May your birthday be filled with love.
 怒涛の勢いで今年も終息に向かっている。久々に都心に赴いた先で、道すがらの浮き足立つ群衆と、疲労をねじ伏せる陽気なBGMが、にその実感を突き付けた。年の瀬にかけて目白押しになる催事より、折り重なった鬱憤を発散せんとばかりに湧いてくる呪霊の処理で手一杯になるのが、毎年この季節のルーティンだ。それだけに、はこの上擦った雰囲気に溶け込めない異分子だった。必然、人混みを避けようと躍起になって足を動かす。駅前にたむろする数の暴力に弾圧されながらも、駆け抜ける足取りは軽かった。日に日に皮膚を切り裂く深度を増していく乾風が、今日は追い風となって彼女の背中を押し上げる。
 今日のには、意地でも辿り着かなければならない場所が、果たさなければならない約束があった。尻尾を巻いて逃げ帰るなんて選択肢は、端から頭にない。
 迷路のように入り組んだ地下通路を駆使して行き着いたのは、駅から少し離れたところに潜在するミニシアターだった。平日ということもあり客入りは疎らだ。は腕時計と上映スケジュールに視線を往復させると、目当ての映画チケットを購入して館内のベンチに腰を下ろした。最終上映の時刻まであと十五分。携帯には着信ひとつ残されていない。さて、出張帰りの恋人は間に合うのだろうか。不安が掠めるより先に、任務を終えて草臥れた肉体に睡魔が付け込んでくる。瞬きを繰り返して攻防に努めながら、がらんどうの携帯を祈るように握り締めた。
 影に埋もれた小さな映画館は、日常から最もかけ離れた場所にあった。大画面でフィクションの世界を傍観するとき、いっとき術師としての自我が押し流される。死傷とも災厄とも無縁な自分がそこに実在していると錯覚する。ありもしない虚構に身を委ねて、は筆舌しがたい安堵を貰い受けていた。呪いに関与しない人生を潜在的に渇望しているなんて何とも滑稽だとも思ったが、彼女が映画館に吸い込まれていく回数はけして少なくなかった。それこそ学生の頃から、授業と任務の合間や完全なオフの日に足繁く通っていれば、相応に愛着も湧いてくる。今やの生活に欠かせない、血腥い日常から逃避するのに必需の娯楽となっていた。
 そんな珍妙な逃避行に没頭するとき、大抵彼女の隣席は空白だったが、気まぐれに付き合ってくれる存在もいた。彼は、無類の映画通でもないし、現実逃避に併走しているわけでもない。の隣を明け渡してやるものかと無駄に独占欲を発揮しておきながら、隣席でひたすら欠伸を垂れ流すという、礼節の欠片もない青年だ。けして褒められたものではない鑑賞態度なのに、帰路では妙に核心を突いた感想を零したりするので、余計にたちが悪い。彼がに注ぎ込む拗けた執念は、同じ学び舎を卒業してから、同僚の垣根を飛び越えて恋人の関係に落ち着くまで、十数年を飽きもせずにずっと育まれてきた。厄介な呪霊の祓除任務や長期の出張に忙殺されても尚、都合が付けば上映間際に滑り込んできて、彼女の隣を陣取っている。映画そっちのけで指を絡め取って手慰みに励んだり、自身の肩に頭を預けて鑑賞を阻んだりするろくでもない恋人を、不本意ながらは愛おしく感じていた。
 そうやって自由を謳歌する男に振り回される事例は珍しくも何ともないが、今回に限っては貴重で希少だった。今日この時間に映画を観ようと誘いを持ち掛けてきた発端は向こうだったからだ。当初は、純粋に興味を惹かれた映画でもあるのかと軽く捉えていた。しかし、あちらの「適当に好きなやつ選んどいて」という生半可な放任によって、その線は潰えたも同然だった。首を捻りながら上映作品のラインナップとスケジュールを見比べたのも記憶に新しい。そうした異例を潜り抜けた先に、この異彩な夜は広がっていた。
 事前に約束を取り付けたからといって、必ずしも遵守される保証はどこにもない。平穏と乖離した、急変と誤算が錯綜している世界なのだ。予定から逸脱して任務が滞るなんて日常茶飯事ですらある。それはこの界隈随一の才知を持ち合わせている最強の術師であっても同じだった。彼の信用とは別問題で、この待ち合わせが反故になる可能性を頭の片隅に残しておくのが身のためだ。そんな保守的な思考を固めて鷹揚に構えているだが、やはりどうしたって期待で胸が疼いてしまう自分がいるのも確かだった。
 携帯が震えて画面に表示されるのは『もう着く』の朗報か、はたまた『行けなくなった』の悲報か。どちらの未来も想定して衝撃に備えていたが、思い掛けずその未来は訪れなかった。電源を落としたわけでも踏み潰したわけでもないのに、携帯は無口を貫いている。
 そのとき、特殊な生業によって研ぎ澄まされた五感よりも更に早く、シックス・センスが機能した。体内から懸命に早鐘を撞く鼓動は、お手本のような前兆だった。の心臓は、日常的に彼に翻弄され続けている。この乱調な高鳴りが何を予期しているのか、思い当たらない筈がない。
「待ちぼうけ食らってるの、お姉さん」
 頭上から降り注がれた声が、鼓膜に触れた瞬間じんわりと熱を孕む。この冗談めかした問い掛けが、冷静を装いたくてつい悪ふざけに興じてしまう彼の精一杯の見栄だと分かるから、自然との口元は緩んでいた。子どものままごとより幼稚で、どんな美談よりも虚飾に塗れているのに、健気でいじらしい。惚れた弱みを痛感しながら首を持ち上げると、そこには全身を暗色で覆い尽くした青年がいた。他ならぬの恋人――五条悟が、胴体を丸めて覗き込んでいる。指紋の名残さえ見当たらないサングラスが、彼女の狼狽を包み隠さず反射した。満足そうに微笑を滲ませる五条の口唇から、ふっと空気の抜ける音がする。
「良かったら一緒に映画でもどう? 退屈させないよ」
 どうやら急拵えの芝居は延長させる意向らしい。軽薄なナンパ男に扮した五条は、淀みなく誘い文句を連ねていく。本業の片手間に、渋谷駅のハチ公前でキャッチでもしてるのかと勘繰りそうなほどその言動は馴染んでいた。当然ながら副業感覚で並行できるほど特級相当の任務は質も量も甘くないので、事実無根の邪推でしかない。大抵のことを器用に熟してしまう男の、内に秘められていた演技力の賜物だ。そこまで理解しているからこそ、にもこの無益な茶番劇にもう少しなら付き合っても良いかという余力が芽生えていた。というよりは、この手の不届き者をどうやってあしらうのかに好奇心を抱いている五条への、半ば逆襲のようなものだ。弄ばれたからには対等に弄ぶ権利がある。密かに決意を固めたは、携帯をボアコートにしまい込んで静かに立ち上がった。
「そうしよっかな。遅刻しそうな彼氏には内緒で、ね?」
「……え、は?」
 媚びるような瞳で見上げながら、は五条の無防備な片腕に縋り付いた。この展開はさすがの六眼でも見抜けなかったらしく、瞬きすら置き去りにして唖然としている。恋人に嫌気が差して浮気を仄めかす女を見事に体現してみせたは、してやったりと内心ほくそ笑んだ。普段から心臓の限界を試すような言行を振り撒かれているからこそ、出し抜いたときの達成感は一入なのだ。
 思考が縺れて停滞しているらしい間の抜けた表情を堪能したところでは手を離そうとするが、その目論見は叶わなかった。主導権を奪い返そうと躍起になる分厚い手のひらが、彼女の指先を把捉する。絡みついた手指の冷たさとは裏腹に、痕跡が残りかねないほどに執拗な握力だった。の生存本能が身震いする。いくら何でも悪質すぎる仕返しだった? 色目なんて使うから浮気性だと思われた? 一瞬の隙にあらゆる可能性が駆け巡る。しかし、それも杞憂に終わった。サングラスの隙間から覗く五条の瞳は、まるで悪戯を叱られてしょぼくれる子犬のようだ。懇願するようにの肩に額を擦り付ける姿なんて、いたことのない飼い犬との日々が勝手に生成されるほどにそっくりだった。思わず撫で回しそうになった指先を慌てて引っ込める。俯いていた五条は顔を上げると、抵抗を示すように唇を尖らせた。
「……もうおしまいね。こんなろくでもない男、引っかかるなよ」
「始めたの悟くんだよ?」
「それは謝るけどさ……心臓に悪すぎる」
 素人のお遊戯会のつもりが思いも寄らない演技を披露されて、本当に肝が冷えたのだろうと分かる真剣な口振りだった。は引っ込める予定だった指の軌道を修正して、慰撫するように五条の髪を梳かした。ふわふわの毛並みとは程遠いつんつんの直毛は、乾燥した皮膚に優しくない。それでも、の指先は快くその感触を受け止めていた。
 既に購入していたチケットの片割れを差し出すと、受け取った五条は柔らかく目尻を下げた。わざとらしく吹き溢れる笑みと一緒に喉仏が上下する。手元に落ちた五条の視線は、チケットに記された映画のタイトルを感慨深そうになぞり上げていた。いわゆる復刻上映というやつで、十二月のこの時期にはこぞって映画通が感傷に浸って語り出すほどの名作だ。例に漏れずもそのひとりだった。DVDだって所持しているし毎年鑑賞しているのに、わざわざ金を叩いてまで映画館で観ようとする心理は、五条にはてんで理解できない。ただ、不満というわけでもない。映画館に誘い出したのは五条本人だが、その中身はに一任しただけあって、さしたる問題ではなかった。語弊を生まないように補足するなら、重要なのは何を見るのかではなく誰と見るのか、ということだ。
 真上から惜しみなく注ぎ込まれる微笑が、自分の選出した映画に対する反応だと気付いたは、訝しげな睥睨を投げ掛けた。膨らませた頬には、微かな羞恥を含んだ熱がこもっている。
「オマエ、ほんと好きだなあと思ってさ。この時期なら金ローでやるじゃん」
「だって、ふたりで観れるとは限らないし」
「僕と観たかったの?」
 そうだよ、とぶっきらぼうな本心を吐露してしまいたい衝動を抑えて、は白を切った。どうせ見透かされている。容赦なく腕に寄り掛かっていつまでも屈託ない微笑を漂わせている五条が、何よりの証拠だった。今更、口に出すのも憚られる。
 胃もたれしそうな甘さのキャラメルポップコーンと中和を図るには心許ないソフトドリンクを引き連れて、幕が上がる寸前の劇場になだれ込む。この狼藉に観客から冷え切った視線が飛んでくるのを覚悟していたが、の危惧に反して場内は誰もいなかった。これでは貸し切りも同然だ。ポップコーンをつまみ食いして手癖の悪さを披露した五条は、悠々とした足取りで座席に着く。ふたりだけの高品質なホームシアターを前にして、この場にいない誰よりも嬉しそうだった。
 聞こえる筈のない映写機の回る音がして、鮮烈な光が人工的な暗闇を焼き尽くす。それが合図だった。目を眇めると同時に、画面の向こう側の時間が移ろい始める。
 海馬も溜め息をつくほど繰り返し観てきた作品なのに、真新しい展開や音楽が付け足されたわけでもないのに、それでも新鮮にの心は潤っていく。蓄積されていた疲労も忍び寄っていた睡魔も一掃されて、慣れ親しんだ異世界に夢中になる。純粋に、この映画が好きだった。大画面から覗き見る世界は、呪いが蔓延する現世より遥かに静穏で単調だ。当人達にしてみれば笑い事で済まない一大事だが、人死にの出ないフィクションの事件というだけで、たち傍観者にとっては等しく平和だった。だからこそ、余計に羨望を抱かずにはいられないのだろう。術師としてのが乖離して、遠ざかっていく。このまま現実と袂を分かって、凡庸で平坦な人生を送ることができたらと、浅ましい願望が顔を出す。
 ――ただ、逃避行はそこまでだった。
 の片手を握り締める力が、微かに強くなる。未だに絡まって解かれない骨太の指は、彼女の意識を引き留めるには十分すぎる効力だ。ちらりと隙を窺って盗み見ると、殊更珍しく真剣な横顔がそこにはあった。繊細な睫毛は微動だにせず、軽口ばかりを産出する唇からは欠伸ひとつ出てこない。映画に見入っている五条の姿は、端整な目鼻立ちも相まって、まるで見知らぬ別世界の住人のようだ。けれど、狭間で混じり合う体温の交点が、ふたりの異なる人間を繋ぎ留めている。その温もりを離さないように、も五条の手を柔く握り返した。
 気付けば、場内に光で埋め尽くされていた。綴られた架空の物語は二時間にも満たなかった。莫大な人生に置き換えるならば、その時間は米粒ほどもない。けれど、色褪せない充足感だけは胸に染み込んで生涯残り続けるのだろうと、予感していた。
「なんかあの映画観ると、もうすぐ今年も終わるな〜て気分になるよ」
 最後まで底を隠し続けた残り物のポップコーンを丸ごと口内に流し込みながら、五条はそんな奇抜な感想を溢した。本来ならばうら寂しい哀愁を漂わせるべき発言なのに、その声はいっそ清々しくすらある。上映中は作法に則り居住まいを正して鑑賞していた印象なだけに、は顔を顰めて怪訝そうに眼差した。
「それ、年末の特番見てるときの感想じゃない?」
「だって僕達に正月なんてないようなもんだし。それより、毎年この時期にに付き合って見る映画の方がよっぽどらしいでしょ」
「……」
 的を射ているのだか感性がずれているのだか微妙に判断しづらい主張に押し負けて、は黙り込んでしまった。サングラスの奥で勝ち誇ったように五条の瞳が細まるのを空気で察したから、無性に悔しくて気恥ずかしい。ポップコーンの空箱を極限まで圧縮した五条は、その塵屑を可燃性のゴミ箱へと放り投げた。これまた行儀が良いような悪いような、判断に困る所業だった。
 ちょうど映画館の前から駅まで続く並木通りでは、枯れ木に花を添えたように燦爛たるイルミネーションがふたりを出迎えた。ただし、淀んだ夜空に滲む光の礫も、そこに火取虫のように集る群衆も、まるきり五条の眼中にはない。身に纏う無下限を行使して、行き交う人々の隙間をすり抜けていく。その特例の恩恵を受けている自身も、五条の歩幅に追随するので手一杯で、たかだか人工的な電光飾に構っている余裕はなかった。ふたりして冬の象徴を素通りしていく。言葉を交えずとも視線を送らずとも、五条との心はひとつだった。いつになく性急な歩調と、がっしりと絡まり合う手のひらが、一刻も早く帰路に就こうとする理由を示唆していた。
 華々しいイルミネーションにときめくことも、幻想的な初雪にはしゃぎ回ることも、滅多になくなった。歳を重ねていくほどに、呪いの世界に浸るほどに、瑞々しかった感受性は刻々と衰えていく。けれど、ふたりで構築する世界が色褪せることはない。特別豪華に飾り立てられたわけでもないふたりの冬の行く末は、確かにそれを象徴していた。
 途中立ち寄ったコンビニで、ようやく今日という記念すべき日に相応しい贈呈品を入手できた。最古の王道、故に不動の人気を誇っている苺のショートケーキだ。最寄りのケーキ屋が既に店仕舞いしていたこともあり、近場の安物で妥協してしまった点は否めないが、それでも五条は上機嫌に唇を弛ませた。ついでとばかりに買い物かごに投下された見慣れたパッケージの小箱――ご丁寧に解説するまでもなく、避妊具のことなのだが――は、特級呪物より取り扱いが厄介まである。明け透けな五条の思惑に叩き付けたい小言を押し殺して、は平静を装った。こんな小学生男児の当てこすりじみた悪戯なんて、わざわざ触れないに限る。の初心な反応を揶揄うでも探りを入れるでもなく、素知らぬ顔を貫いているあたりが尚のこと悪趣味だった。本当に隅から隅まで抜け目のない男だ。手土産にもなり得ない代物を、躊躇や下衆な眼差しを寄越すことなくレジ袋に詰め込んだ店員に心から感謝して、は軽く会釈した。自動扉を潜り抜けた矢先、冷やかしのように露出した肌を愚弄していく木枯らしは許さないと誓いを立てて、すぐそこまで迫った家路を急いだ。
 どうにか日付を跨ぐ手前にの自宅に滑り込むと、五条は我こそが家主だとでも言いたげな足取りで廊下を突き進んだ。この厚かましい男が目指したのは、週末に押し入れから引っ張り出してきたばかりの炬燵だ。数年ほど前から、寒々しい夜を渡り歩いての部屋に上がり込んでくる五条は、その規格外の身体を丸め込んで暖を取るのが習慣化しつつあった。外敵を跳ねのける異能に恵まれても、極寒の冷気には到底敵わないらしい。インスタントコーヒーとフォークを用意してリビングへと向かったは、炬燵に潜り込んだ恋人が一息付いた姿を見留めて、仄かな微笑を浮かべる。猫も炬燵で丸くなる、なんていう冬の醍醐味が脳裏を過ぎったのだ。彼女も大概盲目で、相当惚れ込んでいて、その自覚もしっかり備わっている。がトレイを机に置いたのを見届けると、五条は腕を伸ばして彼女を暖海の内側へと引き摺り込んだ。後はもう、惰眠を貪る人間の成れの果てが横たわるだけ。
 冬の魔物という異名のままに猛威を振るう炬燵に敢えなく陥落したふたりは、狭苦しい空間を分かち合って身を寄せ合う。背後から覆い被さってを抱き込んだ五条は、何をするでもなく彼女の首筋に額を寄せていた。もう天辺から爪先まで、細胞レベルまで温もっているのに、この怠惰から抜け出せない。苺の一片すら食していない。虎視眈々と爪を研いできた睡魔が、意気揚々と襲来する。目蓋が微睡みを帯びてきた、そのときだった。
 視界の端で、鮮烈な光が走る。五条が所持している携帯の画面が点灯したのだ。にとって全く思い入れのない日付が目に付いた。時刻はとうの昔に今日が昨日に、明日が今日になっている。唐突に画面が光を放った要因は、どうやらメッセージの通知らしかった。愛嬌はなくても情には厚いの後輩――五条にとっては事情を抱えて世話を焼いている男の子から、祝電もどきの一言を受信する。表示されたのは『おめでとうございました』と、淡泊で素気ないメッセージだ。本気で恩師の誕生日を忘れていた薄情者だと囃し立てるか、その上で日付が変わった後でも祝いたかった誠意ある若者だと褒め称えるか。冗談半分でそんな二択に思いを馳せていただが、はたと衝撃の事実に行き着いてしまった。昨日の言行を顧みて、一気に血の気が引いていく。
 ――恵くんにどうこう言える筋合いなんてない。薄情者とは、一体誰のことか。
 誕生日の当日を一緒に過ごすなんて貴重な経験を貰い受けておきながら、身の丈に合わない光栄を貪り尽くした。それだけならまだしも、祝福の言葉を捧げる素振りすら微塵もなかっただなんて、恋人失格の烙印を押されても仕方ない。後悔の渦に沈み込んだは、正直におのが罪過を白状した。むろん、今度はれっきとした祝福も言い添えて。
「……遅くなったけど、おめでとう」
 深刻めいた声で祝福なんてするもんじゃない、と震える口唇を噛み締めながら、は益体もない自戒を課した。おめでたい雰囲気も甘くとろける空気感も瓦解させる、いわば諸刃の剣だったからだ。しかし、五条にとっては寧ろ嬉しい誤算だった。一際を抱き寄せる力が強くなり、弾かれるように笑みが溢れ出ていく。さぞかしお気に召したようだ。心なしか、触れ合う体温がわずかに上昇している。
「今日……もう昨日だけどさ。映画も観たかったしケーキも食べたかった」
「……うん」
「でも、からのそれが一番欲しかった」
 こうも素直に吐露されると、やはりは大罪に片足を突っ込んだような心地がして堪らなくなる。時間も肉体も、何でもいくらでも捧げてきたつもりだが、それでも言葉以上に本心を象る手段は存在しない。人間たる者、膨らみ続ける思いの丈を発露せずにはいられないのだから、謹んで本能に従うべきだ。塞ぎ込んでいたの声帯がその役目を果たそうと奮起するのに、時間は掛からなかった。喉奥で渋滞していた心からの本音が、勢いよくまろびでる。
「生まれてきてくれてありがとう。たくさん頑張ってくれてありがとう。……私を好きになってくれて、ありがとう」
「そこまで言ってくれる? 感謝の規模がでっかいなあ」
「悟くんの規模が大きいから」
「何だそれ」
 熱のこもった空間に、絶え間なく笑い声が響き渡る。ごと腹を抱える五条は、素朴な少年のように無垢な目元を綻ばせた。
 容赦のなかった抱擁は、やがて徐々に活気を失っていく。微睡の海に溶け落ちたのは、珍しく五条が先だった。後方から健やかな寝息が流れてきたものだから、身構えていたは思わず脱力する。折角用意したケーキも避妊具も手付かずだ。でも、それもらしくて良いのかもしれない、と尤もらしい五条の主張を引用して思い及んだ。どうせ今日の朝には生クリームの余韻さえ残さず器用に食べ切っているし、次に会う日の朝には小箱の中は空洞になって握り潰されている。特別を踏みしだいて普通をこよなく愛する、私達らしくて良い。愛する人の安息に胸を撫で下ろしながら、身動きひとつ取れないは呑気にそんな思考を巡らせていた。
 架空の世界を、平和な物語を、心の片隅で望んでいる。そこに逃避する時間を尊んでいる。けれど同時に、自分の居場所はそこではないとも理解していた。の居場所は、彼女の隣を牛耳って離さない五条の隣だけだから。出自も知能も性格も異なるふたりは、この残酷な世界に踏み込まなければ、きっと出逢えなかった。悲しい運命だろうか。痛ましい恋路だろうか。は懸命にかぶりを振って否定する。そうは思いたくなかった。凄惨な末路を迎えるとしても、天命によって引き裂かれてしまうとしても。この広大な世界で巡り合って惹かれ合って結び合った奇跡こそが、ただひとつの真実であり正史なのだと信じている。互いに別々の戦地を駆けてそこで朽ち果ててしまっても、永遠に信じ続けている。
 こんな死に急ぐ生き様をしているからこそ、途方もない残虐に紛れ込むちっぽけな幸せが、何よりも愛おしく感じる。特別とは程遠い日常の一端が、こんなにも心地良く肌に馴染む。映画ほど短くはなくても、必ず終焉が待ち構えている人生の中で、無駄なものなんてきっと何ひとつない。どんな小さな幸せも取り零さないように、愛した人の運命を繋ぎ留めるように、は五条の指先に己のそれを絡ませた。
 五条悟という希望の光を体現したひとりの人間の物語が、拍手の嵐に包み込まれる結末を祈りながら、もそっと目蓋の幕を下ろした。ふたり揃って微睡みに落ちる幸せを最後まで堪能するように、そっと。

2023/12/07 誕生日おめでとう!