きみは未来をえらんだ
 三回忌。墓参り。日常的に聞くことがまずないこの単語達はにとって大きな意味をなしている。そして、それらは彼女の口から普段と変わらぬ口調や声色で告げられた。二宮がその言葉を聞き出してしまったのはほんの些細な偶然で、他意があったわけでは決してない。に明日の予定を尋ね、彼女がその質問に対して包み隠さず的確に答えたというだけだ。第三者視点からはそれこそ少々不適切な発言だったとしか取られないであろう。気に病むようなことではない。しかし、二宮匡貴という男にとっては由々しき事態だった。彼以上に自意識が高くそれに似合う実力を兼ね備えた人間は早々いない。そんな彼だからこそ、些細な失態にも安々と目を瞑るわけにはいかなかった。とは言っても、ここで謝るのも可笑しな話だし、第一それでは同情していると自白するようなものだ。二宮は常以上に眉間に皺を寄せる。これでは笑い話にもならない。
 二宮の切迫した内面とは対称的に、は全くと言って良いほど動揺を見せなかった。日頃と何ら変わりない落ち着いた佇まい。まるで己だけが焦慮しているような煩わしさ。自責の念に駆られていた二宮にはより一層腹立たしく感じられた。にではない。言うまでもなく自分自身に対してだ。二宮は話の接ぎ穂を探そうとして、それより先に或る考えが閃いた。
「足はあるのか」
「?」
「交通手段」
「ああ、ええと、電車で行くつもり…」
 何故そんなことを聞くのか、とは顔をきょとんとさせた。二宮の言わんとすることを理解できていないようだ。二宮自身も端から彼女に悟ってもらおうなどとは考えていないらしい。
「明日、車を出す」
「えっ?」
「送り迎えをしてやると言ってるんだ。その方が面倒が省けて良いだろう」
 二宮らしかぬ気遣いには目を丸くさせる。だが、一拍おいてから素直に頷いた。二宮は満足げにふんと鼻を鳴らす。「置いてくぞ」と声をかけてから帰路を辿り始めた。言葉とは正反対にが追いつける速度で歩いていることを、彼は気付いているのだろうか。少なくともは気付いていたし、二宮の何だかんだで面倒見が良い性分もしっかり理解していた。待ってとは言わない。彼は譲歩に譲歩を重ねた上で歩く速度を緩めているのだから、己もそれなりの態度で示すのが礼儀というやつだ。はヒールに履き慣れないたどたどしい足取りで二宮の後を追った。
 季節は巡る。春も夏も秋も冬も、一年後には再び相見えることができるが、それは今年と全く同じ季節ではない。自分のすること、立ち位置、隣にいる人、ぜんぶ違っていても不思議ではない。同じ季節が巡り来ることなどあり得ないのだ。は特に秋が好きだった。一番好きな秋は三年前だ。──いつの間にか、もうこんなに遠くまで来てしまっていた。彼女が真に望む秋は二度とやってこない。
 明日での恋人の死去から丁度二年が経過しようとしていた。


 お涙頂戴の安っぽい映画ではラストシーンで救いを与えるのが鉄則中の鉄則。これによって見る者の心に余韻が残り「素晴らしい映画」だったと評価を得ることができる。エンターテイメントとしてならそんな映画も悪くはない。だが、現実問題に置き換えると話は全くの別物だ。不運に見舞われた人達の中で救いを与えられるのはほんの一握りに過ぎない。大多数は絶望に打ちひしがれて再起不能となるか日々を怠惰に過ごすかだろう。絶望の中から希望を見出すことができる者も極稀に存在するだろうが、そうすることを部外者が勧めるのは恥知らずもいいところ。当人からすれば甘ったるい戯れ言にしか聞こえないし、神経を逆撫でされている気分になってもおかしくはない。己の力で立ち上がり前へ進むことができる人間なんて、それこそ一握りなのだ。──では、はどの部類に位置しているのか? この答えは長年の付き合いである二宮でさえ分からない。表面上はたおやかな大学生を演じているが、その裏では悲哀の渦に飲み込まれているかもしれないし、生きる糧を見つけて前進しようとしているのかもしれない。結局、絶望の淵に佇む人の心情は誰にも、それこそ同じ境遇に立たされた者にも知り得ないし分かり得ない。
 二宮がから恋人ができたとの報告を受けたのは三年近く前。彼女は緩みに緩んだ表情筋を隠そうともしなかった。とんだ物好きがいたものだ、と二宮は内心思ったがそれを表立って主張はせず「おめでとう」とだけ伝えた。意図せず出た祝福の言葉は建前ではなく本心そのもの。もそれをしかと感じ取ったのか、はにかんで笑った。その頃二宮は丁度ボーダーに入隊して学業との両立をこなす忙しない日々が続いていた。二人が会う機会は自然に減った。どちらもこれで良いと思っていた。連絡は思い立った折節取り合っていたし、会わない時間に比例して友人関係が拗れることもない(これが恋人関係なら話は違ってくるが)。ただ、友人として絶妙な均衡を保ちながら隣にいた存在が突如消えてしまったことに寂寥を覚える瞬間は、確かにあった。そして、それを表沙汰にしない分別の良さを二人は知らず知らずの内に身につけていた。大人に近付くための背伸び覚え立ての子供にも、その程度の道理は弁えられたのだ。久々に二人きりで話す機会はそこから約一年後に訪れる。は右手の小指にピンキーリングをはめていた。そぐわない。何にそぐわないって、彼女の表情に、だ。幸せの象徴である筈のそれは、明らかに顔色が悪く虚ろな瞳で二宮を見上げるには殊更似合わなかった。彼女が纏う制服は天候の悪さも相まって普段より重たい色合いに見えた。そう、例えるなら喪服に近い。暗色に包まれた中で異質に光る金色のそれは、今の彼女を嘲笑っているかのように思えた。
「二宮、久しぶり」
 あまつさえ痛々しい表情を隠そうと笑うものだから、二宮の腸は煮えくり返りそうだった。胸倉を掴み上げて下手くそな作り笑いをやめろと怒声をあげたかった。二宮がそうしなかったのは、女性への暴力紛いな行為を躊躇う良心が備わっていたからだ。ポケットに突っ込んだままの握り拳を強め、短く返事をするだけに留めたのは、彼なりに最高峰の我慢だった。後日、の恋人が不運な事故に巻き込まれて帰らぬ人となったのだと、二宮は共通の友人から話を聞いた。「付き合って一年だったっていうのに」と涙声でぼやいていた友人の言葉は二宮の中ですんなりと咀嚼された。あの新品同然の指輪は恐らく一周年記念日のプレゼントか何かだったのだ。それを貰った翌日に恋人は亡くなった。あの邂逅は葬式に赴いた帰りの出来事だったのだと、容易に想像できた。喪服のようだという予想は嫌な形で的中してしまったのだ。二宮は無意識の内に唇を噛み締める。恋人として春夏秋冬を過ごした暁に指輪をプレゼントされ、これから歩む未来に心弾ませる。まさに幸せの絶頂期だった筈だ。それが、今はどうだろう? 変わり果てた姿になった恋人を見て何を思ったのだろう? 二宮には分からない。ただ、は哀れまれるのを良しとしない質だと二宮は経験則から知っていた。腫れ物を触るような扱いで可哀相だと言われれば、彼女が返しそうな返事は一つだ。「お気遣いありがとうございます。でも、本当に可哀相なのは私じゃありません」普段の貴やかさは鳴りを潜め、強かな一面をここぞとばかりに露わにする。その姿を想像して、何の気なしに心が軽くなった気がしていた。

 澄み切った青空。綺麗な赤に色付く紅葉。コントラストとも取れる2つが二宮の視界でやけに印象強く映し出されていた。紅葉の大木が横並ぶ並木道に車を走らせる。大学生が所有する車にしては広々とした車内。壮大なクラシックの音楽だけが二人の合間を縫うように流れる。二宮もも自ら進んで話そうとはしなかった。ひたすら窓の外を眺めるは意図して二宮を無視しているわけではない。上の空、という表現が一番適切だった。今朝方行った己の行動は無駄骨だったと二宮は悟る。彼女を迎えにアパートの駐車場に車を停め、車内に流すBGMに悲恋ソングがないかを確かめていたのだが、例えそのような歌が流れても気まずい雰囲気になるどころか気にも留めなかっただろう。そもそも恋愛に重きを置いた曲は趣味でないので、確認しようとしたところで既に骨折り損だったわけだが。二宮は助手席に座るを一瞥する。彼女は二年前とは異なり制服ではなく黒のワンピースを纏っていた。髪は大人しめのハーフアップでそこら中で見かける就活生を彷彿とさせた。首元のパールネックレスが日に照らされ淡い煌めきを放っている。──同様に、彼女の右手で存在を主張する指輪も、陽光を浴びて輝いていた。あの日から変わらず素知らぬ顔で小指に鎮座するそれは、呪いの如く、彼女に取り憑いている気さえする。二宮はから目を離し運転に神経を集中させた。見てるこっちの気が滅入りそうになる。最も当人には何の影響力も持たないのだろうが。
 法要を執り行うのは週末らしかった。故人の家が生憎都合が悪いため命日である今日は墓参りだけ、と二宮は昨夜から入った連絡で知った。言い出しっぺとはいえ、故人の恋人を男が送ったなんて知れてはあらぬ誤解を招くことは必然だったので、少しばかり安堵した。彼自身はどう言われようが知ったこっちゃないとはねのけられるが、これから先も付き合いがあるはそうもいかない。彼女の立場が悪くなる行いは慎まねばならない、と二宮は固く誓った。目的地である墓地は三門市の端に位置している。小一時間の道程を無事に辿り終え、を墓地の前で降ろした。後部座席に置かれていた彼女の鞄と仏花を持たせる。まだ朝方の時間帯だからか、あるいは小ぢんまりとした小さな墓地だからか、二人以外の人影は見られなかった。
「俺は近くの喫茶店で暇を潰す」
「うん」
「終わったら連絡しろ。要らん気は遣わなくていい」
「分かった」
 物分かりの良い返事を得たものの、が自分のために誰かを待たせる性分ではないと二宮は重々承知していた。言うだけ無駄だっただろう。車を発進させ、バックミラー越しに彼女の姿を捉える。毅然とした佇まい中に見え隠れする哀愁に、居たたまれなくなった二宮は思わず目を逸らしていた。
 元来た道を辿り、来る途中で粗方目星をつけていた喫茶店に車を停めた。見るからに年季が入っており、レトロチックな外装で独特の雰囲気を醸し出している。都会の街中にある大衆向けのカフェとは何もかもが程遠い。だが、墓地から十分足らずの距離であることを考慮すれば此処で暇を潰す以外の選択肢はほぼない。二宮は意を決して喫茶店へと足を踏み入れた。荒れ果てた廃屋を想像させる外装の割に内装はしっかりしている、というのが彼の感想だ。押し戸と共に鳴り響くベルがこれまた懐かしい。二宮の入店に気付いた店主は柔く微笑み「いらっしゃい」と迎え入れた。カウンターは疎らに人が座っていたため、空きの多いテーブル席に腰を下ろす。ようやく一息ついたところでざっと店内を見回した。アンティーク調の小物が随所に散りばめられており、カウンターから香るコーヒーの匂いが鼻孔を擽る。さすが専門店と言うべきか、いつも啜るコーヒーとは一味も二味も違う芳しさだ。立てかけてあったメニューに一通り目を通し、お冷やを持ってきたマスターに日替わりセットを頼んだ。コーヒー単品でも良かったのだが、墓参りがどれだけの時間を要するか不明瞭な以上、おかわり自由のコーヒー付き軽食の方が何かと都合が良い。そんな風に二宮はものの数秒で思考を巡らせたのだ。注文も終えて手持ち無沙汰になり、適当に見繕ってきた文庫本を開ける。と、そこで、二宮のジャケットから無機質な電子音が響いた。聞き慣れたそれはメッセージの受信を知らせる音だ。ポケットを弄り携帯端末を取り出すと、画面上にメッセージが表示されていた。送信者は二宮の同窓生であり、元チームメイトであり、同じポジションで張り合う好敵手であり──とにかく関係性に様々な呼称がつく人物。加古望、そのひとだ。『二人揃って講義を休むなんて、あからさまね?』二宮との関係をあらぬ方向へと持って行きたがる加古の姿が、字面からしても一目瞭然だ。だが、彼女もただ面白がっているわけではないのだろう。本日の日付を思い返せば大方見当はついた筈だ。深く探りを入れてこないのが何よりの証拠だった。
『期待するようなことは何もない』
『あら、そう。昼からは来るの?』
『いや、今日のは替えが効く。資料はコピーしてくれ』
『それが人に物を頼む態度?』
『今度、新作の試食を一口だけしてやっても良い』
『これは貸しよ』
 加古とのやり取りに一区切りつけ、端末をポケットに戻した。炒飯の試食を終えた後の自分の安否に背筋が震えたが、背に腹は代えられない。二宮はひとつ覚悟を決めた。再び文庫本を繙き、暫しの間読書に耽る。さほど時間をかけずして芳しい香りを漂わせながら軽食とコーヒーは運ばれてきた。焼きたてのサンドイッチと淹れたてのコーヒーを交互に味わいながら、優雅な昼食を一足早く終える。その後は携帯端末に連絡が入ってないかを確認しつつ、読書と嚥下を繰り返す。一時間ほど経過しただろうか。いつの間にやらカウンターに座る客も減り店内には店主と二宮のみとなっていた。時間の融通が利くメニューを頼んだとは言え、親しくもない他人と二人だけの空間を過ごすのには抵抗があった。特に二宮は誰にでも気さくに話しかけられるような型の人間ではないため、余計にそう感じる。地図アプリか何かで長居できそうな場所を他に探すべきか脳内で吟味していたところ、ふと、それは二宮の目に留まった。カウンターの端。先程まで客が座っていたため見えにくかった場所にそれは鎮座していた。砂時計だ。両端の丸底と外枠に模様が装飾された木版が用いられ、硝子でできた管の中では白銀の砂が積もり小さな雪景色を連想させる。オリフィスは捻られたような特殊な構造をしており洒落た砂時計を演出している。掃除が行き届いているのか、はたまた頻繁に使われているのか、埃を被っている様子は見られなかった。できれば家具としてではなく時計として機能を果たしていて欲しい、と二宮は思う。多々ある風変わりな小物の中で何故砂時計に意識が向いたのかと言うと、彼にはそれに纏わる小さなエピソードが存在していたからだ。正確に言えば二宮単独ではない。二宮匡貴との二人に、だ。


 あれはいつの出来事だったろうか。少なくとも高校に上がる前だったと二宮は記憶している。その日は文化祭の買い出しで女子で賑わう雑貨屋に来ていた。真面目なは予算を超過することなく必需品を揃えるため頭を悩ませていたのだが、その反面、二宮は周囲の異物を観察するような視線に苛立ちながら店内を物色していた。彼自身はいい加減でも何でもなく、むしろ以上に生真面目なのだが、如何せん文化祭には興味をそそられない。どうでもいいことに時間を割くような真似はしない、というのがこの頃から二宮の持論であった。もそれを知ってか彼には荷物持ち係としか言い渡さなかったので、その役目を全うするだけだと割り切っていたのだ。適当に小物類を見て回りこれに金を費やす女子の真理は不可解だと黙考していたところ、会計を済ませたが何かを凝視する姿が視界に入った。彼女の視線の先には様々な砂時計が並んでいる。色や形の違う物からそれこそ性質の違う油時計や泡時計まで、本当に多種多様という言葉が相応しい。徐に彼女が手に取って逆さまにしたのはスタンダードな形状の砂時計だ。サーモンピンクの砂は流れ落ちる様子がよく分かる。「そんなのが良いのか」と不意を突いて出た二宮の言葉に、は彼の方を振り向いた。
「うん、ずっと見てて飽きないよね。情緒があるっていうか。時の流れが一番よく分かるよ」
「詩人にでもなるつもりか? まさかお前に風流を解する心があったとはな」
「失礼な」
 わざとらしく頬を膨らませる。は慈しむような仕草で砂時計を棚に戻し、結局それを買わずに店を出た。二宮は彼女の誕生日に合わせてそれをプレゼントした。しっかりした作りの代物に比べれば陳腐で安っぽいのは否めない。しかし、中身を確認したは途端に口端を緩めた。まるでそんなことは関係ないとでも言うように。
「ありがとう。大事にする」
 おしなべて贈り物を貰った時の常套句ではあったが、から二宮に対して出たそれは紛れもなく本心に違いなかった。二人の間に遠慮や我慢は必要ない。これは暗黙のルールになっていたし、それが義務であるという認識すら二人にはなかった。──そうやって男女の壁を安々と超えられる間柄だったからこそ、恋愛という方向には発展しなかったのかもしれない。
 今、あの砂時計はどうなっているのだろうか? ヘッドボードの上で存在を忘れ去られているか、あるいは引き出しの奥底で眠りに就いているか。どちらにせよ時計として使用されていることはまずない。自身が言っていたのだ、時の流れが分かると。恋人を失ったあの日から時が止まったままの。彼女が砂時計を逆さまにして未来に思いを馳せる姿が、二宮にはどうしても思い描けなかった。
 在りし日を懐古していた時間は決して長くはなかった筈だ。意識を本へと戻そうとした二宮に想定外の事案が起こる。今の今まで回想していた人物が目の前に立っていたのだ。申し訳なさげな表情を浮かべながら二宮の向かいに腰掛ける女性はに他ならない。常に仏頂面を崩さない二宮もこの時ばかりは驚いた。ここにいる筈のない存在。…とは断言できなかった。幽霊なんて非科学的なものではないし、墓地からも徒歩二十分程度で辿り着ける距離だ。とは言え、それを平然とやってのける彼女の強かさには呆れを通り越して感嘆の域である。当の本人は大人びた雰囲気の店内に落ち着かないのか頻りにそわそわしていた。
「連絡を入れろと言った筈だが?」
「あー、それはごめん。でも来る途中に喫茶店って此処しかなかったし、二宮の車も覚えてたし、大丈夫かなって」
「脳天気も度を超すと可愛げがない」
「はは…。まあ後は、何となく歩きたい気分だったから」
 そう言われては文句の言いようもない。二宮の唇を跨ぎかけた非難はコーヒーと共に一思いに飲み込んだ。カップの底に残る残渣に苛立ちを募らせながらソーサーにカップを置く。そこで、の視線が食べ終わった後の皿に注がれているのに気が付いた。ため息を吐き出しながら立てかけてあるメニューを突き出す。目を白黒させるだったが、覚束ない手取りでそれを受け取った。
「何か頼むならさっさと頼め」
「うん。二宮は何頼んだの?」
「日替わりセット」
「へえ、美味しそう。……あ、すみません、私も同じのを」
 の分のお冷やを持ってきた店主に彼女はメニューを指差して注文を伝える。カウンターに戻る店主を横目に二宮は肩の力を抜こうとする。が、それより先にがふうと一息ついた。どちらが先に安堵できるかなんて低能な競争をしていたわけではないが、二宮にほんの少しの鬱憤が溜まったのも或る意味仕方のないことだ。今度こそ肩の力を抜き一息つく。は他のサイドメニューを眺めていたが、飽きたのかメニューを脇に立てかけて暇そうに視線を泳がせた。二宮と視線がかち合う。しかし、見つめ合うには至らず更に二宮の右隣へと視線をやった。窓の外を眺めているようだ。今朝方と変わりない青空。滞りなく揺蕩う雲には目を細めた。
「また、泣かなかったのか」
 鋭さを帯びた声が憩いの場を劈く。言うまでもなく声の主は二宮だ。は緩みきっていた糸をぴんと張り詰めた。
「泣かないっていうか、泣けないのかな。今更って感じがして…」
「馬鹿言え。それは言い訳だ」
「…どういう意味?」
「そのままだ。あいつの目の前で泣きたくないから、その言い訳を探してるだけだ。違うか?」
 は唇を強く引き結んだ。否定はしない。核心を突かれたからだ。
「お前に墓前で無理して笑われて、それであいつが満足できるとでも思っているのか?」
「……」
「次会うのは週末なんだろう。…無理強いをするつもりはないが、その時ぐらいは変な気を揉まないでいいよう、今泣いておけ」
 ぱちん。それはシャボン玉のはじける音に近い。空中に舞う泡の玉は物質に触れれば消え去ってしまう。前触れもなく跡形もなく、一瞬にして。二宮の目の前に座る彼女も同じだった。長閑な空気で包まれている店内に、ぱちん、音が鳴る。本当にその音がしたわけではない。が、二宮は確かに肌で感じた。それは紛れもなくの涙腺が決壊した音だった。
 ひとさじの涙を皮切りに、瞳から零れ落ちた滴は続々と後を追う。頬には幾つもの涙の線ができていた。鞄から取り出したハンカチで拭おうとするも既に時遅し。綿生地の吸収力よりも落涙する速度の方が勝っている。涙で湿り気を帯びたハンカチを押し当てても逆効果だ。更には苦しそうに嗚咽まで上げ始めた。二宮に一抹の後悔がよぎる。責め立てるような言葉遣いになってしまったのではないか、そもそも部外者が横から口出ししていい内容ではなかったのではないか。けれど、はこれっぽっちも二宮の責任だとは思っていない。泣き止んだ後には馬鹿みたいに笑うのだろう。三年前、恋人ができたと報告した時のようなあの笑顔で。そんな根拠のない自信が、二宮には何故かしら存在していた。


「あー、メイクぐちゃぐちゃ…」
「車で来て良かっただろ」
「恩に着せられた気がする」
 結局、泣き疲れたが軽食を食べ終えて店を出る頃には昼を過ぎていた。あの後、落ち着いた彼女に絶妙なタイミングで日替わりセットが運ばれてきた。客が二人しかいなかったとは言え、店の一角で泣き喚く客なんて店主からすれば傍迷惑だっただろう。二宮は最悪お咎めを受けることも覚悟していたのだが、予想に反してそれは徒労に終わってしまった。店主は料理を運ぶ時は愚かが泣き続けている間、二宮やを迎え入れた時と同じ笑顔で微笑んでいたのだ。会計を済ませた時、の「お騒がせしてすみませんでした」の言葉にも彼は「また来てくださいねえ」と微笑んだ。この人にだけは頭が上がらない。二宮は年長者の余裕を見せつけられた気がして何とも言えない気持ちに陥っていた。
 店を出てすぐ隣に位置する駐車場へと歩く。手元の鏡で霞んだアイラインを頻りに気にするを横目に、二宮は空を仰いだ。そしてそれは突拍子もなく呟かれる。
「……砂時計」
「え?」
「前にお前に買ってやった砂時計。今あれはどうしてるんだ」
 それを口にした二宮自身が一番驚いていた。暇潰し程度の回想のつもりだったが、本人の知らぬところで何かしら気にかかる部分があったらしい。はその言葉に一瞬首を傾げたが、ああ、と合点がいったように声を上げた。
「棚の上に置きっぱなしだ。あんまり使う機会なくって」
「だと思っていた」
「はは、ごめん。でも、今度使ってみようかな。なんか砂時計って好きなんだよね。飽きないし、時間の流れが一番分かるっていうか」
 二宮の足の動きが僅かに鈍る。デジャビュ? いや、違う。それに似た何か。二宮は古ぼけた記憶を頼りに自身の返答を思い起こす。
「…お前に風流を解する心があったとは、意外だな」
「ええ? 失礼しちゃうなー」
 また言った。このやり取りは彼女の中で常習にでもなっているのか? 無論そんな筈はなくて、ただは思ったことを口にしているだけ。馬鹿の一つ覚えみたいに砂時計の良さを語るは聞く側にしても心地良い。それを声に出さないのは単なる二宮の矜持だった。
 風が吹く。木枯らしとは名ばかりの暖かく澄んだ風。本当に、今日の天候は中秋には不相応な程暖かい。今のの心情を絵に描いたかのようだ、と二宮は密かに思った。二人の間を吹き抜ける風は紅葉を揺らす。の頭上に舞い落ちてきた紅葉を、律儀に二宮は払いのけてやった。
 日だまりを歩くの指がきらりと輝く。何てことはない、彼女の小指にはまる指輪が日光を反射しただけのこと。一見すればただのピンキーリングで、今朝と変わったところは見られない。けれど、にとって全く別の意味合いを持つことを二宮は理解していた。もうあれは彼女の不幸に住み着いた魔物ではない。これから先も彼女の定位置に居続けるであろう指輪は正真正銘、幸せの象徴だ。の進み出した時はもう止まることはない。全ての砂がオリフィスを通り抜けたとしても、はまた、砂時計を逆さまにする。今日流した涙の数だけ、とびきりの笑顔を見せるのだ。

2016/04/06