いぱらの鎧を脱ぎすてたら
 それは明らかに形だけの救難信号だった。
『助けてくれ。お前んとこの旦那、大変なことになってるぞ〜』
 と、内容にそぐわない呑気な太刀川くんのボイスメッセージが耳孔に滑り込んできた。電話口の向こうからは世紀末めいた人々の喧騒が漂っている。行き着けの居酒屋なのは間違いないとして、隣席で大所帯の打ち上げでも開かれているのだろうか。飲みの場ですら知性に富んでいるボーダー隊員らしくない雰囲気だったので、勝手にそう解釈しておく。そんなことより、着手すべき本題は他にあった。
 私は数ヶ月前に成人したばかりの大学生で、正直結婚なんて遥か未来の話のように思う。それでも一応、周囲に囃し立てられる程度にはその未来を共に迎えるかもしれない関係値の相手がいたりする。太刀川くんが茶化して旦那と呼び立てたのは、恐らくその人――匡貴くんのことに違いない。匡貴くんとは、高校生の頃にボーダーで知り合ってからそれなりに円満で順調な関係を育んでいる、筈である。当初は氷壁に覆われたように難解だった彼の心情も、今や春先の雪解けみたいに露わになって、その機微の変化が手に取るように分かる。犀利なようで真摯な眼差しとか、厳粛なようで熱情の迸る言葉とか、ほんのわずかに雰囲気が和らいで微笑を湛える瞬間とか。きっと恋人の自分しか体感できない匡貴くんはたくさんあるだろう。でも、太刀川くんが面白がっている「大変な」彼は未知数だった。普段から折り目正しい人生を全うしている匡貴くんが、大変だと騒がれる姿はまるで想像できない。ただ、思い当たる節はあった。その可能性に行き着いた途端、大学の自習室でひたすらパソコンの画面と睨み合っていた私は、居ても立っても居られず慌てて自習室を抜け出した。
 逸る鼓動が夜道を急がせる。ボーダーとも大学とも程良い距離にある大衆居酒屋は、私や匡貴くんを含めた同年代の溜まり場になりつつあった。特に今年はお酒の味を覚えてしまった皆からの格好の餌食になっている。秋の暦に生まれ落ちた匡貴くんはつい先日、ほんの少量を嗜んだばかりの飲酒初心者だ。その日は我を失って錯乱する気配もなかったから、てっきり人並みにアルコール耐性があるものだと思い込んでいた。しかし、今夜の面子を顧みれば油断すべきでないのは一目瞭然だった。もしかしたら匡貴くんの酒癖に興味津々な友人に唆されて、度数の強いお酒を過剰摂取して、他の追随を許さないほど未曾有の酒乱ができあがっているかもしれない。ちゃぶ台が引っくり返っている乱痴気騒ぎの一角を思い浮かべて、骨の髄から震え上がる。絡まりそうになる足を必死に動かしながら、彼の体調と面目の無事を願った。
 ただ、良い意味でこの破天荒な想像力は無駄骨に終わった。一応、この瞬間に限っては。
「遅い」
 既に酒気と熱気が満ち満ちている個室に通されて、いの一番に叱責が飛んでくる。息を殺してそっと戸襖を開いた筈なのに、目敏く彼は私を見据えていた。知らない内に聴覚強化のサイドエフェクトが芽吹いていたのだろうか。ありえない憶測が脳裏を掠めて、思わず口元が緩みそうになった。
 座敷の丁度中央の席を陣取る匡貴くんは、一見いつもの彼と相違なかった。舌が縺れたりとか、皮膚が赤味を帯びたりとか、瞳がとろけて焦点が合わないとか、明らかな泥酔の症状は見受けられない。ちゃぶ台も引っくり返っていない。寧ろアルコールを一滴も口に含んでいないと言われた方が説得力のある、毅然とした佇まいだ。だとしたら、あの珍妙なSOSは何を目的として送り込まれてきたのだろう。益々分からなくなる。
 入室した私に気付いた面々と軽く挨拶を交わしていると、加古ちゃんが蝶の羽ばたきのように優雅に手を振った。彼女は会心の笑みを振り撒きながら、隣の空席を指差している。中途参加でよそよそしい私のために心地良い居場所を提供してくれる心積もりなのだろう。その厚意に甘えようとした矢先、真向かいから殺気立った視線に貫かれて歩みを止めた。心臓がさっと毛羽立つ。確認せずとも出処は分かった。匡貴くんだ。
 彼と加古ちゃんは、互いが互いの欠点を穿り出しては罵り合っている、いわば天敵のような間柄だ。そこには元チームメイトならではの無類の信頼も紐付いている気がするけれど、ふたりは頑なにこの見解を否定している。そんなわけで、今日も今日とて私は板挟みのような大岡裁きのような状況に追い込まれてしまった。
 ふたりの狭間で飛び散っている火花をどうにか遮りたくて、私は匡貴くんの隣に座り込んで彼の背中を撫でた。それはもう、威嚇している真っ只中のライオンの鬣に触れるように、そっと優しく。加古ちゃんには片手で謝罪のポーズを取って何度も会釈した。彼女は唇を尖らせて不服を訴えていたけれど、やがて飽きたのか隣の堤くんに標的を移したのか、華麗なウィンクを残して視線を翻してしまった。目論見通り停戦に持ち込めたようでほっと胸を撫で下ろす。改めて隣の彼に向き直ると、やはり酔い潰れて正気を失くしているとは思えない、凛々しい双眸だった。ひとまず次はこちらに謝罪を送る番だ。
「遅れてごめんね。レポートの提出期限が明日までだったから」
「なら良い」
 謝罪に添えた弁明を言い終えたか否かの瀬戸際で、ほとんど余白を挟まずに許容されてしまった。私に対しては大抵そうなんだけど、匡貴くんは意外に寛容で案外おおらかな部分があったりする。機嫌を損ねてはいないようで何よりだ。
 お絞りで手を拭いて、彼に手渡されたメニューに瞳を彷徨わせていると「よっこらせ」と締まらない声が降ってきた。首を擡げれば、空席だった私の向かいには太刀川くんが腰を下ろしている。お手洗いにでも行っていたのだろう。
「おお、。早かったな」
 席を立つ前後での間違い探しに気付いたのか、太刀川くんは私を見留めるとへらりと相好を崩した。まるで他人事のような口振りに苦笑するしかない。彼は彼で相当酔いが回っていそうな呂律だから、あの救難信号を発した過去なんて記憶の海に葬り去っていそうだ。このままでは、あれを送るに至った経緯も目的もわからず終いになってしまう。生ビールの注文を終えて、早速尋問に取り掛かることにした。
「急かしたの太刀川くんだよ。助けてくれなんて言うから、心配で……」
「何故お前が太刀川の心配をする」
 そうしたら、思い掛けない方向から横槍が飛んできた。はっと息を呑んで、お隣に視線を傾ける。先程までの穏やかな匡貴くんはどこに消え去ったのか、今や鋭く研ぎ澄まされた眼光が私を捉えている。尋問されるのは私の方だったらしい。迅速に嫌疑を晴らそうと、慌ててかぶりを振った。
「え、や、私が心配したのは……」
「俺を心配してくれたのか? 優しいな、惚れちゃいそうだ」
「ねぇ、待って。太刀川くんも話をややこしくしないで」
 あらぬ誤解に太刀川くんが追随して妙ちくりんな感想を溢した辺りで、まだアルコールを蓄えてすらいないのに、もう私の胃は大荒れ模様だった。一斉に血の気が引いていく。こんなあからさまな茶々を真に受ける人ではないけれど、相手が太刀川くんとなると話は別だ。くだらない話題でもちっぽけな虚偽でも、太刀川くんの飄々とした声に包まれるだけで、匡貴くんは過剰なほどの殺気を燃え立たせる。彼もまた加古ちゃんと同じ、目の上のたんこぶなのだ。百獣の王といえど何かと天敵が多いのである。というか太刀川くん、修羅場の気配を探知して絶対に面白がっている。そういう笑い方をしている。
 氷点下の湖に沈められた溺死体のような心境になりながら、恐る恐る匡貴くんを見上げた。思いの外、普通だった。私ではなく太刀川くんを見据えている横顔は、どこぞの彫像みたいに細部まで丹念に刻み込まれた美しさがあって、つまりいつも通りだ。般若の顔で蔑まれる最悪の想定をしていた自分が恥ずかしくなる。ただ、本当の意味で地獄を見るのはここからだった。主に匡貴くんが。
「勘違いするな。こいつはお前なんて眼中にない」
「そうか? 目の前にいるだろ」
「いない。が好きなのは俺だ」
 絶妙に噛み合わず微妙にすれ違っている会話に耳を傾けていると、とんでもないところに話が帰結して、思わず耳を疑った。いや、そうだけど。紛うことなき真実だけど。それを本人から大っぴらに開示されるとは思わなくて、ぶわりと肌が粟立った。両頬に血液が集中する。周囲からの生暖かい視線が余計に羞恥心を掻き立てる。
 しかし、匡貴くんが操縦する暴走列車は留まるところを知らない。太刀川くんに見せつけるように、彼は私の肩を掴んで自分の胸元へと引き寄せたのだ。体内時計が急停止して、危うく心臓まで止まりかけた。衣服越しとはいえ、堂々と公共の場で密着する行為に抵抗がないわけがない。というか、皆からの反応を確認するのが恐ろしい。
「間違いないな」
「……え!? うん? え?」
 畳み掛けるように私にも裏付けを取ろうとする匡貴くんの呼気で、ようやく彼の異変に気が付いた。棄却していたひとつの可能性が墓場から蘇る。その熱い吐息は、間違いなくアルコール特有の香りを纏っていた。正しかった。匡貴くんの脳髄は既に酒毒に侵されていたのだ。
 この場で「おぉ〜」と間抜けな歓声を上げたのは太刀川くんただひとりだった。匡貴くんに酔いが回っていると知っていたからか、他の面子は白けるでも咎め立てるでもなく、ばつが悪そうに目を逸らしている。私の生ビールを運んできた店員は一瞬硬直して、いそいそとジョッキをテーブルの片隅に置いていた。各々そんな感じの反応だ。皆それぞれ道徳心を持ち合わせてくれているのが唯一の救いだろうか。ここで「チューしろ」なんて野次が飛ぼうものなら、本当に悪びれもなくお披露目してしまいかねない。お酒に飲まれた匡貴くんは未知数の未確認生命物体だ。何をしでかすか想像すらできない。けれど今日、きっと確認することになる。
 眼前でよく知る男女の抱擁なんていう目障りな光景が繰り広げられているのに、太刀川くんは平然としていた。寧ろ私達を酒の肴にでもしようというのか、生ビールを追加注文している。変わらず彼は気兼ねない笑みを口角に湛えていた。
「な、言っただろ。大変なことになってるって」
「……た、助けて、太刀川くん」
「絡み酒らしいな。俺もさっき死ぬほど説教されたぞ。東さんにレポートの手伝いを頼むなとか、出水の才能を潰すなとか、の視界に入るなとか……」
 それは確かに気の毒だけど、助け舟にさえ聞く耳を持たない彼も、結構な飲酒量になっていそうだ。ふにゃふにゃな舌先は今にも縺れそうだし、格子状の黒目も据わっている。いくら最強格の攻撃手であっても、アルコールの作用には逆らえないらしい。それは射手の彼も同様だ。どうか良い教訓になりますように、と近くて遠い未来に思いを馳せた。
 さて、私を腕の中に囲い込んで絶賛酩酊中の匡貴くんの現状は、こうなった。
「……寝る。膝を貸せ」
 遂に覚醒の許容量を越えたらしく、微睡む瞳でそう所望されてしまった。その発言自体に強制力は備わっていないけれど、頭の中に拒絶するなんて選択肢はない。彼の体調と面目を慮るのならば、私の膝を枕代わりにしてでも就眠させるべきだと思ったのだ。深く頷いた私を見届けると、匡貴くんは宣告通り身体を横にして目蓋を閉ざした。微かな寝息がタイツ越しの太腿から浸透して、何だかこそばゆい。
「膝枕ってなんかエロいよな」
 と、またも素直に余計な感想を溢していた太刀川くんも、やがて数分後には机に突っ伏して鼾をかき始めた。到着した生ビールは私が貰い受けておく。酒を飲まずしてやってられない。
 散々というか、災難というか。今夜をそんな不満ひとつで締め括るのだから、皆は私を褒め称えてくれても良いと思う。そうして然るべきだ。混じり気のない栗色の髪を指で梳きながら、ジョッキを一気に呷った。


「……そういうわけで、匡貴くんは私の家にいます」
「…………」
 順を追ってここに至るまでの経緯を説明し終えると、匡貴くんは苦虫を噛み潰したような顔をした。それはもう世紀末を迎える直前のように、顔を顰めて唇をひん曲げていた。
 飲み会がお開きになった頃には、匡貴くんはしっかり二本足で地に立てるまで回復していた。ただ言葉数が少ないのは通常営業だとしても、泥酔状態の彼に遭遇した試しがないので、このまま一人で帰して良いものかと判断に迷った。迷った挙げ句、私の家に泊まるよう提案したのだ。誤って自販機に戦闘を挑んだりポストを持ち帰ろうとする先例があるため、その方がよほど安全だと思った。発案の意図を全く汲み取れないだろうに、匡貴くんはふたつ返事で承諾した。あまり聞き慣れない、酒気が絡み付いて掠れた声だった。
 絶句している姿を見るに、やはり昨晩の騒動は何ひとつ覚えていないのだろう。険しい顔付きからして、どうにか記憶を遡ろうと試みているようだ。やがて諦めが付いたのか、匡貴くんは私に向き直って熱い視線を注いだ。切腹を覚悟した武士のように真剣な眼差しだった。
「今後、飲酒を一切禁止する」
「そ、そこまで!?」
「二度も同じ轍を踏んで堪るか」
 思いの外、初めての失敗に対する罰則が重かったので叫んでしまった。逆に言えば、それだけ匡貴くんが自省して自責しているという確かな証明でもあるのだけど。折角飲めるようになった暁に、極端すぎる摂生はいささかもったいない気もした。
「でも、机は引っくり返さなかったから。匡貴くん偉いよ」
 さすがに成人男性に求めるハードルが低すぎる気もしたけれど、身の毛もよだつ凄惨な光景が広がっていなくて安堵したのも確かだ。できうる限りのさり気ないフォローに、匡貴くんは「そんなことをするのは風間さんと太刀川くらいだ」と割りかし失礼な指摘を述べた。思わず頬が綻びそうになる。彼はこれくらいの天然な鉄面皮が似合っているのだ。
 もちろん程々にお酒を嗜んでほしいけれど、願わくは、あの甘えたがりな恋人は私だけが独占したいなんて。浮かれすぎの望みすぎだろうか。


2024/01/01