微睡みの福音
 ――そういえば、別れたらしいぜ。
 新鮮なアルコールが脳神経に絡み付いて離れない、ぐちゃぐちゃな思考のさなかで、その言葉だけは明確な輪郭を保っていた。うつ伏せていた顔を勢いよく持ち上げる。いきなり照明の光を取り入れた俺の視界は盛大にぐにゃりと捻れた。網膜が焼き切れそうだ。すぐにこうべを垂らして目蓋の裏側に逃げ帰る。急変する俺の体調なんて知りようがない先輩達は、鼻息を荒くして話題の種に食い付いていた。
 リーグ戦で快調続きのクラブでは、相応に興奮した熱気が漂っていた。そういう空気に影響されやすい世良さんが、俺の肩を叩いて「久々に飲みに行こうぜ!」と声高らかに宣言したのが発端だ。明日はオフだし、若手を中心に招集されていく飲み会は居心地も良さそうだし、断る理由はなかった。一抹の懸念があるとすれば、未知数な自分のアルコール耐性だ。二十歳になった誕生月に、家族団欒の場で注がれた日本酒は正直あまり美味しくなくて、程なくしてグラスを姉ちゃんに授けてしまった。姉は母譲りの酒豪だけど、俺の内向的で慎重な性格から察するに、下戸な父の遺伝を受け継いでいるような気がしてならない。実際、その推測は正鵠を得ていた。生ビールをジョッキ一杯ですら俺の肝臓には荷が重すぎたようだ。危惧していた事態から逸れることなく、俺の身体にはすっかり酔いが回ってしまい、開始三十分で机に突っ伏すはめになった。
 会話の濁流が勢いを増す一方で、鈍麻になった俺の聴覚は置き去りにされていく。耳を澄ましてみても、肝心な部分は編集されて切り抜かれたみたいに流れてこなかった。誰が、誰と別れたというのか。その根底が曖昧なまま「やっぱりなあ」「元気なかったもんな、最近」「俺チャンスあったりするか!?」なんて蛇足のような余談だけが積み重なっていく。これじゃあ埒が明かない。酒気に籠絡された胃液が這い上がってきそうな気配を悟りながら、俺はぐっと脇腹を押さえて首を擡げた。
「わ、かれたって……」
「だから、さん。今の彼氏が転勤するらしい……って椿、お前大丈夫かその顔」
 情けないくらいの掠れた声を絞り出せば、とうとう真髄に辿り着くことができた。俺の中で燻っていたさもしい期待が、ころりと表情を変えて破顔する。普段なら他者の不幸を願うなんてことは滅多にしない。というか、断じてない。でも、どうしてかさんに限って言えば、その限定的な不幸を密やかに待ち望んでいた。どうして、の疑問詞は今更必要なかったかもしれない。理由は明確だった。彼女を遠目にして抱いている感情は、俺から倫理観や理性なんてものを削ぎ落として本性だけを丸裸にしてしまう、恐ろしい魔物のような何かだったから。
 勝手に舞い上がっている俺の心境とは裏腹に、惜しげなく答えを披露してくれた右隣のザキさんは思いきり眉を曇らせた。その顔、が指し示した表情をこの場では確認のしようがない。けれど、物珍しいザキさんの剣呑な眼差しが大凡全てを物語っていた。少なくとも、さんの失恋に浮き足立っている最低な自分が出しゃばっているわけではなさそうで、ほっと胸を撫で下ろす。左隣のミヤちゃんに背中を擦られながら「とりあえず水飲めるか」と手渡されたお冷を口に含んだときになって、ようやく今の自分は周囲が血相を変えるほど顔色が悪いらしい事実を飲み込めた。食道を伝った生温い水は、胃袋に底溜まる不快感を却って増長させただけだった。
 トイレに駆け込むか否かの瀬戸際に追い込まれる寸前、その衝撃は電流のように駆け抜けて身体の芯を痺れさせた。多分、俺だけじゃなく、この酒盛りの場に居合わせていた全員が。
「……え、うわ、ちょ! さんじゃないスか」
 いつもより饒舌で大仰になった世良さんが上擦った声でそう叫ぶものだから、一瞬にして空気が張り詰めた。先程まで酒の肴市場を独占していた女性がすぐそこにいる。しかも、低俗な下世話寄りの内容で盛り上がってしまった矢先のことだ。卓を囲む皆がぎこちなく顔を見合わせていた。
 世良さんが呼び掛けた方向から、ひとりの女性が立ち上がる。首を傾けて顔をひょっこり覗かせたのは、見違うことなくさん本人だった。クラブでは纏めている髪を下ろして、毛先と一緒に小振りのピアスが揺れている。同席している女性数人は、何事かと怪訝な視線を飛ばしてきた。その人達に断りを入れてから席を外したさんは、こちらの卓へと歩み寄った。近付くにつれて、どことなく感じていた違和感の正体が鮮明に縁取られていく。伸び上がる繊細な睫毛とか、仄かに血色の良い頬だとか、そういう元々の魅力を底上げする化粧によるものだと逸早く気付けたのは、俺が普段から相当彼女に見惚れているからだろう。どちらが余所行きの顔か分からないけど、どちらのさんも好きだな、と呑気に考えていた。
 ETUの広報部に入社して半年ほどになるさんは、永田さんの一個か二個か或いはそれ以上に年下である、くらいの情報しか定かではなかった。というか、それはもう定かでも何でもない憶測だ。四年制大学を卒業しているらしいので、俺と二個以上離れていることだけは確実だった。――後は、そう、付き合って三年目になる恋人がいるってことを風の噂で耳にしたくらい。そうだろうな。あんなに優しくて気さくで飾らない美人、引く手数多だろうな。首がもげそうになるまで頷いて自分を納得させたつもりだったのに、その日の練習ではコシさんや黒田さんからの鋭い眼光と激しい野次が後を絶たないくらいにはミスを連発しまくっていた。メンタルとパフォーマンスが直結する自分の欠点が浮き彫りになって、また気分が沈んでいく。そんな負の環状線に乗り込んだ俺の心を連れ出してくれたのは、練習終わりに盗み見たさんの柔い微笑みだった。結局、俺ってどこまでも単純だ。
 真偽がどうであれ、職場の面々に恋人との破局を言い触らされて快いわけがない。さんの卓にまであの卑俗な会話が筒抜けになっていないことを祈りながら、彼女の華やかな立ち姿を見つめた。俺の世界から騒々しい雑音が立ち消えていく。大衆居酒屋にはもったいないくらいの美貌に目を奪われながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「大学時代の同期と飲んでて。ごめん、今さっき世良くん達だって気付いた」
「何で謝るんスか! こっちで一緒に飲みましょうよー」
 すごいな、世良さん怖いものなしだ。FWならではの無敵の肝っ玉に感心する他ない。皆からの心許ない視線を一身に受けながらも全く意に介さず、世良さんは大きく手招きした。さんは困ったように唇を擦り合わせて後方を振り返り、同伴者達の顔色を窺っている。彼女の不安が募った表情に反して、遠目に静観していた女性達は間髪入れずにグーサインを掲げ、わらわらとこちらの座敷席に押し寄せてきた。野太い歓喜の声が飛び交う中、人見知りの俺には到底抱えきれない緊張の重圧が一気に伸し掛かる。もうだめだ。口内の異変を察知してすぐに立ち上がり、居酒屋の隅にあるトイレに駆け込んで盛大に吐いた。この世に存在を許されてほしくない不快な味が味蕾を強襲する。粗方を出し切ってから洗面所で何度うがいをしても、その味は横柄に居座っていた。諦めて、紙切れみたいな貧弱な身体で這いずるように席に戻る。胃酸と一緒に声も気力も吐き出してしまったのか、心配してくれるミヤちゃんに何の言葉も送り返せず、壁に凭れかかってひたすら目蓋を閉ざした。
 終宴の号令が掛かるまでの記憶も、居酒屋の暖簾を潜り抜けるまでの足取りも、何もかもが抜け落ちている。草臥れた俺の脳みそに期待なんてするだけ無益だと分かっていたけれど、それでも、ここに至るまでの過程を一欠片くらいは残しておいてほしかった。そう思う。
「椿くん、タクシー呼ぶからそこまで歩けそう?」
 寒々しい夜風が肌を切り裂くのと同時だった。対抗して鼓膜がじんわりと熱を孕む。好きな人の、好きな声だ。足底は確かにアスファルトの感触を踏み締めているのに、まだ俺は地獄の底に浸かっているような酩酊状態を噛み締めていた。覚醒していく意識に導かれて目蓋を抉じ開ける。緩やかに開かれた視界の中央で、冬空のように澄み渡る大きな瞳が、俺を一直線に射抜いていた。
 現実を直視した途端、思わず後退った。覚束ない足が縺れて後方に倒れそうになりながら、どうにか踏ん張って持ち堪える。長時間に及ぶ豪飲を経た後とは思えないほど涼しい顔で、さんはくしゃりとはにかんだ。
「え、なん、何で」
「皆、二次会でカラオケ行っちゃった。やばそうだったら連絡してって、宮野くんが」
 いや、そうじゃなくって。どうして、何だってさんが俺と一緒に取り残される側にいるんだろうか。狼狽した舌はうまく言葉を紡げないまま空回っている。そんな俺の声にならない当惑を見透かしたように、彼女は人差し指を唇に添えて首を傾けた。
「人前で歌えないくらい音痴なの。内緒だよ」
 その秘密が本物なのか、俺に責任を負わせまいと気遣ってくれたがゆえの虚構なのか、ここでは判別のしようがない。ただ、もしもそれが本当だとしたら、完璧を体現したような存在のさんが不得手なものを打ち明けてくれた事実に、どうしたって心が躍ってしまうのだ。俺は大袈裟なくらい何度も頷いて、秘密にする所存を目一杯示した。
 夜もすっかり深まった時間帯だからか、路地を抜けて大通りに出ても通行人は疎らだった。行き交う自動車の騒音だけが俺達の沈黙を埋めている。さんに手配してもらったタクシーの待機場所に到着すると、彼女は近くの自販機で缶コーヒーをふたつ購入した。そのうちのひとつが俺に差し出される。ありがたく受け取ったものの、荒れ果てた胃袋にはまだ荷が重くて、それをカイロ代わりに両手で握り締めた。隣に並び立った小さい彼女も、同じ用途で指先を温めている。マフラーの内側から膨れ上がる白い吐息が、暗闇と混じり合ってすぐにその原型を失った。
「ごめんね、椿くん。知らない人ばっかりで疲れたでしょう」
「……や、全然……。俺酔ってて、ほとんど覚えてなくて」
「顔色だいぶ悪いもんね。今日はゆっくり休むんだよ」
 この悪酔いは俺の軽率な行動と脆弱な体質が招いた代償に過ぎないのに、さんに謝ってもらうなんて烏滸がましいにも程がある。良心に苛まれながら否定しても、彼女は柔和なまなこを弛ませて俺を優しく眼差すばかりだった。鼻筋の通ったきれいな横顔が、息切れした電灯の生半可な光によって、仄白く浮かび上がる。人形のように美しいその面立ちは、見ようによっては生気がないとも捉えられた。疲れてるのはさんも同じなんじゃないだろうか。直感的な憶測だが、さっきまで話題をかっ攫っていたあの噂を軸にすれば、自ずと信憑性を帯びてくる。きっとそうに違いないと、内なる無知な自分は勝手に浅はかな自信を滾らせていた。
、さん。付き合ってた人と別れたって、ほんとスか」
 その自惚れが口を滑らせたのか、それとも故意的に言及したのか。恐らく半々くらいの割合だった。酒気に犯されて微睡みながらも、意識はしっかり自我を保っている。さんの傷口に塩を塗り込みかねない最低な行為だという自覚があっても尚、俺は彼女に確認したかった。待ち望んでいた不幸が真実であってほしいという、あまりに無神経で不誠実な願望のために。
 訥々と呈した疑問を最後まで聞き届けると、ふいにさんは俺の方を見上げた。瞳を縁取る睫毛が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。見逃せなかった。ずっと彼女に吸い寄せられていた眼球は、否が応でも彼女の変化を目敏く暴いてしまう。
「ほんと。浮気されたの」
「うわ……えっ」
「結婚する予定まで立ててたのに、笑っちゃうよね。浮気相手が転勤するから付いて行くんだってさ。呆れて物も言えないよね」
 俺の不躾な狼藉に気分を害したらしい素振りもなく、これも内緒だよ、なんて茶目っ気を含ませた声でさんは呟いた。今日は秘密を受け取ってばかりの日だ。誰にでもある苦手分野から、誰にでもはない波乱のエピソードまで、実に幅広く。純粋に嬉しい一方で、不純に期待してしまう自分もいた。こうやって赤裸々に素顔を明かしてくれるのは、どうしてですか。少なからず、それ相応の信頼を得ていると思ってもいいんですか。不純な期待に都合の良い解釈がコーティングされていく。そしてできあがるのは、普段の自分からは想像もできないほど過剰に底上げされた自己肯定感だった。
「おれ……俺じゃ、だめですかっ」
 不意を突かれたように、さんは大きく目を瞠った。今にも窪みから淀みない黒目が弾き出されそうだ。静脈が透けそうなくらいに白くて細い手首を強引に捕まえる。居心地が悪そうに彼女の指先から滑り落ちた缶コーヒーが、音を立てて歩道を転がった。もう歯止めがきかない。内なる興奮を抑えきれない。なけなしの理性さえも、足元から随分離れてしまったあの缶コーヒーと同じように、遥か遠くの対岸に押し流されていく。
「俺ならっ、さんを悲しませないし、嫌なことだってしない。ずっと笑っていてもらえるよう努力しますっ。だから、だからっ……」
 剥き出しになった本音は幼稚でみっともなくて、けれど間違いなく俺の欲望そのものだった。ただ漠然とさんの不幸を願っていたわけではない。他の誰でもない俺の手ずから、彼女を幸せにしたかった。誰にでも優しいさんの笑顔を、自分だけに向けてほしかった。こんな子どもじみた独占欲をいかにも貴女のためだという体を装って、ぶちまけて、押し付けて。彼女にしたら傍迷惑でしかないだろう。頭では理解しているつもりなのに、心は往生際が悪く地団駄を踏んでいる。
 年甲斐もなく目頭が熱くなって、急速に胸が締め付けられた。じわりと視界が滲む。今更な羞恥心がようやく働き出して、情けない顔を隠すように俯いた。往来の場で鼻を啜る成人男性なんて見苦しくて仕方ないだろうに、さんは赤子をあやすような手付きで俺の背中を擦ってくれた。
「ありがとう。気持ちは嬉しいよ、すごく」
 極寒の外気が跳ね返っていくほど、温もりに包まれた声だった。胸が詰まる。ほんとですか。迷惑じゃないですか。なら、それなら。すかさず後に続けたい言葉は山ほどあったのに、腑抜けている俺の声帯はびくともしなかった。代わりに、さんの手首を掴むちからが強くなる。こんな乱暴な扱いを受けているのに、彼女の瞳に宿る光は毅然と瞬いていた。
「もしお酒が抜けた後も同じ気持ちでいてくれるなら、そのときは待ってるね」
 今度は俺が顔を上げて目を見開く番だった。その誘導にも似た言葉のおかげで、ようやくこの昂りが正常な思考に基づくものではないと悟った。見兼ねたように理性が渋々踵を返して、扇動されて膨れ上がっていた熱情が萎れていく。はっきりと、この異常の根源に思い当たった。アルコールによって許容範囲を越えて溢れ出た感情は、こんな風に未知の自分を発露させてしまうのか。恐ろしくなって身震いした。
 通りがかりの身を寄せ合うカップルに「修羅場〜」と憫笑されて、慌ててさんの手を解放する。前のめりになって詰めすぎていた距離を適切なところにまで戻すと、わずかに遠ざかったさんが、からかうような微笑を湛えた。
「勝手なこと言って、すみません」
「ううん。若いって良いなぁって思ったよ」
「嫌いに、ならないでください」
「椿くんを嫌いになれる人、きっとこの世のどこにもいないよ」
 どんなに頭を下げても謝罪を連ねても、さんは俺を責めるような発言を一欠片も零さなかった。そのことで宙に浮くような気持ちにも、地面に叩き落されるような気持ちにもなる。彼女の内側で、俺はどんな存在として認識されているのだろう。そこに居場所はあるのだろうか。男として認められる隙間はあるのだろうか。
 逡巡を重ねて間もなく、空車のタクシーが滑り込んでくる。乗り込んでから先に降ろされたのは俺の方だった。降車して、澄んだ冷気を肺いっぱいに吸い込む。見上げると、まだ寮にはぽつぽつと明かりが灯っていた。さすがに選手の誰かにこの現場を目撃されるのはまずいと、本能が警鐘を鳴らしている。その結論に至ったのは俺だけではなかったようで、車窓から顔を覗かせるさんも「お疲れ様。ゆっくり休んでね」と手頃な挨拶を述べた。タクシーが発車し、テールランプが闇に混じり合って溶けていくまで、その場に立ち尽くしてじっと見つめていた。
 あの粗相は夢であってほしい。でも、さんの秘密は現実であってほしい。二律背反な俺の願いは、部屋に戻ってから押し寄せてきた睡魔によって、あっという間に揉み消されてしまった。
 翌朝のオフはそれはもう散々だった。胃の底からこみ上げる不快感は、けして二日酔いによるものだけではない。後悔に押し潰されそうになりながら、脳を空っぽにしたくてひたすら自主練習に費やした。煩悩を排除して冷静になればなるだけ、アルコールに打ちのめされた自分の浅慮にも愚行にも嫌気が差して、こめかみの奥が痛くなった。
 オフが明けてクラブに向かう足取りは、鉛を埋め込んだかのように重怠かった。ボールを蹴ることだけが唯一の取り柄で、そのために走り続けてきた自分からは到底考えられないような事態だった。クラブのロビーを抜けてロッカールームに足を踏み入れる直前、廊下の奥から賑やかしい談笑が流れてくる。その集団が俺を見つけて声を張り上げるまで、ものの数秒とかからなかった。
「よぉ、椿。この前は大丈夫だったかぁ?」
「あっ、ハイ! ご迷惑おかけしてすみません……」
「わりいな。お前がダウンしてる間にみどりちゃんの携番ゲットしたから!」
「どうせ向こうからは掛かってこないと思いますけどね」
「赤崎、てめぇ先輩に向かって生意気だぞ!」
 酒に潰れて負い目を感じている俺を気遣ってくれているのか、次々に迫ってくる人達は皆、慰労の言葉を掛けてくれた。世良さんとサキさんの喧嘩じみたやり取りも、日常が骨身に沁みていくようで却ってありがたい。ふたりを宥めながら、俺は久方ぶりに精神的な平穏を取り戻していた。
 その矢先だった。思いがけず事務室から出てきたさんを眼球が捉えて、呼吸を大きく飲み込んだ。そして、俺の視線を受け止めた彼女が人差し指を口元に添えて「内緒だよ」とはにかんだから、心臓の脈動が止まりそうになった。夢じゃ、なかった。
 もう一分一秒が惜しかった。一刻も早くこの場を立ち去って、さんの元に駆け出したい。アルコールに惑わされない本当の気持ちを届けて、あの日の告白がただのやけっぱちでないことを証明したい。どうしようもなくみっともない結末を迎えるとしても、それでも。武者震いにも似た甘い痺れが背骨を伝った。どうにでもなれ。スタートさえ切ってしまえば、後はもうがむしゃらに走ることだけは俺の専売特許なんだから。



2023/01/06