助手席に乗り込み、ドアを閉める。外の喧騒から逃れた車内の空気はよく澄んでいた。
「気を遣わせて悪い。今日はもう充分だ」
「疲れましたよね。非番の日にまで付き合わせて申し訳ないです」
「……そうじゃない。充分リフレッシュできたという意味だ」
 の解釈が別の方向に逸れていきそうになったのを、宜野座が咄嗟に引き止める。部下の気遣いが嬉しいような心苦しいような絶妙な面持ちを浮かべて、彼女は柔く目尻を下げた。
「なら、あと少しだけ、お時間を頂けますか」
 宜野座さんと一緒に行きたいお店があるんです。静穏な空間に響いたその言葉は聞き間違えようがないのに、宜野座は真っ先に聴覚の不備を疑った。幻聴だと強く主張したいところではあったが、の熱烈な視線は微動だにしない。社交辞令ではなく真剣に誘いを持ち掛けているのだと、早々に気取った。まさか本物の私情を送り込まれるとは夢にも思ってもみなかった宜野座は、戸惑いながらも頷いて見せる。快諾する以外の選択肢は当然のように思い浮かびさえしなかった。
 そういった事の運びで連れ出されたのが、この自然に溢れたカフェだった。高層ビルの狭間に潜在するこの店は、廃棄区画の再開発が進む過程で取り残されてしまったらしく、一世代前の古民家のような外装をしている。自然光を寄せ付けない路地裏に佇む木造建築物は、一見すると喫茶店とは思えない風貌だ。しかし、仄明るく小綺麗な内装と至る所に分布する観葉植物が、宜野座の嗜好と見事に一致している。運ばれてきた淹れたての珈琲を啜る頃には、すっかり緊張も和らいで寛いでしまっていた。
 ハイパーオーツやホログラムに頼らない老舗として一定の層から根強い人気があるらしく、店内には常連らしき客が数名いた。馴染みのない顔をじろりと一瞥するような不躾な客もおらず、それどころかは店員に「お久しぶりですね」と軽く会釈までされていた。
「行き着けってほどじゃないんですけど、事件の聞き込みで知ってから時々通ってて。宜野座さん好きそうだから、いつか来てほしいなって」
 辿々しく経緯を説明するに、今日はいちいち自分を迂闊に喜ばせる発言が多いな、と宜野座は内心ぼやかずにはいられなかった。その一言一句に動揺しては返事に詰まる自分も大概ではあるのだが。まごついて役に立たない声帯を諌めるように、宜野座は温くなった珈琲を一気に飲み干した。
 いつ社会から淘汰されてもおかしくない逸れ者達も、こうやって誰かに価値を見出されてひっそりと生き延びている。自分も同じだ。という正義を具現化したような存在に導かれて、己の信念を肯定されて、存在意義を証明されている。彼女に対する感謝は尽きることなく持ち合わせているが、そこに厚かましく不純な慕情を根付かせてしまっているあたり、やはり自分は常人から遠退いたれっきとした潜在犯なのだ。脳内でそんな見解を捏ねくり回しながら、宜野座は自戒を込めて目蓋を閉じた。こんな一時凌ぎの方法で立ち消えるような生半可な情熱ではないと知っていたが、形だけでもそうして罪の意識を軽くさせたかった。
 そうした宜野座の平穏な精神だけを犠牲にして、過密に詰め込まれた休日は何事もなく終わりを迎える筈だった。
 思いの外、そうはならなかった。安全を心がけた運転で無事に公安局まで辿り着き、執行官専用の牢獄に舞い戻るまでは予定通りだった。唯一翻った見通しは、が部屋の前までわざわざ足を運んできたことだった。もうその時点で違和感を覚えるべきだったのだろう。しかし、普段は抜かりなく研ぎ澄まされている嗅覚も、身内を前にすれば甘くなるのは致し方ない。宜野座にとっての予定外は、にとっての筋書きだった。
「今日の服、ホロじゃなくて実物だったんですよ」
 ホロデバイスを扉に翳そうとした直前、唐突にその呟きがの唇から溢れ落ちた。静まり返った廊下に一匙の不穏が紛れ込む。いくら女性の心模様に疎い宜野座といえども、それが不満を混じえた催促だということは理解できた。の意を汲み取った瞬間、思わず頭を抱えたくなった。勿論、今すべきことが悪びれるポーズではないということも重々心得ている。こうして遠回しに扇動されて、ようやく宜野座は喉奥に押し留めていたフレーズを引き出せた。
「……貴方によく似合っている。言うのが遅くなってすまない」
「……宜野座さんって優しいのか意地悪なのか、ほんとに分かんない」
 ただ、その成果は芳しくなかったと言わざるを得ない。頬を膨らませて顔を背けたのあからさまに不貞腐れた反応からして、彼女の求めていない誤答を差し出してしまったようだ。血の気が引いていく宜野座の顔色をちろりと伺いながら、はもどかしそうに切り出した。
「本物の服を着て、宜野座さんの部屋まで来て、何も理由がないと思いますか?」
「……いや、それは」
「みなまで言わせる気ですか」
 言外の意図を察しろという眼差しは、微かに潤んでいて、切れかかった蛍光灯の光を反射する。宜野座は針の筵に座らされたような心地になった。鳩尾がきつく締め付けられる。これは心当たりがなくて八方塞がりになったがための苦悶ではない。寧ろ全くの逆で、提示されたヒントを頼りに大凡の見当は付いてしまっていた。だからこそ気を揉んで、怖じ気づいているのだ。
 の目論見が功を奏すれば、宜野座の信条は大きく瓦解する。ふたりを繋ぐ関係性も変貌を遂げる。それらを良しとしない真っ当な倫理観の自分と、密かにそうなることを望んでいる不届き者の自分が、水面下で激しい舌戦を繰り広げていた。愚の骨頂という他ない。どんなに白熱した接戦になろうとも、実際に玉座に居座っているのはの心情を慮ることさえできずに黙秘を貫いている臆病な自分だというのに。
 膠着状態に陥って埒が明かない宜野座の思考を一喝するように、の挙動は躊躇うことなく鮮やかだった。手首のホロデバイスを扉に押し付けて、強制的にロックを解除する。この重苦しい独房においても公安局における上下関係は揺るぎない。監視官権限を駆使したは、立ち竦む宜野座へと詰め寄る。その勢いのまま、ふたり揃って部屋の中へと滑り込んだ。無慈悲に扉が閉まっていく光景を、宜野座はただ呆然と見届けることしかできない。安寧と秩序の保たれた世界から断絶される。何のてらいもなく潜在犯の住処へと侵入してきた張本人は、寄り掛かった宜野座の胸板に頭を預けた。額を擦り付けて無言の攻撃を仕掛けていたが、その襲撃を以てしても硬直している宜野座の反応が不服だったのか、はゆっくりと首を擡げた。極限まで焦らされて熱気を帯びた視線がぶつかり合う。情欲的に濡れたまなこには、悩ましげに眉を寄せる宜野座の面差しが淡く映り込んでいた。
「脱がせてほしいんです。他でもない、宜野座さんに」
 種明かしとしては媚びすぎていて、けれど誘い文句にしては安直でぎこちない。ここまでの一連の流れで、がこの手の誘惑には不慣れだと嫌でも見え透いてしまう。そんな彼女の捨て身の決意を蔑ろにすることが許されるのだろうか。うまくあしらう手段にも拒絶する理由にも着手せず、宜野座の脳内はを受け入れるための屁理屈ばかりを探していた。もうこの時点で、どちらの道に転がり込むのかは明白だった。
 情けなく震えた右手で、宜野座はの腰を引き寄せた。髪を巻き込まないように後ろ手でファスナーを引き下ろし、きめ細やかな背中をなぞり上げる。これから始まる夜が間違いにならないことを祈りながら、宜野座はそっとの額に唇を寄せた。

2023/05/21