飾らないロマンス
 例えば、恋人にフラれた夜に喚き散らしながら朝まで暴飲した私に文句を垂れながらも付き合ってくれたとき。例えば、夏風邪を引いた私に差し入れを持って来て、炊事と掃除と洗濯を済ませたらさっさと帰ってしまったとき。こういう些細な瞬間を積み重ねていく内に、この男は異性ではなく幼馴染なのだと認識するようになった。見返りを要求されることもなければ、一夜限りの過ちに溺れる心配もない。不健全なほど健全な幼馴染としての関係を、今の今まで順調に綴ってきた。あとどれくらい、この起承転結さえいい加減な単調で薄味の物語は続いていくのだろう。できれば、ずっと。誰に求められていなくても、永遠のその手前くらいまで。なんて都合が良すぎるかな。
 網の上で熟すのを待っている肉塊と、その頃合いを狙っている静謐な肉食獣の攻防戦を見守りながら、すっかり私は上機嫌になっていた。望んでいた幼馴染のいる日常、その象徴が視界いっぱいに広がっている。機嫌だって弾んで浮ついて駆け足になるというものだ。空っぽの胃から執拗に染み込んでいく酒気だけが戦犯ということはない、けっして。
 初陣の肉が焼き上がる前にジョッキを二杯空にした私は、傍を通り掛かった店員を呼び止めた。上擦った声で生を追加で注文する。こめかみに突き刺さった憐れみの睥睨を気にしている暇はない。焼き肉は戦場だ。その格言を教示したのは他でもない、我が幼馴染こと二宮匡貴だった。
「私、匡貴に彼女できたら野垂れ死ぬだろうなーって常々思ってるよ」
「……今更だな」
 匡貴の手によって熟成した至高の肉を頬張りながら、うっかり戯言の延長線を口走ってしまった。笑うしかない。どうやら思い掛けない速度で全身に酔いが回り、思考も酩酊しているらしかった。本心には違いないけれど、それを詳らかに露呈するのは些か気恥ずかしくもある。匡貴の呟いた通り、私のとんでもない醜態を目の当たりにしてきた彼にとっては、本当に今更な話なんだろうけど。突飛な発言を受けても、匡貴は真面目な顔付きでイチボを咀嚼している。興味の欠片もなさそうだ。肉が焼き上がるのを待つまでの間、この無駄話をもう少しだけ引き伸ばすことにする。
「私がその辺で野垂れ死んでたらどうする?」
「家の裏庭にでも埋める」
「えっ……匡貴って優しいとこあるんだね」
「…………飲みすぎだ、馬鹿が」
 埋葬は冗談のつもりだったのか、心底嘆かわしいといった軽侮の視線を注がれる。直球のお咎めを食らって、ついでに新たに運ばれてきたジョッキは回収された。酒ではなく肉を嗜め、とばかりに手付かずのジンジャーエールを押し付けられる。少々物足りなさはあるけれど、肉本来の旨味を堪能するには丁度良いのかもしれない。強炭酸に咽頭を窄めながら、調達されてきた肉を口に運んだ。舌に馴染んでゆく柔らかさと噛む度に広がる肉汁が、いかに匡貴の見極め具合が洗練されているかを証明している。抜け目なく完璧を追求する男の性格、その映し鏡みたいなものだ。そして、堅苦しい雰囲気を纏いながらも身内には甘い。匡貴が優しいなんて、そんなのは今更大々的に公表するまでもない分かりきった事実だった。欠点らしい欠点と言えば、焼き上げた肉を人の意向を窺うことなく自分好みのタレの器に放り込んでくる悪癖くらいだろう。提供して貰っている立場だけど、これだけはいつか絶対に指摘してやらねばなるまい、と心に決めている。私は身内にも厳しい性分なのだ。
 立ち込める煙の白いカーテンが揺れる。薄膜越しに彷徨い歩く私の視線を感じ取ったのか、匡貴は胡乱な目付きで応対した。改めて取っ付きにくいなぁと思う。きっと幼馴染じゃなければ、親同士の仲が良好でなければ、知り合うことすら避けていたであろう人種だ。不思議な縁によって結ばれた関係が、こんなところまで私達を押し上げている。本当に、おかしな話。
「でもさ、冗談じゃなくて本当に」
「……」
「こうやって男女の友情を続けられるのって、後にも先にも匡貴くらいなんだろうなって」
 ほろりほろりと本音が溢れて溶け込んでいく。よくもまあこんなに口が回るものだ。他人事のように関心している。夜を越えて正気を取り戻したら、きっと羞恥が頭を擡げてベッドでのたうち回っているだろう。そもそも自宅まで辿り着けるだろうか。……大丈夫か。心配せずとも匡貴なら、辛辣な罵倒を浴びせながらもベッドまで運んでくれるに違いない。コートを脱がせて化粧も落としてアラームもセットして……、まさに至れり尽くせりだ。これが泥酔して草臥れた後のルーティンと化しているのだから、やはり私は匡貴がいないと野垂れ死ぬ運命にあるだろう。はっきりと確信した。
 勝手に本日の行く末を思い描いている呑気な私に打って変わって、匡貴は何やら神妙な面持ちへと移り変わっていた。綺麗な二重幅に重たい翳りが差す。明らかな不快感というよりは、一縷のやるせなさや歯痒さのような苦々しい感情が透けて見えた。表情の変化に乏しい匡貴が、そんな顔を露呈させるなんて珍しい。軽率な口舌を猛省した。柔く唇を結って、身構える。
「……男女の友情か」
「うん」
「どうだかな。俺はそんなもの知らないからな」
「……うん?」
 吐き捨てられた苦言はさすがに聞き捨てならなくて、というより現実のものだと理解するのに時間を要して、思わず首を傾いでしまった。「恥ずかしい奴だな」と一蹴されるのがオチだと思っていただけに「知らない」の意図が掴めなくて混乱してしまう。どういうこと? 私と匡貴の関係は、男女の友情に位置しない別の何かなの? 奔走する思考がいくつもの可能性を列挙する。どれも納得には程遠いけれど、一応念のため確認してみることにした。
「私のこと男だと思ってたの?」
「思ってない」
「匡貴、もしかしてロボットだったり?」
「もしかしてなわけがあるか」
 そりゃそうだよね。怒涛の質問を繰り出しておいて、こんな舐め腐った返事を寄越せば、本日の会計を私持ちにしてこの場に置き去りにされそうだ。気が緩めば飛び出そうになる不用意な言葉はうまく喉奥に押し込めたけど、私の腑抜けた表情だけで匡貴は察したようだった。一際鋭い視線に心臓を穿たれる。息苦しい。湧き出る手汗が厭わしい。法廷に立たされて怪訝の眼光を浴びる被告人ってこんな気分なのかもしれない。
 匡貴が発した「知らない」にはきっと否定の意義も含まれている。男女という部分の否定ではなかった。となれば、残るはひとつだ。友情という部分の否定、そしてそれが指し示す事実。今の今まで思い付きすらしなかった。きっと、まさか、そんな。
 どれだけ可能性を模索しても、行き着く結論はただひとつになってしまう。嘘でしょう? そんなことがあり得るのだろうか。俄には信じ難い推測を前にして、否定も肯定もできずに沈黙する。寿寿苑独特の喧騒が漂ってきて、お通夜じみた雰囲気の私達を囃し立てているようにも感じた。そして、この沈鬱した空気からの脱却を図るべく先陣を切ったのは他でもない匡貴だ。
「出るぞ」
「えっ、う、もう?」
「肉は腹八分目程度で丁度良い」
 尤もらしい主張で誤魔化しているけれど、腹がはち切れる寸前まで食い意地を張る私を静観している普段の匡貴とは乖離した発言だ。恐らくこの持論は本意ではない。本題を煙に巻こうとする、虚飾を纏った口実に過ぎない。言うが早いか匡貴は立ち上がって手入れの行き届いた上質な外套を羽織ると、伝票をかっ攫ってレジの方へと向かってしまった。徐々に小さくなる背中を指を咥えて見送るわけにもいかない。慌てて私も身支度を整え、鞄を抱えて匡貴の元に急ぐ。とっくに会計を済ませていた彼は入口の扉を開けて待機していた。ささくれ立った双眸に心急かされて、一目散に扉をくぐり抜けた。
 店を出た瞬間、木枯らしが秋の夜長を駆け抜けていく。厳冬に迫る勢いの夜風が酒気を帯びた肌には心地良い。惜しげなく透徹した空気を吸い込んでいると、匡貴が後方から私を追い抜いて先頭に躍り出てしまった。今度は取り残されまいと、小走りで後を追う。私の所在を確認するように一瞥を寄越すのも、緩やかに速度を落として足並みを揃えてくれるのも、いつもの匡貴だった。見慣れた帰途、見慣れた光景、見慣れた立ち姿。いつもと同じなのにいつもと違うのは、ふたりの狭間を行き来するぎこちない静寂だけだ。私の狼狽を抽出して撹拌しているかのように、今日の外気はどこか挙動不審で落ち着かない。
「……お前が幼馴染だから、俺は優しくしてやってると思うか」
 そんな空騒ぎの夜更けに紛れ込むような、匡貴らしくない控えめな問い掛けだった。あれだけ錯乱していた心臓が卒然と静まり返る。混迷していた脳内が澄み渡っていく。匡貴の遠回しな言説を繙いていけば、幼馴染「だから」優しいのではない、という皮肉に繋がる。そこでようやく、ただの憶測が確信へと変わる音がした。いくら私が愚鈍で無神経な性格と言えども、この場でその本領を発揮できるほど酷薄な人間ではない。寧ろ今の今までその可能性が頭を掠めすらしなかった自分の鈍感さに、良心が肉薄される始末だ。もう薄々と、刻々と勘付いている。匡貴から差し向けられる柔い眼差しの奥に潜む熱情、その正体。ひとたび思い至ってしまえば、無視することなんてできやしない。
 直視を免れない結論に行き着いてしまったからこそ、尚のこと私は口を噤むしかなくなった。そもそも途方もない話なのだ。長年連れ添ってきた幼馴染相手に、思いも寄らない情念を示唆されたのだから。受容すら難しいというのに、適切な返事なんて見当も付かない。奥歯を噛み締めてひたすら思い倦ねる。ふと盗み見た先の、街灯の光源からはぐれた匡貴の横顔は、沈んだ夜色に塗り替えられていた。
「この関係が幼馴染でなくなっても、俺はお前を見限ったりしない」
「なくなっても、って……」
「ここまで言っても分からないのか」
 冗長な溜め息に鼓膜が気圧される。実際のところ、匡貴側に萎縮させようなんて目論見は毛頭ないだろう。私がひとりでそう解釈して、ひとりで震え上がっているだけ。もはや匡貴は幻滅する気力さえ失ったのか、毒気を抜かれたような清々しさを滲ませている。
 ……ごめんね、匡貴。本当はもう分かってるんだ。ただ、どう応えるべきか、その一点に限っては考えが纏まらないだけで。
「もし付き合っても、今まで以上にお前を甘やかす自信も面倒を見る自信もある。そういうことだ」
 畳み掛けるように一息で浴びせられた告白は、想定の遥か上空を通り抜ける衝撃だった。告白というか、宣告というか。愛の言葉を囁くなんて柄でもない匡貴にとっては、きっとこれが手一杯の求愛だったに違いない。……本当に私のこと好きなんだ。その事実に直面した途端、血流が一気に加速する。顔が熱い。今の私の両頬、茹で上がったタコ顔負けに真っ赤だろうな。目の前の男は熱烈な告白をぶちまけておいて、顔色ひとつ瞬きひとつ変化の兆しを見せないというのに。何だか悔しい。
 全くもって失礼極まりない話だけど、匡貴を異性として捉えた瞬間など一秒だってない。そういった痴情を挟まずとも成り立つ殊勝な関係だと思い込んでいた。別に裏切られたなんて被害者意識は更々持ち合わせていないけれど、だからと言ってすぐに当事者意識が芽生えるわけでもない。匡貴に寄せられた好意を自覚するには至っても、まだ私は自分の気持ちを自覚できないでいる。友情を前提として培ってきた関係がその方向性を180度変えても、従来通りの安寧に浸ることができるのだろうか。恋人としての発展を望んだとして、私は匡貴とその関係を滞りなく育むことができるのだろうか。数々の不安要素が脳裏を埋め尽くして渋滞している。
 でも、不思議と付き合わないという想像だけは微塵も浮かばない。私達を呼称する関係が移り変わってしまっても、匡貴の隣を歩き続けていたい気持ちだけは確かな証拠だった。
「……彼女になっても、私が匡貴とキスとかえっちとかするの、想像できないよ」
「したくないならしなくていい」
「匡貴はしたくないの?」
「お前の嫌がることはしたくない」
 ここまでくるともう飼い慣らされている気分だ。宣告通り、恋人になったとて不満も不自由も一切ない快適な関係が提供されることだろう。理不尽極まりない我儘に年がら年中振り回されているだけあって、この王様は私に限り頗る寛容なのだ。きっとどんな望みも叶えてくれるし、受け入れてくれるし、尽くしてくれる。でも、それって。
「……それって恋人じゃないといけない?」
 奥底で蟠っている違和感の真髄はそこにあった。幼馴染に固執しているわけではないけれど、恋人としての意義を見出せない曖昧な関係に、価値があるのだろうか。
 溢れ落ちた私の不粋な疑問を受けて、一向に歩みを止めなかった匡貴の爪先が初めて停滞した。忽然と立ち止まった彼の方を振り返る。足が竦んだ。切り離されてできあがる空白の向こう側で、夜道に紛れた匡貴が立ち往生している。いつだって厳然たる相好を崩さない男が、今だけはどこか寂しそうで、苦しそうな雰囲気を纏っていた。
「幼馴染なんて足枷のせいで他人のものになるお前を、これ以上見たいと思うか」
 どこか不貞腐れるように投げ捨てられた一言、その真意に辿り着いた瞬間、胸が押し潰されそうになった。身体の芯から打ち震える。いくら匡貴の表情筋にサボり癖があるとはいえ、彼自身は感情が循環するれっきとした人間だ。私に恋人がいた期間、延々と花を咲かせていた惚気話が苦痛でなかったわけがない。傷心しながらも耳を傾けて、気丈に普段通りを演じて、私の自由を尊重してくれていたのだ。自分は幼馴染であるという意識を刷り込んで、一途な恋心を押し殺して。きっと他の誰にも真似できない。私のことを本気で大切に思ってくれている人にしか、こんなことはできない。
 今まで匡貴を苦しめ続けていた罪悪感に苛まれながら、それでも取るべき行動にもう迷いはなかった。躊躇なく片手を差し伸べる。迷い子を導くように……なんて、匡貴に知れ渡ったら殺気立った睥睨が飛んできかねない。彼はわずかに瞠目して、不服を湛えながらも最後には手を取ってくれた。骨ばった手から仄かな体温が浸透する。初めての試みに詰め込んだ私なりの返事を、匡貴は感慨深そうにぎゅっと握り締めた。
 この世には完璧もなければ永遠もない。仮にそう見えても、見せ掛けだけの膠着状態に過ぎない。きっといつかは変化が訪れる。匡貴が私を大事に思ってくれて、私が匡貴の隣を歩んでいたい以上、幼馴染としての間柄に執着する必要性なんてどこにも存在しないのだ。不完全で不確実な関係を織り成すことで、匡貴に抱く感情が変化することも、以前よりも心地良い関係に変化することも、十分にあり得る。そういう未来に希望を託して、私は匡貴の手を引いた。もうそこに不安材料は見当たらなかった。
「……私、益々匡貴がいないと野垂れ死にそうな未来しか見えないかも」
「そんな未来は来ない」
 微粒子レベルに残存していた私の杞憂すら、こうもあっさり切り捨ててしまう。どうせ匡貴のことだから、自分が好き好んで離れるわけがないという主張を込めての発言だろう。堂々たる自信を突き付けられて、胸の内側がこそばゆくなった。
 冷たく見えて熱い男だ。真面目なくせに天然だ。感情表現が下手くそな不器用人間なのに、選び抜いた言葉は一片の迷いもなく一直線を描いている。どれも大々的に公表するまでもなく、昔馴染の私にはとうに知れた事実ばかりだ。でも、ここから先、きっと未だかつて出逢ったことのない匡貴にも巡り会える予感がする。私達が踏み出した一歩は、そういう期待に満ち溢れたものだ。どんな変遷を遂げたとしても、湧き上がる感情も、巡る四季の光景も、見飽きた夜半の帰り道も、隣にいる匡貴だけが色鮮やかに彩ってくれる。


2022/10/27 おめでとう!