永遠さえも手放さない
 大海を模した巨大な水槽に、大小様々な魚達が閉じ込められている。青白い水中を悠々泳ぎ回る彼等は、その生態を観察する外野には目もくれない。各々で散らばって、或いは群れて、思い思いに擬似的な海中生活を営んでいる。海と陸とを区切る決定的な一枚、分厚いガラスに手を重ねて目的なく視線を移ろわせる。縦横無尽に動き回る魚達にこちらが気疲れして、目を瞑りそうになったときだ。背後から呼び声が掛かった。私が待ち焦がれていた声は、賑わいを見せる館内でもよくよく耳介に通る。振り向くと、わずかに憤りを潜ませた渋面の二宮くんが立っていた。
「お前はどうしてそう落ち着きがないんだ」
「……攻撃手だから?」
「そういう性格だからだ」
 私の惚けた返答を一蹴すると、二宮くんはこれ見よがしな溜め息をひとつ零した。眉間の皺を解しながら自然な振る舞いで隣に並び立つ。人工的な深海によって青む彼の横顔は、この世界で右に出る者がいないほど美しくて、図らずしも息を呑んでしまう。魚ではなく二宮くんに気を取られていると、彼は咎めるように私の鼻をつまんだ。息苦しさにぷはっと吐息を洩らす。二宮くんの雰囲気が少し和らいだように感じて、胸の内側がこそばゆくなった。
 でも、控えめな視線に逸早く反応した二宮くんだって、ひとのことを咎められるほど集中できていないんだろう。そうだと良い。私と同じように、この稀有な機会に緊張して、心臓が高鳴っていて欲しい。
 離された手指の行き先を見届けて、ようやく彼から本日の目当てに意識を集中させた。水槽の奥、更なる深層から姿を現したのは、日本の水族館でも有数しか展示されていない生命体。白と黒のみの簡素な色彩を身に纏う巨躯は紛れもなく海の王者、シャチだった。
 悠揚たる佇まいで下層から舞い上がってきたシャチは、外界の人間さえもひりつかせる貫禄を有している。漠々たる海原、その頂点に君臨する者の余裕だろうか、それとも驕りだろうか。一瞬、巨体に反してつぶらな瞳と視線が交じり合う。けれどシャチは知らん顔を貫いて、光の兆す水上へと向かってしまった。
「あれが見たかったのか」
 何の感慨もなさそうな語調で二宮くんが尋ねる。無配慮とか不躾とか、彼の性格を今更そういう上っ面の言葉で形容する間柄でもないから、気分を害したりはしない。寧ろ自分の興味を惹かれなくとも私の提案を受け入れてここまで足を運んでくれた事実が、何より嬉しいのだ。
「でも、まだ見所はいっぱいあるから」
 今日一日はまだ始まったばかりだ。これから先、私も二宮くんも知らないたくさんの体験が待っている。そう伝えると、心なしか切れ長の瞳が細くなった気がした。
 順路に従って進路を取る。四方から見られるように設計された水槽のため、鷹揚に泳ぐ大きなシルエットが視界の端にちらついている。どうしてか私はあのシャチに初めて出会った気がしない、いわゆる既視感というものを覚えていた。


 ボーダーを基点として山々に囲まれる三門市は、基本的には飲み屋やスーパーのような住むために必要最低限の店舗だけが立ち並んでいる。動物園や水族館のような生命体を飼育しなければならない娯楽施設は、戦闘による破壊のリスクが考慮され、隣の四塚市に集中していた。大学生活も後半戦に差し掛かった四年の秋、私は加古ちゃんからとある物を貰い受けた。四塚水族館の入場料が半額になる特別優待券、だそうだ。おふたり様専用と記されたそのチケットが確かに二枚同封されている。加古ちゃんは薄くて瑞々しい唇ににんまり笑みを浮かべて、好きに使ってと囁いた。この限定された用途の品を使うとなれば、誘う相手はひとりしかいないし、きっと彼女もそれを見越してのことだろう。偶然にも来月の初旬、ふたりの休日が重なった日があったと思い出して自然と口角が緩んだ。
「本当に貰っちゃっていいの?」
「えぇ、もちろん。暫くぶりなんだし二宮くんも喜ぶと思うわ」
 細長い指を顎先に添えた加古ちゃんは、普段の面白がる素振りはなく、楽しんで来なさいという純粋な後押しを湛えていた。
 二宮くんと私を形容する関係は、有り体に言ってしまえば恋人だ。ボーダーで知り合って以来、距離を掴みにくい仏頂面の唐変木と少しずつ距離を縮めて、今や彼女として隣に立つことを許されている。その事実は何度噛み締めても信じがたいし夢見心地だけれど、その夢のような現実は今もこうして地続きのまま私達の行く末を照らしていた。
 最近は卒業を控えた生活を余儀なくされて、互いに折り合いが付かず、面と向かって話す機会は確実に減っていた。口に出すのは躊躇われるけれど寂しい心持ちではあったし、悪い方向に気分が逸れていたのも事実だ。すれ違い紛いな膠着状態を貫いていた今、このチケットは話を持ち出すチャンスなのかもしれない。意気込んだ決意が先走ってチケットを握り締めてしまい、慌てて手のちからを緩めた。
「二宮くんに遠慮なんてしないで、ちゃんと話してくるのよ」
 それで目一杯楽しむこと。念押しするように付け加えて、加古ちゃんはきれいに整えられた爪で私の鼻先を小突いた。ひとつひとつの所作が洗練されている彼女には、毎度のことながら見惚れてしまう。加古ちゃんは相談に乗ってくれる良き理解者で、きっと今の私の心境を一番理解して汲んでくれているひとだ。その厚意を存分に受け取り、大きく頷いた。
 二宮くんと私のふたりで歩みを共にしてきた時間は膨大で、幸せに満ち溢れている。だからこそ、余計に怖くなる。いつか途切れる道程、その尽き目に行き着いてしまったとき、ふたりはどうなってしまうのだろう。二宮くんは、私の手を離さないでいてくれるのだろうか。
 その不安を振り払うことはできなかったけれど、加古ちゃんの思し召しに従って、心ゆくまで楽しみたいとは思った。灰色がかった不安に期待を上塗りしていくことは、そう難しいことではない筈だから。


 メインの水槽から離れた後は、それぞれの生息地やテーマによって分類されたエリアを観賞した。まるで海底を探索し、未知との遭遇に胸を躍らせている気分だ。魚類だけに留まらない数々の神秘的な生命体との邂逅に、高揚感が積み重なっていく。私が嘆息の声を洩らす度、二宮くんは一体何に興味を惹かれているのかとこちらをまじろぎもせず見つめてきた。でも過剰に難色を示したり、頭ごなしに否定したりはしない。私が好きなものをそういうものだと認めてくれる。第三者の目線では感じ取りづらい彼の優しさは、当事者である私だけが受け取ることができるし、十全のかたちで知り得ている。
 水族館は土曜の昼間ということもあってひとで賑わっていた。子連れやカップル、男女で構成された学生のグループ、……。何度か人波に揉まれそうになったけれど、二宮くんがその都度手を差し伸べて、つんのめった私の体勢を立て直してくれた。結局人混みに巻き込まれてはぐれる事態を嫌ってか、途中からはずっと手を繋ぎ留めたままの状態を維持することになった。彼のひと回りもふた回りも大きな手のひらに捕らえられて、どこにも行くなと言い聞かされている。言葉にされずとも痛いくらいに伝わった。共鳴するように握り返すと、二宮くんは珍しく一驚したのかちろりと視線を送ってきた。凪いだ水面のように密やかな瞳が、辺り一面を覆い尽くす水槽に重なって見えてしまう。高鳴る鼓動を抑えきれないまま、赤くなる前に顔を傾けて唇をきゅっと結んだ。
 順路を進むにつれて館内の楽しみがひとつずつ減っていく。深海をモチーフにした区画を抜けると、備え付けの照明が一際明るくなった。もう残されているのはお土産屋さんと中央の水槽まで戻る通路だけのようだ。幻想的な世界から一転して現実に突き落とされたような、0時に魔法が解けてしまったシンデレラのような心境だ。心の底でがっくりと肩を落とす。疎らになった群衆につられて手を離し、向かいにあるお土産屋さんを指差した。
「加古ちゃんにお礼したいから寄ってもいい?」
「ああ」
「二宮くんもお土産買う? 隊のみんなに」
「近場なのにわざわざ買う必要もないだろう」
 確かに隣接する市でのお土産を買うかどうかは悩みどころだし、ボーダーやキャンパスの莫大な人数を考慮すれば、買わない選択肢の方が妥当かもしれない。けれど今回、大いにご助力頂いた加古ちゃんには何かしら御礼の品を贈りたいとも思った。彼女好みそうな甘さ控えめのクッキーを手に取り、レジに向かおうとしたときだ。視線が肌に突き刺さり、その引力に引かれるように振り向いた。そこでまた、目が合った。視線を交わしたのは本物のシャチではない、スケールを何段階も縮小したシャチのぬいぐるみだった。パーツをデフォルメ化し、小さくなったぬいぐるみはそれでも両手に有り余るほどのサイズを擁している。思わず手を伸ばして抱きかかえてみると、ふわふわの毛並みが皮膚に心地良さを齎してきた。両手で抱き留めて柔らかな触り心地を堪能していると、背後から溜め息が降り注がれる。
「そんなにコイツが気に入ったのか」
 鋭利に研ぎ澄まされた声に、背筋を震わせながら振り返る。二宮くんは、まるで己の仇敵を見据えたような眼力で私を――否、ぬいぐるみを見下ろしていた。
「見て回っている間もずっと気にしていただろう」
 不服そうに問いただす二宮くんの声に、はっと閃きが走る。コイツと指し示したのはシャチを模した人形ではなく、大らかに水中を遊泳するシャチそのもののようだ。どうやら私がシャチにうつつを抜かして、水族館を十分に楽しめていなかったと結論づけたらしい。確かにあの巨体を視界に入れたときから湧き上がった既視感には後ろ髪を引かれる思いがあった。けれど、何も上の空でこの館内を歩き回っていたわけではない。あらゆる生命との巡り会わせに心を揺さぶられたし、二宮くんとその瞬間を分かち合えたことは、何にも勝る喜びになっていた。これは覆しようのない事実だ。
 そして今になってようやく、全身を包み込んでいたこの既視感の正体にも気が付くことができた。
「気に入ったのもあるけど、似てるから気になっちゃって」
「……何だと?」
「シャチと二宮くん。すごく似てるよ」
 ずいと身を乗り出してぬいぐるみを二宮くんの目線にまで掲げた。頑なに崩されなかった二宮くんの無表情は、私の一言で亀裂が入ったように刺々しくなる。でも、本当にそう思ったんだから仕方ない。私が初めて目にしたシャチに抱いた感情は、好きなひとに恋い焦がれて沸騰しそうな熱水に浸されていくときの心境に一番近かったのだ。それはまるで二宮くんに恋に落ちたときのような、鮮烈なときめきと心臓のわななき。
 顰めた眉を持ち上げながら、二宮くんは憮然とした面持ちで私に問い掛けた。
「どこが似てると思うんだ」
「まず高圧的な振る舞いのところ、王者の風格があるところ……。あと白黒の身体とか二宮隊の隊服ぽくてかっこいいし、それから……」
「……もう良い。よく分かった」
 私の力説に耳を傾けていた二宮くんも、やがて吐息を洩らして待ったを掛けた。半ば失意を湛えたような彼の無表情に反論したい意向ではあったけれど、それも敢えなく阻止された。二宮くんが、手中に収めていたクッキーの箱を取り上げたのだ。
「買っておく。先に入口で待っていろ」
「え? でも……」
「お前に買わせたら後であの女に何を言われるか分かったもんじゃない」
 そんなことはないと抗議を示そうとしたが、加古ちゃんの不敵に象られた笑みを思い起こして口を噤んだ。射手で同期、性格も絶妙に噛み合わない二宮くんと加古ちゃん。水面下でしたたかに冷戦を繰り広げるふたりには例えこの程度であっても火種になりかねないのだ。そこに思い及んで、こくりと小さく頷く。ぬいぐるみを元の棚に戻して、喧騒の隙間を縫って店の外へと抜け出した。
 待っていたのは数分か、十分にも満たない時間だった。店内に背を向けて柱に寄りかかっていると、慣れ親しんだ声が落ちてくる。その方角を見上げて二宮くんの表情を捉えるより先に、彼の手元で揺れている袋に視線が向かった。ふたつ、だ。腕に提げられた紙袋はふたつで、その内のひとつはやけに大きい。私が想像を膨らませるよりも、二宮くんがその巨大な袋を差し出してくる方が一手早かった。手渡された袋と不変的な仏頂面の間を、おろおろと覚束ない視線が彷徨う。すっと尖る目付きに促されるがままに恐る恐る中身を確認して、思わず感嘆の声を上げてしまった。
 先程抱いていたシャチのぬいぐるみが、混じり気のない真珠のような瞳で袋の中から私を見上げていた。
「なんで……」
「欲しかったんだろう」
 欲しかったよ。欲しかったけど、そういうことじゃなくて……。
 感極まって、想定した返事は全く言葉にならなかった。つんっと鼻の付け根が痛くなって、視界が滲む。無色の薄靄が広がりかけたところで、二宮くんが活を入れるように声を響かせた。
「これしきのことで泣く奴があるか」
「ごめん……びっくりした」
「……」
「ありがとう二宮くん。絶対、ずっと、一生大事にする」
 みっともなく震えた声で、まことの本心を口にした。今までにもたくさんの贈り物を、それこそぬいぐるみより高価なものや記念になるものを貰ってきた。でも、贈り物の価値って等しく平等だ。私のちっぽけな欲求を卑下にせず、あまつさえサプライズとして送り届けてくれる彼の優しさ。骨身に沁み入って、つい涙の滴が零れ落ちそうになる。決壊を間近に控えた涙腺に抗いながら、何とか口角を上げて笑顔をつくり出した。それはきっと見るに耐えない不恰好な笑みだったけれど、二宮くんは目を伏せて満足そうな雰囲気を漂わせていた。
 水族館を出ると、木の葉を巻き込んだ秋風が身体を貫いていく。海沿いに面した水族館だけあって、最寄り駅までの道程は肌寒い。ポケットに突っ込もうとした片手は、当然のように二宮くんに攫われて彼のコートのポケットに沈められてしまった。
 海岸を越えた先の大海が、ありったけの光をかき集めて殊更輝いている。直に夕暮れ時を迎える海面は、雄叫びのように唸りを上げながら潮風を吹き込んでいた。辺りに人気はなく、まるで私達だけがこの世界に取り残されてしまったようだ。
 ――きっと話すなら今しかない。
 そう決意を潜ませて、踵に重心をかけた。突然立ち止まった私と、前に進もうとする二宮くん。相反する意思同士が弾かれるように、繋いだ手は呆気なく離れてしまう。彼は翳りの差した表情で、後方に立ちすくむ私を見遣った。その瞳は尚も澄んだ深海のように穏やかだ。
「私、卒業したら三門市を出ようと思う」
 いざ、唇を広げて声帯に出番を与えてみても、用意していた筈の言葉は掠れて耳を塞ぎたくなるような声色をしていた。格好付かずの一言にも、二宮くんはその顔色を微分も変えなかった。
 決めていたことだった。三門市の外に出てやりたいことがあった。前向きな選択だった。でも、強固に築かれたその意思に一匙の後ろめたさが混じっていたとすれば、それは二宮くんに対してのものだ。彼と積み上げてきた月日がその選択に迷いを生み出し、二の足を踏ませていた。私はまだ、二宮くんと過ごした陽だまりのような時間を手放したくなかった。
 でも、そんなのは言い訳だ。分かっている。そして、二宮くんは自分を盾にしてそう主張されることを心底嫌がるだろう。それも分かっている。
 このひとは自信家で、負けん気が強くて、いつだって前を向いて歩みを止めないひとだから。
 私は、そんな二宮くんの隣を胸を張って歩ける人間になりたいから、自分の選択が揺らいではいけないし、後ろを振り返ってもいけないのだ。
 覚悟を持って一直線に二宮くんを見据えた。例え聞き苦しい声でも、言い淀みそうになる話題でも、私の意思を曲げることだけは絶対にしないと誓って。誰でもない二宮くんに誓って。でも、彼は予想を遥かに上回る行動に出た。踵を返して私の前に立ち及ぶと、腕を伸ばして指先で私の鼻をつまんだのだ。出し抜けに行われた馴染み深い行動だけど、その力加減は先程よりもずっと強かった。訳が分からず、脳内もてんやわんやの状態だ。顔を上げて痛みを訴え掛けると、二宮くんは何のてらいもなく手指を離した。わずかな指の感覚と痛みが居座って、でもそれも時間の経過と共に消えていく。鼻頭をさすりながら、やんわり文句を添えた。
「いひゃい……」
「馬鹿が。似合わない深刻そうな顔をするからだ」
「深刻そうなって……深刻だから言ってるのに」
「何か問題でもあるのか」
 目の前の彼は本当に私の話を聞いて正しく理解できたのだろうか? 簡単には片付けられない、寧ろ私達が歩んできた平坦な道程を思えば最難関の障害だとさえ思うのだけど。その思惑を図りかねる二宮くんの瞳をじっと見つめる。彼は呆れて物も言えない、といった雰囲気を滲ませながら私の片手をすくい上げた。まるで長さも形も異なる別種の五指が重なり合って、絡み合う。
「お前が何処に行こうが、何になろうが関係ない。俺がこの手を離してやる理由にはならない」
 真っ直ぐで、何の忖度も媚び諂いもない真っ新な言葉が見事に私を射抜いてくる。どうして二宮くんの言葉ってこんなにも澄み渡っているんだろう。強圧的なのに決して抑圧的ではない。ただ事実と本心だけで彩られた彼の言葉は、これ以上ないくらいの信頼と実績で満ちている。だから私はあっさり安堵してしまうし、気の緩んだ反動で涙腺まで脆くなってしまう。不安に覆われていた曇天が切り払われた今、そこに介在する懸念は何ひとつないというのに。私が泣きそうになって唇を噛み締めたのを察してか、二宮くんはまた溜め息混じりの吐息を零した。
 潮風になびかれながら、私は押し留めていた声を振り絞った。
「……私、二宮くんの彼女でいていいの?」
「そう言っている。それともお前は別れたかったのか」
 その問い掛けに対しては前のめり気味に首を横に振った。そんなわけない。私の存在を受け入れてくれるこの大きな手のひらを、手ずから離したいわけがない。でも、もしかしたらの可能性が頭を過ってしまったのも確かだった。二宮くんが歩を進めた先の未来、その隣に私がいない可能性。それを拭い切れるほど強い人間ではなかったし、その選択を拒絶できるほど価値のある人間でもないと思っていたから。でも、何もかもが杞憂だったようだ。
 私が必死に否定している間も彼はさも当然のように構えていて、さも当然のように返答を紡いだ。
「なら話は終わりだ。金輪際、別れ話なんてくだらん話題を持ち出すな」
 強い語調で言い聞かせるような物言いが、ひどく嬉しくて堪らなかった。遠距離になろうとも、今後何か起ころうとも別れる気は更々ない。そんな意味を含ませた二宮くんの発言に、舞い上がってしまうし自惚れてしまう。私の存在を必要としてくれているのだという実感を与えられてしまう。それだけで十分だった。ふたりで歩む道程が途絶えることはないという開示された事実が、彼がそうありたいと望んでいる事実が、私に目映い光を降り注いでくれる。
 頬を緩ませて、何度もかぶりを振って承諾の意を伝える。二宮くんはその反応に満足したのか鼻で笑って、手を繋いだまま身を翻した。
「寂しいときはこの子がいるから安心できるね」
「そんな模倣品を俺の代わりにするな」
「じゃあ寂しくなったときどうしたら良いの?」
「連絡しろ。すぐに駆け付ける」
「本気で言ってる?」
「こんな面白くもない冗談を言うと思うか?」
「……じゃあ私も、二宮くんが寂しいときには駆け付けるね」
「……好きにしろ」
「うん、好きにする」
 淡々と続く会話が、その平坦な声色以上の意味を持って、いつまでも耳孔の端で揺れている。
 唸り声のような海鳴りに会話が掻き消されてしまっても、猛烈な勢いで吹き込む海風に煽られて手を離してしまっても、ふたりの行く手を阻むことはできないし、分かつこともできない。何があってもずっと、私は二宮くんの隣に胸を張って立ち続けていよう。

2020/11/12