不朽の恒星
 夜空を駆ける流星が、この地上に降り立った。風よりも音よりも速い光芒が、行く手を阻まれながらも死に物狂いでボールにしがみつく。そして、華麗な足捌きで相手を欺き、見事にゴールをかっ攫う。この表現はきっと、彼の英姿を刮目した者にしか理解できないだろう。人類が出せるトップスピードなんて虚構に過ぎないとばかりに加速して、ピッチを縦横無尽に駆け抜ける。例え目の錯覚だとしても、そんな現実離れした幻想さえも心地良くさせる。日本中が彼のプレーに歓喜して、熱狂して、夢中になる。私の古き良き知人――と言うには互いを熟知しすぎているけれど――は、そうやって観客を魅了する、彗星の如く現れた期待の新人フットボールプレイヤーだ。
 こうは言っても、定型文のような彗星という例えは少々不服でもある。今期就任したばかりの監督に素質を見出されて起用された結果とはいえ、彼自身は学生時代から努力を積み重ね続けていたのだ。突然才能が開花したのだとしても、それは膨大な練習量が礎にあってのことに他ならない。刹那的に走り抜ける彗星だって、視野の死角でも宇宙の片隅でも、きっと目映い輝きを放ち続けているに違いないのに。……かく言う私も、選手としての彼の全容を把握しているとは口が裂けても言えなかった。昼夜絶えずテレビで特集を組まれる代表戦はともかく、国内リーグ戦はその勝敗を彼から直接聞いて満足する程度の興味しかない。目に見えて分かりやすい劇的なゴールには心揺さぶられても、張り巡らされた戦略や優れた技術力にまでは思考が辿り着けない。典型的なにわかファンである。そんな私が誇れる唯一と言えば、彼のプライベートに立ち入る特許を得ていて、尚かつ彼のパーソナリティに誰よりも精通していることぐらいなものだ。そうです、これは唯一にして最大の自慢話です。
 U-22日本代表にも抜擢されて、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍する注目選手――椿大介くんは同郷であり、旧友でもあり、昔馴染みでもあった。様々な縁を紡いできたけど、最終的に落ち着いたのは恋人という関係だ。
 高層ビルの群衆もなければ煌びやかな繁華街もない、ついでに同級生の数も滅法少ない。そんな雪国の辺境地で私達は生まれ育った。
 引っ込み思案で大人しくて、なかなか心を開いてくれない。そんな印象だった大介くんの新たな一面が露呈したのは、球技大会に向けて取り組み始めたサッカーでのことだ。生徒も先生もがむしゃらになってボールを追い掛け回し、パスを繋げるたびに笑顔が伝染していく。時間や仕事を忘れて、泥だらけになって、膝小僧を擦りむいて、廃校になるその日まで。そして、その中心にはいつも大介くんがいた。全員が楽しめるようパス回しやチーム連携に趣向を凝らす姿も、疾風を味方に付けて重力さえも振り払って快走する姿も、皆等しく惹き付けられた。当時はまだ名もなきひとりのサッカー少年に過ぎなかったかもしれない。それでも、あの頃から漠然と淡い予感だけは湧き上がっていた。この先、彼は世界という大舞台で人々を魅了し、瞬く間に世間から脚光を浴びるのだろうと。眼球ふたつ分を見渡すので手一杯な私の狭い世界が、彼の傑出した両脚によってどこまでも切り拓かれていく。それこそ日本の隅々まで、果ては世界の裏側まで。そんな無責任な期待を勝手に抱いてしまうほど、大介くんの人柄とプレースタイルには絶大な魅力が詰め込まれていた。
 地元の中学に上がって、帰宅部として自由な中学生活を謳歌する私と、サッカー部に入部して己を研磨する大介くんとでは、微妙に距離が遠くなった。同じ小学校出身と言えども、クラスも違えば所属する部活も委員会も異なる年頃の男女となれば、必然的に交わす言葉数も減っていく。廊下をすれ違うときに発生する、ぎこちない挨拶の定型文だけが大介くんの地声を鼓膜に刷り込む機会になっていた。隣に位置する教室でさえ、腰抜けの私にとってはくらいの日本とブラジルくらいの途方もない距離感だ。それでも、愚直な視覚は往生際が悪くグラウンドに引き寄せられた。夕映えの底でボールを目指して突き進んでいく流星は、素人目にも分かるほど見違えて速く鋭く研ぎ澄まされていた。喜ばしい光景を網膜に焼き付けるつもりが、いつも肝心なところで視界が滲んで捉えられなくなる。着々と世界に羽ばたく準備を拵えている大介くんに対して、まるで私だけが過去に縋って立ち止まっているような、そんな感傷に浸らずにはいられなかったのだ。
 別離の気配が染み込んでくる中学三年生の冬、私はいよいよもって意気地なしの自分からも卒業せねばならなくなった。大介くんの進路が風の噂で舞い込んできたのだ。関東の強豪校でサッカーを続ける、という端的なものだった。本来なら心躍るべき吉報なのに、またも胸中は穏やかでなくなった。関東なんて、田舎暮らしを貫く私にとっては地球と宇宙の片隅に浮かぶ小惑星くらいの果てしない距離感だ。ひと目姿を拝む機会も、声を小耳に挟む偶然も、確率は皆無に等しくなる。進路を違えるとはそういうことだ。傍らで瞬いていた希望の星が、暗雲に覆い尽くされて目視すら叶わなくなる。
 大介くんと私の運命にすらなれない縁がここで途絶えてしまうのだとしても。後悔ばかりを積み重ねてきた三年間を不始末として、このまま闇に葬り去るわけにはいかない。勝手に託した希望が開花するまで見届ける義務がある以上、彼が映り込む仄かな記憶でさえも灰色に染めるわけにはいかない。それは当時の自分ができる最大限の決断だった。
 受験勉強に身を窶すような真似はしなかったけれど、代わりにその作業には寝食を忘れて取り組んだ。手先は器用な方ではなかったから、指先に絡み付く絆創膏は日に日に増えていった。そうして無事地元の高校に合格し、苦難の連続だった裁縫もどうにか完成まで漕ぎ着けた。万全の用意ができた。後はもう捨て身の覚悟で腹を括るのみだった。
 門出の日に相応しく、春に向かって空気が和やかに流れゆく日だった。そんな春先の朗らかさとは裏腹に、心臓は張り裂けそうだし胃液は逆巻いているしでコンディションは散々だった。祝辞なんて一片も留まることなく右から左にすり抜けていく。それでも、ここまで寿命と睡眠を削り落として励んできた以上、逃走なんて余地は残されていなかった。
 閉式した直後、逞しく成長した背中を人目を忍んで猛追して、ぐっと腕を引き留めた。大声で呼び止める勇気はなかった。これから、もっと大胆な行動を余儀なくされるというのに。
ちゃん」
 振り向いて、何の動揺も逡巡もなく大介くんは私の名前を呼んでくれた。三年間を通して私への認識なんて希釈されていてもおかしくないのに、全くその経過を感じさせない満面の笑顔が浮かび上がる。ああ、もう。一段と姦しくなる鼓動が煩わしい。正常な思考を妨げられる。何十回と繰り返し反復してきた言葉が撹拌されて、その原型を失っていく。用意していた文言がすっぽ抜けたと悟るや否や、もうなりふり構っていられなかった。ポケットに忍ばせていたものを取り出し、震える手で大介くんに差し出す。縺れそうな舌先は、どうにか役目を放棄することなく後から追い掛けてくれた。
「こ、これ」
「うん?」
「関東の高校行っちゃうから、お守りに」
「……でえぇぇぇ!?」
 しどろもどろに紡いだ言葉は、本来の完成形の切れ端程度しか形を成していなかった。それでも、大介くんは確かに現物と一緒に受け取ってくれた。呆気に取られてしばたく瞳が、手のひらと私の顔とを往復して、徐々に見開かれていく。素っ頓狂な声が渡り廊下に響き渡るのと、後退った彼の背中が鉄柱に突撃するのとはほぼ同時だった。あらゆる衝撃に耐えかねて、呻きながら項垂れている。見てるこっちまで痛覚を刺激された。けれど、大介くんはその激痛にも臆することなく、一息で頭を持ち上げた。きらきらと、流星雨が溢れ落ちる冬の夜空のように、純真なまなこが輝いている。
「お、俺に? 俺で良いの?」
「そんな、大層なものじゃないけど」
「う、わぁ……」
 感嘆の吐息が鼓膜にこそばゆい。頬を真っ赤に染め上げて、大介くんは食い入るように手のひらの内側を見据えた。私が手渡したものとは、フェルト生地を縫い上げてつくったユニフォーム型のマスコットだった。縫い目は大雑把だし糸はほつれているしでお世辞にも見栄えが良いとは言えない。ただ、大介くんが健やかに晴れやかにサッカーを続けられますようにと、ひとつの願いだけは内部の綿を押し出すくらいに詰め込んだ。そんな素人が縫製した自称・お守りを、彼は至極大事そうに両手で包み込んでくれた。
「ありがとう。大事にする」
 澄んだ空気に甘い余熱が溶け込んでいく。くしゃりとはにかむ大介くんを目の当たりにして、正気を保ってなどいられなかった。どっと血流が増して顔全体が熱を孕む。赤面を悟られないよう俯いて、正常な脈動を取り戻すのが精一杯だった。胸の奥がつんとする。彼のまっすぐな笑顔を直接見届けられて、燻っていたほろ苦い三年間が報われたような気がしていた。
 未練を払拭して清々しい心地の私に、更なる延長線を申し出たのは他でもない大介くんだった。擦り合わせていた唇がおもむろに開かれる。久々に相対しただけで浮き足立っている私には、恐れ多いくらいの果報だった。
「お、れ……こんな大それたこと言えるほど上手くないけど」
「うん」
ちゃんがテレビ付けたとき、偶然試合に出てるくらいの選手になる」
「偶然なんだ?」
「で、できればスタメンが良いけど!」
 選手宣誓さながらの力強い士気を秘めた声明と、過小評価な内容のちぐはぐさに思わず吹き出してしまった。僅少の悪戯心が芽生えて、つい調子に乗ってからかってしまう。大介くんは耳から首まで紅潮させて勢いよく首を振った。
 身振り手振りで否定を示すと、大介くんは深呼吸を繰り返して春先の空気を肺腑に納めた。どうやら、この慎ましやかな表明でさえも壮大な前置きらしい。手に汗握る緊張が受け手の私にまで伝わってくる。卒業生の特権である胸元のコサージュが、小春風の余韻と共にはためいた。
「それで、俺がサッカーしてるところ見て、一緒にやったサッカーとか皆のこと思い出して貰えたら、すごく嬉しい」
 優しい木洩れ日の中で、繊細な短髪が揺れている。瞳の中に住まう目映いシリウスが、圧倒的な光度で私を射抜いていく。
 ――ああ、ほんとうに、どこまでも。私が好きになったひとは、こんなにも純粋で真っすぐで、睫毛の先から心底まで美しい。山脈を越境した先の都会に住む人達に、声を大にして自慢したくなるくらいに。きっとやまびことなって跳ね返ってくるだけだとしても。
「大介くんがどこにいても、絶対忘れないと思う」
 思い悩む理由はなかった。分かりきった返事というものはごく自然に唇から溢れ落ちていく。この記憶は薄れゆくものでも色褪せるものでもない。あらゆる五感から脳髄に伝達された、このかけがえのない瞬間は何度でも構築されて、思い返すたびに私の目頭は熱くなるのだろう。そういう自信だけは備わっていた。
 将来スーパースターになるべき逸材なのに、私の視界に映る照れ臭そうに視線を逸らした大介くんは、どこにでもいるありふれた中学生に違いなかった。
 夜が更けたら朝を迎えて、学校を飛び出したらバイトに明け暮れて、気付いたら地味な制服の呪縛からも解き放たれていた。高校生活は実に呆気なく終幕した。銀河を越えた先にある別の惑星からは、鎖国しているかのようにめっきり情報が途絶えてしまった。絵に描いたような退屈が続いても、どんなに遠く離れていても、思い出の天球でいっとう光り輝く恒星だけが私のくだらない人生を支えてくれていた。
 覚束ない足取りで初めて東京の地に降り立ったのは、高校を卒業して間もない春先だった。大学進学を機に上京した私は、新幹線という名の文明の利器に身体を預け、果てしなかった異星への着陸に成功していた。当時は映画一本見終わるか否かの瀬戸際で到着してしまうことに、ひどく感動したものだ。東京の街並みはその全てが華やかで小洒落ていた。渋谷のスクランブル交差点も、原宿の竹下通りも、浅草寺の雷門も、どれも新鮮な情景で胸が高鳴った。ただ、どれだけ期待が心を逸らせて歩調を急がせても、そのどこにも大介くんの姿を見つけ出すことはできなかった。彼に辿り着いたのはインターネットを泳いだ先の対岸だった。まず間違いなくプロサッカー選手への険しい道程に挑戦していると踏んだ私は、Jリーグの公式サイトを余すことなく探し尽くし、FC武蔵野というクラブに所属する大介くんのプロフィールに行き着いたのだ。椿大介、という眼裏に刻み込まれた馴染み深い字面が出現したときの高揚感といったら、何に例えることもできないだろう。また一歩、彼の神聖な夢が実現に向かっている。その見解を立証するには十分すぎる証拠が、徒労に終わらない価値がそこにはあった。しかし生憎、ここで羞恥も矜持もかなぐり捨ててクラブに押し掛けようとする傍迷惑な豪胆さは持ち合わせていなかった。それで良かったのだと思う。独り善がりな憧憬がずっと燻ったままで、きっと良かった。
 大学で自律性を高めながら、バイト先で社会性を育んでみたりもする、そういう大人に向けた前段階にようやく馴染んできた頃合いのことだった。金払いの良さだけに惹かれて応募した居酒屋のバイトでは、私の歓迎会なるものが開かれた。最悪の開演である。こちらは未成年だというのに、法律に背く行為を平気で強要された。飲酒を煽る甲高いコールが耳障りだった。やたら接触を好む隣の猿が目障りだった。この異様な雰囲気を経て、ようやく自分は馬鹿騒ぎに浸って自堕落に溺れる世界に向いてない性分だということを思い知った。ついでに、アルコールを分解するには脆弱すぎる肝臓を擁しているということも。
 真っ先に居酒屋を飛び出して最寄り駅に駆け込みたかったのに、酒気に取り憑かれた手足はそうさせてくれなかった。千鳥足が災いして、プライベートを詮索してきた執拗な男にあっさり追い付かれてしまう。手首を掴まれた瞬間に走った悪寒は、インフルエンザに罹患した孤独な夜の比ではなかった。抵抗しようにも、冷静さを欠いた思考や重怠い四肢はそのどれもが不利に働いた。適切な判断を遮られ、今にもこんな低俗な動物に言い包められそうになる始末だ。こんな切羽詰まった状況下では、もはや神に祈るくらいしか手段は残されていなかった。もしもあのときの祈りが天上界に行き届いていて、その望みを聞き届けてくれたのだとしたら、神様は相当な偏屈者に違いない。
「あの、その手、離してくれませんか」
 後方からの伸びてきた声は、この修羅場を展開する当人達の知り合いのような、面識のある人間を彷彿とさせる物言いだった。ほっと胸を撫で下ろす。大学の同輩か、はたまたサークルの先輩か。浮上した可能性を模索する暇も惜しんで、その助け舟にあやかろうと振り返った。どうせ正体は目と鼻の先だ。でも、そんな私の安直な思念なんて一瞬にして消し飛んでしまう、とてつもない衝撃が落とされた。
 まさしく青天の霹靂だった。声帯が沈黙する。目蓋が正気を疑う。視界を埋め尽くす光景を、救援の正体を、摩耗しきった脳内で処理するのは一苦労だった。だって、こんなのあり得る筈がない。東京という大都会でたったひとりの大事なひとに偶然巡り合う確率よりも、泥酔した私が生み出した都合の良い幻覚という確率の方が俄然高いに決まっている。そんな確率論を持ち出してまで現実を直視できない私を説き伏せるように、その幻覚は私と男との狭間に身体を割り込ませて、防護壁となってくれた。不快だった男の手から強制的に解放される。
 そして、ふいに気付くのだ。彼が両肩に提げているリュックサック、そこにぶらさがっているキーホルダーに視線が吸い寄せられる。見覚えがある――なんて、しらばっくれても無駄だ。ありったけの丹精と希望を込めてつくり上げた結晶も、それに纏わる幸福で彩られた記憶も、忘却されていい筈がない。あの一瞬こそが私にとって唯一の支柱であり無二の道標だった。色褪せて黒ずんでいるけれど、バッグに垂れ下がっているのは確かにあの日私が手渡したユニフォーム型のお守りだった。
「…………だいすけ、くん?」
 半信半疑ならぬ半現半夢の心地で、私は小さく呟いた。このお守りも、最後に会話したときより随分成長した背丈も、無邪気に伸びた癖毛も、仮にこれが幻影だとしたら自分が欲望に忠実すぎて恐ろしくさえある。聞こえなかったのか、敢えてそうしたのか、目立った反応はなかった。微かな狼狽を含んだ一瞥が背中越しに肌を掠めただけだ。けれど、対峙する男の「何だてめぇ?」という訝しげな一言が、もう答え合わせだった。私だけが映している架空の存在ではない、その確固たる証明。洪水のように血液の乱流が押し寄せて、かっと胸の奥が熱くなった。
 もう男の存在なんて思考は疎か眼中にすらなくなっていた私に対して、男は未だ低次元な欲情を持て余して、突然現れた大介くんに楯突いていた。
「オトモダチか何だか知らないけど、俺ら今お取り込み中なわけ。邪魔しないでくれる?」
「おっ、俺の目には、嫌がってるように見えましたけど」
「ハァ? 喧嘩売ってんのか、てめぇ」
 誠意なんてこれっぽっちも知りません、なんて軽薄な態度で噛み付いてくる男に対して、大介くんも一歩も引かなかった。学生の頃から好戦的でもなければ反抗的でもない真面目な男の子だっただけに、私のせいでこんな愚劣な状況に巻き込んでしまったことをひどく後悔する。応戦する今も、彼の肩は小刻みに震えていた。無関係なのに矢面に立たされる大介くんの心境を思えば、不甲斐なくてしかたない。どうにかこの場を切り抜けようと目論んでいたときだ。
ちゃんは、俺が責任持って送り届けるんで、大丈夫です!」
 ここぞというときの大介くんは、普段の温和な性格を平気で裏切って、猛然とした覇気を滾らせる。球技大会で皆をごぼう抜きしたスーパーゴールも、私に夢の欠片を紡いでくれた卒業式の日も。今、この瞬間だってそうだ。後ろ姿だけでも、表面には穏やかでない剣幕が居直っていると窺えてしまう。
 思わぬ形で不意打ちの宣言を食らった私といえば、言葉を失って呆然と立ち尽くしていた。ただでさえまともに働かない思考は更に鈍化して、同調した肉体も仲良く硬直している。有無を言わさない語気で締め括った大介くんは、もう言い残したことはないとばかりに振り向いた。混じり気のない双眸に捕らわれる。
「ごめん、しっかり捕まって!」
「えっ、ひゃ!?」
 陶然と大介くんの瞳に見惚れていた私は、咄嗟にその要求の意図を汲み取ることができなかった。棒立ちを貫いて首を傾ぐことしかできない。彼は説明する暇さえ惜しんで、素早くその場に傅いた。そして、私の手を掴んで引き寄せると、鮮やかに自身の背中へと誘導したのだ。その力強さに抗えずよろめいた肉体は、敢えなく大介くんの背中に倒れ込む。瞬間、身体が浮遊感に包まれた。視界が持ち上がって、眼球がネオンひしめく情景に痛撃される。目が眩んでまじろぐ私に代わって地に足を付けている大介くんは、何の前触れもなくスタートを切った。突風が肌を掠める。取り残された男の怒号なんて耳に滑り込む猶予もないくらい、颯爽と飲み屋街を駆け抜けていく。今宵の宴席を求めて彷徨い歩く群衆が立ちはだかっても、速度は落ちることがなかった。それこそサッカーで相手を出し抜くときみたいに、身体を捻って合間を縫って前進していく。引力に屈して振り落とされないよう、恥も外聞も捨ててぎゅっとしがみついた。それくらい、乗用者の存在をすっかり忘れているように、彼は伸びやかに大地を蹴った。
 不夜城を走り抜ける星に導かれて、意識は微睡みの底に溶け込んでいく。呑気なものだと我ながら思う。しかし、心地良い体温と朦朧とする意識が絶妙に噛み合ってしまえば、もう手遅れだ。大介くんの柔らかい温もりに縋りながら、重くなった目蓋は緩やかに閉ざされた。
 次に目蓋を開いたとき、人生で初めて二日酔いの洗礼を受けた。法律を軽んじた若輩者を咎めるような激痛が脳内に轟く。身体は泥を吸い込んだように重怠い。吐き気や胸焼けを催さずに済んだのは不幸中の幸いだった。肝臓が弱い反動で胃は強く鍛え抜かれたのかもしれない。知識だけで培ってきたアルコールの副作用を散々思い知らされて憂鬱になったのも束の間、私は第二の地獄に叩き落とされるはめになる。
 起き上がった先の視界には見知らぬ部屋の内景が広がっていた。落ち着いた色調のインテリアが並ぶ室内は、物も装飾も乏しく生活感が薄い。ただ、そこかしこに散見するサッカー雑誌や壁に立て掛けてあるユニフォームが、この部屋の主を大々的に示唆していた。二日酔いなんてお構いなしに冷水を浴びせられたような気分だ。見慣れない光景も、着慣れないオーバーサイズのスウェットも、嗅ぎ慣れない爽やかな香りも、慣れない全てに血の気が引いていく。
「あ、起きてる。おはよう」
 そうして案の定、憶測の域を出なかった仮説が疑う余地なく裏打ちされる。悠々とした声が伸びてくるのと、マグカップふたつを片手に添えるスウェット姿の大介くんが現れたのとはほぼ同時だった。ノータイムで現実が雪崩れ込んできたものだから、挨拶さえままならず挙動不審になってしまう。慌てて居住まいを正して、乱れた髪に手櫛を通すのが精一杯だった。そんな忙しない私を見留めて、大介くんは信じられないくらい優しく微笑むのだ。
「だい、すけくん……」
「うん、ちゃん」
「本物……?」
「ふ、ははっ。ちゃんの知ってる俺が、偽物じゃないなら」
 未だに夢見心地な私をからかうように、大介くんはいたずらっぽい笑みを湛えた。ああ、そんな、やっぱり。こんなことがあって良いんだろうか。昨晩起こった一幕も、巡り会えた偶然も、何もかもが本物である証明が目の前に存在している。現実味を帯びてきた現実に、気が緩めば涙が滲みそうだった。
 鷹揚な足取りで大介くんはベッドまで歩み寄ると、マグカップの片割れを差し出してくれた。深みのある芳醇な香りが鼻腔を擽る。カフェラテだろうか。ありがたく受け取って、芯まで温まる優雅な苦味を味わう。隣のソファに腰掛けた大介くんは、同じようにカフェラテを啜って一息付いた。
「あの後、ちゃん寝ちゃって家の場所分かんなくて、俺のとこしか行く宛なくて……。あっ、服! 渡したら自分で着るって言ってたから! 俺はソファで寝たし、化粧も自分で落としてたし、それから、えっと……」
 酔い潰れて記憶から抜け落ちている昨夜の仔細を、大介くんは訥々と語ってくれた。大凡推察していた通りではあったけれど、多大なる迷惑を掛けた事実に変わりはない。大の大人ひとりを背負って自宅まで走り抜けて、その上介抱して寝床まで提供してくれるなんて。いくら同郷の友人と言えども、ここまで丁寧に熱心に労ってくれるとなると、大介くん以外には見当も付かない。どこに行ってもいくつになっても損なわれない一等の優しさに包まれて、感謝してもしきれなかった。深く頭を下げて謝罪するも、彼は「お節介にならなくて良かった」とはにかむばかりであった。
 火傷を懸念して、それからこの幸せな時間を少しでも引き伸ばしたくて、ちびちびとカフェラテを口に含む。下心満載の視線を泳がせて室内を散策していると、部屋のある一角に自然と吸い寄せられた。壁際に設置されたシンプルなデスク、その横に置かれたリュックサックだ。何度目を擦ってもその情景に変化は訪れないし、何度頬を抓っても夢から醒めない。持ち手のところにぶら下がっているのは、見紛うことなく私手製のお守りもどきだった。
「お守り……」
「うん?」
「まだ、付けてくれてたの?」
 曖昧に刻まれた記憶を手繰り寄せれば、昨日もあれを目敏く見つけたことによって、大介くんの実在性を確実なものに近付けた気がする。ううん、そんなことはもうどうでも良くて。今日に至るまで接点のなかった一同窓生からの贈り物を使い続けてくれる、その真意を知りたかった。昔から大介くんの物持ちが良いことも、他者からの好意を蔑ろにするようなひとでないことも知ってる。深い意味なんてきっとない。でも、このよこしまな期待を手付かずで放置することもできない。知らずの内とはいえ身勝手な事情に付き合わされても尚、大介くんは律儀に答えてくれた。
「もちろん。俺のサッカーに欠かせないものだから」
「欠かせ、ない……」
「これのおかげで、ちゃんが応援してくれてるって実感できる。人との繋がりを感じられるのが、俺の原動力みたいなものだから」
 ――それって、私の応援が大介くんの原動力になってるってこと? 野暮だと分かっていても、そこに言外の本意など存在しないと察していても、無邪気を装って尋ねてしまいたくなる。彼の人生に自分の存在が関与している可能性を夢見てしまいたくもなる。愚かしい話だ。あのお守りは繋がりの象徴であって、渡した相手が誰であっても大介くんを奮い立たせる原動力になり得たのに。例えそれが私でなくても。マグカップの底で固まりつつあるカフェラテの残渣を見据えながら、ぎゅっと唇を噛み締めた。この尊い時間も永遠には続かないのだ。
 本日の予定はホームスタジアムでの試合らしく、午後からクラブハウスに向かうのだという。私も幸い午前に講義を入れてない日であったため、一旦自宅に戻ってから大学に向かうことにした。辛うじて外出でき得る程度に身支度を済ませ、擦り傷だらけのパンプスに爪先を通す。大介くんは当然のように送り届けると願い出てくれたけど、さすがに申し訳が立たなかったのでタクシーを手配した。手持ちのボディミストを噴射したとはいえ、染み付いたアルコール臭を公共の場にばら撒くのも憚られたのだ。
 早朝だけが秘めている朝日の淡い目映さとか、微かな草木のささめきとか、澄んだ空気の瑞々しさとか、そういうもの達に出迎えられた。それだけで汚らわしい肉体が浄化されていくような心地になる。まだ通行人も疎らな大通りに出ると、せめて見送ると付いてきてくれた隣の大介くんがぽつりと呟いた。
「俺、まだサテライト所属だし、テレビに出られるほどの選手でもないけど」
「……うん?」
ちゃんとの繋がりを、これきりにしたくなくて……だから、その」
 おずおずとウィンドブレーカーのポケットから取り出された携帯に、胸が高鳴って弾けそうになる。大介くんの日常が垣間見えてしまった。純情そうな見目や初々しい言葉を巧みに駆使して、他人の心を鷲掴みにしている光景が目に浮かぶ。そして、それは無意識下の行為なのだから尚更たちが悪い。こんなの、期待するなという方が無理だった。動揺する指先を袖で隠しながら、平静を装って携帯を取り出す。互いの連絡先を交換し終えた直後、静寂を揺らすエンジン音と共にタクシーが到着した。おしまいの合図だ。私が車に乗り込んで発進するまでの間、大介くんは間断なく手を振り続けてくれた。
 もはや胸が苦しくなる。なんて恋しくて愛おしいひとなんだろう。この気持ちが衰えること、色褪せること、きっとあり得ない。それどころかまだ発展途上に過ぎなくて、これから先、大介くんの存在を感じる度にこの気持ちは膨れ上がってしまう。車内の窓ガラス越しに滲む薄明を映しながら、そんな予感に心が打ち震えた。
 あの日の予感は、予感だけに留まらなかった。現実味を帯びた実体へと変貌を遂げていく。予感でも夢でも、ましてやおしまいでもない。一続きの現実、その先が広がっていた。
 私にとっての希望の星は朝も夜も関係なく瞬いている。何光年もの距離を隔てていても、恒星のようにずっとそこに在り続けて道標となってくれる。それに何より、彼は流星の速度には勝らなくても、必ず私の元へと流れ着いてくれるのだ。逸れることなく、燃え尽きることなく、運命の軌道を描くように。こんなにも頼もしく誇らしく、喜ばしいことは他にはない。
 今日も忙しなく扉が開かれる音がした。
「おかえ……、わっ!?」
 扉越しに慌ただしい気配を感じて迎え入れる体勢を整えていても、一直線に突進してくる狂犬には敵いっこない。今日も今日とて力ずくで引き寄せられて、腕の中に閉じ込められる。引き締まった胸板の躍動が、別個体の私にまでひしひしと伝播した。アドレナリン全開だ。呼吸を塞がれて悶えながら抵抗を訴えるも、私を抱き締める張本人はまるで聞く耳持たずだった。というか、きっとあらゆる感覚が機能していない。自分の世界に没入している。玄関に投げ出された革靴の残骸を視界に捉えながら、なす術なく彼が落ち着くのを待った。
……」
「大介くん、苦しい……」
「ただいま、
 長きに渡る抱擁を経て満足してくれたのか、大介くんはようやく私を解放してくれた。置き手紙代わりに耳打ちされた挨拶は、うっとりとした睡気が混じっていてどこか色っぽい。甘い痺れが背骨に走った。
 U-22の代表に選出されて海外に送り出された大介くんは、全国民から向けられる期待を糧にして、その若き才能を存分に発揮した。私の生半可な知識では、アシストやゴールのような分かりやすい活躍しか賞賛できないけれど、現地では目に見えない功績をいくつも残してきたのだろう。それくらい、今の大介くんは向かうところ敵なしの旋風を巻き起こしている。これは身内だからといって、過言でも買い被りでもない。
 カタールから帰国したその足でクラブハウスにも顔を出した大介くんは、日付を跨ぐ瀬戸際になってようやく帰宅を遂げた。遅くなるとは聞いていたけど、それにしたって過酷なスケジュールだ。明日には次のリーグ戦に向けた練習も始まるのだという。まともな休息さえ取れていないのに、私なんかがお邪魔して睡眠時間を削って良いものかと悩んだけれど「の顔が見たい」という彼の純真な要望に逆らえる筈がなかった。大切にされているぶん、珍しく甘えられたらそれに尽くしたくもなる。
「お疲れさま。試合もだけどフライトも大変だったでしょ」
「すっごく疲れた……けど今ので回復したよ」
「嘘だあ」
「う、嘘じゃないって!」
 頬を赤らめて必死に否定する大介くんが、虚言を振り撒くとも思えない。大袈裟だけど本心なのだろう。私が怪訝な瞳を差し向けていたからか、彼は納得のいくような言い回しを探し歩いているようだった。
がこうして俺に時間を割いてくれるから、疲れも全部吹き飛んでくよ」
「……海外ではそんな口説き文句まで教えてくれるんだ?」
「でえっ!? いや、違くて……!」
 もうだめだ。素直すぎる反応があんまりにもかわいいから、何かに託けて大介くんをからかってしまう。さすがにちょっかいの度が過ぎたのか、彼は肩を震わせて思いきり唇を歪めていた。今にも涙腺が緩みそうなその表情さえ愛おしいなんて、私も大概かな。
「会いたかったんだ、すごく。本当に」
「……うん」
の顔、見たくて堪らなかった」
 私もだよ、の返事は吸い込まれて跡形もなくなった。唇に降りてきた柔らかい感触が、私から声という手段を奪っていく。随分ずるい手口を覚えたなあと思ったけど、私も大介くんのことを言えた義理じゃない。あれだけ弄んでしまったのだから、どっちもどっちの両成敗だ。続きをねだるように首に手を回すと、彼も辿々しい手付きで私の腰を引き寄せた。
 唇が離れる瞬間の、獰猛にぎらつく眼差しに心臓を穿たれてしまえば、もう二の句を継ぐことは許されなかった。喉がひりついて唸りを上げる。言葉なんて無粋だとばかりに、再び唇が重なり合う。本来、ピッチに立つ大介くんのプレイスタイルってこういうものなんだろうな。彼の足から繰り出されたボールこそが、何にも勝るコミュニケーションになり得る。そういう場面を幾度も目にしてきた。彼から解き放たれた愛情表情を今、私自身が一番に体感している。荒々しくなる口付けを精一杯受け止めながら、ぼんやりと思いを馳せた。
 いつか、大介くんがこれより先の遥か彼方を目指す未来が訪れる。自分の限界に挑戦しようと名乗りを上げる日がきっと来る。その日は明日かもしれないし、十年後かもしれない。ただひとつ、確信していることもある。
 遠く離れることになっても、彼はいっとう美しく輝かしくきらめき続ける。どこにだって行ける足を有していても、最後には必ず、私の元に帰ってきてくれる。彗星は燃え尽きてしまう末路だとしても、私の希望の星はどこまでも夜の底を駆け抜けていく、不朽のポラリスなのだ。

2022/11/12