あなたと縷々を紡ぐだけ
 きょう、私は誘拐犯になる。その覚悟を身体の末端にまで行き渡らせて、面舵いっぱいハンドルを切った。遠心力に導かれて、助手席の同伴者は勢いよく窓に引き寄せられる。咎めるような物思わしげな一瞥が刺さったけれど、私は素知らぬ顔を貫いて行き先だけを見つめていた。
 夜半の東京は光に溢れている。光源が増幅しすぎて最早暗闇の方が原型を留めていないくらいだ。夜更しに耽る都会の住民を次々と置き去りにして、ふたりを乗せる監視官用の車両は高速道路のインターチェンジへと進路を定めた。予定にないルート変更だ。いつも私にお目溢しをくれる温厚な彼も、さすがに破天荒な運転を野放しにしてはおけないと踏んだのだろう。隣で腕を組んで見守るだけに留まっていた執行官――宜野座は、遂に頑丈に結われていた唇を開いた。
「この方角だと公安には一生掛かっても辿り着かないんじゃないか?」
 表面上は嫌味とも皮肉とも取れる内容なのに、相変わらずの優しい声がそうではないと告げている。車窓に凭れかかりながら疑問を呈した宜野座は、世間話にでも興じているような穏やかな雰囲気を纏っていた。過ぎゆく照明灯が彼の横顔をしろがね色に染める。いつぞやに鑑賞した、今や流通していないであろうモノクロ映画の一景が思い浮かんだ。
 ――こうやって、あと何度助手席に座る宜野座を盗み見る機会を得られるだろうか。何度、彼に手を焼かせる我儘が許されるだろうか。思考を巡らせただけで卒倒しそうになった。いつかに来たる終局を忌避して、深く考えないようにしている。
「……寄り道するから」
 上辺だけを塗り固めて、本音を底に仕舞い込んだ返事を送った。宜野座は神妙そうに眉を顰める。我欲にまみれて混濁した私の真意になんて、これっぽっちも察しが付かないという表情だ。そうだろうな。それで良いと思う謙虚な自分と、全部を晒け出してしまいたいという強欲な自分が今にも取っ組み合いを始めそうだった。
 結局、私は欲望を抑えきれなかった。
「東京を出るの」
「……何だって?」
「ね、宜野座。このまま一緒に失踪しちゃおうか」
 高速で行き交う車の轟音さえも鳴りを潜めてしまうほどの、じっとりと重苦しい沈黙が落ちる。宜野座は瞬きを数度繰り返した。きれいな睫毛が困惑に揺れている。彼の美しい横顔に翳りが差すとき、罪悪感以上に高揚感で満たされてしまう自分がいて、我ながら性根が悪いと思った。
「寄り道ならいくらでも付き合うが、悪い冗談はよせ」
「本気だよ」
「本気なら尚のこと悪い。君ほどの監視官が、まさか潜在犯と……逃亡の企てなんて」
 戸惑いながらも突飛な戯言に向き合ってくれる宜野座は、いつの間にか私の方をしっかり見据えていた。頬に突き刺さる視線が痛い。じくじくと皮膚が化膿してしまったような、そんな感覚に侵されていく。
 宜野座の諌言は至極真っ当だ。日本の平和を司る監視官として、あまりにお粗末な言行だと理解はしている。けれど、ここから先の行く末を思えば――彼が向かう先を知っているからには、何も行動に移さないなんて選択を取れる筈がなかった。
 異動が決まった。もっと正確に言い直すならば引き抜きだ。明日、宜野座は厚生省から外務省へと籍を移す。けれど、ただ上層部や外部の差し金による強制的な人事異動ではない。ちゃんと彼の合意が挟まった、正当性のある転属だった。だから、納得できていないのはたったひとり、私だけなのだ。宜野座と離れたくなんてない。彼を奪って攫って、追っ手も諦めるくらい遠くまで逃げてしまいたい。それこそ本当にただの我儘で、言ってしまえば傲慢だ。誰も得をしないし幸せにもなれない。好きな人を独り占めできる、私だけが幸せになれる道。例えその選択が功を奏したとしても、シビュラに背いた人間の末路なんて知れていると言うのに。分かっていても、私は辛抱ならなかった。
「嫌なの。宜野座と離れるなんてできない。私はやだ」
 言い訳めいた呟きを受けて、宜野座がはっと息を呑んだ音がする。ようやく思い当たったのだろうか。でも、もう構うことなんてない。私はアクセルを目一杯踏み込んだ。今や自動車にはオート運転モードが搭載されているのが定石だけど、安全装置を外せば運転手の意向でいくらでも加速できる。法定を一蹴して、ぐんと速度を上げた。けたたましい騒音が息苦しい空気を戦慄かせる。闇夜を劈いて、車両は行き止まりの逃避行に身を乗り出した。
! 馬鹿な真似はやめろ!」
「やめないったら!」
 宜野座の制止にも聞く耳を持たず、ひたすら高速道路を走り抜ける。やがて車内には機械音声の警告が響き始めた。周囲の乗用車のエリアストレスが跳ね上がり、公安局に異変を悟られてしまえば、直にこの道路は封鎖されるだろう。時間の問題だった。
 監視官も執行官も、ただ首輪が繋がっているかいないかの違いだけで、結局檻から抜け出すことは許されない。目に見えないだけで、数多の不自由を余儀なくされている。そんな公安の奴隷でしかない人間が逃避行を試みるだなんて、端から馬鹿げた話なのだ。成就する筈がない。でも、それでも、私は諦めきれない。例えその先に未来がなくても、行き詰まりのふたりでも、彼をみすみす手放す選択肢だけは取れない。
 神経を張り詰めて運転に尽力していたけれど、その分熱が入りすぎて視野が狭くなっていた。仇となったのはそこだった。
「っ……くそ」
「あっ……!?」
 助手席から伸びてきた腕が、有無を言わさずハンドルを奪う。予想だにしない咄嗟のできごとに判断が鈍った。踏み込んでいたアクセルを加減してしまい、その隙を突くように左に大きくハンドルが切られる。防護柵目掛けて直進するわけにもいかず、慌てて急ブレーキをかけていた。車体が柵と擦れ合い、凄まじい衝突音と共にサイドミラーが遥か後方に弾き飛ばされていく。タイヤと私の寿命をすり減らしながら、車両は急激な減速を経た末に路肩に停車した。
 心臓が、かつてないほど狼狽している。胃袋で暴れ回った粘液が喉元まで迫り上がってきそうだ。命の危機に瀕して居竦まっている私を安心させたのは、やはり隣の彼だった。総毛立って警戒している皮膚を宥めるように、宜野座は生身の手で私の両手に優しく触れた。人肌より少し冷たくて、でもわずかに汗ばんでいる、彼の大事な右手。
「話を聞いてくれ。大切な話だ」
 胸の軋む音がする。一点の濁りもないエメラルドグリーンが私を射抜くとき、どうしたって抗えない。宜野座の眼差しは真剣そのものだ。その視線が私の身体も声帯も、柔く優しく締め上げてしまう。
 身構える私に反して、宜野座は終始冷静だった。身に危険が迫ったばかりだというのに、息を整える行程さえない。私に言い聞かせる言葉はもう決まっていると言わんばかりだった。
「確かに俺の選択は裏切りだと思われても仕方ない。失望されて当然だとさえ思う」
 違う。そんな感情は微塵も抱いていない。私が現実を受け入れたくないだけの身勝手な子どもなだけだ。ただの独断で宜野座が外務省に赴くわけがないなんて、最初から分かりきっている。自分を救い上げた上司のため、無鉄砲で周囲を顧みない盟友のため、背中を預けて共闘してきた仲間のため――そして、思い上がりでなければ、私のためにも。他人を慮ってばかりの彼は、やはり他人のためを思ってあちら側に旅立っていくのだろう。だから、宜野座が負い目を感じる必要なんてどこにもないのに。淀んでいく彼の表情に、胸を抉られたような心地になった。こんな言葉を吐露させてようやく罪責感を覚えるなんて、私はどこまで無神経な女なのか。
 宜野座はその続きを躊躇うように一度唇を食んだけれど、澄み渡ったまなこで私に向き直った。
「それでも、ひとつだけ信じてほしいことがある」
「……なにを?」
「俺の気持ちはどこにいても何があっても変わらない。、俺がお前を一瞬一秒たりとも忘れることはない」
 その真っ直ぐな告白を受けて、ぐわりと視界が揺れた。両目が溶け出すような錯覚に見舞われる。世界が闇と光の境界をぼかしていく。
 宜野座が選んだ行き先が正しいのか正しくないのかなんて、部外者の私には分かりようがない。でも、彼の人生に私という存在が根差しているのなら、それ以上に嬉しいことなんてきっとない。自分の正義を貫き通す宜野座が、その傍らに私への想いを抱えてくれるというなら、それ以上に幸せなことなんてある筈がないのだ。
 ひたひたに満ちた涙腺から、ぽろぽろと水の礫が溢れ出していく。向かい合っていた宜野座は動揺しながらも涙を拭ってくれた。次いで、骨太な指の関節が皮膚を滑る。名残惜しむように、彼は幾度も私の頬を撫ぜた。
「行かないでよ」
「すまない」
「……謝らないで」
「無茶苦茶だな。どうしろって言うんだ」
 天の邪鬼な口唇が、稚拙な要求ばかりを並べていく。笑顔で快く送り出すことこそが彼への最大級の労りだと理解しているのに、呆れ果ててしまうほどにみっともない女だ。醜態を晒して苦汁を嘗める私に対して、宜野座は目を細めて口角を緩ませていた。
 未だ枯れ果てることのない涙は、次第に私の自律神経を狂わせていく。頭はからっぽなのに鈍痛は鳴り止まない。自分の意識を越えて、縋るように彼の手を絡め取った。
「約束して。必ず迎えに来るって」
「……
「私の知らないところで浮気するのも、死ぬのも、絶対に許さない」
 一体何の権限があって、こんな命令を振り翳しているんだろう。いくら監視官の身分であっても、他人の人生を制限するなんて、許される筈がない。それなのに宜野座は笑っていた。目を眇めるように和らげて、深緑の色彩を瞬かせた。
 隙間なく絡み合っている私の手をすくい上げ、宜野座は手の甲にキスを落とした。まるで誓いを立てる騎士のように、あっさりと唇は去っていく。けれど、優しい慈愛のこもった宜野座の瞳はいつまでも私を捉えていた。約束を守ると言わんばかりに、彼の揺るぎない光が真っ直ぐに私を射止めて、ずっと離さなかった。


2021/12/xx