永久凍土より
※非倫理的

 天才とは盤石でなくてはならない。強靭な精神を揺さぶられてはならないし、圧倒的な才能を誇示しなければならない。それが世界を相手にして怯むことなく突き進む花森圭悟という男の、持論であり矜持でもあった。事実、生気を吸い取られたような死相を常々張り出してはいるものの、プレイの質が落ちることはなく、日本代表として目覚ましい活躍を遂げ続けている。この堅牢な奇人を真の意味で脅かし、狂わせることができる人材は限られていた。
 ひとりは執念に取り憑かれて、地獄の底までボールを追い掛け回すであろうゾンビのような男。
 そして、もうひとりは晴れてその男の恋人の座を射止めたばかりの幼馴染だった。
「けいご、……」
 今にも膝から頽れそうな弱々しいの声が、花森の鼓膜を震撼させる。メッセージ越しに指定された彼女の自宅に行き着くまでは、浴びせたい小言を山ほど量産していた。気心の知れた関係とはいえ夜分に男と密会に持ち込もうとするなとか、恋人との喧嘩の種を手ずから蒔こうとするなとか、そういうお節介の延長線だ。これまでは突拍子もない彼女の言行に甘んじて振り回されてきたが、ここから先それは自分の請け負う役目ではない。明確に頼るべき相手ができたのならば、その男を差し置いてまで余計な世話を焼く必要はない。こんなのは今日限りだ。仄暗い未練を断ち切るように決意を幾度も反芻しながら、花森は練習終わりの夜道に車を走らせた。
 そうして最後の責務を全うしようと腹を固めた花森が、思わず絶句してしまうほどの壮絶な悪夢が目の前には広がっていた。
 錯乱する思考とは裏腹に、頭の片隅ではどこか冷静に確信しつつあった。まだ自分には使命が課せられている。この凄惨な悪夢から彼女を救い出す大義は己以外に成し得ないのだと。
「何を……馬鹿なことを……」
 萎縮していた声帯がどうにか機能を果たしたものの、意図せず洩れ出た呟きはあまりに不毛で酷薄だった。嘆いたところで現状が持ち直すこともなければ、悪夢が醒める気配もない。それどころか、藁をも掴む思いで縋った幼馴染にまで非難されていると受け取られかねない。すぐに花森は失言だと直感した。しかし、それを訂正するより先に、床に蹲るは膝小僧を寄せて更に身を縮こめてしまった。脳内を罪悪感に侵蝕されながら、花森は歯痒そうに下唇を噛み締めた。
 都内に位置する単身者向けマンションの一角、その玄関から廊下にかけて血みどろの沼地が横たわっている。その浅瀬にへたり込んでいるこの部屋の家主は、ボタンの引き千切れたワイシャツが申し訳程度に肌を覆うという見るに耐えない姿だ。真っ青な顔面と真っ白な皮膚には、装飾にもなり得ない血飛沫がへばり付いている。そして、何より異質な存在感を放っているのは、水路の中央を陣取るようにしてうつ伏せている一人の男だった。全身を黒で覆い隠したその男は、身じろぎひとつ吐息ひとつ繰り出さない。まるで魂のごっそり削げ落ちた抜け殻のようだ。もし男が意図してその亡骸を演じているとしたら、相当な役者になることだろう。脇に落ちている刃渡りの短いペティナイフは、鮮血に穢されてもなお鈍い銀色の光を孕んでいる。
 これを悪夢と言わず、何と言おうものか。花森は今すぐにでも卒倒したくなった。この度しがたい現実を真っ向から拒絶したかった。そうしなかったのは、最後の務めを果たさんとする気概がかろうじて命脈を保っていたからだ。もうこうなってしまったからには後には引けない。地獄に繋がる門戸を叩くような心地に浸されながら、まずは跪いて震えるの肩を揺するところからだった。


 事件の発端は仕事を終えて帰路に就いた矢先のことだ。背中越しに誰かの薄気味悪い視線を感じ取り、コンビニを経由したり大通りの人混みに紛れたりして撒いたつもりだったが、そう都合良く収束はしなかった。実際は自宅まで尾行されており、人気のないエレベーターホールで突然背後から刃物を突き付けられた。生命の危機を植え付けられて抵抗する余裕がある筈もなく、されるがままに自室まで強行された。玄関先のフローリングに押し倒されるや否や、力ずくで腕を押さえ付けられ、衣服を切り裂かれた。見知らぬ男の下卑た吐息をまぶされながら、強姦される実感だけが全身を巣食っていく。恐怖の沼地に溺れて悲鳴すら上げられない。そんな絶望の淵に追い込まれたの視界を掠めた光は、床に転がるペティナイフの刀尖だった。脅迫のためだけに用意された凶器が、希望の活路へと一転する。躊躇に掛ける時間すら惜しかった。必死に伸ばした手指でナイフを手繰り寄せる。ありったけの殺意を切っ先に込めて、その刃を男の頸部に突き立てた。目が眩むほどの鮮烈な赤色が視界を染め上げる。藻掻くことも足掻くこともなく倒れ伏す男と、首筋から滞りなく押し出される血液を見届けて、ようやくの暗澹たる世界には光が差し込めたのだった。
 訥々とした口振りでの口から語られる経緯は、花森の想像とさほど相違は見受けられなかった。状況証拠として十分すぎる惨状を実際に目の当たりにしているのだから、否定のしようがない。かと言って、花森がの証言を鵜呑みにしたところで、彼女の現状が泥沼の底よりも深刻であることに変わりはなかった。不審者に襲われた恐怖がまだ冷めきらない内に、この取り返しのつかない現実を直視しているのだから、その心労は計り知れない。それを裏付けるように、声を絞り出せば絞り出すだけの顔色は昏く淀んでいった。馬鹿か、これ以上彼女を追い詰めてどうする。どう言葉を掛けるべきかの正答には辿り着けずとも、花森は本能的にの憔悴を察していた。説明を遮るように、痛々しい格好の彼女に自身の上着を覆い被せる。重力に従って垂れ下がっていた頭がわずかに持ち上がった。虚ろだった無彩色の水面が、微かな光を束ねて揺らめく。    
「警察……行かないと、だね……」
 深沈たるのまなこは静かに波紋を広げた。どうやら花森の慣れない優しさこそが、彼女に現実を突き付ける決定的な一打となってしまったようだ。今にも雨粒を弾き出しそうなほど湿り気を含んだ声が、雲行きの怪しい行く末を暗示する。花森の肉体は心臓を握り潰されたような圧迫感を味わった。
 その決断は至極真っ当で、常識を兼ね備えた人間ならば当然の帰結だ。けれど、その結論に行き着くには相当な覚悟が必要だったに違いない。見知らぬ他人に殺意を抱いてしまった理由が尊かろうと醜かろうと、廊下に横たわる死体をが生み出してしまった事実は変わりない。正当防衛という鎧を剥いでしまえば、そこには殺人という逃れようのない罪過が待ち構えている。
 こういった事例が懲罰を受けるに値するのか、それとも情状酌量の余地があると判断されるのか、刑法の道に明るくない花森には判断の付けようがない。ただ、もし無罪の判決が下されての名誉が守られたとしても、彼女の心まで無傷で済むとは思えなかった。性的暴行による心的外傷、殺人による罪の意識、加えて何も事情を知らない世間から好奇の目を差し向けられる重圧感。正しい筈の選択の先に待ち受けているものは、どれも精神的苦痛を強いるものばかりだ。しかし、これだけではない。が真に恐れている事態は他にあるのだと、花森は大凡察しが付いていた。悪意や敵意の矛先が自分だけに留まらず周囲の人間にまで及ぶ可能性、とりわけ一般人の自分よりも遥かに名を馳せている男を巻き添えにしてしまう理不尽に、何より恐怖を抱いている。思い当たる人物はひとりしかいない。にとっての特別は、花森にとっての特別でもある。勝利の興奮を分かち合い、敗北の屈辱を舐め尽くした。圧倒的な才能への嫉妬を噛み潰しては、それを持ち腐れないフィジカルと飽くなき向上心への尊敬を飲み込んできた。――持田蓮。花森圭悟の、そしての、揺るぎなく限りある特別。負傷した足首は快方に向かい、順風とも円満とも折り合いの悪かった軌道がようやく安定してきた。ことサッカーに際しては鋼のメンタルを擁する男だが、警察沙汰に巻き込まれた恋人に無関心を貫けるほど血も涙もない外道ではない。寧ろ他人に無頓着で腹の内を明かそうとしない男が、唯一心を開いて寄り掛かっている相手が今の恋人――すなわちだった。そんな彼女に降り掛かった災厄、その全容を知ってしまえば。選手生命を賭けた正念場とも言うべきこの時期に、パフォーマンスに支障をきたすほど失意のどん底にまで堕ちてしまえば、もう取り返しが付かなくなる。持田がサッカーに懸ける情熱を人知れず見守ってきたが、その憶測に辿り着かない筈がないのだ。
 これまで健全に堅実に綴られてきた幼馴染の人生が、たった一度、不意の過失によって跡形もなく崩壊する。それはだけに限らず、彼女を大事に思っている持田も同様に。一蓮托生のように連れ添ってきたふたりの歯車が狂った未来を想像して、花森は忌々しそうに顔を歪めた。真夜中の溟海に放り出されたような絶望感が全身を包み込む。こんな希望も救済もない不条理が許されていいわけがない。声を張り上げて真っ向から抗議してやりたい衝動に駆られたが、この状況を半ば諦めかけている達観的な自分がいるのも確かだった。権力も腕力もない非力な一般人にこの現状を修復することなど、到底できる筈が――……。
 そこまで深慮を重ねて、花森の思考は急停止した。曇天の雲間から光が差し込める。一縷の光芒は暗闇を照らし出し、迷い子を導くように新たな道を切り拓いた。天才と奇人は紙一重だ。前者を自称する花森は、客観的には後者に捉えられることも少なくない。偏屈な思想を有するがゆえに、常軌を逸した着想を得ることも、少なくなかった。
「……その必要はない」
 毅然と言い切るつもりだったが、思いの外、自身がみっともなく尻込んでいるのだとその上擦った声で悟った。それでも、花森にはその発想に取り縋る以外の選択肢を持ち得なかった。否が応でも視界に入り込む厄介者も、麻痺した嗅覚が時折嗅ぎ分ける鉄の臭いも、深々と降り積もっていく重たい沈黙も、その全てが花森から余裕を毟り取っていく。余裕を失っていけばいくほど、思考の幅も狭まっていく。立ち止まって、この選択が正しいのかと反駁する余裕は、もう花森には一欠片も残されていない。何より仄かな期待に震えるの瞳が、あまりに無邪気で健気で痛ましくて、道徳を弁えようとする正気なんてものはすっかり絆されていた。
 空気に潜んでいたふたりの呼吸が微かに乱れる。花森から淡々と告げられる提案は、が擁する知識を集結させても一向に現実味を帯びることのない、日常から乖離した荒唐無稽な話だった。しかし、花森の神妙な眼差しに圧倒され、ずるずるとその覇気に飲み込まれていく。は決心ごと唾液を飲み込んで、躊躇を振り払うように深く頷いた。
 音という音も時間の流れすらも間引かれていた陰湿な夜は、誰にも漏らせない秘密を孕んで、ようやく動き出す。


 世界は薄情で残酷だ。誰に対しても平等に不合理な難題を突き付ける。平凡で模範的な人生を歩んできたにも、非凡な大志を抱いて駆け抜けてきた持田にも、――どこの馬の骨とも知れない下劣な変質者にも。この世の憎むべき点も讃えるべき点も同じところに結集しているとは、何と滑稽な皮肉だろうか。
 男を「始末」した夜が明け、朝を迎え、日々の周期は緩やかに正常を取り戻した。非日常だった時間は一瞬で、馴染み深い日常が息を吹き返す。恐怖も不安も罪悪感も徐々に用済みになり、ふたりの心には安寧が張り巡らされた。
 死体から肉片へと変貌を遂げた名も知らない男は、ひっそりと世間から除名された。人間ひとりが忽然と行方を晦ませても、滞りなく世界は回り、時計は針を進めた。その当時は大衆もマスコミも、専ら大手俳優の不倫報道に夢中だった。花森は暇さえあれば熱心に周波数を捏ねくり回したが、どの放送局でもそれらしき話題は流れてこなかった。花森やの元に捜査関係者が訪ねてくるようなことも、勿論なかった。以前より頻繁に連絡を取り合い、中身のない会話を反復しては互いの無事を確認する暗黙の了解が生まれた。あの男の安否を心配する者が誰一人として存在しない。そんな恵まれなかった人間関係や社会環境に、無関係のふたりだけが救われていた。
 梅雨の湿気が霞み始め、澄み渡る初夏の到来が肌に沁みてくる頃には、連絡する頻度も落ち着きを取り戻していた。折を見て対話するときにも、の顔色はさほど悪くなく、花森からは変わらず亡者のような陰気が滲み出ていた。箝口令を敷かれてもいないのに、あの夜の話題は疎か、それを連想させる単語すらも唇を跨ぐことはない。けれど、時たま交錯する視線には、共犯者特有の後ろめたい連帯感のようなものが確かに入り混じっていた。
 そして、ふたりが纏う空気の微細な変化を、ふたりに一番近しい立場の男が見逃す筈がなかった。他人に対して冷酷で無関心でも、猛禽類のように鋭い双眸の洞察力は殊更に抜きん出ている。花森自身、自分でも気付かない不調や違和感を何度も徹底的に暴かれてきた。その真価が発揮されてしまえば、いくら口を閉ざしたところで悪事の隠蔽などできる筈がない。今更言わずと知れた自明の理が、ここ数ヶ月忙しなく働き詰めだった花森の脳内から見事に欠け落ちていた。そのことを思い出したのも、痛感したのも、人目を気にすることなく本人と真正面から対話する機を得てからだった。
「よぉ」
 その日、雑誌記者との対談を終えた花森の元に押し掛けて気さくな挨拶を飛ばしたのは、松葉杖で左足を補う持田だった。
 持田の体幹を支えて多少の無茶にも付き合ってきた左足首は、先週のリーグ戦でまたも持ち主の意向と袂を分かった。A代表戦に向けてギアを上げていく筈が、前半戦の終盤で相手プレイヤーに足を掛けられ、後半戦にその姿を見せることはなかった。各メディアはここぞとばかりに悲劇を謳って持田の負傷離脱を大々的に報じた。自分のことで手一杯な花森とて、その報道を素知らぬ顔で受け流せるほど淡泊な男ではない。知ったような口振りで持田の講釈を垂れ流す画面越しのコメンテーターに睥睨を飛ばしてしまうほどには、花森の癇も高ぶっていた。
 久々に顔を合わせた持田は、傍目にはそれほど消沈しているようには見えなかっただろう。挑発的な笑みが絶えず分厚い口唇を占有している。けれど、それも持田の得意とする芸当であると花森は知っていた。相手の弱点を見抜いてはとことん付け込む暴君のくせに、自分の弱みは憎たらしい嘲笑と嫌味ったらしい悪態で覆い隠してしまう。心を許している身内にすら、本心を曝け出すことはそう滅多にない。器用に生きているようで、その実、昔から誰にも頼ろうとしない不器用な性分なのだ。浮き沈みの激しい持田の気性に振り回されてきた花森が、一番にそのことを熟知していた。
 海外移籍を囃し立て、エース番号への執念を剥き出しにした持田は、そこから先は珍しく口を噤んた。減らず口の舌をしまい込み、獲物に狙いを定める猛獣のように苛烈な視線を縫い付ける。咄嗟に平静を装って顔を引き締めるも、内心花森は心臓を鷲掴みにされたような心地だった。持田の眼差しには、目映い叡智と野蛮な我欲が一緒くたになって共存している。この男の研ぎ澄まされた慧眼が、花森は頗る苦手だった。全て、暴かれてしまう。その日のコンディションも、自分のコンプレックスも、――あの夜山奥に埋葬した秘密さえも。ありえる筈のない予感が強襲して、花森の鳩尾に鈍痛が走った。
 長い長い沈黙が明ける。煮え切らない視線が絡み合ったまま、口火を切ったのは持田だった。
「なあ、俺に言うことあんだろ」
「……何のことだ」
「しらばっくれても無駄だって」
 余裕を張り出しながらも、どこか迫り立てるような物言いに、花森の胸底がさんざめく。迂闊だった。すぐにでも話を切り上げて立ち去るべきだった。こうして対峙してしまえば、真っ向からの追及を逃れる術も自信もない。執念深く欲深い持田という男が、見す見す獲物を逃すような真似をする筈ないのだから。確実に、仕留めにくる。
 花森の直感に違わず、沈みゆく西日を背に受ける持田は、翳りの中で獰猛な眼光をより一層尖らせた。
と何があったかって聞いてんの」
 目を逸らせなかった。気疎い唾液すら飲み込めなかった。目線ひとつ、動作ひとつで持田に見抜かれてしまう気がした。胸の奥に閉じ込めた心臓だけが、花森の狼狽と境遇を汲み取って大袈裟に拍動することを許された。
 罪を罪で覆い隠したことだけが、花森の良心を肉迫していたのではない。その前提にある本心こそが、真に覆い隠してしまいたいものだった。眼前の男にだけは悟らせてはいけない秘密だった。
 ――ただひとりの幼馴染を、随分前から幼馴染という枠組みになんて収めていなかったこと。逸脱した感情が、確かに自分の中で燻っていたこと。その感情の正体に心当たりがありながらも見て見ぬ振りを貫いて、結果として手に負えないくらい深く根差してしまったこと。その、何もかも。
 今にも胸倉に掴みかかりそうな持田に糾弾されても、萎縮こそすれ花森の決意は揺るがなかった。真実を白日の下に晒すことはしない。重責感に押し潰されて自供でもしない限りはあの罪過が世に出回ることはないし、それはに向ける仄暗い感情にしても同じことだ。赤裸々に暴露することで失うものは無尽蔵にあれど、得るものはひとつだってない。誰のためにもならない愚挙に出るつもりは、花森は微塵もなかった。
「フッ……お、お前のような男でも、人並みに嫉妬するんだな……」
「茶化してるつもり、ないんだけど」
 わざとらしく神経を逆撫でして主題を逸らそうと目論むが、持田の声色は乱れることなく真剣そのものだった。優位に立っている筈の花森の方が却って気圧されていく。
「万一が俺以外に惚れるなら、ハナ、お前しかいないだろ」
 有無を言わさない断定的な言及は持田からの捻くれた賛辞とも受け取れるが、花森にしてみれば寧ろ自分を惨めたらしめる発言だった。持田との結び付きは、身内の贔屓目を差し引いてもそう簡単に断ち切れるものではない。あのふたり以上に運命という表現が相応しい男女が他にいるだろうか。そんな自虐めいた疎外感を抱いてしまうほどには、付け入る隙などないと分かりきっていたし、略奪しようなんて愚考が頭を掠めることもなかった。花森にとっての特別ふたりが運命のつがい、心の底からそれで良いと思っていた。
 あの夜を乗り越えたとの間に流れる異質な空気感は、謂わば共謀罪を抱え込む者どうしの親密さだ。片方が手を抜かれば、必然的にもう片方も失墜を免れない。死なば諸共、そんな表現がよく似合う関係。身を滅ぼすほどに惹かれ合う男女の関係とは似ても似つかない。ただ、そう誤認して悶々としていた持田を想像してみると、花森は何とも痛快な気持ちになった。普段から嘲弄されるたびに鬱積していた不満がいくらか解消されていく。今日くらい、ふんぞり返っている王様に小さな意趣返しを企てても罰は当たらないだろう。そんな花森らしい屈折した思考が脳裏を過ぎった。
「……俺を疑うことは、ひいてはを傷つけることに繋がると、分からないのか……」
「はあ? 何が言いたいの」
「こ、恋人の潔白を信じられないような奴が、エースナンバーを背負えるとは思えない、というだけの話だ……」
 鬼の首でも取ったように、花森はねちっこい非難を連ねた。相手は拗らせたプライドの化身のような男だ。恋人との関係だけに飽き足らず、選手としての行く末にまで余計な口を出されて、黙って引き下がる筈がない。己の頬に激痛が走るところまで想像して衝撃に備えたが、いつまで経っても花森の痛覚は反応しなかった。躊躇いがちに薄目を抉じ開ける。これだけの屈辱を受けながら、視界の中央を陣取っていた男は反論の牙を剥くことなく、拍子抜けするほどあっさり踵を返していた。表情こそ窺えなかったが、松葉杖で体躯を支えながら去っていく背中はいつになく摩耗していて、いよいよ調子が狂う。花森が引き止めようか思い倦ねている内に、持田は暗闇の中に溶け込んでしまった。後に残された生ぬるい静謐が、花森の心臓を存外締め上げた。
 去り際に持田が負け惜しみは疎か舌打ちのひとつも寄越さなかったのは、それだけを大切に扱っている証明に他ならなかった。もしもあの場でしつこく彼女の不貞を提唱しようものなら、花森の頬ではなく拳に痛みが伴っていただろう。けれど、いくら持田が反骨精神の塊といえども、恋人の尊厳を貶めるような行為は正直後ろめたかったに違いない。だからこそ、信頼に値する男から啓発を受けた持田は、早々に折れて大人しく引き上げた。そう花森は解釈した。そのまま、ひた向きに一途なの純愛を何も知らずに傍受していれば良い。そうも思った。
 それから二週間近く、持田はともかくとしてからも音沙汰がなかったのには、さすがの花森も動揺を隠せなかった。手頃な世間話を引っ提げてメッセージを打ち込んだが、先日のしおらしい背中が目蓋の裏にちらついてしまい、結局送信ボタンを押すことは叶わなかった。のトーク画面とニュースサイトの記事一覧を行き来しながら網膜を痛めつける日々が終息したのは、花森の近辺が熱狂の渦に包まれた直後だった。
『おめでとう。圭悟がブンデスに移籍なんて、夢みたい』
 花森の海外移籍が公的に発表された直後、興奮で弾み上がるの賞賛が電波に乗って届いた。花森の心臓が安堵に浸るより先に、微かに波打つ。今でも覚えている。綿雪のようにふわふわと舞い上がるこの声は、持田と付き合うことになったとはにかみながら一報を入れたあのときの声とそっくりだった。もうその頃には失恋を覚悟できていた筈だが、予想以上に己の鼓膜は打たれ弱かったのだと気付く。同時に、あの日虚しく享受した寂寥感も劣等感も、ほんのわずかに昇華されたような気がした。花森の口角には自然と笑みが滲んでいた。
 年々軽口が染み付いていく持田だが、情報漏洩のような倫理観を疑う失態とは無縁に生きていた。そういう部分では公私混同せずきっちり区別を付けるあたりが、無礼講を働きながらも持田という男が憎まれない所以だろう。花森もその性質を重々承知していたから、ひと思いに海外移籍の件を打ち明けたのだ。の息巻く反応からして、彼女は今し方テレビかネットでこの話題を拾い上げたのだと推測できる。持田があの日手に入れた機密事項をにすら漏らさず、口を慎んでいたのは明白だった。恐らく、誠実な恋人に不誠実な疑惑を抱きかけたことも、その件で昔馴染みと対論して火花を散らしたことも。鍵をかけて奥底にしまい込んでいる。それはあの男らしくもない、意外な着地点だった。とにもかくにも、本来自分に向かう筈だった厳しい追及がに向かわなかった状況が垣間見えて、花森はほっと胸を撫で下ろした。
「フン……俺は天才だからな……」
『うん、ほんとに天才。圭悟ならどこに行ってもやっていける』
「…………褒めても何も出ないぞ」
『あ、照れてる』
「てっ、照れてなどっ、ない……!」
 電話越しに、の柔らかな微笑が花森の鼓膜をくすぐった。同じ罪業を背負ったあの夜以降、どことなく不穏な余韻を引きずって停滞していた空気が嘘みたいに澄んでいく。こうしてに弄られては花森が声を荒げて臍を曲げるまでが、ふたりにとって馴染み深い、お決まりのパターンだった。まさか無垢に生きていた子どもの頃と遜色ないくらいに心から笑い合える日が訪れるとは。花森にとってはこちらの方がよほど夢みたいだった。正直なところ、眦が下がって瞳が目蓋に埋もれるくらいに綻ぶの表情を脳髄にまで焼き付けたかったのが本音だが、それは叶わなくて良い。もうこれ以上、持田の顔を直視できないような疚しい隠し事を生産するのはたくさんだ。そんな複雑な心境に陥りながら、花森はの表情を想像するだけに留めた。声だけで満ち足りてしまう程度には、寡黙な奇才も浮かれきっていた。そんな、いっとき気を緩めてしまっただけの男を一体誰が責められよう。
 美しく幸せな夢に陶酔すればするだけ、目覚めたときに味わう虚無感は絶大なものになる。夢に沈水して現実から逃避していたのは自分だけだと突き付けられたのは、その直後だった。
『ね、圭悟』
「……何だ」
『海外に行って有名になって、ずっとサッカーし続けてね』
 あれは嵐の前の静けさだったのか。花森にそう予感させるほどに、からの激励には願いのような祈りのような神妙な切実さが込められている。それだけで彼女が何を伝えたいのか察してしまうのが、長年言葉を経ずとも心を通わせてきた幼馴染の悲しい性だった。花森の眉間に深い皺が寄せられる。安穏に包まれていた先の会話がぼんやりと薄らいでいく。まるで夢のように。
 もしも、ふたりの秘密を嗅ぎ付けられてしまったら。万が一、闇に埋葬した真実を掘り起こされてしまったら。当然、花森が志した世界進出は夢のまた夢へと遠ざかってしまう。それどころか、もう夢と呼ぶことさえ憚られてしまうほどに、儚く呆気なく霧散してしまうだろう。国が優しく犯罪者の更生に労力を割いても、世間の目は容赦なく厳しい。ピッチの上で再びボールを蹴る日が訪れるとは到底思えなかった。
 つまり、が声援に潜ませた願望はこうだった。
 秘密が流出することなく、世間に取り沙汰されることもなく、花森がずっとボールを蹴り続けられるくらい穏やかな日々が延々と続きますように。そう願っているのだ。そして、それはもうひとり――が身も心も捧げている恋人に対しても、同じ願いを込めている。
 この果てなき呪縛から解き放たれる日は来るのだろうか。もし来ないのだとして、あの夜の事件は生涯の思考や人生に恐怖が纏わり付かなければならないほどの大罪だったのか。先に倫理を逸脱して人権を踏み躙ったのはあちら側だというのに。花森は脳漿を絞り出して考えを巡らせたが、答えらしい答えは捻出されなかった。それもそうだ。いくら尤もらしい理屈を並べたところで、どれもこれも自分達の悪事を正当化するだけの屁理屈に過ぎない。本来ならば、罪を重ねる前に警察に駆け込んで正当な判決とその報いを受けるべきだった。そんなことは分かっている。分かっているのだ。
 けれど、例えあの夜が間違いだらけだったとしても、愛した女と憎めない男が健やかに晴れやかに生きてほしいと願う心が、間違いである筈がない。
 思考をなぞり終えた花森は、もう脳裏から躊躇も未練も拭い去っていた。どれだけ後悔を積み重ねようとも、犯した罪業が覆ることはない。真っ当な贖罪すら叶わない。全てを葬り去る道を選んでしまったからには、倫理観も罪悪感も押し殺してでも貫き通さねばならない。花森の決意は固かった。
「……あの夜、俺はの家に行かなかった」
『えっ』
「お前は……持田の家に寄って、そのまま帰らなかった。あの家では何も起こらなかった。……そうだろう?」
 途切れがちに花森の口から語られたあの夜は、紛れもない虚偽で塗り固められていた。けれど、その虚言を見抜ける証拠はひとつとして存在しない。全てを人里離れた山奥の地下深くに捨て去った。なら、真実を知るふたりが虚構を仕立てあげてしまえば、それはもう真実と同義だった。真相を炙り出される要因はどこにもない。
 長年、幼馴染の変哲な言行に付き合ってきただけあって、はすぐに花森の意図を察した。静かに息を呑む音がする。
「……安心しろ。あいつは、何があってもボールを追い掛け回す男だ。……もちろん、俺もだが」
 何の確約もなければ保証もない、不安を一蹴するにはお粗末すぎる宣言だったが、にはそれで十分だった。壊れた人形のようにこくりこくりと頷く。視界には映らなくとも、彼女の震える睫毛と潤みを帯びる瞳が花森の脳内には鮮やかに蘇った。呆れ返るような苦笑が吹き溢れる。花森の眉間に刻まれていた皺は、もう跡形もなかった。
 通話を切った後も、花森の身体は甘い余韻に浸っていた。惚れた弱みを今まさに痛感している。どんな厄介事に巻き込まれたとしても、を突き放す自分がまるで想像できない。彼女に非があろうとなかろうと結局は加担してしまう。そんな歪んだ情愛を抱きながらも、自分のものにしたい独占欲は微塵も湧かない。その理由も明白だった。同じように、どんなに世間を騒がせて野次を飛ばされようとも嫌いになりきれない男が、彼女の隣を専有しているからだ。どちらも花森にとっての特別で、唯一。ふたりが築いた強固な関係を壊すような真似だけはできない。するつもりもない。これこそが、花森が本当の意味で掘り起こされたくない真実だった。
 花森の胸中にやはり迷いはなかった。とうの昔にこの感情が行き着く末路を悟っている。
 この秘密を胸に抱いて骨と一緒に埋める覚悟は、とっくにできていた。

2023/02/14